第八話『虎之助』
『虎之介』
加藤清正は秀吉直参の家臣であり、また秀吉の近縁者でもある。秀吉の生母と清正の母が従姉妹同士なのだ。清正は幼いころに、秀吉とねねに引き取られて養育され、二人を本当の両親のように慕っていた。
そして三成と清正もまた子供の頃からのくされ縁である。両者ともに、秀吉の小姓をしており、秀吉の台頭に従って出世を果たした武将だ。
清正は生まれついての武闘派であり、賤ヶ岳七本槍などで名を知られる武将だ。
対して三成は根っからの文官であり、兵站の輸送や検地などの政策で秀吉を支える事務方だった。
二人の仲はすこぶる悪い。
今日もいまだに上洛しない北条への政策のことで対立している。
始まりは北条への和睦の手紙を書いている三成のところへ来た清正が、「そんなものは無駄だ。」といったことだった。三成と同じく書を書いていた大谷吉継と、清正についてきた福嶋正則は早くもはらはらした。この二人も秀吉の小姓あがりで、四人はみな子供のころから知った仲だった。
「北条と戦をするべきではない。だから和睦の手紙を書いている。邪魔をするな。」
「邪魔なんかしてない。ただお前がやってることは時間の無駄だと言っているだけだ。」
「なぜだ。」
「戦を仕掛けて武力で制圧すれば一発だろ。」
「呆れたことを言うな。戦をせずに天下を統一すること方がずっと得策だ。人死になんて一人も出ない方がいいに決まっている。」
「戦で死ぬのは名誉なことだ。お前はそうやって戦場に出ないからそんなこともわからない。」
「お前は馬鹿か。殿下のご命令は惣無事である。戦をせずに天下を統一せよと言われている。」
三成がため息をついて、馬鹿にしたような言い方をした。
「そんなのはどうせお前が殿下に吹き込んだんだろ!お前みたいな頭でっかちが考えそうなことだ。」
三成の態度に清正が語気を強めて、彼を詰った。清正は決して能力の低い武将ではないが、やや激情家なところがあった。
「いかにも。俺と殿下で相談して決めた。貴様のような薄らトンカチの出る幕ではない。」
三成も負けじと言い返した。
「なにを?!このウラナリびょうたんめ!お前のそういうところが駄目なんだ!豊臣の武力を日の本に示すことが、殿下の名声を高めるんだ!ひいては早期の天下統一にも繋がる!」
清正が壁を拳で叩いた。
「うるさい。」
三成もそれに応えるように立ちあがっていった。
「うるさいとはなんだ!この陰険治部!」
「うるさいからうるさいと言っただけだ。」
ついに議論は醜い言い争いに発展した。
三成が清正を無視してそっぽを向き始めたところで吉継が間に入った。清正が今にも三成に飛びかかりそうだったからだ。吉継が三成の肩を抱いて諫め、清正を正則を羽交い絞めにして三成から引き離した。
「くだらない。これこそ時間の無駄だ。」
三成が吐き捨てて、背中を向けた途端。清正が三成の背中をドスンと蹴って、三成は床に派手に転んだ。
なおも三成を罵る清正は正則に廊下へと引きずられていった。
書きかけの和睦書は、墨が零れて台無しになってしまった。ついでに三成の小袖も墨が零れて汚れた。
その日の夕、三成が屋敷に帰ると、直臣の左近が声をかけてきた。
「今日、城で加藤殿と喧嘩をされたとか。飛び蹴りをかまされて文机に突っ込んだと聞きましたが、大丈夫でしたか?」
だいぶん、話が大きくなっているようだ。
「なんともない。別に蹴られてなんかいない。・・・そんなには。」
三成は冷静を保って応えた。そして最後に小さく付け加えた。
「それならいいんですがね。加藤殿は気が短いところがあるから気をつけてくださいよ。で、やり返したんですか?」
左近がにやりとして聞いた。答えはわかりきっていたが、左近はたまに三成に向かって兄が年の離れた弟にするような意地悪な質問をするのだ。
「俺はそんな愚かなことはしない。争いは無益だ。では、俺は加藤のせいで遅れた仕事をしなければならないから部屋に籠る。」
三成は左近の手前、薄い胸を張ってハキハキと述べると、歩き去った。途中、廊下にいた源吾を抱きかかえると、自室に入っていった。
そして大いに吠えた。
「死ね!虎之介!あの大馬鹿者が!あいつの頭には筋肉が詰まっているに違いない!そうだろう、え!源吾よ!」
「ニャア」吠える三成に問いかけれて、身体を舐めていた源吾が応えた。
「そう、その通りだ!あいつのような奴がいるからいつまで経っても日の本に平和が訪れないのだ!このわからずやめ!この、この!」
三成はそう怒鳴りながら、巻紙をびりびりに破いて宙に散らした。雪のように散る紙に、源吾が後ろ足で立ち上がって手を伸ばした。踊っているように見える源吾を見ているうちに三成は気分が落ち込んできた。そして源吾を膝に抱き寄せると、源吾に向かって語り始めた。
「だいたい俺と虎之介の仲はあの一件以来ずっと悪いのだ・・・・。」
三成は遠い昔の、長浜時代を回想した。
それはまだ秀吉が、羽柴秀吉と名乗っていて、長浜城に暮らしていた頃のことだった。
三成が佐吉と呼ばれ、寺小姓をしていた観音寺に、秀吉が鷹狩の際に訪れた。気が利く三成を一目で気に入った秀吉は三成を小姓として雇い入れた。
長浜城には他にもたくさんの小姓がおり、三成は新参者だった。その中には虎之介こと加藤清正や市松こと福島正則もいた。
その事件はあるうららかな昼時に起こった。
三成は昼食の配膳を任された。
三成は台所番から受け取った握り飯と沢庵の包みが、昼飯をとる小姓の数とぴったり一致していることを二度確認した。
それらを抱えて、小姓たちが昼食を取る部屋にもっていくために、廊下を歩いていると不愉快な悲鳴が聞こえてきた。それは動物の悲鳴だった。
そちらを見やると、中庭で虎之助と市松が猫をいじめていた。笑いながら、踏みつけた猫に木の枝をふるったり、蹴とばしたりしていた。
この時代、猫はいくら重宝されたといっても、今とは違い、畜生扱いである。このような残酷な仕打ちをする者も今より多かった。特に虎之助はガキ大将と呼ぶに相応しい少年であり、市松といる時はことさら調子に乗った。三成は二人が鳥や野犬に石を投げたりしているのを度々見かけた。
「汚い猫だな!・・・でもこんなことして猫好きの殿に知られたら、怒られないかな?」
「こんな畜生いてもいなくても誰も困らないさ!」
二人の声が聞こえてきた。
(不愉快だ。)
三成は目を背けて、足を早めた。
そして包みを小姓たちへ配っていった。虎之助と市松の分は、周りにそう告げて置いておいた。
「これは虎之介と市松の分だ。二人が来たら渡してくれ。」
しかしそう言われた小姓は隣に座っていた別の友人との話に夢中で三成の話を聞いていなかった。そしてふと目の前をみると包みが二つ置いてあったが、今日一番の働きをした自分への褒美だと思って食べてしまった。
そこに虎之介がやって来た。しかしどこを探しても自分の分の飯はなく、余っている分もないという。
「佐吉、俺の飯がないんだが。」
虎之介は三成に尋ねた。
「そんなはずはない。確かに置いた。」
「どこを見てもなかったぞ。本当に置いたのか。まさかお前がねこばばしたんじゃないよな?」
「そんなことするわけがない。俺はちゃんと置いた。猫なんかいじめてるから、飯がなくなるんだよ。」
三成の言い方に空腹だった虎之助はムッとした。
「なんだと!」
虎之助が顔をカーッと赤くして、言い返した。
「お前みたいな弱いものいじめをする奴を心底軽蔑するね。」
「俺がいつ弱いものいじめをしたってんだ!」
虎之助は三成の胸倉をつかんだ。体格のいい虎之助につかみあげられて、三成はかかとが宙に浮いた。
「してるよ。お前、猫が相手だからいじめたんだろう。もしあれが虎だったら、尻込みして石なんか投げられないはずだ。」
三成は下から虎之助をにらみつけた。
「うるさい!そんなことはない!俺は虎が相手だって尻込みなんかしない!」
「いいや、するね。」
「しない!見てろ!いつか虎を退治してやるからな!」
そして「する」「しない」「する」「しない」という不毛な議論が続いた。
見かねた、まだ紀ノ介と呼ばれていた頃の大谷吉継が虎之介の前に自分の包みを置いた。
「俺の握り飯を一つ食べていいよ。だから、喧嘩はおやめよ。」
せっかく紀ノ介がそう言ってくれたのに、虎之介はすっかり意固地になっていた。
「いるか!お前は佐吉と仲がいいからそうやって味方するんだ。だいたいお前の触った食い物なんて食えるか。」
本気ではなかったにしろ虎之介のこの言葉は三成を激怒させるには、十分に残酷だった。紀ノ介は病のせいで皮膚が爛れていて、ほとんど城中の子供たちから避けれていたのだ。紀ノ介が触ったものを食べると、紀ノ介のようになるといういわれのない中傷の噂すらあった。
「そんなことを言うなら食うな!昼飯を一食抜いたくらいで死んだりはしない!俺は確かに置いたからな。遅れるお前が悪いんだ。」
紀ノ介と親しくしている三成は憤って、虎之介の前から笹をひったくった。
そうして虎之介は昼飯抜きになってしまった。虎之介は一日中腹ぺこで働く羽目になったのだった。
食い物の恨みは怖い。
その翌日、三成が読書をしようと寺から持ってきたお気に入りの本を小脇に廊下を歩いていると、空から大量の水が降ってきた。驚いて上を見ると、城の二階で虎之助と市松が盥をひっくり返して笑っていた。
しかし三成が次に取った行動は二人の予想外だった。
三成はねねに密告した。
二人は母とも慕っているねねにそれは叱られてしまった。秀吉がいつも「ねねが怒るとちびるほど怖い」といってはばからなったくらいである。それで二人は三成を大層恨んだ。
そしてそれから数日後、三成があぜ道を歩いてると、虎之介に牛糞の中に突き落とされた。綺麗好きの三成は発狂した。
それからだ。三成が清正を大嫌いになったのは。そして同時に清正も三成が大嫌いになったのだった。
三成が、異様に綺麗好きになってしまったのもそれからである。
「ナーオ」
源吾が、床に落ちた紙を、ピンク色の肉球のついた手でいじっていた。さも「さっきまで宙を舞っていたように動いてみせよという風に」。
「なぜ虎之助には、戦をせずに天下を統一することこそが真に殿下の名声を高め、ひいては日の本の繁栄をもたらすのだということがわからないのだろう…。」
「ニャニャッ。」
三成がたわむれに紙を拾って宙に散らしてやると、源吾がまた興奮して後ろ足で立った。
「…俺だって本当はわかっているのさ。俺は戦に出たことのない現場を知らない指揮官だってことは…。」
三成は源吾を自分の顔の高さに抱きかかえると、いい聞かせた。
「俺には俺の、虎之助には虎之助の得意分野で力を出せるといいのだがなあ。殿下に相談してみようかなあ…。」
それから数日後。
三成は秀吉に呼び出された。
「なんの御用ですか。」
かしこまって尋ねる三成に、秀吉は「まあまあ」という風に右手を振った。
「三成。お前、清正とまーた喧嘩したんだってなあ。」
「は?え、ご存じだったのですか。聞き苦しいことをお耳に入れて申し訳ありません。」
「そういうのは、いい、いい。それでまた負けたのか?いや、お前のことだから言い負かしたんだろう?」
秀吉は笑いをかみ殺しながら、言った。
「まあ、それはさておいて、だ。清正の奴も大分、体力が有り余っているんだろうな。」
「はい。俺もそう感じていました。…それで、清正を戦のある国へ転封させてはいかがでしょう。」
「おお、俺も同じことを考えていたんだ。流石だな、三成。よく見ている。」
秀吉が、部下に気分よく仕事をさせるために、いつものように褒めているだけどわかってはいたが、褒められるとうれしかった。
「転封先は、九州で決定だな。」
「はい。」
「俺から言っておこう。」
三成は気分がよかった。秀吉に褒められたこともそうだが、
(いいことをした。これで清正も思う存分、力を出せるだろう。)
と思った。
しかし、数日後。
三成が書類を腕に抱えて歩いていると、目の前から顔を真っ赤にした清正がやってきて、三成の手から書類を叩き落とした。
「三成、お前!なんて汚い奴なんだ!」
「な、なんの話をしている?」
驚いた三成は目をぱちくりさせた。
「九州に転封なんて考えたのは、どうせお前だろう!腕っぷしじゃ俺にかなわないからって、殿下かから俺を遠ざけようとするなんて!」
「ええ?そんなつもりは…」
咄嗟のことで言葉がうまく出てこなかった。
「このこと、覚えておくからな!」
清正は三成の肩を突き飛ばすと、落ちた書類を踏みつけながら、歩き去った。
三成は呆然とした。
(なぜ、俺の親切がわからないんだ…。)