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ひらがな

「あ」から始まり、「ん」で終わる。


たった四十六音。


私たちは、それだけで笑い、泣き、恋をし、喧嘩をし、人生を語る。


恋愛小説も、青春小説も、ホラー小説も。 全部、この四十六音だけでできている。


子どもの頃は違った。


「ぬ」と「ね」を間違えた。 「を」はどうして使うのか分からなかった。 「ゐ」や「ゑ」は昔の文字だと教えられ、「ん」は最後に覚えた。


一つひとつの音は、知らないものだった。


なのに、大人になる頃には誰もが当たり前のように使う。


当たり前。


それが、一番怖い。


私たちは、いつ「ことば」を覚えたのだろう。


思い出せる人はいない。


私は殺人犯だ。


「無差別」


「快楽」


「精神異常」


そう片付けられた。


違う。


私はただ、言葉を集めていただけだ。


人は死ぬ直前、必ず何かを言う。


「いや」


「助けて」


「痛い」


「ごめん」


たった数文字。


その最後の音や状況は、人によって違う。


私はそれを書き留めていた。


最初はノートだった。


次は壁。


最後は部屋中。


四十六音を埋めるように。


挿絵(By みてみん)


人間は面白い。


名前も。


住所も。


遺書も。


全部、ひらがなに直せる。


漢字は飾りだ。


カタカナも飾りだ。


最後に残るのは音だけ。


だから私は音を聞く。


音だけを信じる。



ある日、一人の少年に出会った。


「ひらがな全部書ける?」


私は聞いた。


少年は笑って答えた。


「書けるよ。」


紙を渡す。


「あいうえお……」


迷いなく書いていく。


「たちつてと」


「なにぬねの」


止まらない。


すらすら書く。


私は震えた。


どうして。


どうしてそんな難しいものを覚えている。


どうして思い出せない。


誰が教えた。


いつ覚えた。


なぜ忘れた。




人は恐ろしい。


覚える努力は忘れる。


覚えた事実だけが残る。


だから恐怖に気づかない。


歩くことも。


話すことも。


文字を書くことも。


全部、本当は奇跡なのに。


奇跡は毎日続くと日常になる。


日常は疑われない。


今、この文章を読んでいるあなた。


「あ」


から読んだ。


「い」も読んだ。


全部、意味を理解している。


不思議だと思わないか。


線を並べただけなのに。


頭の中では声になっている。


誰の声だろう。


あなたの声だろうか。


私の声だろうか。


それとも、文字を覚えた日の、あの誰かの声だろうか。


思い出せない。


思い出せないから、人は安心して生活できる。


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