第1話:俺が死んだ木曜日……
幸せには、固有の匂いがあった。
俺のラボに漂う松脂の鋭い香りと、リアクター起動後に立ち込めるオゾンの臭いだ。だが、銃弾が俺の肋骨を粉砕した瞬間、そのすべてを忘れてしまった。
当時の俺は三十歳。前世では筆頭技術エンジニア――要するに、コーポレーションの「黄金の頭脳」だった。俺の人生はすべて設計図の上に築かれており、その緻密な計算の頂点となったのがプロジェクト『ゼニト』だった。都市一つを丸ごと賄える、コンパクトな熱核融合炉。俺が物理学を愛したのは、それが誠実だったからだ。力を加えれば、それに見合った測定可能な結果が返ってくる。奇跡などない。数式だけがすべてだ。
すべてが終わったのは、あのクソ忌々しい木曜日だった。
テクノロジーフォーラムのメインステージ、無数のカメラ、思考をかき消すほどの盛大な拍手。俺はプロトタイプの横に立ち、プラズマ閉じ込めの原理を説明していた。
銃声は聞こえなかった――超音速の弾丸は、常にその音を追い抜いていくからだ。ただ、凄まじい衝撃を感じただけだった。俺は後ろへ吹き飛ばされ、自らの手で作り上げた高価な装置の上に叩きつけられた。
ステージに倒れ込んだ俺の目に、群衆の中で沸き起こるパニックが映った。しかし、薄れゆく視界が捉えたのは、真っ先に演台へと駆け寄る高級スーツを着た連中の姿だった。彼らは俺の設計図やハードディスクに手を伸ばしていた。その裏切りこそが、俺の短すぎる人生の中で最も屈辱的な瞬間だった。
俺の命が『ゼニト』の特許よりも価値が低いという事実に、激しい吐き気がした。
スナイパーの弾丸を食らった時、最初に感じるのは痛みではない。冷気だ。そしてその後に、自分の血のねっとりとした、吐き気のするような熱さがやってくる。プロジェクターの眩い光が耐え難いほど白くなり……。
そして、光が消えた。
死んだわけではなかった。少なくとも、即死では。
俺は完全な……「何もない場所」にいた。
果てしない空間が俺を取り囲んでいた。星々は遠くの点ではなく、虚空に静止した閃光のようだった。肉体も、重さも感じない。ただ、流れだけを感じていた。目に見えず、触れることもできない、だが強大な海洋の潮流のような力が、優しく、しかし拒絶を許さぬ強さで俺を前方へと押し流していく。
論理に慣れ親しんだ俺の脳は、この状況の受け入れを拒否していた。トンネルはどこだ? 脳神経のシャットダウン現象か? 代わりにあるのは、真空中の慣性。抵抗する術もなく流れに身を任せていると、前方に光の点が見えてきた。
光。目を灼くような、脈動する光。流れそのものが、俺をその中へと叩き込んだ。その輝きに足を踏み入れた瞬間、すべてが白に染まった。影も、輪郭も、音もない。完璧なホワイトノイズ。
そして、地面――と呼べるものがあるならば――が消失した。
足元に深淵が広がった。宇宙そのものよりも深い、漆黒の虚空。それは文字通り俺を呼び、凄まじい力で引っ張った。悲鳴を上げる暇さえなく、俺は回転しながらその闇へと引きずり込まれた。
衝撃。
そして、俺は意識を取り戻した。
人生最悪の「おはよう」だった。
腐敗臭、糞尿、そして淀んだ尿の臭い。息を吸おうとしたが、肺が激痛を訴え、埃が喉を引っ掻いた。目を開けたが、すぐに強く瞑った。光が眩しすぎたし、目の前の現実は――あまりにも汚らしかった。
俺はゴミの山の上に横たわっていた。周囲には腐った木箱が転がり、すぐ近くを太ったドブネズミが這い回っている。目をこすろうと手を上げようとして――硬直した。
それは俺の手ではなかった。
骨張った手のひら、爪の間に垢がこびりついている。細い手首――ただ骨に皮が張り付いているだけだ。長年工具を握り続けてできたあのタコはどこへ行った? 俺の時計は? 必死になって自分の顔を触る。少年の顔だ。せいぜい十五歳そこそこの。
一体全体、何が起きている? 別の生物学的器への意識の転送か? 死にゆく脳が見せる幻覚か? この期に及んでも、俺の脳は必死にこの狂気を分類しようとしていた。
「へえ、見てみろよ。この居候、目が覚めやがったぞ!」
耳元でしゃがれた声が響いた。
顔を上げると、そこには三人組がいた。泥にまみれた、薄汚い浮浪者どもだ。一番体格のいい、破れた革のベストを着た男が、俺の肋骨を蹴り上げた。
その衝撃で、危うく意識が飛びそうになった。
「おい……ゴミが。小銭は持ってんだろうな?」
「ボス、こいつ一文無しです」
「あァ? 一文無しだと?」男の顔に下卑た笑みが浮かんだ。「じゃあ片付けちまえ。手早くやれよ」
体が震えた。俺の脳が急速に計算を始める。
標的は三人。総重量は約二百五十キロ。対して俺の重量は、せいぜい四十キロ。選択肢は一つ、逃げる。
その時、何かが脳内でクリックされた。
【スキル発動:生きる意志】
それはまるで、オペレーティングシステムが起動するような感覚だった。
耳鳴りが響き、視界が劇的に鮮明になる。ベストを着た男が次の蹴りのために足を振り上げる動作が、信じられないほどスローモーションで、詳細に見えた。彼の筋肉の緊張。右足への体重移動。
俺は待たなかった。汚いズボンの生地越しに、男の足首へ思い切り噛みついた。
男が悲鳴を上げ、俺はその転倒の勢いを利用して横へ転がり、路地裏を全力で疾走した。
足がもつれる。心臓が激しく脈打つ。肺が焼けるように熱い――それでも、俺は走った。ゴミの山を飛び越え、呪われた迷宮のような路地を突き抜け、ついに開けた広場へと飛び出した。
俺は上体を折り曲げ、激しく息を切らした。鼻からは血が滴り、両手が震えている。
「よし」血を地面に吐き捨てながら、俺は思考を巡らせた。「俺は異世界にいる。他人の体でな。重力は地球とほぼ同等。大気は呼吸可能。つまり、物理法則はまだ機能している。なら、生き延びられる」
顔を上げると、夜空に二つの月が浮かんでいた。
二つの、忌々しい月が。
天体物理学なんてクソ食らえだ。
いいだろう。手持ちのカードでやってやる。




