アルバートとルビーの夜
ワカサギ釣りの日から、数日が経過した。
事務所での仕事を終え、買い物を済ませると智子は家路に急いだ。
車が道道を外れ、山道を走っていく。
「……」
何か外の景色に違和感がある。
智子は自らの中にいる吸血鬼、ルビーに問いかけた。
「この違和感、何かわかる?」
ルビーは彼女の思考の中に浮かび上がってきて、直接脳内で対話する。
『獣のようなものが並走しているのね。おそらく吸血鬼、吸血鬼の手のものだわ』
「メルヴィンとその眷属?」
『遠くてはっきりしないけど、違うわね』
智子はスピードを落としたり、速めたりしながら、周囲で動くものの様子を感じた。
左手に三名、右手にはその倍はいる。
少なくとも九名でこの車を襲おうと考えているのだ。
「殺れる?」
『あなた、人の命と吸血鬼の命の扱いが極端に違うから、時々、強烈に不快を感じるわ。いい、私があなたを殺そうと思えばいつでもできるのよ』
「……」
智子自身、吸血鬼と人間のハイブリッドになっていて、どちらとも言えない状態なのだが、決定権は完全にルビーが握っていた。
吸血鬼は、同族殺しも厭わないのだが、智子は人間を殺すことをとても嫌悪している。
だが、ルビーと混じり合ったために人間でいた時より強い破壊衝動を持つようになっていた。
吸血鬼を見ると殺したくなるのは、湧き上がってくる衝動の吐口を探しているためと思われた。
「御免なさい」
『とりあえず、追ってくる連中の処理は、アルバートと相談して決める』
智子の車が家に着いた。
ちょっと前からついてくる連中の気配は消えていた。
智子は家に入ると言った。
「こっちが気配でわかるということは、逆も然りなのでしょう?」
『気付かれていることを承知で追っているかという意味?』
「そうよ」
『能力によるけれど、私に気付かれることは意識しているでしょうね。だから、やり返されてもいいように多人数で追ってきているんだわ』
事務所を出る時には陽は落ちて、夜になっている。
ルビーが家に着くまでの途中で連中を処理してしまえば、家を知られることはなかった。
大勢で追ってきているは言え、智子の感覚だと、ルビーの能力ならあの九人を殺すことは容易に思えた。
乾燥室に上着を掛けて、部屋に入る。
智子の体は、あっという間にルビーの姿に変化した。
ルビーはキッチン・ダイニングに入ると、テーブルをずらして床の蓋を持ち上げた。
そこには穴が開いていて、梯子がかかっている。
ルビーは梯子に足を掛けず、そのまま穴に落ちた。
穴の底は地下室だった。
リトリート用で使っていた時は、ここをワインセラーとして使っていたらしい。
智子が家を買った時にはワインはなく、棚だけが残っていた。
棚は処分して、アルバートを運んできた棺を置いている。
ここなら、万一部屋のカーテンがめくれても、家が破壊されても、アルバートに直射日光がかかることはないだろうと考えたからだ。
暗闇の中、棺が開いた。
中から、白いTシャツにデニムのパンツを履いた男が起き上がってくる。
少し垂れた前髪を掻き上げると、少し頭をかいた。
深く碧い瞳は夜空のように星が光っているように見える。
それは絵画のように止まっているのではなく、少し回転し、時折流れ星のように流れていく。
「ルビー」
彼は顔を寄せてくるルビーにキスをするとそのまま彼女の肩に腕を巻きつけ、彼女にくっ付いた形で起き上がった。
「アルバート、感じる?」
「ああ、奴らは合図を待っている」
ルビーの中で智子は考えた。
智子が運転する車を追ってきた連中が、この家を包囲しているのだ。
奴らが待っている『合図』は、誰が出すのだろう。
アルバートが山道の方を向いた。
「車の音が聞こえる」
ルビーは頷いた。
これが合図だとしたら……
智子はルビーの意思に対抗して、体を動かした。
「何をするの、智子!」
ルビーは梯子を上り、キッチン・ダイニングに出ると、アルバートに手を伸ばす。
ルビーの腕をとったアルバートを強引に引き上げた。
「外へ」
ルビーとアルバートには、智子の意思が伝わっていた。
こっちに近づいてくる車からは、『吸血鬼』の気配を感じない。
智子が人を殺せないことを利用するため、この家にくる訪問者を利用して襲うつもりなのだ。
アルバートは真っ黒なローブを羽織った。
ローブの左胸にはノクター家の紋章が刺繍されていた。
「出来るだけ家から離れよう」
アルバートは弾かれたように飛び上がると、あっというまに針葉樹の上に飛びついていた。再び跳躍すると、いくつかの木に触れだけで数十メートル先の木に移動する。
彼が移動したため、木の下には雪が舞い落ちてくる。
ルビーはその雪を巻き込み、落ちている雪を巻き上げるように大地を走った。
智子の家を囲っていた吸血鬼たちは、合図がある前に目標を失って戸惑う。
だがすぐに決断が下されると、吸血鬼たちはアルバートとルビーを追いかけ始めた。
「見失った!?」
「まさか、吸血鬼の気配を見逃すわけはない」
九人の吸血鬼は、森の中で立ち止まった。
そして、狩る側から狩られる側になったことに恐怖を感じ始める。
「ルビーは人間になりきれば気配は消せる、だが、アルバートは完全な吸血鬼だ」
「じゃあ、なぜ気配に気づかない」
「どうする。決断が遅れれば死が待っている」
「退却だ! 散開するぞ」
集まっていた吸血鬼は、思い思いの方向へ逃げ出した。
九人の中の一人は、その場に留まっていた。
「見失ってはいるが、気配を感じていないわけじゃない…… いるはずなんだ」
吸血鬼は右回りに辺りを確認すると、今度は左を確認した。
地面を、少し上を、と黙示の範囲を広げていく。
「!」
突然、足から振動を感じた。
強力な吸血鬼の気配を感じた瞬間。
「君は正しかった」
吸血鬼は背後から声をかけられた。
だが肩を強く掴まれ、振り返ることができなかった。
「アルバート」
「私に掴まれては何も出来まい」
アルバートの強力な呪力により、変化することも、体に力を入れ抵抗することも出来ない。
「誰からの指示だ。なんの目的で俺を狙う」
「そんなこと聞かれて答える吸血鬼がいると思うか」
「だな」
吸血鬼は右肩から手が離れた、と思った。
だが、次の瞬間、アルバートの右手が自分の胸がから飛び出てくるのを見てしまった。
そこには心臓が握られている。
「こんなことに関わらなければ、命半ばで死ぬこともなかったのに」
言いながらアルバートは右手の心臓を握りつぶした。
飛び散る血。
同時にアルバートを殺しにきた吸血鬼の体は、粒子のように分解され、その粒は小さく光っては消えていった。
体は全て消えたが、アルバートの右手についた血だけは消えなかった。
「……」
だが彼が右手を握り込むと、その血すら消えていった。
アルバートがその場に立ち尽くしていると、突然、小さな炸裂音がした。
アルバートの肩に何かがぶつかった。
異物が入り込んだことを感じて振り返る。
「どうも変だと思って戻ってみればこの通りだ。次は外さない」
そこには別の吸血鬼が立っていた。
銃を持っていて、アルバートに狙いをつけている。
バンパイアハンターから奪った銀の弾が入った銃だろう。
だが、吸血鬼が聖なる銀に触れ、銃弾を装填できるとは思えない。
「俺なら、そう言うおしゃべりしている間に殺しているよ」
アルバートがそう言い終わる前に、次の引き金が引かれた。
銀の銃弾は空を斬った。
「遅いよ」
アルバートは銃を持った吸血鬼の首を右手で掴み、持ち上げた。
銀の銃弾のせいで、左肩からは肉が焼けるような臭いと煙が上がる。
「最初の弾を外したのは、君が俺の力に負けているからだ、ということに気づかないのか」
「た、助けてくれ」
「助けたらまた殺しにくるんだろう?」
アルバートはその吸血鬼が持つ銃を奪い取ると、銃口を胸に押しつけた。
「ルビーの弱点をお前たちに教えたのは誰だ? メルヴィンか?」
「……」
アルバートは引き金を引いた。
銀の銃弾がその吸血鬼の心臓を貫くと、彼もまた粒子に分解され、小さく光りながら消えていった。
アルバートはローブを脱いだ。
裂けたTシャツが弾丸でねじ込まれるように肩に食い込んでいる。
アルバートはその左肩を右手で押さえると、爪を立てて肉ごと削ぎ取った。
ちぎれた肉が地面に捨てられると、死んでいった吸血鬼のように粒子に分解され、光りながら消えていった。
アルバートの失われた左肩の肉は、映像を逆再生するかのように肉体が『再生』されていく。
「……」
彼は、あたりにいた吸血鬼の気配が消えたと感じた。
それは作戦の失敗だった。
アルバートはワザと、ローブを脱ぎ、肩の肉を削ぎ、再生していたのだ。
姿を消した彼らが、本当に言葉通り、散開して逃げているのなら良いが……
アルバートは気持ちを集中した。
再び高い木の枝に飛び移ると、闇の中を移動した。
移動しながら、アルバートは考える。
智子に突き動かされたルビーは、どこへ行っただろう。
もし敵を追いかけて家の方へ進んでしまったら。
我々が先に家を出て、ここまで移動してきたことが無駄になってしまう。
家の近くに来た人間を盾に取られずとも、その人間に我々吸血鬼の戦闘を目撃されてしまえば、変な噂がたってここで生活できなくなってしまうだろう。
アルバートは、眼下にいる吸血鬼の気配を捕捉し、素早く背後を取った。
「これで三人……」
吸血鬼は粒子になり、消えていった。
時は少し前に戻る。
ルビーは体の殆どを智子に渡していた。これなら吸血鬼たちに近寄っても気付かれないからだ。
アルバートを囲うように集結した吸血鬼。
そのはずなのに全員がアルバートを見失っている。
互いの意見を、囁き合っている。
この森の中で囁き声で会話が可能なのは、吸血鬼の能力があるからだ。
ルビーはある吸血鬼に目をつけ、智子の体のまま近寄った。
「退却だ! 散開するぞ」
九人の吸血鬼は、そう決断した。
散り散りに走り逃げていく吸血鬼。
ルビーは通り過ぎていく吸血鬼を振り返ると、智子の体を一瞬で自分自身に変化させた。
透き通る白い肌、輝くような真っ赤な瞳。
粉雪を舞上げながら、狙っていた吸血鬼を追う。
スタート時点の速度、体が変化するまでの時間、それらを考えると追いつくのには時間がかかるはずだった。
「!」
吸血鬼は背後で感じた殺気が、目の前に回り込んでいることに目を見張った。
その時青白い炎で円が描かれた。
それはルビーの殺気に恐怖を感じてしまった吸血鬼の錯覚だったのかもしれない。
彼はその円の中にいることで、身動きができなくなっていた。
「誰の指図でこんなことをしているの?」
「答えると思うのか」
「私は半分人間のようなもの。だとすればノクター家とハートリッジ家の間ことなんか、もう関係ないでしょう」
ルビーは智子を取り込んでいる為、ハートリッジ家の血族の掟や、つながりから外れてしまっている。
本当はアルバートも同じように人間を取り込んでいることが出来れば……
ルビーがそう思った時、智子は黒峰の顔を思い出した。
「逃げてや……」
吸血鬼は歯を食いしばるが、ルビーの力が及ぶ範囲から抜け出すことができない。
「そうね。話しても、話さなくても、あなたを殺すのに変わりはないから」
「止め……」
吸血鬼はルビーの拳で胸を貫かれた。
目に見える粒子の形に分解されていくと、各々は小さく光りながら空を目指し消えていく。
体の全てが消え去ると、ルビーの手の甲に残った吸血鬼の血だけが残った。
軽く手を持ち上げ、指を伸ばし振り払うと、その血すらも光って消えていく。
「ノクター家の刺客なのは間違いない」
ルビーは言うと次の吸血鬼に狙いをつけて、走った。
その空間には、蹴り上げられた雪だけが舞っていた。
アルバートを狙ってきた吸血鬼の一人は、アルバートを追い詰め、見失った時に思った。
ここで散開すると言うことは計画が失敗したのだ。
最初から後からやってくる人間を待って、奴らが逃げるのならば『人間を』殺せば良かった。
今からでも遅くない。
この吸血鬼は、アルバートを見失った場所からアルバートの家に向かって直線的に移動していく。
吸血鬼が人を殺した時に証拠は一切残らない。
凶器を使わないからだ。
目撃されても戸籍も住所もない。ただ闇に生きている。
死体が家の近くで見つかれば、ルビーの人間形態が疑われる。
殺人の容疑者になれば、人間としての生活が維持できないだろう。
邪魔なルビーがいなくなれば、アルバートをやれるチャンスもくる。
この作戦を与えた奴は、そこまで考えていたに違いない。
吸血鬼はアルバートたちが暮らす家に着いた。
あたりを見回すが、ここに向かっていた人間が来ていない。
気持ちを集中すると、遠くでタイヤを滑らせている音が聞こえた。
「チッ」
車に向かってさらに移動しようとした時だった。
青い光が足元の雪に弧を描いて光った。
すると体が意思に反して動かななくなってしまった。
「ルビー・ハートリッジか」
「誰があなたたちにこの作戦を指示したの」
「言う訳が……」
背中に何かが突き刺さった。
ルビーの指が背中の皮、肉、骨を貫いて、心臓を突き抜けようとしていた。
耐え難い痛み。
人であれば気を失っていただろう。
「さあ、今名前を言えばあなたの死は無駄ではなく、バカな作戦を与えて唆した者にも因果が及ぶ。言わねばバカな作戦を立てたものはのうのうと生き延びるぞ」
『ごゔぁあ!』
ルビーに背後を取られた吸血鬼は、血を吐くだけでしゃべることができなかった。
「作戦を指示したのは、メルヴィン。違うかしら?」
死にかけて首を縦に振っているのか、ルビーの声に反応して首を振っているのか、わかりにくかったが、吸血鬼は首を縦に振った。
「わかったわ。メルヴィンもあなたと同じように殺してあげる」
特殊な体術のように、奇怪な体重移動をすると、吸血鬼の肋骨を破ってルビーの指が突き抜けた。
心臓を失った吸血鬼は呪いが解ける。
細かな粒子状に分解されると、一つ一つは小さく光りながら消えていく。
小さな声が、森の木々を反射しながらルビーの耳に届く。
「ルビー、人間が乗る車へ行かないと」
「私は二人やった。アルバートは?」
「こっちは三人処理した。残り四人だ」
アルバートが急に降下して、地表に着地した。
彼の足元には吸血鬼が一人倒れていた。
「残り三人……」
粒子となって消えていく吸血鬼。
もう距離がない。
ルビーは周囲を見回すが、吸血鬼が見つからない。
血の気配は近くにあるのに、姿だけが見当たらない。
アルバートが仕掛けたことをやり返されているのか。
ルビーは焦り始めた。
下手に近づくと、車の運転者に姿を見られてしまう。
「!」
一瞬、木々の隙間から遠くに見える運転者の顔を見てしまった。
スタックして止まってしまった車のタイヤを見ながらスマホで連絡をとっている。
後ろに撫で付けた短い髪。
あれは……
ルビーは智子の記憶からそれが誰かを見つけ出した。
間違いなく香山だった。警視庁の刑事だ。
ルビーは木の幹に背中を預けて身を隠した。
智子がルビーへ伝える。
『よりによって最悪な人物だわ』
アルバートやルビーの姿を見られたら疑われる。
間違って香山が殺されてしまったら、その死の原因を調査する為、東京から大挙して警察が押しかけるだろう。
香山だとわかったことで、焦る気持ちに拍車がかかる。
その時だった。
ルビーの足元の雪に円を描く青白い炎が立ち上った。
「かかった!」
小さい声で呟くと、ルビーは振り返り、地面に向かって拳を突き立てた。
吸血鬼は小動物になりすまし、背後に回り込んでから元の姿に戻ろうとしたのだ。
ルビーの拳の下で破裂したねずみは、元の姿に戻ることなく粒子に分解されると、消えていった。
「ルビー、人間が危ない!」
アルバートが銛を掴んだ吸血鬼と争っている間に、もう一人が香山に向かって突進している。
ルビーは全力で香山の方へ移動した。
「間に合わな……」
一か八か、ルビーは吸血鬼の動きを止める結界を張った。
うまく行けば、動きを止めることができる。
失敗すれば香山は死ぬ。
結界に指向性を持たせ、ピンポイントで発生させる。
『止まれ!!』
智子の強烈な思念が加わる。
全力で走っていた吸血鬼が、香山に気づかれる前に森の前で釘付け状態になった。
「このまま近づいて……」
いや、急いで移動し、雪を舞い上げたらバレてしまう。
ルビーは香山の姿を確認しながら、ゆっくり近づく。
結界を維持するにも、吸血鬼の力を使う。
出来れば早く近づき、早く始末したい。
冷たい吸血鬼の体が、能力の使いすぎで体温が上昇していく。
同時に血に対する強い飢えが、渇きが湧き上がってくる。
もう香山との距離が近づきすぎて声も出せない。
奥で、アルバートが戦っていた吸血鬼を処理したことがわかる。
後はルビーが捉えたこの吸血鬼のみ。
香山に気づかれないように近づくと、腕を振り上げる。
怯えた吸血鬼が、声を出そうとするが、ルビーの強い結界でそれすら許さなかった。
振り下ろした拳が、吸血鬼の心臓を貫いた。
飛び散る血を浴びて、ルビーの顔は歓喜を示す。
「!」
香山は何か気配を感じて、体を動かした。
ルビーの瞳に、香山の姿が映る。
完全に正面を向いて対面してしまった。
ルビーは振り返り、最速で距離を取れる方向へと走った。
「……」
香山は声を出すわけでも、ルビーを追いかけるでもなくその場に立ち尽くした。
やがて香山のスマホに着信があった。
「ああ、横田くん。すまない。道から外れたようでスタックしてしまたんだ」
事前にメッセージアプリを使って、現在の位置情報付きで要件を送っていた。
『こんな山道に夜入るもんじゃないですよ。とにかく、行きますから暖かい車の中で待っていてください』
「ありがとう」
香山は車に乗り込むと、女性が消えていった方向をじっと見ていた。