ラディと吸毒鬼
霧は森の中だけに発生したらしく、シュマが上空へと飛び上がると視界が急にすっきりした。しかし、霧が消えた訳ではないので眼下は白く煙っている。
「この森の霧は局所的だからな。出てない所からもう一度行ってみよう」
「泥の流れが余程急な曲がり方をしない限り、ラディがいるのはあの方向だと思うが」
シュマがどの方向を言っているのかレリーナにはわからなかったが、ジェイはちゃんとわかっているようで「そうだな」と応えている。
「よし、そっちに向かってみようぜ」
ジェイの声で、シュマは再び森の一角に向かって降りて行く。レリーナは上に飛んだ時点で自分達がさっきまでどこにいたのかさえもわからなくなっていた。降り立った場所もさっきとほとんど変わらないように思えるし、一度来た場所だと言われればそんな気もする。
「そうだ。あたし、水晶を持ってたんだわ」
ラディに渡された水晶を、レリーナも持って来ていた。
「ラディと連絡が取れないか、やってみる。何となくでも場所がわかるかも知れないわ」
「何だ、そんな便利な物持ってたのか。で、ラディもそれ持ってんの?」
「たぶん……。だって、ラディが持っていようってくれた物だから」
これでラディが自分の家に置き忘れていたら、笑うに笑えない。もしくは、泥に流れている最中に落としていたりしたら……。
レリーナは呪文を唱え、ラディの名前を呼ぶ。だが、反応はない。
「あたしのやり方が悪かったのかしら」
ちゃんと使いこなせていないのか、ラディの手元に水晶がないのか。
「んー、そうでもないぞ。ちゃんと水晶は反応してる」
「ジェイ、わかるの?」
一見しただけでは、水晶が反応してるかどうかなどわからない。色が変わるでもなく、何かが映る訳でもないのに、どうしてそう言えるのだろう。そこが竜のすごさなのか。
「そりゃ、わかるさ。レリーナの魔力が水晶を覆ってるのが見えるんだから」
「ええっ、そんなのが見えるの?」
「まぁな。それより、ラディの反応がないな。……レリーナ、そのまま呼びかけ続けろ」
「あ、うん、わかった」
「ジェイ、どうするつもりだ?」
「ラディも水晶を持ってるなら、レリーナの魔力がそっちへ送られてるはずだ。それをたどる」
「また霧が出ないうちに、見付けてくれよ」
「ああ。こっちだ」
ジェイがふわふわと宙を移動し、レリーナとシュマがその後に続く。泥の中を歩いてラディのように流されないよう、レリーナは木の根のようなツルの上を注意しながら移動した。猫らしく身軽なシュマと違い、レリーナは生まれて間もない子鹿のように覚束ない足取りだ。
ずっとこんな状態だと、あたしも足をすべらせちゃいそう。
不安に思ったレリーナだが、移動の時間はそう長くなかった。
シュマが突然立ち止まり、鼻を動かす。
「魔物でも獣でもない血の臭いがするぞ」
その言葉に、レリーナはどきりとする。この世界で魔物や獣以外の存在と言えば、ジェイのような竜くらいではないのか。それ以外だとしたら……人間。
「まさか、ラディなの?」
「マズいな」
「レリーナ、乗れ。急ぐぞ」
言われるまま、レリーナはシュマの背に乗る。ジェイもシュマの頭の上にちょこんと乗った。すぐにシュマは走り出したが、その脚が止まる。またシュマのサイズでは通れないようなツルの壁が現れたのだ。しかし、行きたいのはそちらの方向。
「森を傷付けたくないけど、穏やかに行ってる場合じゃないな」
ジェイが火を出してツルを燃やす。シュマでも通れそうな穴ができた。レリーナが姿勢を低くし、シュマはその穴を通り抜けた。
「血の臭いが強くなってきたぞ」
「それって、ラディがケガしてるってことなの?」
「いや……ケガじゃないかも知れない」
「ケガじゃないって、血の臭いでしょ?」
無傷で血の臭いなんて変だ。どこかにぶつけて鼻血でも出したのならともかく、シュマの何かを含んだような言い方に、レリーナは不安で身体が冷たくなっていくのを感じた。
「いたぞ。あそこだ」
ジェイが叫んだが、レリーナにはすぐに見えなかった。何か白い物が見えたが、目に入ったのがそれだけだったのだ。
「ラディ!」
少し遅れて、ようやく見えた。白いのはこんな森に似つかわしくない少女のワンピースだ。その少女がかがんでいる足下に、ラディが横たわっていた。泥だらけでひどい格好だが、それとは別に様子がおかしい。
レリーナ達が現れたことを知って、少女が立ち上がってこちらを見た。金の瞳以外は人間の少女と変わらない。しかも、かなり美少女の部類だ。
「彼のお仲間かしら」
「ああ」
ジェイの声音がいつもと違う。何だか堅い。それがレリーナを余計に緊張させる。
「もしかして……ああ、もしかしなくても、大竜の協力者ね。人間がこんな所にいるなんておかしいと思ったわ」
相手は大竜の試練のことを知っているようだ。強いと言われるレベルに属する魔獣や魔物なら、試練のことを知っていると聞いた。つまり、人間のように見えて彼女は強い魔物ということになる。
「そいつ、どうなってる」
「生きてるわよ」
少女はにっこり笑う。緊張感漂うこの空気にそぐわない笑顔だ。
「彼女、何なの?」
シュマに降りるなと言われ、その背に乗ったままのレリーナはこっそりシュマに尋ねた。
「吸毒鬼だ。毒にやられた奴の毒を吸うが、一緒に血も吸う」
「毒? じゃ、ラディは毒に冒されてるの?」
けがをしているようにも見えないのに、ぐったりしているからおかしいと思ったのだ。流されている間に頭でも打ったのかと心配したが、身体を起こす気配もないのは毒で意識がないからなのか。
「彼の身体に、毒はもうないわよ」
会話が聞こえたらしい少女が、レリーナに向かって声をかける。
「でも、たくさん血を吸ったから、ちょっと危ない状態かしら。体力のない子なら、もう無理だったわね」
それはつまり、重体ではないのか。危篤状態なら、毒がなくても安心できない。
「当分、食事はしなくて済みそうだな」
「ええ、本当。彼が目を覚ましたら、ごちそうさまって言っておいて」
ジェイは皮肉のつもりで言ったが、相手はまるで気にしていない。軽く手を振り、少女はどこへともなく去って行った。
「ラディ!」
「レリーナ、シュマから降りるんじゃない。そのままでいろ」
「でも」
「ラディみたいになるぞ」
シュマから飛び降りかねない勢いだったレリーナだが、ジェイに言われておとなしくする。本当はラディのそばに駆け寄りたかった。具合を確かめたい。少女はあんなことを言っていたが、ラディが危ないというのは本当だろうか。
「ジェイ、どうするんだ」
「もう少し湿気のない場所に行く。ラディはオレが運ぶよ。シュマはレリーナをそのまま乗せていてくれ」
ジェイがそう話しているうちに、ラディの身体の下にシャボン玉のようなものが現れて彼の身体を包み込む。
あれは……ジェイが出した結界?
ラディの身体は、そのままふわりと宙に浮かぶ。ジェイと同じように、その状態で移動を始めた。
「この森で湿気のない場所なんてあるのか?」
「ああ、なくはない。とりあえず、今来た道を戻るんだ」
ジェイに促され、シュマも歩き出す。レリーナは振り返ったが、少女の姿を見ることはもうなかった。
☆☆☆
ジェイの誘導で来た場所は、確かにこれまでより湿気の少ない場所だった。ツルの木はあるものの、あまり密集してないので光がたくさん降り注いでいる。レリーナは正直なところ、服が重く感じられていたので、少しでも湿気のない場所に来たのは嬉しい。
泥ではない地面の上に、ラディは下ろされた。それまで彼を包んでいたシャボン玉のような結界は、そのままベッドのようになる。泥ではなくても多少は湿気があるだろうから、こうして直接地面に触れなければ身体が冷えることもない。
もう降りていいと言われ、レリーナは今度こそラディに駆け寄った。
「うそ、ラディ……」
彼の手を握ると、冷たかった。息は確かにしているのだが、浅い。目を覚ましてくれないだろうとは思っても、レリーナは何度も呼びかけずにはいられなかった。
「まずはこの泥を何とかするか。あーあ、派手に汚しやがって」
ジェイはいつもの口調に戻っている。ここが安全な場所だからだろうか。
何かの魔法をジェイが使ったのは、気配でわかった。ラディの汚れた身体や服が一気にきれいになる。
「え……ジェイ、何の魔法を使ったの?」
「泥から水分を飛ばして、残った土を風で吹き飛ばしただけ。まさかここで水をぶっかける訳にはいかないだろ」
「これ以上身体を冷やすのは得策ではないな」
泥がなくなり、肌があらわになったことでラディの顔がひどく青ざめているのが見て取れた。血だの毒だののことを知らなくても、その顔を見れば当分意識は戻らないだろうとは予測できる。
ラディの左手の甲に、わずかなひっかき傷があるのをレリーナは見付けた。
「これ、あの子が付けた傷かしら」
「いや、それはラディがあの近くで付けた傷のはずだ。そこから毒が入って倒れたところへ、あいつが来たんだろうな。毒の植物がある近くによく出没するんだ。あの周辺、目立たないけど、そういうのがあったし」
ジェイがレリーナにシュマの背から降りるなと言ったのは、レリーナが気付かずに毒の植物に触れてしまわないためにだ。もし触れてもジェイなら解毒ができるが、余計な傷を作らないで済むなら、それに超したことはない。
「あの子……吸毒鬼ってシュマはさっき言ったけど、獲物を弱らせて毒を吸うの?」
「毒は吸うけど、獲物を弱らせるのはあいつじゃない。何も知らない奴が毒のある植物を触るとか獣にやられたりして倒れてるのを見付けて、その毒を吸うんだ。自分で罠を張らなくても、ラディみたいにわずかなミスで毒を食らって倒れる奴は、森の中にはいくらでもいるからな。シュマくらいともなれば、異変を感じたらすぐに浄化や解毒ができる。やられるのはそういうのができない奴だ」
「それで、毒を吸って……血も? 吸血鬼みたいなものじゃない。ラディが魔物になったりしない?」
人間や獣の血を糧にする魔物など、世の中にいくらでもいる。中には、血を吸われることで魔物になってしまう場合もあるから、命が助かっても安心はできない。
「吸毒鬼にそんな性質があったとしても、オレがさせるかよ。安心しろ、レリーナ。あいつに血を吸われたら、単純に生きるか死ぬかだ。で、ラディは生きてる」
ジェイのその言葉に、レリーナは心底安堵のため息をついた。
ラディは生きている。ジェイがそばにいれば、命を落とすことはない。
ラディの様子は楽観できるようなものではないが、大竜のジェイがそばにいる、というだけでレリーナは安心できた。
「吸毒鬼は生き物の中に入った毒を好むんだ。けど、毒だけを吸い出すことはできないで、血も一緒に吸う。毒がなくなれば吸うのをやめるけど、その時身体に残った血の量で生死が分かれるんだ。ラディの様子だと、本当に危ないところだったみたいだな。こんな状態でまだ毒が残ってたりしたら、解毒したってヤバかったかも」
「罠を張った訳じゃなくて、毒を吸い出してくれたのなら……ある意味助けてくれたようなものかしら」
「んー、微妙だな。あいつらは獲物の生死なんて気にしてないから。死なない程度に吸ってやろうなんて思ってないはずだぞ。だけど、あの周辺にあったのは即効性のあるかなり強い毒だ。恐らく、オレ達が行く前にラディは死んでる。だから……んー、あんまり認めたくないけど、助けられた形になるかな」
「生きていれば救い手、死ねば毒を受けた後に追い打ちをかけた、といったところだろう。あいつを味方とみる奴はいないだろうが、完全な敵とみている奴もいないと思うぞ」
獲物がどうなろうと、自分がやりたいようにやる、というタイプの魔物なのだ。その結果によって、見る目が変わる。
「あいつが現れた時にラディの意識はまだあったんだな。で、尋ねられたんだろ」
「何を?」
「毒を吸ってやろうかって」
「ああ、それはオレも噂で聞いたことがあるぞ。助かるかどうか、自分の命を賭けてみるか、とか何とか尋ねるらしい。吸毒鬼にすれば、獲物が死んでからでもゆっくり毒は吸える。だが、対象によってはその毒を早く味わいたいと思うとかで、そういうことを尋ねるそうだ。相手にすれば、少しでも助かる可能性があるなら、と血を吸われることを承知するようだな」
「何だか弱みにつけ込んでるみたいだわ」
見殺しにされるのも何だが、わざわざ尋ねるのも意地が悪い気がする。
「生きようとする意識の強い奴は、毒や血が死んだ奴から吸うよりも美味いんだとさ。で、あえて尋ねて助かりたいと思わせるんだ」
ラディは生きている。吸毒鬼は死ぬまで待たなかった。噂では対象が完全に死んでからか意思を尋ねて答えを聞いてからでなければ毒は吸わない、と言われている。つまり、あの少女はラディに尋ねたのだ。
「ラディが肝っ玉の小さい奴でなくてよかったぜ。毒でかなり厳しい状態の中で、あいつに血を吸わせる判断ができたんだからな」
「確かに。怖じ気づいて迷っているうちに意識を失ってしまえば、吸毒鬼はラディが死ぬのを待っていたはずだ」
ジェイとシュマの話を聞いて、レリーナは改めて背筋が凍る思いがした。わずかな判断の遅れが、文字通りの命取りになっていたのだ。
「で、これからどうする?」
「レリーナとシュマは、ミネスの実を取って来てくれ。オレはその間、ラディに力を送るからさ。このまま待っても、起きられるまでに何日かかるかわからないからな」
「ミネスの実って……何?」
そんな名前は聞いたことがない。レリーナは首を傾げた。
「オレが力を送るだけじゃ、ちょっと物足りないからな。それを助ける復活のための薬みたいなもん……って言えばわかる? 今のラディにとっては、増血剤になるかな」
「確かに、あれなら復活するだろうな」
シュマはどういう物かを知っているようだ。
「どこにあるのか知ってるのか? オレは実がなっている場所なんて知らないぞ」
「この森なら、ここからもう少し南に向かって……」
ジェイが何やら説明する。当然ながら、レリーナにはさっぱりわからない。
「そんな場所にあるのか。わかった。いくつ必要だ?」
「んー、そうだな。三つもあれば十分だろ」
場所と必要な数を聞くと、シュマはレリーナに乗るように言う。言われてからレリーナは改めて気付いたが、シュマはラディが呼び出した魔獣だ。今までは術者のラディを探すために動いていたし、大竜のジェイもいた。
でも、これからミネスの実を取りに行って戻るまでは自分だけになるのだ。カロックに来て大きな魔獣は何度か見たが、いわゆるツーショットは初めて。
それを意識した途端、急に緊張してきた。
「何をしてるんだ。早く乗れ」
「あ、はい」
ためらったのは一瞬。安全な場所に連れて来たとは言うものの、ラディの状態はよくないままなのだ。ミネスの実とやらが必要なら、早く持ち帰って来なければ。
レリーナはシュマの背に乗り、巨大な猫の魔獣はその背の翼を羽ばたかせた。





