第50話 「恩義契約ギルド、始動」
看板が曲がった。
ギンが両手で地面に打ち込んだ木の板は、左に十五度ほど傾いていた。板の表面には俺の字で「恩義契約ギルド エルデ本部」と書いてある。字は真っ直ぐだ。板が曲がっているだけで。
「ギンは上手に打てた!」
「曲がってる」
「曲がってない! まっすぐ!」
「お前の基準のまっすぐは信用できない。釘を九本曲げた前科がある」
「あれは釘が弱かったの!」
クロが屋根の上から見下ろしていた。
「……傾いてるわよ。左に十五度くらい」
「正確だな」
「猫の目は水平に敏感なの」
アカが庭の隅から走ってきた。
「妾が火で焼き固めてやろう。根元を溶かして岩にすれば傾かぬぞ」
「看板を溶かしてどうする」
「溶かすのではない。固定するのじゃ」
「同じだ」
結局、俺が手で押して角度を直した。道具も魔法も使わない。手で押す。段取りの鬼の最終手段は物理だ。
看板が真っ直ぐ立った。恩義契約ギルド、エルデ本部。昨日までは「ハルの拠点」だった場所が、今日から公的機関の本部になった。中身は変わっていない。石造りの二階建て、一階にリビングとキッチンと風呂と書庫、二階に個室が四つ、庭に厩舎跡。フィンが研究をしていた家。ゼノの弟子が夢を追いかけた家。
変わったのは看板だけだ。だが看板が立つと、場所の意味が変わる。
*
「おはようございます。本日より恩義契約ギルド事務局長として着任いたします、リノです」
リノが門をくぐった。栗色の髪をいつもより丁寧に結んでいる。冒険者ギルドの制服はもう着ていない。代わりに——白い普段着を着ていた。
「制服がないんです」
「そりゃそうだ。昨日設立されたギルドに制服があるわけがない」
「分かってはいたんですが、着任初日に普段着というのは事務局長として……」
ツルが台所から顔を出した。
「リノさん、採寸させてくださいませ。制服をお作りしますわ」
「ツルさんが?」
「生地の余りがございます。ハルさまの予備の上着を作った時の残りで」
「あ、ありがとうございます……」
リノがツルに連れられて台所の奥に消えた。採寸が始まる気配がする。ツルの裁縫は速い。夕方までには形になるだろう。
キサが居間の木板の前に立っていた。昨日まで依頼管理ボードと収支表が並んでいた壁に、新しい紙が三枚貼られている。
「初年度予算案、組織図、業務フロー。全て暫定版ですわ。ハルさま、ご確認を」
「いつ作った」
「審議の日程が決まった時点で着手しましたわ。承認されなければ破棄するつもりでしたが、無駄にならなくてよかった」
三手先を読む狐。相変わらずだ。
予算案を見た。数字が細かい。人件費、施設維持費、消耗品費、通信費、研究費。研究費の項目にゼノの名前が入っている。学術顧問報酬、月額銀貨十五枚。
「ゼノの報酬、これで足りるのか」
「ゼノさまご自身が『茶と菓子があれば十分だ』とおっしゃいましたが、公的機関の学術顧問を茶菓子で雇うわけにはまいりません。最低限の額を設定しましたわ」
ゼノは書庫に入り浸るたびにツルの茶と菓子を楽しみにしている。報酬がなくても来るだろう。だがキサの言う通り、制度として運用する以上、正規の報酬は必要だ。
*
最初の申請者が来たのは、昼前だった。
門を叩く音。控えめで、少し緊張した叩き方。開けると、五十代の男が立っていた。日焼けした顔、厚い掌、革のベスト。猟師だ。
その肩に、鷹が止まっていた。
翼を広げれば腕の長さほどある灰色の鷹。目が鋭い。だが光がある。瘴獣ではない。意思のある、生きた目だ。
「あの……恩義契約ってのを、ここで申請できると聞いて」
「できます。どうぞ」
居間に通した。リノが応対の準備をしている。ツルが茶を出した。猟師は緊張していたが、茶を一口飲んで少しだけ肩の力が抜けた。ツルの茶にはそういう力がある。
「こいつは——名前はタカ、ってんだが」
「そのままですね」
「ああ。安直だが、二十年そう呼んでる」
二十年。この猟師は二十年間、この鷹と共に狩りをしてきた。テイムはしていない。テイマーに頼む金もなかったし、頼む気もなかったと言う。
「俺が若い頃、森で怪我した雛を拾った。育てて、一緒に狩りを覚えた。テイムなんかしなくても、こいつは俺の声で飛ぶし、俺の腕に戻ってくる。二十年ずっとそうだ」
鷹がこちらを見ていた。鋭い目。だが猟師の肩から離れない。
「ただ、最近テイマーギルドの検査が厳しくなってな。テイムされてない魔獣を連れ歩くなって。罰金を取られた。二度目は没収だと言われた。こいつを取られたくなくて……」
猟師の声が詰まった。二十年の相棒を奪われる恐怖。それはギンやクロやツルやアカやキサが、俺の隣からいなくなることと同じだ。
「恩義契約を結べば、公的に認められた関係になります。テイマーギルドの管轄外になる。没収の対象にはなりません」
「本当か」
「規約で定められています。確認済みです」
猟師の目に光が戻った。
面談に入った。恩義契約の成立には、魔獣側の明確な合意が必要だ。人間が望んでも、魔獣が拒めば契約は成立しない。それが恩義契約とテイムの根本的な違いだ。
鷹に手を伸ばした。指先を鷹の前に差し出す。
鷹が俺の指を見た。二十年間、猟師の腕にしか止まらなかった鷹が、見知らぬ人間の指を見ている。
嘴が動いた。一度だけ、俺の指先を軽く突いた。挨拶だ。猛禽の挨拶。
「この子は猟師さんと一緒にいたいようです。意思は明確です」
リノが書類を広げた。登録申請書。俺の筆跡で書式を作り、リノが清書した。前例のない書類。だがもう前例は俺たちが作った。
「種族、鷹型魔獣。名前、タカ。契約者——お名前は」
「ゴルド。猟師のゴルドだ」
リノがペンを走らせた。ゴルドが署名し、俺が確認印を押した。恩義契約ギルド、第一号の契約。
パーティーの五体を除けば、外部としては初の登録だ。
ゴルドの顔がくしゃりと歪んだ。泣きそうな顔で笑っている。
「これで……取られないんだな。タカを」
「取られません。書類がある限り」
ゴルドが鷹の頭を撫でた。鷹が目を細めた。猛禽が目を細めるのは信頼の証だと、前世の動物番組で見た。
ゴルドが帰った後、ギンが駆け寄ってきた。
「ぬしさま、あの鷹さんよかったね! おじさんとずっと一緒にいられるね!」
「ああ」
「ギンもぬしさまとずっと一緒! 書類なくても一緒だけど、書類もある!」
「お前のは試験導入の時に登録済みだ」
「知ってる! でもまた言いたかったの!」
銀の尾がぶんぶん揺れている。
アカが階段を駆け下りてきた。
「副ギルド長室はどこじゃ」
「ないって言っただろ」
「今日から作れ。妾は副ギルド長じゃ」
「そんな役職はない」
「昨日作ったのじゃ」
「許可していない」
「妾が認めた。竜の理じゃ」
「竜の理で組織図は作れない。キサに聞いてみろ」
アカがキサの方を向いた。キサが帳簿から目を上げずに言った。
「組織図に副ギルド長の欄はございませんわ。追加には予算の再編成が必要ですの。アカさまのお給料をどこから捻出いたしましょう」
「給料? 妾に金など不要じゃ。名誉職じゃ」
「名誉職でも経費は発生しますわ。名刺代、印章代、執務室の維持費——」
「……やめておく」
アカが静かに引き下がった。キサの帳簿は竜より強い。
*
午後。庭。
ヒノが厩舎跡から出てきた。
毎日少しずつ歩く範囲が広がっている。今日は庭を一周した。石畳を越え、芝生を踏み、洗濯物の竿の下をくぐり、門の前まで行って、戻ってきた。一周するのに十分以上かかったが、途中で座り込まなかった。
ギンが隣を歩いていた。ヒノのペースで。一歩に三秒。銀狼のフェンリルが、炎狼の歩幅に合わせて、ゆっくりと。
「ヒノ、一周できた! すごいよ!」
ヒノの尾が揺れた。弱いが、確かに。
ツルが縁側から見ていた。採寸を終えて、リノの制服の生地を裁ちながら。左の背中が平らなまま、右翼の膨らみだけが服の下に見える。
「ヒノさん、お疲れさまです。お水をどうぞ」
小さな器を庭に置いた。ヒノが水を飲む。ぴちゃぴちゃという音が、午後の庭に響いた。
*
夕食。
椅子が八脚になっていた。
ギン、クロ、ツル、アカ、キサ、俺、リノ。七人分の椅子と、ヒノ用の低い台。それに加えて、八脚目。キサの姉の分だ。
姉はまだ冒険者ギルドの保護室で暮らしている。平日はギルドの職員が世話をし、ツルが毎日風の浄化に通っている。だが週末になると拠点に来るようになった。俺とキサが迎えに行き、夕食を一緒に食べて、夜は書庫の横の仮部屋で眠る。
今日は平日だったが、ギルド設立の日だからと、キサが昼過ぎに迎えに行っていた。
白い髪の女が、八脚目の椅子に座っている。金色の瞳はまだ時折焦点が揺れるが、以前よりずっと安定していた。テイム紋が消えた瞳。自分自身の目。
「姉さま、今日はツルさんの煮込みですわ。お口に合うといいのですが」
「……おいしい」
短い言葉だったが、声ははっきりしていた。
「名前、まだ決めていないの?」
ギンが聞いた。直球だ。ギンは遠回しができない。
キサが答えた。
「いずれ姉さま自身が決めますわ。三十年間番号で呼ばれていた方に、他人が名前を押しつけるものではありません」
「そうだね。ギンもぬしさまに名前もらった時、すっごく嬉しかったから。自分で決めたらもっと嬉しいかも」
白い髪の女が、ギンを見て、微かに笑った。口元が動いただけかもしれない。だがキサはそれを笑顔として受け取っていた。
食卓は騒がしかった。八人と一頭。追放された夜に一人で歩いた森のことを、もう遠い記憶のように思い出す。
*
夜。
全員が寝静まった後、書庫に灯りが漏れていた。
ゼノだった。
設立初日から書庫に泊まり込んでいる。学術顧問の初仕事は研究室の確保だと言って、棚の一角に自分の定位置を作った。椅子と机と、茶碗を置くスペース。それだけで満足している。
だが今夜のゼノは、茶碗に手をつけていなかった。
机の上に地図が広げられていた。エルデを中心に、東西南北の街と村が描かれた広域図。その上に赤い印が点々と打たれている。
「ハル君。見てもらいたいものがある」
「何だ」
「各地のギルドから届いた瘴獣の発生報告だ。先月分をまとめた」
赤い印はそれぞれの発生地点を示していた。数が多い。先月だけで三十件以上。
「数が多いのは季節的なものか」
「違う。数だけなら例年並みだ。問題は分布だ」
ゼノの指が地図をなぞった。赤い印を線で繋いでいく。
「北東に偏っている。エルデから北東に五日の距離を中心に、放射状に広がっている。自然発生なら均等に散らばるはずだ。これは——」
ゼノの眼鏡が光った。
「偏りがある。まるで何かに引き寄せられるように」
赤い印の集中する場所。地図上では、山脈の麓の深い森。人が住んでいない未開の地域だ。
「ゼノ。それは——」
「まだ分からない。データが足りない。だが来月も同じ傾向が続けば、偶然では説明できなくなる」
ゼノが地図を畳んだ。
「今日は寝ろ、ハル君。ギルド長の初日だ。疲れただろう」
「疲れてない」
「嘘だ。顔に出ている。段取りの鬼は自分の体調管理が一番下手だな」
否定できなかった。前世からずっとそうだ。
書庫を出た。廊下を歩いて居間を通り過ぎる。ギンが俺の部屋の前で丸くなって寝ていた。部屋の中ではなく前だ。扉に背中をもたれかけて、銀の尾が廊下にはみ出している。
俺が帰ってくるのを待っていたのだ。待ちきれずに寝てしまったが、扉の前で寝ることで「帰ってきた気配」を逃さないようにしている。
毛布をかけた。ギンの耳がぴくりと動いた。
「……ぬしさま、おかえり」
「ああ。寝てろ」
「うん」
銀の尾が一度だけ揺れて、また静かになった。
恩義契約ギルド、運営初日。看板は曲がり、制服はまだなく、副ギルド長は存在せず、初の契約は猟師と鷹だった。
上出来だ。
明日も段取りを組む。木板を更新し、書類を整え、茶を飲んで、飯を食う。
ゼノが見せた地図の赤い印のことは、頭の隅に置いておく。今すぐ動く段階ではない。だが忘れない。段取りの鬼は、先のことを忘れない。
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