信じてる(3)
「あれ? お母さんは?」
数分後、身だしなみを整えた綾が自室から戻ってきた。
「ちょっと出かけてもらった。て、髪下ろしてていいのか?」
「ん? 勝史が相手なら別に良いよ」
普段着に着替えていたが、いつものポニーテールではなかった。
綾は髪を下ろすと温厚そうな顔立ちと相まってそれはもうとてもとても女の子っぽくなる。俺も数えるくらいしか見たことがないが、男にモテるというだけなら断然こっちを薦める。けど、綾はそういう目で見られることをあまり良しとしておらず、滅多な事では髪を下ろそうとはしない。
「それは幼馴染だからか? それとも俺を男として見ていないってことか?」
「信じてるから」
「はい?」
「どんなあたしを見せても、勝史とは良い関係を築けると信じてるから。だから別に髪の毛くらいならなんでもいい」
うわ。恥ずかしいことを真顔で言うな。反応に困る。
綾は俺のちょうど真向かいに座布団を置き、そこに腰を下ろす。
「それで、なんで家に来たの? まだ授業中終わってないでしょ?」
俺を諌めるような喋り方だが、髪を下ろしているせいか、あまり迫力がない。
「なんでと言われても反応し辛いが……。とりあえず、風邪って聞いたから心配になって来た」
「ん。ありがと。たぶん来週からは学校行けると思う」
嬉しそうに笑う綾を見ると、やっぱり女の子だよなと確認させられる。
輝いてる綾の笑顔も良いけど、こういう表情も似合う。
「それで、なんだけどな」
「うん」
改めて、綾と向かい合う。
お互い、後ろめたいものがあり、目を逸らしてしまう。
どう切り出すべきかかなり迷ったが、とりあえずどうしても言っておかなければならないことがある。
「この間、綾のこと考えずに酷いこと言った。ごめん」
深々と、頭を下げる。
俺は、綾が過去、体のせいでどれほど嫌なことを経験したか知っている。なのに、知りながら勝手な判断で綾を苦しめてしまった。無茶を、させてしまった。これは、どう弁解しようと許されることじゃない。
「言い訳はしない。本当に、ごめん」
頭を下げたまま、もう一度謝る。
すると、
「や、やめて! あれはあたしが悪かったの。あんな強引なことして、挙句の果ては勝史を傷つけるようなこと言っちゃって……。零にも前島にも迷惑かけたし、すごく反省してる。誰だって怒るよ。勝史は何も悪くない。だから、謝らないで」
少しだけ涙に濡れた声。
実際に泣いてはいなかったが、ものすごく落ち込んだ表情だった。
反省してるようだし、変に追及し過ぎるのも悪いだろう。
「じゃあ――」
「実はね」
打ち切ろうとしたところで綾の方から理由を説明し始めた。聞くだけ聞くか。
「あの、『ショッピングに行かない?』って誘った日の朝、勝史達の教室に行く前に部室に寄ったの。そしたら、花波先輩が先に来てて……」
そこまで聞いた時点で、事情がなんとなく理解できた。
あの日の前日は、花波さんとユウナ先輩に会った日だ。ということは……。
「花波先輩に言われたの。勝史に会ったって。それから、『綾ちゃんには申し訳ないけど、勝史君からは小説に対する情熱を感じることはできなかった』って」
なんて誤解を招く言い方をしてくれたんだあの人は。それじゃあまるで俺が小説に対してなんとも思ってないようじゃないか。
「だから、もしかして勝史が小説の楽しさとか、そういうことを忘れちゃったんじゃないかって不安になって……」
「それでそういう気持ちを思い出してもらおうと本屋巡りに誘ったってわけか?」
「うん」
全く。とんだありがた迷惑だ。
誰が小説の楽しさを忘れてしまった、だ。それだけは絶対誰にも負けてないと思ってるのに。それもこれも、花波さんが変な言い方をしてくれたからだ。
「あのさ、勝史」
「なんだ?」
「本当に……忘れてないよ、ね?」
獲物を刺し殺しそうな鋭い視線をこっちに向けて訊いてくる。
俺ってそんなに信用ないかな?
「忘れるわけないだろ。俺は、小説に賭ける想いは誰にも負けないつもりだ」
断言するが、それでも綾はまだどこか納得できてない雰囲気で見つめてくる。
「綾。なにか言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」
「本当に、誰にも負けないくらい小説に対して情熱を持ってるんだよね?」
しつこい。
なんなんだこの程よく焼けた餅みたいな切ろうとしてもなかなか切れない感じは。
「だ・か・ら、その辺りのことは全く変わってない。綾に心配されるようなことではないし、花波さんの言い方に語弊があるんだって。俺は別に小説に対する気持ちをどっかに置いてきたわけじゃないから」
言うと、綾は少し考え込むような表情を見せる。そして、確認するような口調で告げた。
「小説に賭ける想いは誰にも負けてないと思うのね。例え、あたしにも」
「……ん?」
どこかで、聞いたことのあるようなフレーズだった。
俺が戸惑っていると、綾はさらにもう一言。
「つまり、勝史は文芸部に入らないって言ってるのに、誰にも負けないなんて言うわけね」
「あ……」
思い出した。
このセリフは、高校一年の春、綾が小説家を目指すのをやめると言った時、俺が綾に言ったセリフだ。
「ごめん。勝手に引用して。でも、花波さんに勝史のこと聞いた時、あたしは有り得ないって思った。勝史が人からそんな風に見られるなんて、有り得ないって、真剣にそう思った。勝史のことをずっと隣で見てきて、あたしは一度も花波先輩が言うような評価をつけたことなかったから。むしろ、あたしなんかよりずっと熱い想いを持ってる人だと感じてたから。
あの時、勝史のこと考えないで勝手なこと言ったのは謝る。すごく反省してる。だけど、花波先輩に言われた時から気になってた。もし、高校一年の春、勝史に言われたことをそのまま今の勝史に言ったら、どんな反応をするのかなって」
綾の言葉はそこで途切れる。
くそ。どう返せっていうんだよ。
そりゃ確かにそうだろう。心的な問題を抱えているとはいえ、文芸部に入ることためらう人間が「誰にも負けない」なんて言葉を軽々しく言っちゃダメだろう。けど、だからどうしろと? 俺だって入れるなら入りたいさ。いろんな人に自分の作品を評価してもらいたいさ。入れば綾も居る。朋野さんもいる。あの先輩達だって、俺にあんなことを言ってきたからには遊び半分で作品作りに取り組んでるわけじゃないだろう。でも、恐い。いくら綾が居たって、この恐怖感を捨てることはできないんだ。
「勝史」
沈黙していると、綾は何かを必死で我慢しているような、そんな口調で切り出してきた。
微かに、口元が震えているようにも見える。
「勝史、もし、もしも、あんたがこのまま文芸部に入らないなら――」
ものすごく、嫌な予感がした。
言わせちゃいけないことを、言われたくないことを、言わせてしまうような気がした。
でも、俺はとっさに遮ることもできず、彼女に、その言葉を言わせてしまう。
「あたしは、ライバル宣言を撤回する……ッ!」
時が止まったと錯覚してしまうほど、その瞬間は静寂に満ちていた。
だが、すぐ、動き出す。
「ちょ、ちょっと待てよ。綾、どういうことだ? 冗談だろ?」
「……冗談で、こんなこと言えると思う?」
綾の表情に、反論は押しつぶされる。
綾の顔に浮かんでいるのは、怒りでも、悲しみでもない。今の綾の顔を、俺はよく知っている。誰よりも、よく知っている。
恐れ。
綾の顔には、恐いという文字だけが浮かんでいた。
何がそんなに恐いのか、俺は分からなかった。
俺とライバルでいることを放棄する。それは俺にとって、確かにこれ以上ないほどの攻撃だった。綾は知らないだろうが、俺がラノベ作家になるという夢を捨てずに頑張ってこれたのは紛れもなく、綾のおかげだ。俺はいつだって、綾を意識することで、自分の作品における描写技術や個性を判断してきた。綾が新しい小説を書いていると聞けば自分も何か書こうと思ったし、綾と自分の作品を比べられる機会があれば、躊躇せずに作品の優劣をつけてもらうよう求めた。だから、ライバルという関係でなくなるというのは、俺にとって自分というモノが分からなくなることにも繋がってしまう。それは、絶対に阻止したいと思う。
しかし、なんで、綾が恐れる。綾が俺と同じような感情を抱いてくれているならそれはそれで嬉しいが、自分から言い出したことでそんなに恐がる必要があるのか……?
「勝史。もう一度だけ、訊くね。勝史は、文芸部に入らないって言って置きながら、小説に賭ける想いは誰にも負けないって、そう言うのね?」
声も、震えている。
涙さえ、浮かんでいるように見える。
そんなに恐いなら、やめれば良いのに……。
「……勝史、答えて」
今にも、泣き崩れてしまいそうな、そんな表情だ。
なんでそんなに……ん?
震えて? 恐い?
あれ? 綾、なんでこんなに頑張れてるんだ?
恐がってる理由は分からない。
全然、分からない。
でも、綾は、立ち向かってる。
恐いという気持ちに、震えながらも、泣きそうになりながらも、立ち向かってる。
俺が、逃げ出そうとしている気持ちに、正面から、立ち向かっている。
トラウマとは違う。だけど、震えるほどの恐さに正面から立ち向かっている。
『勝史君は小説に関しては誰にも負けないくらいの意欲を持ってるって聞いてたけど、その程度なのね』
不意に、花波さんの言葉が頭をよぎった。
綾は、立ち向かえている。
それも、たった一人で。
『あたしが居ても、恐いの?』
綾の、言葉が思い出される。
俺は、一人じゃない。
綾が、ずっとそばに居た。
いや、それだけじゃない。
『勝史さんが居たら先ほどのように、より部内が楽しくなると思ったのですが……』
『マサーミ! また遊ぼうね!』
朋野さんの、ユウナ先輩の、言葉が浮かぶ。
もう、仲間と言って過言ではない人達だっている。
なのに、俺は、立ち向かうどころか……
「勝史、どうなの?」
綾が、すがるような視線を向けてくる。
一人でも、闘える女の子がいるのに。
俺は――
「……綾、携帯貸して」
「……え? なに? 携帯? どうして?」
「いいから早く!」
「あ、え? な、なに? それより、質問に――」
「花波さんに電話したいんだよ! 早く貸せ!」
言うと、綾はまだ俺が何を言いたいのか分かってなさそうな顔をしながらも、素直に携帯を貸してくれた。
俺はすばやくアドレス帳を開くと花波さんに電話した。
通話状態になったのを確認して、耳にあてる。
《もしもし? 綾ちゃん?》
「すみません。綾じゃなくて、椎歌です」
《え? 勝史君?》
「はい。この間お二人の連絡先を聞いてなかったので、綾の携帯を借りました」
花波さんは数秒の沈黙の後。
《なにが、用件かしら?》
あの時と同じ、鋭い口調で返してきた。
俺は少し緊張しながらも、言葉を紡ぐ。
「本来なら、部長であるユウナ先輩にかけるべきなのかもしれませんが……」
《回りくどいわ。何が用件なの? はっきり言って》
花波さん……。あの時も思ったけど、キャラ違いすぎませんか?
普通に恐いです。
まあ、いい。真剣に話してもらえるだけ、ありがたいと思わないと。
「では、単刀直入に言いますね」
《なにかしら?》
「文芸部に、入部させて下さい!」
すぐ傍で、驚く気配があったが、今は構っていられない。相手は実質、文芸部の最高責任者だ。ここで間違えた発言をしては意味がない。花波さんの中ではおそらく俺の評価はかなり低いだろう。まさか入部を拒否されるとは思わないが、これからのためにも、ここはできる限り挽回しておかないと。
《どういう心境の変化があったのかしらないけど、一応聞いておくわね。それは、本気で言ってるのよね?》
「本気です」
《どのくらい?》
「誰にも、負けないくらいです」
《……その言葉、軽々しく言ってないわよね?》
「はい」
即答で、そしてはっきり言い切った。
《……分かったわ。顧問の先生と、ユウナに伝えておく》
「ありがとうございます!」
《じゃ、綾ちゃんによろしくね》
「はい。分かりました」
通話が切れる。
よし。少しは挽回できたかな。
携帯を閉じ、綾に返し……って、
「綾!? ちょ、え?」
「あ……」
一瞬キョトンとした表情を見せた後、自分でも気付いたらしい。
というか、なんで気が付いてないんだよ。
大粒の涙をこぼしていた。
「え? あれ?」
訳が分からないらしく、目をこすったり上を向いたりしているが、一向に止まらない。
「…………」
俺はため息一つ。
綾を抱き寄せた。
涙の理由は、なんとなく、理解できていた。
「……ごめ……ん」
俺の胸に顔を埋めて、綾は語りだす。
「ずっと……不安…だった……の。勝史に迷惑……ばっかかけて……本当は…入部して……もらう必要……なんて、ないんじゃないかって……ずっと思ってて……」
途切れ途切れだったけど、綾の本心が、心の奥にあった想いが、伝わってきた。
綾は、俺を文芸部に誘うことが正しいのかどうか、ずっと悩み続けていたんだろう。俺を誘ってる間中、ずっと笑顔を振りまいていたけど、胸中では決して笑っていなかったはずだ。普通だったら、トラウマを持っている相手を無理矢理入部させようとなんかしない。相手が苦しむのを承知で勧誘なんて、並大抵の覚悟でできるわけがない。
でも、綾は、信じ続けてくれた。
俺の、小説へ賭ける気持ちを、ずっと、信じ続けてくれていた。さっきのライバル放棄発言をした時、もし拒否されたらと、恐かったんだろう。自分が信じてきたものが壊れてしまいそうで、恐かったんだろう。
でも、綾は最後まで俺に最終決定権を委ねた。
最後まで、綾は俺のことを信じ抜いてくれたのだ。
そこまで、自分を想ってくれる人を見て、恐怖という心と真っ向から立ち向かう姿を見て、心を動かされない訳がなかった。
だから、俺は、親友であり、ライバルである少女に、精一杯の気持ちを伝える。
「ありがとな。綾が居てくれて、良かったよ。これからも、よろしくな」




