浅すぎる尾行
まるでストーカーだな、と龍樹は思った。
現にそうなのかも知れない。
コソコソと一人の女を背後から追うという今の状況。
自分で判断するくらいだ。
傍から見れば間違いなく怪しいことだろう。
だから周囲の視線も気にしながらアテナを付けなければならないと、その足取りも自然と遅くなる。
しかしどうやら杞憂だったようだ。
先程から幾人の生徒達とすれ違うが幸いにも見知った顔はおらず、怪しまれてもいない様子だった。
そもそもが色々と忙しい放課後。
誰も彼もが廊下を遅い歩調で歩く程度の男に、構っている余裕など無いのだろう。
そうこうしているうちに、アテナが曲がり角を右折した。
見失っては元も子もない。
龍樹は小走りで建築されたばかりの初々しさが残る廊下を駆け、曲がり角の隔たりまで一気に距離を詰める。
運動したので少し息が乱れていた。
そして昂ぶる気持ちを落ち着かせる意味も込め、一つ深呼吸をする。
……だいぶ楽になった。
これ以上の平常心を今は求められそうもない。
となると、次の行動は決まっている。
龍樹は自分のタイミングで、アテナがこちらに背を向け歩んでいっているであろう方へと、恐る恐る顔を出した。
しかし、ここで予期せぬ展開が起きた。
気付かれぬようにとゆっくりと顔を出し、細心の注意を払ったはずの龍樹。
彼の頭の中では、少し先で背中を向けて歩いていく彼女の後ろ姿を想像していた事だろう。
実際、そこにアテナの姿はあった。
あったのだが……
曲がり角を曲がったすぐのところで立ち尽くし、無表情でこちらを見据えていた。
「…………」
見つめ合う二人。
お互い状況整理の為か、しばらくの沈黙が降り立った。
そんな馬鹿な。まさかどこかに落ち度があったのだろうかと龍樹は自身の行動を振り返るも、これといった心当たりが見つからない。
だが今はそこに固執しても仕方あるまい。
理由はなんであれ、どうやらアテナに尾行はばれていたようだ。
「……コソコソと誰かと思えば。なぜあなたが此処にいるの?」
眉間に皺を寄せるアテナ。
多分、付けられていた事よりも、どちらかというと尾行してきていたのが龍樹だった事の不審感の方が大きいのだろう。
ははっ、と思わず笑ってしまう龍樹だったが、一変して真剣な眼差しになると、
「それはこっちのセリフだ」
半ば開き直ったようにそう言った。
それからアテナの頭から爪先を走査した龍樹は、訝しそうに訊く。
「……何だその格好は?」
紺色のブレザーにミニスカート。
先程から薄々と感じてはいたのだが、どういう了見かアテナはここの制服を纏っていた。
その質問に対し、
「見れば分かるでしょ? カモフラージュよ」
当たり前の事を訊くなといわんばかりに代名詞の無表情でそれだけ告げると、アテナはブレザーのポッケに手を突っ込む。
おそらく、なぜこの少年がこんな所にいるのかを考えていたのだろう。
奇妙な間を空け、独り言のように口を開く。
「なるほど、あなたここの生徒だったの……一昨日の件といい、本当に世界って狭いのね」
言うだけ言うと龍樹に背を向け、アテナは歩みを再開させる。
「とにかくここは危険だから、早く離れなさい」
「あ、ちょ、ちょっと待てよ」
堪らず龍樹はその背を追う。
「何でお前がここにいるんだよ。それに、離れろってどういう意味だよ? 何かやばい事でも起こってるのか?」
その問いを受けたアテナは、彼の方を見ず、その足も止めずに「いいえ」と否定した。
「何も起こっていない。だから、コソコソつけて来たって何も面白いことなんて起こらないわよ」
「……別にそんなんじゃねーよ」
随分な過小評価に、龍樹は不貞腐れながら訂正を入れた。
それに対しての返事もせず、アテナはひたすらその細い脚部を前へと進める。
「いや、だからちょっと待てって」
「なぜ?」
もちろんアテナは立ち止まらずにそう言った。
「なぜって――お前に訊きたい事があるからだよ」
「ああ、そうなの。なら残念、後にしてくれない? そうは見えないと思うけど、私、いまは忙しいの」
その返答には一見して冷たさだけが垣間見えると思った龍樹。
だが歩く速度が上がったのを見て、なんだろう、本当に忙しそうだと眉を寄せる。
特に何か事件が起こっている訳でもないのに人間が早足になる理由。
それを何となしに考えた結果は、何とも彼らしい。
「何だ、おしっこか?」
「……いいえ」
無神経の塊で出来ている龍樹に屈せず、アテナはその速度を更に上げた。
てくてくと、少年と距離を取りたかろうアテナは早足になる。
なのに。
「なぜ、ついてくるの?」
後ろを振り向かずとも気配で分かったのか、アテナはそう言った。
龍樹はいまだその後をつけていた。
そして澄ました調子で言う。
「いや……何となく」
返って来た言葉に、アテナは溜め息を吐いた。
その顔には押し殺そうとする不快感が滲み出ている。
無理もない。
脅しをかけたのはつい昨日の事だ。
コンクリートを破壊し、命に危険が及ぶ可能性を示唆して、関わっては駄目だと忠告をした。
普通、あれほどの威圧を掛ければ畏怖を覚えて近寄らなくなるもの。
にも拘らず、一向にその傾向が龍樹には見られなかった。
それどころか余計に興味を持っている。
何て性質の悪い、とアテナが煩わしがっているのは、次の言葉からも窺えるように間違いない。
「好奇心旺盛というか……少年よ大志を抱けという金言にでも影響されているのかしら」
「何だそれ?」
本当に存じないらしく、眉を寄せる龍樹。
「……知らないのならいいわ」
今は相手にしていられない、と前進を続けながらもそう定義したであろうアテナは、更にその速度を加速させる。
それは最早駆け足だった。
傍から見れば競歩でもしているのではないかと思う程の速さを持ってして、アテナは突き放しにかかる。
「……」
同調するように、龍樹も速度を上げた。
顔色一つ変えず進むアテナと違い、彼は苦悶の表情ながらも、どうにかその背中について歩く。
アテナが本気を出せば彼を撒くのは造作もないだろう。しかし、それでは抜本的な解決にはならない。
そもそもの前提として、ある目的の為にこの場にいる現状、彼女は目立ちたくないのだ。
本来なら走る事はおろか、小走りすらしたくないはず。
それなのに、馬鹿みたいに付いて来ようとする少年。
距離が一向に開かない。つけ回られる鬱陶しさ。事がうまく運ばないもどかしさ。
そんな様々な雑念が積もりに積もっていったのか。
遂にアテナは歩みを止め、龍樹に勢いよく振り返った。
ツインテールの房が瞬間だけ彼女の顔を覆い、やがて元の位置へと戻っていく。
基本無表情の面に描かれた少量の苛立ちで、アテナは鬱憤をぶつける。
「付いて来ないでって言っているでしょ。あまりしつこいと本当に怒るわよ」
「……もう怒ってんじゃん」
もっと怒るって言ってるのよ、と更に声を低くしたアテナは、龍樹の胸ぐらを掴み引き寄せた。
意図的に顔の距離が縮まる。
それに対しての感想を龍樹が抱く前に、女は口を開く。
「よく聞きなさい。もしあなたがこれ以上私の後をつけて来るというのなら、こちらにも考えがある。その足を圧し折り、二度と歩けないようにするわよ。いやでしょ? 五体満足で生まれた者が二度と地に自分の力で立てないという辛さは、先天的に不自由で味を知らない者よりも酷なもので、その喪失感たるや想像を絶するものだそうよ」
トーンの低さとは裏腹の内容。
そして、知り合いにそんな人がいてそんな事を言っていた、みたいなやけなリアリティーも、その辛辣な言葉をよりきわ立てていた。
何か前にもこんな展開があったような、と龍樹の脳裏を裏路地の一件が横切る。
というか、この女は話の芯の部分に至るとなぜか顔を接近させようとしてくる。
それこそ目を見て話すように――と一瞬判断しかけた龍樹だったが、違う、そんな礼儀作法ではないと考えを改める。
威圧する為だ。
そんなもの漫画やフィクションだけの産物だと思っていた。
しかし、つい最近ないし現在受けているそれは、他に表現のしようがない。
無表情の――いや、だからこそそう感じるのかもしれない。
無とは対照的な力強さ。
その人間性を把握していないがための脅威。
それらが合わさった畏怖させる力が今、まざまざと龍樹に注がれている。
彼女の蒼色の鋭い眼光に吸い込まれそうになる。
目を逸らしたくても、固定されたように焦点を外せなかった。
空野龍樹の視界の大半が、その碧眼に支配されていた。
顔を引きつらせる。
見えない何かが一方的にアテナから捻出されている。
龍樹は自然と上体を反らせようとするが、胸ぐらを掴んでいるその手が許そうとはしなかった。
相当馴れた手際だ。
きっと女に取って納得のいく返事をするまで、胸ぐらを掴むその手は離れないのだろう。
だが身体全体から冷汗を噴き出そうが、足が竦んでしまいそうになろうが、龍樹は断固として屈しなかった。
何とかアテナから視線を逸らす事に成功し、気を紛らわせようと努力する。
「……驚いたわ。まさかここまで強情だとは」
投げかけられたのは呆れた称賛。
龍樹の強情さに不毛を覚えたのか、アテナはその手を――突き飛ばすように放した。
二歩、三歩、強制的に後退させられる龍樹。
少し苦しかったので軽く咳き込む。
まだ余韻が残っているのか息がしずらく、喉もとの調子を確かめていると、
「無鉄砲な好奇心ほど愚かで面倒なものは他にないわね」
本当に面倒そうな口調で、アテナは言った。
言葉に促されるように龍樹は顔を上げる。
その先にはこちらに背を向け、いつのまにか遠ざかっていく女の姿があった。
「辛いとは思うけど、あなたももう良い年なんだから分かるでしょ。賢く生きなさい。お願いだから――退いて頂戴」
アテナは我関せず、といった感じに歩んでいく。
遠のいていくその背は以前見たものと同じだ。
儚げで、独りよがり。
「……何だ」
抵抗、というほどのものでもないが、喉元に手をやり苦しそうな表情を取る龍樹。その口からは彼女の言葉に対しての本音が飛び出す。
「裏の人間ってのは、自分にとって都合の良い人間の事を賢いって言うのか?」
それを聞いたアテナの脚が、不意に止まった。
そして今度はゆっくりと、ねちっこさすら感じさせる動きで首を捻り、少年を肩越しに見た。
その表情が、微量ながらも何かを噛み締めるように強張っていくのが分かる。
それを見て今更ながら不適切な発言だった、と後悔する龍樹。
あ、という言葉を漏らすと、罵倒の言葉が放たれる前に謝ることにした。
「ご、ごめん。その、悪い意味じゃなくて……」
しかし、その謝罪にはこんな言葉が返ってきた。
「……いいえ、謝る必要はないわ」
アテナの強張り掛けていた面が萎んでいった。
それはここにきて彼女が初めて見せたか弱き表情。
謎の力を操り、コンクリートを穿つデタラメさを秘めた人間の、人間味ある瞬間。
数瞬見えたそんな一面に、龍樹は言葉を失ってしまう。
もしかして今自分はものすごくひどい事を言ってしまったのではないか。
そう感じ入ってしまうほどに。
「あなたの言っている事は理に叶っている部分もある」
今しがた見せた移ろいもどこ吹く風。
再び何にも動じない無表情に戻ったアテナは、意味ありげに龍樹を見てから、
「でも――やっぱり駄目」
大雑把にそう告げると、歩みを再開させてしまった。
少しずつ距離が開いていくその背を、龍樹はぼんやりと眺める。
今度は早足ではなかった。
むしろゆったりとした挙動は、彼女自身の心に迷いが生じ始めている証拠なのかもしれない。
そう推測した龍樹は、今なら優勢に立てるかもしれないと淡い期待を抱いた。
父さんがどこにいて何をしているのか。
それを聞く絶好のチャンスではないのかと。
だが同時に彼女の気持ちを察し、そっとしてあげたくもなった。
少なくともいまは問詰めるべきではないと、彼は思ってしまった。
結局、龍樹はその背を追えなかった。
なんて寂しげなんだろう。なんて儚げなんだろう。
なんて――独りよがりなんだろう。
アテナの背を見て漠然とそんな感想を持った。
そしてそんな風に自分の中で答えを見つけかねているうちに、アテナは曲がり角を左折すると、その姿を眩ました。
「……あ」
ふと、我に返る龍樹。
遅れてやってくるもどかしさ。
結果的に逃す形になってしまったからだ。
龍樹はすでに誰もいない分岐点を眺める。
今から走ればまだ追いつくだろう。
しかしなぜかそんな気は起きなかった。
こう、なんというのだろうか。
一丁前で、理不尽なのを承知で言わせて貰えば。
今攻めるのはフェアじゃないと思ってしまっていた。
弱った女を責め立てるのは男としてどうなのだろうかと、日々の生活で築き上げられた価値観が働いてしまっていた。
そんな半端な心持ちでは彼女から父親の情報を引き出すなんてとても出来やしないだろう。
それは彼自身にも分かっている。
紳士たれなどと綺麗ごとを言うようならそもそもそっとしてあげればいいと思うし、上から目線で相手取れるような人物か? とその後も何度か自身に問い掛ける。
それでも諦めた訳では、決してない。
どんな事態に陥ってどんな扱いを受けようとも、このまま終わる気だけは絶対に無かった。
次はどうやって訊きだそう。
どうやって尾行しようか。
その為にはどうやって――仲良くなろうか。
困難な事柄に直面し険しい顔をする龍樹は、真剣にそれを考える。
と、その時。
「りゅ・う・き・くん」
背後から甘い声がした。
それと同時に誰かが襟首に手を回し、彼の首を絞める。
「――ぐえっ!?」
呻きが絞り出され、息の軌道を必死に確保しようともがく龍樹。
結構な力が加わっているらしく、その顔が青ざめていく。
首を絞める人物は耳元で囁く。
「全く油断も隙もあったものではないな。お前の克己心にわずかながらも期待し信用した私の立場がないではないか」
「ちょ、ちょっとタンマ、マジで絞まってるから!」
雫だった。
理由は……言わずとも分かると思う。
絞める力は徐々に強くなっていく。
「人がせっかく気を使ってやってるのに、お前という奴は」
「ま、待ってくれ。ト、トイレだよ、トイレに行こうとしてたんだ」
もちろん嘘だった。食堂から一番近いトイレの場所くらい、雫にも分かっている。
「ほう。なるほど、トイレか」
火に油を注ぐ形になった龍樹の発言。
雫の口元は笑いながらも、そこには間違いなく怒りがこもっている。
「どうやら藍原さんの言う通り、私は甘やかしすぎたようだ。……嘘吐きは泥棒の始まり。このままではお前が無頼漢になってしまう」
だが安心しろ、と雫は微笑を混じえ囁いた。
言いながら力を強めている所為か、口調にも力が込もっている。
「私が持ちえる全幅の心構えで、その捻くれた根性を改善させてやる。分かったら返事しろ!」
「いや、冗談抜きで、オチ、――る」
もはや言葉が発せないほど器官が狭められているというのに、返事など出来る訳が無い。
首もとに減り込んだ雫のチョークスリーパーを龍樹は必死に振り解こうとするものの、彼女の細い腕がうまい具合に首元に入り込み、この状態に陥ってしまっては例え女の力だろうと中々振り払えなかった。
そして。
意識を断絶とまではいかなかったものの、朦朧としたのか、龍樹の抵抗が弱まった。
妙なマネをせぬよう獲物を弱まらせてから移動させる。
多分、雫はこうしたかったのだろう。
「さて、勉強だ」
思惑通りにいった現状に満足そうに微笑むと、雫は狩った獲物の襟首を掴み、目的の場所へと引き摺り戻す。




