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96.お嬢様が話を聞いてくれません




 ゼトはフィーに打たれた頬に手で触れ、呆然と彼女を見つめていました。

 右手を握りしめたフィーがかすれた声で言います。



「追いかけて、きたの。さっきのこと……謝ろうと思って」



 風が吹いて緑の髪を揺らし、



「でも」



 顔を流れる髪が、その表情を見え隠れさせます。



「やっぱり謝らないことにした」


「フィー」



 半ば放心したようにゼトが呻きました。



「違うんだ。悪かった。俺は──」


「だから、あなたも謝らなくていい」



 彼女はそう言うと、くるりと体の向きを変えて私の前にひざまずきました。



「ローザ、立てますか? 手当てしないと。さあ、私につかまって」



 フィーの手がやわらかい毛布のように私を包み、立ち上がらせます。



「っ……!」



 思わず目をつぶります。頬がズキリと痛み、考えがうまくまとまりません。



「ねえ、ゼト。あなたにお願いがあるの」



 すぐそばでやさしく呟く声がしました。



「……もう二度と私に近づかないで」



 薄目を開くと、真っ赤な夕焼けの中に、棒立ちになったゼトの影がにじんでいました。






 フィーに手を引かれて屋敷の階段を上ります。



「お嬢様。この階段は……」



 三階直通の階段。

 本来はエメル家の者とそのお付きのみが通る場所で、私のような末端メイドが踏み入ることは許されていません。



「私と一緒なら大丈夫ですよ。それより、つらくありませんか? ゆっくりでいいですからね」


「いえ……あの、私は平気です」



 別段、強がりというわけではありませんでした。

 確かに打たれた頬はズキズキとしますし、きっと大いに腫れるでしょう。しかし、シルバスティンで背中を斬られたときに比べればほんのかすり傷です。子供みたいに手を引かれなくたって歩けますし。



「だめ。無理は禁物ですよ」



 フィーは微笑みながら、こっそり離そうとした私の手をぎゅっと握りなおしました。

 振る舞いは女神のようですが──

 私は彼女にうすら寒いものを感じます。

 渋々連れてこられたのは三階の居室。おそらく彼女の寝室でしょう。

 半ば強引にベッドに横たえられ、フィーが呼んだ侍医に診察されました。



「ありがとう。あとは私がやっておきます」



 一通り診察が済んだあと、侍医に向かってフィーは言いました。



「ですが、お嬢様……」


「お願いします。今、この子は動揺していると思うの。あなたたちは外していてちょうだい」



 侍医と助手は顔を見合わせてから、「はぁ」と言って部屋を出て行きました。

 フィーがベッド脇の椅子に腰かけ、私の頬に貼られた湿布の具合を確かめます。



「お嬢様。もう大丈夫ですので」



 起き上がろうとしますが、やんわりと上から押さえつけられてしまいました。



「いいえ。もう少し横になっていないと」



 …………困りました。

 ゼトを焚きつけたのは私。そのうえ怒らせて、追い詰めて。

 最悪の場面だけを彼女に見せてしまった。

 恋愛フラグを立てるどころかへし折ってしまった──

 ですから。

 こんなところで、大人しく寝ているわけにはいかないのです。



「……フィーお嬢様?」



 触れる手がかすかに震えるのを感じ、私は彼女を見上げました。



「ごめんなさい」



 そう呟く口元がみるみる歪み、緑の光をたたえた目から涙がこぼれ落ちます。



「ごめ……な……さ……」



 顔を覆って泣き崩れるフィーに、私は固まってしまいました。

 ……どうして?

 どうしてあなたが謝るのですか?

 ひとしきり嗚咽したあと、袖で涙をぬぐって彼女は言いました。



「私が責任を取ります」



 責任?

 さっきから一体何を言っているのでしょう。

 使用人が貴族に殴られた──言ってしまえばただそれだけのこと。貴族社会ではよくある話です。

 何より、彼女が責任を取る必要なんてどこにもありません。



「あなたのことは、私が守ります」



 ………は。

 は?



「私といれば……彼はあなたに近づけない。だったら、ずっと一緒にいればいい」


「ずっと?」


「ずっと」



 私の手を包み込むように握り、彼女は言いました。



「ローザ。今日から、私の専属メイドになってください」




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