後書き
2004年から書き始めた、この「風を掬う者」。
足掛け、11年になりますか。
やっと、完成させる事が出来ました。
11年も掛かった割に、質、量共に、
大したものは書けなかったのかもしれませんが、
私にとっては処女作であり、恐らく短編以外では、
最後の完結した一次創作物となるのかもしれません。
2004年当初、私はこの物語でいうところの
「死望者」でありました。
そして、死を望むが故に「命」に対する
疑問と日々向き合う事にもなりました。
そんな中で、私は「命の尊さ」に大きな疑問を抱いたのです。
現代社会は余りにも、「命の尊さ」に比重を置き過ぎて、
「命の儚さ」に対する理解が足りないように思ったのです。
それが現代社会が抱える様々な問題の、
要因の一つになっているように感じました。
戦争と平和。
環境破壊。
エネルギー問題。
差別。
貧困等の経済格差。
憎しみが憎しみを呼び、我々自ら、憎しみの連鎖を、
繋げていってしまっているように感じました。
そこに私は「命の儚さに対する理解の足りない尊さ」に、
ある種の危うさも感じたのです。
それを表現したくて、この物語を書き始めました。
「壱章/人斬り」は運命や宿命に対する「命の儚さ」を。
「弐章/英雄」は戦争や平和を繰り返す、
人類の歴史というものに対する「命の儚さ」を。
そして「参章/死望者」で、
自ら命を断たなければならなくなる事の「命の儚さ」を。
そして、「参章/死望者」は書いている私自身も、
物語同様に葛藤し、自問自答もしました。
また、本当にこの様な表現が許されるのか。
表現の自由を逸脱してるんじゃないのか。
その辺についても自問自答を繰り返しました。
そして、考えれば考える程に、
判らなくなってしまいましたが、
私は私で至って真剣に、
わざわざこのような表現をする事で、
「命」に対する疑問を投げ掛け、
少なくとも、私自身は「命の儚さ」、
そして、「命の尊さ」に対する理解を、
より深める事が出来たように思っています。
だから、「死望者」を脱する事も出来たように思うのです。
そういう意味で、この作品は少なくとも私自身にとって、
とても良い切っ掛けになったように思ったりもします。
とにもかくにも、ど素人の私が初めて書いた小説なので、
どの程度、自分の想いを表現出来たのかも、
定かではありませんし、何の手応えもありませんので、
単に完成させただけになってしまったのかもしれません。
ただ、私個人的にはよく完成させる事が出来た、と、
満足とまではいきませんが、十分に納得出来るところまで、
書き上げる事は出来たように思っています。
また、その過程において、色々と試行錯誤もありましたが、
苦しんだ事も含めて、楽しんで書く事が出来ました。
そして、完成させる事が出来て一段落。
ホッ。
私は後、どの程度ネットを続ける事が出来るのか。
恐らくは、長くても数年程だと思うのです。
だから、もう二度とこれだけのものは書けないだろう。
そういう意味で、一つだけでも、
作品を完成させる事が出来た事で、
大きな安堵感と小さな達成感を得る事が出来ました。
最後に「風を掬う者」を読んで頂けた方々全てに、
最大級の感謝を表します。




