伯爵令嬢の前夜
「……そういえば、他の令嬢とお茶会する機会、一度しかなかったわね」
出立の前夜、最後に道中の暇を潰すために本でも持っていこうと図書室に向かう最中、ある部屋の前を通りかかり、一言零したアマーリア。
「アマーリア様がご多忙であったのも確かですが、どうやらここ最近、お二方が近々ご実家の方に一度お帰りになられるのでは、という話も出ているそうなので、それどころではないのかと」
しれっと、密やかな声でクラウスが補足した。
結局、アマーリアが危惧していた事態は一度しか起こらず、それ以降部屋に籠りがちであったアマーリアは屋敷の噂話など知らない。屋敷の人間と話すこともなく、対面することもないのだから当然と言えば当然であるが。
しかし、噂話などさして興味もないアマーリアはそう、と気のない返事をするだけに終わった。
「道中は特殊な馬車を使い、通常二月掛かる道程を二週間程にまで縮められるそうです。風の妖精の気分次第らしいと公爵夫人から伺いました」
どれ程の本が必要かと冊数を見繕っていたアマーリアは、後ろから掛けられたその言葉に振り向いた。
「成る程。ここからケープトンに辿り着くまでの距離を考えていたら、どうにも準備が遅すぎないかと思っていたのだけれど……そう、最初から妖精馬車を使う予定だったのね」
通常の馬車が馬やロバに引いてもらうものなら、妖精馬車はその名の通り妖精に運んでもらう馬車である。
妖精の好む菓子や飾りを用意して、それらに沢山の魔力を含ませる。それを駄賃にお願いすれば、妖精に嫌われていない限りは望むところまで連れて行ってもらえるというもの。
しかしながら妖精というものは気まぐれで、何となくの理由でなくなってしまうことも多々ある。その時は諦め、当初の予定通り馬で進み、妖精が戻ってくることを祈るのみ。
「公爵夫人曰く、公爵邸でずっと使ってきたもので、今回はアマーリア様がいるから大丈夫であろう、とのことです」
「私は彼らが見えないけれど、本当に大丈夫かしら」
「アマーリア様なら問題ありません」
アマーリアが抱える本を受け取り、後にハイディに持ち出して良い本かを確認するために箱に詰めるクラウス。自分の主が妖精に嫌われているなど何一つ思っていないクラウスは彼女の方を見つめて、微笑んだ。
「アマーリア」
同日の午後。ハイディに本の持ち出しの許可を取ろうと手紙を書いていたところに、本人がやって来た。
「ハイディ様。ご相談が」
「本なら好きに持って行っていい。楽器も、持ち出せるものなら好きに持っていけ。ああ、刺繍もやるなら生地を用意しているから持っていくといい」
アマーリアの自室に置かれた、これでもかと本が詰められたそれらを見て、ハイディは言った。そして更に、後ろで控えていた人間にこれまた綺麗に丸められた生地と糸をふんだんに持ち込み、中から好きなものを持って行くように告げた。
「妖精は綺麗なものを好むという。綺麗な空気、綺麗な魔力、綺麗な心根。そういったものだけでなく、美しい音色や刺繍などを見せたり聞かせたりするのも良いというからな」
そこから、続くようにして複数の楽器も並べられた。
「琴、笛辺りが手頃だろう。宮廷楽師より劣るとはいえ、充分聴けるものだったしな」
「恐れ入ります……が、ハイディ様?」
幼い頃から美しいもの、洗練されたものを多く見聞きしてきた現公爵夫人からのその賛辞は、とても嬉しいものではある。宮廷楽士などという生まれ付きのエリート達とは比べるものではないし、聴けると判断されただけでも素晴らしいことだろう。
しかし、アマーリアが気にしたのはそんなハイディの言い回しではない。
「この楽器は、私のような者が持ち出して良いものではないと思うのですが」
並べられた楽器の一つを指差し、アマーリアは言った。
琴でも笛でもない、それを見て。
公爵邸、本邸ではなく別邸とはいえ、敷かれているカーペットは当然財政難の伯爵家などとは比較出来ない程に高価なものである。しかし更にその上に新しく重ねられたより重厚な敷物。その上に鎮座する、楽器。
一目見て、普段自分が使用するような貴族にしては手頃な楽器のようなものではないと理解する。
「ああ、大丈夫だ。これは私の所有物だからな。少し古い精霊が棲んでいて、少し古くから城にあったものを持ってきただけだ」
貴族の嗜みとして習うそれは、曲線を描く箱体から成る。音を響かせるための仕組みと、それに振動を伝える糸を這わせた楽器。
物によって値段の差が激しく、種類によっては持っているだけでステータスと言われるようなそれらを遥かに凌駕する目の前のそれ。
「妖精の棲む、バイオリンですか?」
擦弦楽器。一般的な教養の範囲として教わる楽器の中でもポピュラーのものではある。
しかし、教養の範囲で使用するような楽器に、妖精が棲むような古くからある名の知れた楽器など使わない。
「私は弾き手としてこの妖精に好かれているらしくてな。幼い頃から世話になっている」
困惑するアマーリアの気など全く意に介さない様子で、何の気もない仕草でそれに触れたハイディ。
右手の中指に嵌められた翡翠の指輪が光って、試し弾きと称した公爵夫人の優雅な演奏が始まった。
一音を奏でるごとに、深い余韻が残る。
通常の楽器では鳴らせない音。独特の響きと音色に重なるようにして飛ぶ、キラキラした何か。
「まあ、これに関してはお前が弾けるかどうか不明だったから、試しで持ってきただけだが」
練習曲として習う曲のワンコーラスを弾いたハイディがバイオリンを肩から下げ、アマーリアの前に突き出す。
「…………はい?」
何故、このような物が自分に差し出されているのか全く理解出来ないアマーリアは、ただ固まった。
巷で厳格とされるバーゼルト公爵夫人が実は破天荒でお転婆で天然の側面を持つことは、これまでの付き合いでわかってきたつもりだ。
しかし、国唯一の、自分が所有しているとはいえ国宝ともされる楽器をそんな簡単に渡していいのか。名手ともされるような才を持っているならばまだしも、自分はそれなりに弾ける程度に過ぎないのに。
「問題ない。気に入られなければ、音が鳴らないだけだ」
じっとハイディを見つめている間に、メルシスがアマーリアの腕にバイオリンを着々とセットさせる。
逃れることは不可能だと判断したアマーリアは、諦めて弦を握り直す。
メルシスが軽くポジションを整えてくれたとはいえ、いつもの慣れた場所とは言いにくい。
「…………では、少しだけ」
いつものように構え、ばくばくと跳ねる心臓を落ち着かせる為に息を吐く。なんだか期待するようにこちらを見る三人を視界からシャットアウトさせるために目を閉じて、弦を引いた。
流石にハイディと同じ曲を倣うつもりにはなれなかった。だから、昔よく聴いていた音色をなぞった。
出だしは順調。ちゃんと音が出ていて、狂いもない。けれど、何故か音色を響かせれば響かせる程、遠い昔を思い出して、手がぎこちない。
「…………申し訳ありません」
そして完全に止まってしまった手と共に目を開ければ、何故か神妙な顔をした三人がいる。
そんなに酷い演奏だったのかと自嘲して嗤えば、ハイディがふるりと首を横に振った。
「いや、素晴らしい演奏だった」
「…………では何故、そんなお顔をなされているのですか」
するりとバイオリンが手から抜け、メルシスが楽器を仕舞う。
言いにくそうに眉間に皺を寄せたハイディが、珍しくアマーリアに根負けして口を開いた。
「…………妖精が棲む楽器は、より弾き手の感情を増幅させて音色に乗せる。お前が悲しみながら弾く曲は、聴き手にも感じるんだよ」
ことん、とケースの閉まる音。
ふいっと向けられたその背中を眺めながら、アマーリアは自分がどんなことを考えて弾いただろう、と考える。
最初は楽しかったかもしれない。音が出ることに安堵して、美しい音色をどう弾こうかと考えた。
けれど、お母様はどんな風に奏でていたっけ、と考えた瞬間に、思考がそちらに引っ張られた。
楽しいはずのその記憶は、もっと厚く重ねられた負の記憶に潰されそうになっていて。
お母様と同じ音色を奏でようとすればする程に増していく、決して褪せなどしないあの暮らしが過るから。
「次は楽しい曲を弾かせてやってくれ。妖精は、悲しいことを好かない」
「…………はい」
背を向け部屋から出ていったハイディ。その背に頭を下げながら、アマーリアは静かに目を閉じた。
隣国編を書き始めようと思ったらなんか前夜の話を書きたくなって書きました。
次から出発します。




