4)アレキサンダーの後悔
グレースの腹も大きくなり、時々赤子が腹を叩いたり蹴ったりする。アレキサンダーは、それが楽しみで、少しでも時間があれば、グレースの部屋を訪れていた。
「どうかしたのか」
その日、アレキサンダーは、浮かない顔で出迎えたグレースに首を傾げた。
「いえ、どう申し上げたものか、私も困ってしまうことがありましたの」
アレキサンダーは、長椅子に並んで腰を掛けたグレースの髪を指で梳いた。
「ローズをけしかけて、ちょっとロバートに悪戯をさせたつもりだったのですけど、思いもかけないことになってしまって」
「あの二人が、とうとう喧嘩でもしたのか」
二人の意見が合わずに、延々と話し合ったりするのは珍しい光景ではない。喧嘩は珍しい。というより喧嘩をしたことなどあるのだろうか。
「ローズに、ロバートに膝枕をしてやったらいいと言ったんです」
「膝枕」
戸惑ったアレキサンダーは、ただグレースの言葉を繰り返すことになってしまった。
膝枕で何故困るのか。それよりも、ロバートからは、ローズにそんなことをしてもらったなど聞いていない。この場にいない乳兄弟に、胸の内で文句を言ってみた。そういえば、今日、昼の休憩の後、執務室に戻ってくるのがいつもより少し遅かった。
「そうしたら、ローズが元気をなくしてしまって。膝枕は悲しいものなのかと私に聞いて来たのです」
思いがけない言葉だった。
「意味が分からないな」
アレキサンダーの言葉に、グレースも頷いた。
「えぇ。私も、信じられないのですけれど」
グレースの空色の目は真剣だった。
「ローズが、ロバートに膝枕をしてやったら、あのロバートが涙を流したと、ローズが言ったのです」
「あのロバートが、涙をか」
自らが口にした言葉に、アレキサンダーはかつての光景を思い出した。月に照らされた墓場で、ロバートはアリアの墓に縋っていた。あの時の後悔は今も忘れていない。
「私もその場におりませんでしたし。ただ、ローズが大真面目に、膝枕は悲しいものなのかと、聞くものですから。私も困ってしまいました」
「それは、訳がわからないな」
あの日のことを、アレキサンダーはまだロバートに謝罪していない。アリアの死を皮切りに、悲劇が続き、あの頃は二人とも、生き延びるだけで必死だった。
グレースがため息をついた。
「ローズに、何と言ってやればよいかしら。何か悪いことをしてしまったのかと、ローズもすっかり元気をなくしてしまって」
グレースはため息をつく様も美しい。ローズのことを憂いていると思うと、アレキサンダーは自分の方に気を引きたくなった。
「少なくとも、私は、あなたの膝枕は大いに嬉しい。もちろん、あなたに膝を貸すのも嬉しいことだ」
「まぁ。うれしいことをおっしゃってくださいますこと。せっかくですから、甘えてもよろしいですの」
「なんのために今日、私はここにいると思う、私の美しいグレース」
アレキサンダーは膝の上で休むグレースの髪をゆっくりと指で梳いた。
「子供のころ、アリアに膝枕をしてもらったな。王都を離れて、王領でのびのび育ててもらった。いつかきっと正妃様に子供が生まれるから、王位を継ぐことなどないと思っていた。乳母のアリアは優しかったし、教育係達もいろいろ教えてくれた。懐かしい思い出だ。あの頃は、それなりに楽しかったし、幸せだった」
木陰で、アリアに膝枕をしてもらいつつ休んだ。寝てしまうこともあった。
「お会いしてみたかったですわ。アリアというあなたの乳母に。私がアレックスとお会いしたころには、もう亡き人だったというのが残念です」
「そうだな。優しい女性だった。ロバートの母親だ。母の亡い私にとっては、母同然だった」
アリアは、実子であるロバート同然、アレキサンダーを、我が子のように可愛がってくれたと思う。
部屋に戻ったアレキサンダーは、寝台に横になり天蓋を見上げた。
「膝枕か」
ロバートが泣くのは珍しい。アレキサンダーの記憶にある限り、あの月の夜、墓場でアリアの墓に縋って泣いていたあの日くらいしか知らない。あとは、小姓達が毒殺されたときだ。ジャックの墓で泣いたとの報告をうけたことがある。
アリアは優しかった。子供のころは、アリアに膝枕をしてもらった。天蓋を見ていて、思い出した。
あの時、ロバートは傍らに立っていた。
アレキサンダーは、木陰で、アリアに膝枕をしてもらいつつ休んだ。寝てしまうこともあった。ロバートは常に隣に控えて立っていたはずだ。
「私のせいか」
アリアの膝枕に満足した後、ロバートを従え、また遊びにいった。ロバートが膝枕をしてもらう間などなかったはずだ。
「私のせいだ」
アリアは常に、アレキサンダーを優先してくれていた。