01 王太子妃候補、やめます
大理石の冷たい階段を転がり落ちながら、私の脳裏に走ったのは「痛い!」という感想ではなく、まったく別の人生の記憶だった。
満員電車、深夜までの残業、そして休日の楽しみに読んでいたウェブ小説の数々。
(ああ、私、前世の記憶を取り戻したんだわ。しかもこの立ち位置、どう考えても『悪役令嬢』じゃない!?)
ガンッ!と頭を強く打った瞬間、走馬灯のように前世の記憶と今世の記憶が完璧に統合された。
私の名前は、リズウェルリズ・アーガンディア。
強大な軍事力と蒸気機関を誇る隣国、ガルヴァニア帝国との国境を治めるアーガンディア侯爵家の長女であり、我が国の王太子妃候補の一人だ。
そして今、私を学園寮の階段の上から「あっ!」というわざとらしい悲鳴とともに突き落としたのは、もう一人の妃候補である伯爵令嬢のオーレリアである。
「リズウェルリズ様! 大丈夫ですか!?」
「誰か、医者を!」
周囲が騒然とする中、私は薄れゆく意識の中で冷静に現状を分析していた。
王太子妃という国の重責を担うため、私はこれまで血を吐くような努力で完璧なマナーと教養、そして複雑な領地経営の知識を学んできた。
しかし、王太子が寵愛しているのは、教養も礼儀もないが愛嬌だけは異常にあるオーレリアの方だ。
真面目な私が彼女の致命的な失態を注意するたびに、王太子や周囲からは「嫉妬に狂った嫌味な悪女」として冷たい視線を浴びせられてきたのである。
(……あほらしい)
薄闇に沈んでいく意識の中で、私は心底そう思った。
前世の記憶を取り戻した今、これまでの自分の血の滲むような努力が、ひどく滑稽に思えたのだ。
なぜ、あんな無能な王太子のために私が苦労しなければならないのか。
なぜ、国を守る要である辺境伯家の娘が、あんな底浅い小娘に階段から突き落とされて「リズウェルリズ様が勝手に足を踏み外した」なんて言われなければならないのか。
そもそも、王太子妃になんてなりたくない。
前世の記憶を持つ私にとって、奸智術策塗れな王宮での権力闘争も、自分を殺してまで見返りのない男に尽くす妃教育も、ただの苦痛でしかなかった。
学園の医務室で目を覚ました私は、ベッドの傍らで心配そうに顔を覗き込む侍女に向かって、包帯まみれの頭でニッコリと微笑んだ。
「決めたわ。私、王太子妃候補から降りる」
「……なんと、仰いました?」
「もう真面目にやるのはやめ。今日から私は、ただのワガママな令嬢になるわ!」
侍女がポカンと口を開けているのをよそに、私の心は晴れやかだった。
とはいえ、自分から「辞めます」と言ってすんなり辞められるほど、政治は甘くない。
特に私の実家は、隣の帝国に対する最大の防波堤である。
王家が私を簡単に手放すわけがない。
ならば、あちらから「お前は追放だ!」と言わせるまで。
幸い、私にはすでに「悪女」という立派なレッテルが貼られている。
これを最大限に活用し、オーレリアと王太子の恋路を傍観者として生暖かく見守りながら、適当に理由をつけられて実家に追い出される日を待てばいいのだ。
私はベッドの上でぐっと伸びをした。
この世界特有の魔力だのといった小難しいことは、もともと私の管轄外だ。
幸か不幸か、私は特別な魔法の才能なんて微塵も持ち合わせていないし、気にしたこともない。
これからは前世の記憶を頼りに、大好きな紅茶でも飲みながら、この茶番劇が早く終わるのを待つだけ。
しかし、この時の私はまだ知らなかった。
私が「あほらしい」とサバイバルレースから降りたことで、この国の歯車が致命的に狂い始めることを。
そして、国境の向こう側から、身の毛もよだつような執着と狂気を秘めた帝国の皇太子が、私の放つ『無意識の波長』にすでに行動を起こし始めているということを。
階段落ち事件から数日後。
怪我から復帰した私は、昼下がりの学園内サロンで優雅に紅茶を傾けていた。
窓から差し込む陽光が、私の金髪をきらきらと輝かせている。
かつては一糸乱れぬように結い上げていた髪も、今はゆるく編み下ろすだけ。
重苦しい妃教育のテキストはすべて放り投げ、ただひたすらにサボる日々を満喫していた。
「リズウェルリズ……! よくも、よくも私のドレスをっ……!」
サロンの静寂を破ったのは、琥珀色の瞳に大粒の涙を浮かべた伯爵令嬢、オーレリアだった。
彼女の美しい金髪は丁寧に巻かれているが、そのドレスの裾には無惨にも泥水が跳ねている。
周囲の令嬢たちが息を呑み、一斉に非難の目を私に向けてくる。
(出たわね、自作自演トラップ)
私はカップをカチャリとソーサーに置き、オーレリアを冷ややかに見つめた。
前世の記憶を取り戻す前の真面目な私なら、「私ではありません! なんて無礼な!」と顔を真っ赤にして反論し、それがさらに「見苦しい言い訳をする悪女」という印象を周囲に植え付けていただろう。
だが、今の私は違う。
「あら、オーレリア様。奇遇ですね、私もそのドレスには泥水がとてもよくお似合いだと思っていたところですの」
「……なんて、仰いました?」
予想外の返答に、オーレリアが間の抜けた声を出す。
琥珀色の瞳がパチクリと瞬きをした。
「それにしても、ご自分で泥を被りに行くなんて、随分と斬新な趣味をお持ちなのですね。王太子殿下もさぞ、その泥まみれのお姿を愛らしく思われることでしょう」
「わ、私が自分でやったと言うのですか!? ひどい、ひどすぎますわ!」
オーレリアは顔を真っ赤にして泣き崩れる。
周囲からは「なんというふてぶてしさ」「やはりあの方は血も涙もない悪女だ」というひそひそ声が聞こえてくるが、私にとっては心地よいBGMでしかない。
(いいぞ、もっと言え。私の悪女ポイントが順調に貯まっていくわ)
私は心の中でガッツポーズをした。
ただ悪女として振る舞い、適当な理由で婚約破棄されて、実家に帰るだけだ。
「さてと、今夜は建国記念の夜会がありますし、わたくしは準備がございますの」
私は立ち上がり、オーレリアと周囲の令嬢たちに向けて、とびきり悪辣な笑みを浮かべる。
今夜の夜会。
王宮中が注目するその大きな舞台なら、王太子が「愛するオーレリアを虐めた悪女」を断罪するにはピッタリの場所だろう。
(さあ、早く私に『婚約破棄』と『追放』を言い渡してちょうだい。馬車の準備はもう完璧に済ませてあるんだから!)
私は足取りも軽く、夜会に向けた準備のためにサロンを後にした。
2026年9月の新作連載はじめます☆
一カ月くらいで完結させたいと思ってます!
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