3.少女と、その場所
世の中には、必然と偶然が存在する。
必ず起こる事柄を必然、偶発的に起こる事柄を偶然と言う。
そしてその二つの可能性の中で生きている、我々人間は、それを見極める必要がある。
これは偶然なのか、それとも必然なのか。なにに対しても疑い、そして証明する。それが大事である。
とすれば。
——これは、どちらなのだろうか。
「きゃああああああああああああああああああああ!」
「ゔわああああああああああああああああああああ!」
そのバカ高い声にびびった翔奏は、大声を上げて床に尻もちをつく。
目の前にいる少女は格闘技の態勢を取りながら、翔奏を睨む。
「だ、誰ッ!!!」
「いやこっちのセリフなんだけど!?」
翔奏は即座にツッコミを入れる。
だが、翔奏からしてみれば本当にその通りだった。ここは翔奏の家で、翔奏の部屋の翔奏のベッドのはず。
なのに、そこに知らない誰かがいる。翔奏の知らない人がいる。その状況に頭の理解が追いつかなく、翔奏は頭を押さえる。
いったい、どういう——
ドゴッ
「いったあああああ!!!」
その瞬間、急すぎる強烈なパンチが鎖骨右に飛んできた。俺は痛さのあまり後ろに吹き飛び、そこを抑える。
(なんなんだ、急に!?)
だがそれだけでは終わらず、そのまま背後に回られて首を絞め上げられる。
「グッ痛い痛い痛い、息できないっ、死ぬって!」
「観念しなさい、この変態覗き魔め!」
そういうと、背後の人物――俺のベッドにいた少女はより一層力を強める。
なにがなんだか分からず、だがなぜか抵抗する気もなく酸欠で死にかけながら言葉を発する。
「やめ、ゔっ、げほっ」
「あっ、すみません」
するとどういうわけか、翔奏が咳をすると少女は手を首から外して翔奏を倒れ込ませる。
酸素を吸い込もうと咳をしながら、床に這いつくばってその少女の方向を見る。
「げほっ、いったい、ゔっ、なに……?」
少女はパジャマ姿で仁王立ちをして、翔奏の目の前に立っていた。
「知らない男の人が急に裸で部屋に入ってきたから、首を絞めあげたまでです。正当防衛です」
「いや、だからって……ん、待て、裸?」
「まずは自分の姿をよくお見になってから話しかけてください」
瞬時に嫌な予感が脳をよぎり、そっぽを向く少女を目の端にとらえながら目線を下に移動する。
そこには、下着一枚の男の人体があった。
(……やっちまった)
そういえば、風呂に入ろうとして着替えを忘れたからここに来たんだっけ。この短時間での情報量が多すぎてクラッシュしそうだ。
だがこんな姿をいつまでも人に晒すわけにはいかないので、落としていた着替えをすぐに取って着る。
……とりあえず、この意味がわからない状況を打破しなければ。やるべきことを考えて、翔奏はまだそっぽを向いている少女に向く。
「…………」
「…………」
とは言ったものの、なにを話せばいいかわからず言葉を詰まらせる。
少しの沈黙のあと、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「……あなた、どうしてここにいるんですか?」
「へ?」
突然訊かれ、翔奏は変な返事を返す。
「どうしてもなにも、だってここ、俺の部屋だし」
「はあ?」
今度は少女が口を悪くして翔奏に訊き返してくる。「はあ?」はないだろ、「はあ?」は。
だが翔奏はその反応を限りなく怪しく思い、口を開く。
「どこをどう見たら男の部屋じゃないっていうんだよ。完全にそうだろ、これ」
「いや私こそ、どこをどう見たら男の部屋だと思われるんですか? 不躾にもほどがあると思います。それに、完全に女の子の部屋ですよね、ここ」
……待って、言っていることの意味が本当に理解できない。この殺風景な部屋のどこをどういうように見たら年頃の女の子の部屋になるのだろうか。
なんて言えばいいかわからず、翔奏は頭を掻く。
「だって、青いシーツのベッドに簡素な勉強机と家具たちだぞ? どこをどう見ても男の部屋だろ」
「なにを言ってるんですか……? 白いシーツじゃないですか、ベッド」
「え?」
「え?」
いよいよ翔奏たちは別の次元にいるんじゃないかと思い始めてきた、そのとき。
「……?」
外が少し赤く光り、爆音のサイレンを流した車がマンションに近づいてきていた。
つまり、消防車がマンションに近づいてきていた。
「……うるさいな」
そう呟き、翔奏は軽く耳を塞ぐ。
あまり、そういうサイレンの音は好きではない。好きな人を貶しているわけではなく、昼夜問わず鳴るあの警報音と、耳に残る感触が単純に嫌なだけだ。
当然サイレンを鳴らす意味も分かっているし、それを必要としている人がたくさんいることは潰されるほどよく分かっている。
ただ少し、あのときを思い出すからで。
はぁ、と小さくため息をつき、ふと、少女の方を見てみる。
すると。
「…………っ、!」
「っおい、大丈夫か!?」
さっきまであんなに元気に人の首を絞めていた少女が、小さくその場にうずくまってしまっていた。
翔奏は手を耳から外して急いで駆け寄り、その横顔を覗く。
——とても、怖がっていた。
周りから見ても分かるほど、怯えて、恐れて、怖がっていた。それも紅い瞳を揺らして、体を震わせながら。呼吸のリズムも乱れていた。
どうすれば——。
そう思ったとき、一つの言葉が脳裏をよぎった。
『私がもしなにかに怖がっていたら、ゆっくりと背中をさすって、「大丈夫だよ」って言って。それだけで、本当に十分だから』
どこからか掘り出されたその声は、懐かしく耳の中に響く。
なぜ今のタイミングなのかは分からない。だが気づいたときには、翔奏は自分の手をその小さな背中へと持っていっていた。
着いた手で、優しく、背中をなでる。
「……大丈夫だよ」
大丈夫。大丈夫だから。今は怖くても、いつか乗り越えられる日がきっと来る。乗り越えられなくても、それは悪いことじゃない。別の道を探すために、すこし時間を食らうだけだ。
そんな意味まで届いているかは分からないが、翔奏はただ目の前の人に言い聴かせながら背中をさする。
少しの間そうしていると消防車はあっという間に通り過ぎ、それに合わさるように少女の体の震えも収まっていった。
「……ありがとう、ございます」
落ち着いた声で、少女はそう言う。多分俺に言っているのだろうと思い、翔奏は首を軽く横に振る。
「昔から、あの音が苦手で。消防車とか、救急車とか、あの類の音が」
「……なんとなく分かる」
あまり深入りするのもよくないだろう。そう思って翔奏は素っ気なく返事をしてそこに座る。もはやこうなったからには、風呂に入る気はなくなっていた。気持ち悪いが、少し我慢しよう。
「……話の続きだけど」
沈黙に耐えられなく、今度は翔奏が先陣を切ってしゃべりだす。
「どういうこと? シーツが白いって」
さっきの話では、少女は俺の青いシーツの色を白だと言っていた。色盲の可能性もあるが、そしたら黒めに見えるはずだ。いったいどういうことなのか、翔奏は知りたかった。
だがその話をすると、少女は翔奏を向いて目を見開く。
「本当に、見えてないの……?」
「? なにが?」
あたりを見渡してみるが、特に代わり映えのしない風景が目の前には広がっている。なにもおかしいところなんてない。
「なにも、ないけど……」
そう言うと、少女は意味が分からないというように辺りを見渡す。
「ここ、」
病院ですよ。
「…………は?」
Ep.3 少女と、その場所




