8)未来1
ロバートの視線が落ち着きなく動いた。何か言いかけ、迷うように口は動くが声が無い。ロバートは、自分を抑え続けてきた。抑えるように命じてしまったのは、幼い頃のアレキサンダーだ。今更、母親を返してやることなどできない。感情を抑えるという呪縛、アレキサンダーが科してしまった呪縛から、ロバートを解き放ちたかった。
「ローズは幼い。いつか、ローズが年頃になったとき、私を見てくれたらと思います。私とともに生きると、聖アリア様の前で共に誓ってくれたらと思います。ですが、私は何も持たない使用人です。家名なしと揶揄される一族の者です。何も与えてやれない。守ってやりたくても、権力も何もない」
微かな声だった。ロバートの静かな口調は、何もかも諦めていると言わんばかりのものだった。アレキサンダーも見慣れた、穏やかな微笑みに戻っていたが、悲しげなのは気のせいではないだろう。
ロバートはライティーザの建国当初にまでさかのぼることができる一族の一人だ。王家とほぼ等しい歴史を持つ唯一の血統でありながら、爵位を持たない一族の当主の長子だ。代々の国王に仕え、アルフレッドやアレキサンダーだけでなく、ライティーザの王家に生まれたほとんどの者を養育してきた。
王族に近いという立場を利用して、利権を得ようとすることのない、高潔な一族として尊敬を集め、かつては“王家の揺り籠”と呼ばれ、敬意を払われてきた。いつの頃からか、“家名なしの一族”と揶揄され、敬意を払わない貴族が増えてきた。
ライティーザの貴族には、功績をたて爵位を得た“王家の揺り籠”あるいは、“家名なしの一族”の者を、始祖とする家系も少なくはない。だが、数多くの功績を打ち立ててきているはずの本家は、使用人のままだ。貴族の特権とは、無縁のまま、王家を支えてきた。思えば奇妙な一族だ。
「イサカの町でのお前の貢献には、爵位をあたえられてもよかったはずだ。王太子領のどれかなら、お前はよく知っているから統治も問題ないだろう。父上がなぜ、それをしなかったのか、私も含め、疑問に思ったものは少なくない」
ロバートは微笑むだけだ。
「そのお気持ちだけで十分です。それに、私はあの町に関して初期に関わったのみです。過分な御評価です」
アレキサンダーには、ロバートが最初から諦めたように語る理由がわからなかった。
「ローズは、どこかの貴族に嫁がせるつもりはない」
信じられないと言いたげなロバートがいた。
「嫁がせようにも、あのお転婆だ、ありとあらゆる手を使って脱走するに決まっている。私は面倒ごとが嫌いだ」
ローズは時に、何をするかわからない。庭で迷子になったからといって、猫を真似て生垣の下を潜り抜けようなど、アレキサンダーでも思いついたことすらない。生垣を覗き込んでいるローズを見つけたジェームズ達庭師は、庭にひっくり返って大笑いしていた。
「おまけに大司祭が、ローズ様、聖女様と言っているだろうが。無理やり嫁がせるとあの大司祭が知ったらどうなると思う。聖アリア教会で神を前に誓う時、司祭なしで式ができるのか」
少なくとも大司祭は、ロバートがローズをどう思っているか気づいているはずだ。いちいちロバートを揶揄って遊ぶような大人気ない真似をしているのだから、いざというときのために、協力を頼んでおいても悪くはないだろう。
「では、ローズは」
「どこかの貴族にやったりはしない。あれの意に染まぬ結婚などさせん。それに、聖アリア教会が認めるわけがない」
ロバートの顔に血の気が戻ってきた。
「もっとも、お前を選ぶかは、ローズ次第だ」
アレキサンダーなりに、一応釘は刺してみた。子供のローズが何を考えているかなど、アレキサンダーも知らないのだ。
「ローズがお前を選ぶとは限らんぞ」
もう一度釘を刺したところで、ロバートもようやく意味がわかったらしい。
「確かに、それはローズ次第ですね。懐いてくれているとは思いますが」
そう語るロバートの微笑みは、また、静かな、諦めの混じった表情になっていた。
「あのローズが、爵位だの財産だのに拘らないのは、お前がよく知っているだろう」
同じように、いや、先祖代々爵位や財産に拘らない一族の男が目の前にいるロバートだ。
「いや、お前のほうが、筋金入りだな。お前の一族は、先祖代々功績を打ち立てておきながら陞爵を受けていないからな。お前もそうだが、いったい何を考えている」
ロバートは、静かにほほ笑んでいた。昼間甘えてくるローズのことを思い出しているのだろう。世話のかかる乳兄弟だ。もっとも、グレースにそんなことをいったら、まだ“ロバート離れ”ができないのかと言われるのだろう。アレキサンダーはただ、この己のことを振り返らない不器用な乳兄弟が心配なだけだ。
この、奥手すぎて手のかかる乳兄弟が、素直になれば、アレキサンダーが気をもんでやる必要もない。グレースに呆れられないために、ロバートには、自分の欲しいものを欲しいと言ってもらわねばならないのだ。