9.少女の消失
「……買ったなあ」
抱えている紙袋の厚さを見て、翔奏はそう思う。
場所は夜道。書店での買い物を終えて、翔奏は雀と最寄りの駅で別れ帰路についていた。
ちなみに書店で買ったものは、小説三冊だ。最近立ち読みばかりして買わないと申し訳なくなったので、ちょうど読みたかった小説を買った、という感じだ。
雀はというと、小説は買わなかった。なんでも件の書籍が発売当日に売り切れてしまっていたとかで、自信を持って書店に行った分相当落ち込んでいた。まあ予約はしたし、数日あれば手に入れられるはずだが。だがあの落ち込み具合を見ると、改めて雀は本が大好きなんだと分かる気がする。
そんなことを考えていると、マンションの前にあるドラッグストアを通り過ぎる。夜道の一部だけを照らすその光に吸い込まれそうになるが、用はないのでそのまま歩く。
「…………」
店明かりを通り過ぎると、前の方にマンションが見えてきた。
それを無言で見つめながら、翔奏はさっきの学校でのことを思い出す。
――学校を出た時に漂っていたあの雰囲気は、書店に着く頃にはなくなっていた。忘れた、ということではないのだろうが、いつまでも引きずっているというのも雀の性に合わないのだろう。
だからって、後悔していないわけではないと思う。位上位の人間だからという表面的な性に合わないだけで、雀はそういうことを引きずってしまう方の人だ。翔奏と同じ……というのは些かおこがましいかもしれないが、決して過去のことを忘れられる、よく言えばポジティブで、悪く言えば軽薄な人間ではない。
つまりは、過去に囚われてしまう人間。翔奏も、雀も。
靴が地面を鳴らす音だけが、誰もいない夜道に響く。
そのときに思わず吐いたため息には、一体なんの意味があったのか。それは自分でも、分からなかった。
*** ***
マンションに入ってエレベーターから降りると、すぐに自分の部屋までたどり着いた。そこまでの道のりは昨日とはだいぶ違って見え、気持ちはこんなにも視覚に作用するのだろうか、と少し驚いた。
しかしそうは言っても、昨日ほどではないがやっぱり遅くまで起きていたというデバフもあって、疲労は感じている。ため息を吐きつつ、早くシャワーに入って飯を食って寝ようと決めながらブレザーのポケットから出した鍵で錠を外し、ドアを開ける。
するとその瞬間、眩しい光が翔奏の目に飛び込んできた。
「ッ――!」
なにかと思ってまだ回復していない視界で天井を見上げると、玄関の明かりが点いていた。どうやら朝から点けっぱなしだったようだ。
行く前はドタバタしていたから仕方がない、とそんな言い訳をしつつ、明かりの残像が網膜から離れるのを待って、玄関のドアを閉めてから靴を脱ぐ。
そして昨日のように大きなため息を吐くこともなく、紙袋を取り落とさないようにしながら玄関を上がって(しっかりと玄関の明かりは消して)、進行方向右手の自室へと進む。
扉を開ける。
「…………」
――そこには、いつものように暗闇のなかに殺風景な部屋があった。
なんの飾り気もない机と椅子に、床には無地のカーペット。奥には本棚。
それに加え、青いシーツのベッドがただ置いてある、普通の空間がそこには広がっている、
はずだった。
「……え?」
段々と暗闇に慣れてきた翔奏の視線は、ベッドで止まっていた。
「なんで、毛布が……、」
そう、なぜなら、いつもベッドの上に敷いてあるはずの毛布が、なかったからだ。
ベッドに掛けられた青いシーツだけが、そこには無情にあった。
翔奏は辺りを見回す。
あの毛布は、翔奏にとって特別なものだ。限定品とかそういうのではないのだが、とにかく翔奏にとって、大切なものだ。
どこかにしまったのだろうか。いやだとしても、今日は洗濯の日でもなんでもないし、しまう理由が見当つかない。足が生えてどこかへ行ってしまったわけでもあるまいし。
目を擦っても眼前に広がる風景は変わらない。本当に、どこかに行ってしまったのだろうか。
一体どこだ。そう、探そうとしたときだった。
――後ろから、声が聴こえたのは。
「あ、 翔奏さんおかえりなさい」
『おかえりさない、翔奏くん』
「ッ――!?」
突然、もうこの部屋からは聴こえないはずの声がして、翔奏は鳥肌を立たせながら飛び跳ねた。
その声はまるで、聴いた人の心臓を――意識を貫くように脳に轟いて、しかし体幹すらも普通の翔奏はその拍子にバランスを崩して尻餅をつく。
「ったぁ……!」
「ちょ、ちょっと、翔奏さん!?」
遅れてやってきた痛みに顔をしかめながらも、その声につられて、見えていた足元から視線を上げると、
「すみません、驚かしちゃいましたか?」
そこには、出会って一日も経っていない、黒髪のストレートが特徴的な、暗くてもよく見える紅色の瞳をした少女がいた。
少女は膝を折り、心配の色を浮かべている。
「み、…………」
たった数時間前に会ったはずなのに、なぜかその美しい姿に魅入ってしまう。
少女の名前を、そっと口に出す。
「……みずは、さん」
「……瑞葉、ですけれど」
じっと翔奏が少女のことを見つめているものだから、少女は次第に表情を怪訝そうに変える。
が、翔奏の思考はそんなこと少しも気にしていなかった。
翔奏の思っていることは、一つだけ。
(――なんで俺、少女の名前、忘れてたんだ?)
そう――少女に声をかけられるまで、翔奏の頭の中からは、少女の存在が消えていた。
……消えていたのだ。
書店にいる時も、玄関にいる時も、ついさっきも。いつからかは分からないが、少女の存在が頭の中にはなかった。
――あれだけ、濃い時間だったというのに。
記憶力も普通である翔奏が、少女のことをいつもであれば忘れるなんてことはない。絶対と言っていいほどないのだ。
翔奏はなにかを失ってしまったような、いえば喪失感だろうか。そんな虚無に襲われる。
そしてこの感触は、なにも今だけのことではない気がして。
記憶が抜け落ちていく。思えば、思うほどに。黒い渦のなかに、飲み込まれ――
「――翔奏さん!」
「っ!」
――る寸前、その透き通った声が再び翔奏の意識を射た。
見れば、少女は膝立ちで翔奏の肩を揺らしていた。
「どうしたんですか? なんか、生気を失っているみたいでしたけど……」
「……ご、ごめん。大丈夫、ちょっと考えごとしてただけだから」
「考え事……。まあ、なんでもいいですけど……」
せめて返事はしてくださいと、そう言って少女は立ち上がり部屋の電気を点ける。
翔奏は、思わず右手で頭を押さえる。
……今さっきのあれは、なんだったのだろうか。底なし沼と言うか、それに嵌って沈んでいってしまうような、そんな感触だった。藻掻いても、藻掻いても、掴むものがないから沈んでいく。抵抗のできない、そんな状態だった。
それに、あれは前も感じたことがある。そう直感的に感じていた。
と、そんなことを考えていると、少女は中腰の姿勢になって翔奏に手を差し出していた。
「本当に痛い所ないですか? 大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫。少し驚いただけだから」
「それにしては盛大なバランスの崩し方でしたが……。まあ、翔奏さんが言うなら大丈夫ですか」
理解してくれたみたいでなによりだと思いながら、翔奏は申し訳程度に差し出されまでを握り、なるべく自力で立つ。そのついでに、床に転がっていたリュックも拾う。
「本当に、驚かしてすみません。そんなつもりはなかったんですけど……少し、病室外にいまして」
「病室……ああ、うん。大丈夫」
翔奏は、少女が病院にいるんだと今更ながら思い出す。これもまた記憶から抜けていたようだ。
無言でリュックを少し引いた椅子の上に乗せていると、少女は不思議そうな目で翔奏を見つめる。
「……なにをしていたのとか、訊かないんですね」
「え? そりゃ、当然」
ふと少女の口から漏れた疑問に、翔奏は頷く。
だって、なにをしていたのかなんて、訊かずとも大体は察せる。詮索しないほうがどちらとも嫌な気持ちにならないだろうし、それは言わずもがなだ。別に翔奏は少女に対して偏見などを持っているわけでもないので、訊かないというのがベストと判断したまでだ。
だが、どうしてかそれが不思議なようで、少女は難しい顔をする。
とすると、少女はもしかして――、
「……訊かれたかったのか?」
「い、いや、そういう訳じゃないですけど」
「そうなのか……。ごめん、てっきりそういう性癖なのかと」
「な、なな、なんでそうなるんですかっ!?」
数秒前とは一変、頬を赤く染めた少女は手をブンブンと振る。どうやら翔奏の推理は見当違いだったらしい。
落ち着いてから、少女は「おかしな人ですね……」と言ってため息を吐く。
「……ただ、今までは大体の人がそういうことを深くまで探ろうとしてきたので、あなたみたいなバウンダリーな人が珍しかっただけです」
「探ろうとしてきたって……」
「言葉の通りです。私の周りには、悪く言ってしまえば、人のことを考えていない人が多かったんです。友達もそうでしたし、医師……私の主治医も、医者として当然そういうことを訊かなければなりませんから、そうでしたし。少し辟易することはありましたが、ただ、そういう環境に慣れてしまっていたので」
あまりにもな話を聞いて、翔奏は一瞬言葉を失う。
そんなの、少女にとっては一番辛かったのではないのか。訊かれたくない事情を集団圧によって無理矢理引き出されて、相手の好奇心だけで自分を壊されかけて。そんなのは、聞かれたくない人になとってはあまりにも酷だ。
「……そんなことって、」
「あるんですよ。人って、自分の好奇心だけで人の突かれたくないところまでも突っ込んで行ってしまうような生き物なんです。なにせ、欲望の塊と表現されることもありますから」
「…………、そういう、ものなのか」
そうどこか諦めたような目で言う少女に翔奏が掛けられる言葉はなく、翔奏はただベッドに移動しようとする少女を見つめる。
きっと翔奏より年下のはずなのに、表情が曇っていて、人生を諦めているかのようなオーラが少女からは感じられる。瑞葉と同じはずのその紅い瞳は彼女のものとはだいぶ違うように見え、もう少し年相応の表情を見せてもいいはずなのにと、思わなくてもいいことをつい思ってしまうほどだ。
だが、やっぱり人の事情に安易に踏み込むことはできない。背伸びをするよりも、今の現状に身を委ねる方が得策だ。それは、今日学んだことでもあり。
「……まあ、たしかにね」
誰に言うでもなく、翔奏は小さく呟く。
今日だってそうだった。人の領域にぐいぐいと入り込んでこようとして、だがその人は入ってはいけない禁域に足を踏み入れてしまい、自ら地雷を踏みに行ってしまった。
別に、翔奏はあの人が悪いとは思っていない。人によって相手へのアプローチの仕方や告白の方法はそれぞれで、そういう世界では、ときに相手の絶対領域に足を入れることも必要なのかもしれない。
ただ、あの人が唯一怠っていたことは、自分を客観的に見るということだ。客観的に見れば、自分が今周りからどのように思われていて、どのような立ち振舞をしたらよいのかはおおよそ検討はつく。そして、そのときに即した行動ができるようになる。
だが主観的にしか物事を見ていなかったらどうなるだろうか。自分の想い、もといは欲望にしか従えなくなり、ただ相手の壁を壊しに行く猛獣になってしまう。周りには目もくれないで、自我を通さなければ気が済まないような人間になってしまう。それはきっと、人間関係で一番やってはいかないことだ。
そして、それが分かっているから、翔奏は足を進めない。そこで、止める。
『きみは、もう少し自分を見てあげてもいいと思うよ。きっとそのままだと、疲れちゃうから』
……いい。
……このままで、いいんだ。
瞬時に思い出てきた言葉に首を振って、翔奏はブレザーを脱ぐ。少女はと言うと、いつの間にかベッドに座っていた。
だがブレザーを脱いでもこの妙な胸騒ぎは押されられず、着替えて気分を変えようと思い、ベルトに手をかける。
……そうだ。少女には、断りを入れておかないと。そう思い、翔奏は少女に声を掛ける。
「……じゃあ、ごめん、ちょっと着替えるから」
「あ、はい。分かりまし……え? 待ってください、今なんて?」
突然聴こえてきたワードをそのまま鵜呑みにしそうになったのか、少女は一瞬了承しかけて、だがその後に今しがたの翔奏の言葉を訊き返す。当然だ、急に同室にいる男子高校生から「着替える」なんて言われて、動揺しないやつはいない。
しかし当の翔奏は、少女が訊き返してきた意図が分からなく、もう一度その言葉を繰り返す。
「……? だから、着替えるからごめん、って言っただけなんだけど」
「いやいやいやだけってなんですかだけって」
「だけ、でしょ」
「だけ、じゃないでしょう。……え、ちょ、翔奏さん、もしかして昨日の件で恥じらいっていうものを忘れてきちゃいましたか? なんで脱ぎ始めてるんですか!? 私まだ了承してませんよ!?」
あとから思い返してみれば、どう考えても少女の方が正論だった。だがきっと、このときの翔奏は脳が相当疲弊していたのだろう、女の子の目の前で着替えるという行為をまったくおかしいと思わず、なに食わぬ顔で着替えようとしてしまっていた。
少女がやばいと思って強制的に部屋から退出させられたのは、不幸中の幸いだったのだろうか。「ええ……」と怪訝そうに眉をひそめた翔奏だったが、偶然着替えは洗面所にあったので、そこで着替えることにした。
……そして翔奏が自分の大失態に気づいて年下の少女に正座をさせられるのは、また夕飯を食べたあとの話だった。
――気がついたら、毛布はベッドの上に戻っていた。
9.少女の話と、少しの気づき




