95.私は最低の人間です
「ゼト……ゼト!」
屋敷を出て、夕暮れの庭を歩いていく背中を追いかけます。
ゼトは一瞬こちらを振り返りましたが、追いかけてくるのが私だとわかると前を向いてしまいました。
「待ちなさい!」
周囲に人がいないことを確認し、ようやく追いついて袖を捕らえました。
それほど強く引いたわけではありません。が、ぴたりと立ち止まります。
「……子供のころ」
低い声が聞こえました。
「このペンダントが欲しいって、あいつにせがまれたんだ。かなりしつこくてな。喧嘩になった」
手の中のペンダントを見下ろし、ゼトは静かに言いました。
「貴重なものなのですか?」
「カフラーマで赤ん坊が生まれたとき、母が子に贈るものだ。健康に育ちますようにっていうお守りだな。向こうでは特に珍しいものじゃない。だが、俺がこの国に連れてこられたとき、自分の持ち物はこれだけだった」
「それは……喧嘩になりますね」
「ああ。取っ組み合いになって、思わず手が出た。倍にして殴り返されたがな」
あのお淑やかなフィーが、殴り返した?
昔はずいぶんお転婆だったのですね。
「あんなに欲しがったくせに……もういらないんだな。ハッ、当たり前か。あいつの言う通り、俺たちはもう子供じゃない」
「落ち込むことはありません。今回は、たまたまうまくいかなかっただけです。すぐに次の作戦を考えますので」
使えそうなエピソードはまだまだあります。数をこなしていけば、きっとうまくいくパターンが見つかるはず。
「いや。もういい」
ぽつりと呟くゼトに、私は一瞬声を失いました。
「───な」
「俺は降りる」
「と……とぼけたことを言わないでください! まだ始まったばかりでしょう」
「気づいたんだ。俺にあいつの欲しいものを与えることはできない。だが公爵は違う。二人の会話を聞いただろう?」
フィーの弾んだ声。
例のもの。結婚に必要なもの。
二人だけの約束。
…………いいえ。
私は。
認めない。
「大丈夫です……! 次はもっと効果的な作戦を考えますから」
「いや、いい」
「こういうのはどうでしょう? 月夜のバルコニーで、あなたとフィーの目が合って──」
「いいと言ってる」
「わかりました。ではもう少し違った──」
「だからもういいって言ってんだよ‼」
ゼトは荒い息を吐き出し、鋭い犬歯を剥き出しにしました。
「貴様、俺を人間として見てないだろ」
私の胸倉をつかみ上げ、真正面から睨み据えて。
「最初に見かけたときから、貴様の目が気にくわなかった。フォルセイン王家の瞳だからかと思ったが、そうじゃない。貴様は周りの人間をことごとく同じように、まるでこれから指す駒でも見るような目で見ている」
投げつけられた言葉に、自分の体がビクッと震えるのを感じました。
「いいか。俺は貴様の盤上の駒でも、物語に出てくる架空の人物でもない。れっきとした生身の人間だ。そう簡単に──心を操れると思うなよ」
「……私……は……」
「わかったら、もう俺に近づくな」
乱暴に突き放され、立ち尽くします。
体が小刻みに震えていました。
怖いのか、悔しいのか。
恥ずかしいのか、虚しいのか。
わからない。わからないけれど。
喉から声があふれてきます。
「卑怯者」
立ち去ろうとしたゼトが振り向きました。
「何?」
「逃げるんですか? この卑怯者」
鬼のような形相のゼトに向かって、手を伸ばし、腕をつかみます。
「ええ、そう。あなたの言う通り。私は最低の人間。そんなことは百も承知です。でも、あなただって卑怯ですよね? そうやって諦めれば楽になると思っているんでしょう。お兄様のほうが彼女を幸せにできる? 本気でそう思ってなんかいないくせに。そうやって言い訳することで、自分を守ろうとしているだけよ!」
「………離せ」
「少なくとも私は諦めたりしない。どんなにつらくても、惨めでも、最低の人間になっても構わない。だけど、あなたみたいに……愛する人から逃げたりはしない!」
「離せよ‼」
バシッ──
振り払ったゼトの手が勢い余って顔に当たり、私は後ろ向きに倒れ込みました。火花のような光が瞼の裏で弾け、地面に打ちつけられて息が詰まります。
全身が痺れたように動けない中。
ゼトが大きく息を飲む音が、なぜかはっきりと聞こえました。
「─────なんでここに」
パンッ。
再び響く打擲音。
瞼を開くと、そこにはあっけにとられたような顔をして、体を斜めに傾けたゼト。
そして──
フィーが立っていました。




