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異世界マップ  作者: 碧衣 奈美
第二話 ぬかるみの森

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ぬかるみと毒

 今回は南に広がるモッドの森へ行くと聞き、シュマはラディとレリーナ、そしてジェイを乗せて目的地へと飛ぶ。前回よりは近い目的地だったらしく、体感的には十分くらいで着いた。

「……森? 湿地じゃないのか?」

 ラディが眉をひそめる。だいたいこの辺り、とジェイに言われてシュマが降りた場所は、地面がひどくぬかるんでいた。湿度が高いのか、空気がべったりした感じで重い。

「かろうじて身体が沈まないけど、泥の沼みたい。まさか底なし沼が近くにあったりしないわよね?」

「それはモッドの森に限らず、あるもんだろ」

 あっさりとジェイが言い、レリーナは青くなる。

「ジェイ、あまり脅かすなよ」

 ラディがこそっとジェイをたしなめる。

「え? だけど、本当のことだしさ」

「言わなくていいことまで言うなって。足がすくんで歩けなくなるだろ」

「お、そうか。それはいただけないな」

 協力者が動けなくなっては、ジェイも困る。

「レリーナ、心配しなくてもこの辺りに沼はないぞ。……たぶん」

 その一言、余計だってば……。

 ラディは頭を抱えるが、ジェイは気にしてない。

「うん……」

 レリーナは緊張した面持ちで、それでも無理に笑って頷いておく。本当に沼があろうがなかろうが、今回はこの森で地図のかけらを見付けなくてはならないのだ。

「この森の木、変わった形ね」

「んー、木って言うよりツルかな。この森はほとんどこんなもんだ」

 遠くから見れば木だが、近付いてみると人間の腕程もある太いツルが何本も絡み合って木のように形成している。さらに細いツルもそこに巻き付き、微妙なラインになっていた。それが頭上に伸びて別のツルの集合体と絡み合い、どことなく不気味なアーチを造っている。所々では通り抜けしにくい壁にもなっていた。それらが集まり、森となっているのだ。

 動く木があると聞いたことがあるが、このツルでできた木もじっと見ていると気味悪く思えてくる。絡み合ったツルがいきなりほどけ、一斉に襲いかかってきそうな怖さがあるのだ。

 まるで木の根のように泥の中を伸びているのも、ツルの一部。これらのツルの本当の根がどこにあるか、ジェイやシュマも知らないと言う。延々と伸びてはるか先にあるのか、もしくは深い地の底まで続くのか。引っ張り出したこともないし、出す気もないので誰も知らないのである。

 シュマは泥の上を歩かず、盛り上がった根っこのようなツルの上を歩いていた。肉球が汚れるのがいやなのだろう。その気持ちはわかる。靴をはいているが、ラディもレリーナも泥の上は歩きたくない。同じようにツルの上を移動した。少なくとも、ツルがある場所は底なし沼ではないだろう。

「ジェイ、今回は何の魔法を使えばいいんだ?」

 大竜の試練で使われる地図はラディ達の世界で砕け、そのかけらはカロックのあちこちに散らばっている。ジェイにはその「おおまかな」場所がわかるのだが、かけらに近付く程にその気配が消えてしまう。だが、協力者が魔法を使うことでその気配が再びはっきりわかるようになるのだ。協力者に魔法使いが選ばれるのは、その辺りの事情がある。

 使う魔法はその時によって違うようで、前回は火の魔法を使うように頼まれた。いつも同じ魔法なら楽だし、もし苦手な魔法を頼まれると少し構えてしまいそうだが、名前に試練とつくとやはり楽はできないらしい。

「えーと、今回は……」

 ジェイは何かの気配を探るようにして、目を閉じた。

「あ」

 ラディの声に、ジェイが目を開ける。

「何だ?」

「ボタンが落ちた。ジェイ、ちょっと待ってくれ」

 制服のボタンが落ち、転がってしまった。この前から取れかけていたので、母のセリーンに付け直してもらうように頼もうと思っていたのだが、すっかり忘れていた。ボタン一つのことだが、ロネールの制服は小さな部品一つでもわずかながら魔法防御機能があるのでおろそかにできない。失えば、普通のボタンの三倍以上も値が張る物を買わなくてはならなくなる。

 少しでも歩きやすいようにとツルの上を歩いていたが、ボタンは泥の上に落ちた。軽いから泥の上を転がってしまったのだ。仕方なくラディも泥の上を歩いてボタンの方へ向かう。拾い上げるとわずかに付いた泥を手で落とし、ズボンのポケットにいれた。

「やっぱり放っておいたらダメだな」

 転がったのは厄介だったが、失うよりはいい。落ちたのがわかっただけでもありがたい。

「ね……ねぇ、ラディ。足下の泥、何だか動いてない?」

「え?」

 レリーナの不安そうな声に、ラディは自分の足下を見た。単なるぬかるみでさっきまで何もなかったはずが、泥に何本も細い筋が浮かんでいる。まるで川の水が緩やかに流れているような。

「うわっ」

 泥が流れ始めたのかと思った途端、ラディの片足が泥の中にめり込んだ。いきなり片足の下に穴があいたような状態で、ラディは身体のバランスを崩す。体勢を立て直す間もなく、気付けばもう倒れていた。

「ラディ!」

 悲鳴のようなレリーナの声が聞こえたが、彼女が見えない。ラディは倒れたと同時に泥に流され、その場からどんどん離れていたのだ。しかも、水平ではなく緩やかな坂を滑り落ちていて、何かに掴まる余裕もない。

 レリーナ達の方から見ても、ラディの姿はあっという間に消えてしまった。

「ラディ、ラディ!」

「ダメだ、レリーナ。流されるぞ」

 ジェイが制止し、シュマがレリーナの襟首をくわえて止めた。

「だって、ラディが……。ラディ!」

 レリーナが叫ぶが、返事は聞こえない。

「マズッたなぁ。こんな所に流泥があるなんて」

「りゅうでい?」

「ほら、砂漠で流砂ってのがあるだろ。砂が流れ落ちていくやつ。それの泥バージョン」

「じゃあ、ラディは底なし沼にはまったようなものじゃない」

 レリーナは実際に流砂を見たことはない。だが、落ちれば蟻地獄に落ちたアリのように砂の中へ巻き込まれるのではないのか。それの泥バージョンと言うなら、やはり底なし沼みたいなものと変わらない。

「底なしじゃないと思うぞ。でも、自力でここまで戻って来るのは難しいかな。すべるし」

「じゃ、早く助けに行かなきゃ」

「だから、レリーナが行っても同じようにすべり落ちるだけだって」

「それじゃ、どうするの。ラディ一人じゃ戻れないんでしょ」

「んー」

 ジェイがシュマを見る。

「今流された方から行くのは無理だぞ。いくらオレが猫でも、あんな所は通れない」

 ラディが流された方向には、ツルが絡み合って隙間だらけの壁を造っていた。ラディは倒れてその下をすり抜けるようにして流されたのだ。しかし、その隙間は人間の大きさでぎりぎりだ。シュマの身体では通れない。泥で汚れるうんぬんで行くのがいやなのではなく、身体の大きなシュマでは行けないのだ。

「今のオレが行っても、ラディを引き上げられるかな。命に関わる状態なら魔力も解放されるけど」

「引き上げられなくても行って。ラディの無事を確認して、後のことはそれから考えればいいでしょ」

 レリーナが涙目でジェイに訴える。

「ん、そうだな。意識がなくて、頭から泥の中に顔を突っ込んでなきゃ、そう簡単に死ぬことはないから大丈夫だと思うけど。様子だけでも」

 中途半端な隙間でも、小さな竜の身体なら通れる。それに、ジェイは高くは無理でも宙を浮かんで移動できるから、泥に巻き込まれることなくラディの流された方へ向かえる。ラディを見付けてすぐに助けられるかどうかはともかく、確認だけならできるのだ。

「待て、ジェイ」

 そらちへ向かおうとしたジェイをシュマが止めた。

「霧が出て来た。今別行動するのは賢明ではないぞ」

「何だよ、こんな時に」

「うそ……」

 レリーナが涙声で、周囲を見回した。さっきまで見えていたラディが立っていた場所も、シュマが言った途端に真っ白で何も見えなくなってしまった。一気に煙の中へ放り込まれたようで、背中がぞくっとする。霧が出た途端、気温が下がったようにも思え、余計にぞくっとしたのだろう。レリーナは思わず自分の肩を抱いた。ラディがそばにいないこともあって、なおさら不安がのしかかってくる。

「この森ではよくあるんだよな。何もこんな時に出なくてもいいのに」

「一旦、ここを離れた方がよさそうだな。乗れ」

「でも、ラディは……」

「ずっとここにいると、身体が冷える。具合が悪くなったら、探せるものも探せなくなってしまうぞ」

「シュマの言う通りだ。レリーナ、別の方向からシュマでも入れる場所を探してラディのいそうな方へ向かおう。霧が出なくても、やっぱりここにいたんじゃラディは助けられないからな」

 正直なところ、ラディを見捨てて逃げるような感じがしてレリーナは離れたくなかった。しかし、ジェイやシュマに言われては、何も言い返せない。少なくとも、自分よりは彼らの方が最善策を知っている。そう考えられるだけの理性は残っていた。感情的になっては、ラディを助けられないのだ、と。

 レリーナとジェイが乗ると、シュマはその場から飛び立った。

☆☆☆

 最悪の気分だ。泥の川を流され、時々小さな段差を落ち、やっと止まったと思ったら、水たまりならぬ泥たまりの中。ほとんど全身が泥だらけだ。

 これ、何の魔法を使ったら落ちるかな。

 帰ってからこのまま洗濯してくれと言ったら、さすがにセリーンも怒るだろう。どこで何をしていたのか、聞き質されるに違いない。いざとなったら自分で洗うしかないだろう。

「底なし沼よりマシか」

 レリーナが怖がっていた底なし沼。もちろん、ラディだって落ちれば怖いが、今いる所はちゃんと立ち上がれるから底なし沼じゃない。気が付けばずぶずぶと足が沈んで……ということもないので、単なるくぼみに泥がたまっているだけだ。

 不可抗力、だよな。それにしたって、格好悪い。ボタンさえ落ちなきゃ。

 と、心の中でグチるものの、取れかけたボタンを放っておいたのは自分だ。こうなった遠因は自分にあるのだから、誰にも怒れない。ため息をつくしかなかった。

「おーい、レリーナー!」

 ジェイやシュマの名前も呼んでみたが、誰からも返事はない。かなり流されたという自覚はあるので、声が簡単に届く距離ではないとわかっていた。それでも、一応だ。すぐに後を追って来てくれているかも、という希望にかけてみたが、そううまくはいかなかったようだ。

 もう今更な気分ではあったが、ラディは泥たまりの中から出た。靴の中も泥が入り込んでいるので、足が重い。泥たまりの外も流れて来た泥が広がっていたり、元々がぬかるんでいたから、どこに立っていても同じような気分だ。

「今流れて来た所を……たどれるかな」

 元の場所へ戻るなら、来た道を行くべきだろうが……目印を付けて来た訳ではないので正しい方向へ行ける自信はあまりない。それに、何度も段差を落ちた。お尻を打ったりして身体のあちこちがちょっと痛むが、そんなことよりその段差を上って行けるかが問題だ。すべり落ちたということは、多少なりとも斜面であるということ。大した段差でなくても、この泥のせいで足がすべって進むのが難しいかも知れない。

「とりあえず……ぬかるんでない場所ってあるのかよ」

 まともな固さの地面に立ちたい。このぐにゅぐにゅした感覚をどうにかしたい。川か湖でもあれば、すぐにでも飛び込んで身体を洗いたかった。

「って……」

 歩き始めたラディの左手に、わずかな痛みが走った。何かに引っかけたようだ。この森を形成しているツルでできた木とは違い、小さなトゲのある植物がそばに生えている。茶色いのは枯れかけているのか、泥が付いてしまったからか。ラディの腰辺りまでしかない細い植物で、花も葉もない。茎だけなのか、細くて小さい木なのかもはっきりしない植物だ。そんな植物が、周囲にも何本か生えているのが見受けられた。

 この植物のトゲで引っかけたのか、手の甲に血がにじんでいる。だが、そう大した傷でもなく、体温で泥が乾燥し始めた手にわずかな線がある程度なので気にしないことにした。ここでは洗いようがないので、変に触るより放っておいた方がいいだろう。

 よく見たら……骨っぽいものが転がってないか?

 カロックに人間はいないと聞いたから、獣か魔物のものだろう。それらの骨らしきものがあちこちにある。

 まさか、この泥たまりって魔物の巣じゃないよな。実はあの泥の中に沈むように隠れていて、獲物が来るのを待ってるとか……。

 ラディが落ちて来ても何の動きもなかったが、たまたま留守だったのだろうか。魔物の巣と決まったのではないが、やはりここからはさっさと離れた方がよさそうだ。

 再び歩き始めたラディは、自分が水晶を持っていることを思い出した。こんな目印も何もない地点で現在位置を知らせるのは難しいが、少なくともレリーナに無事を知らせることはできる。ジェイやシュマが魔法の気配を感じ取って誘導してくれれば、そちらへ向かって再会できるだろう。

 やっぱりムダじゃなかったな。ってか、できれば使わないで済むに越したことはないんだけど。本当に使うことになるとはなぁ。

 少し複雑な気分になりながらも、ラディは上着のポケットに入れていた水晶を出そうとした。が、急に力が抜け、気付けば座り込んでいる。

 何だ? 俺……どうなって……。

 めまいがする。今頃になって、泥の川を流されたショックが表に出たのだろうか。いやな汗が身体からにじみ出してきたような気がする。とにかく、自分がよくない状態に向かいつつあることは自覚した。

「あら、こんな所に人間なんて珍しいわね」

 突然聞こえた声に、ラディはぎくりとする。だが、そちらを見てまた驚いた。そこにいたのは、十二、三歳くらいの少女だ。もっとも、そう見えるだけ。本当の人間ではないであろうことは、金の瞳でわかる。しかし、彼女がもし目を閉じて立っていたら、真っ直ぐな黒髪をボブにした人間の女の子にしか見えない。その瞳の色以外、牙だの鋭い爪だのといった魔物を思わせるものはなかった。

「あなたもやっちゃったのね。もう少し周りには気を付けなきゃ」

「……やったって、何を?」

 話をするのがつらい。呼吸が乱れてきた。

「あっちにあった植物……ちゃんとした名前があるのか知らないけど、私はトゲトゲって呼んでる。それに引っかけたんでしょ。あれ、毒があるのよ」

「毒……」

 それでわかった。力が抜けたのも、息が苦しくなってきたのも、毒のせいだ。

「何も知らない獣なんかがよく引っかかるの。ほら、骨が転がってるの、見たでしょ?」

「動けなくして、喰ったってことか」

「あ、もしかして、私が喰ったとか思ってる? 違うわよ。この周辺にそういう魔物はいないから」

「お前だって、魔物だろ」

「そうよ。私はフランカって言うの。でも、あのトゲトゲは私が仕掛けたものじゃないわ」

 こんなぬかるみの森にいて、少女が着ている服は真っ白なワンピースだ。汚れは一つもない。

「私が知らないだけで、昔はそういう魔物がいたのかもね。魔物はいなくなっても、植物だけは残ったってところかしら」

 べちゃっという音が間近で聞こえた。一拍遅れて、ラディは自分が倒れてしまったのを知る。

「ねぇ、自分の命を賭ける気、ある?」

 フランカは倒れたラディのそばにかがみ、そんなことを尋ねる。

「私、毒を吸うのが好きなの。あなたの身体に入った毒、吸ってあげる。ただ、毒と一緒に血も吸うことになるの。毒だけって、そんな器用なことはできないから」

 私の仕業じゃない、みたいなことを言ってたくせに、やっぱりお前の仕業じゃないのか。

 フランカの言葉を聞いてラディはそう思ったが、まともに声を出すのもつらい。

「このまま放っておけば、あと少しの時間であなたは死ぬ。そこそこ強い毒だからね。私が毒を吸い出して……血があなたの身体にどれだけ残ってるかで生死が分かれるわ。私は血が目的じゃないから、毒がなくなれば吸うのをやめる。あとはあなたの運と体力次第ね。言っておくけれど、私はあなたを殺したい訳じゃないわ。どうする?」

 いきなりそんなことを言われても、答えられない。だいたい、フランカの言うことは本当だろうか。どこまでが本当なのか、全てが嘘なのか。

 ただ、このままだと死ぬ、というのはきっと本当だ。根拠も何もないが、この力の抜け方は尋常じゃない。ラディは本能で悟った。フランカの言う「あと少しの時間」は何分だろう。それまでにジェイ達が来てくれる可能性は……間に合わない気がする。

 毒だけでなく、血も吸われるのなら吸血鬼に出遭ったようなものだろうか。しかし、血を差し出せば、吸血鬼とは違って助かる可能性が残るらしい。それなら、このままのたれ死ぬよりは……。

 明確にあれこれと考えた訳ではない。ラディの意識はかなりもうろうとしていた。弱っているから、そう思わされているのだろうか。それでも、生死を握っているのが目の前の魔物なら、託すしかない気がした。

「……」

 しっかり力が入らず、震える左手をフランカに伸ばす。

「吸えってことね。いい選択だわ。生き残る道が見えるわよ」

 フランカはラディが伸ばそうとする左手を取ると、血が乾きかけている傷口をなめた。ひどくざらりとした感触に、ラディは一瞬正気になって背筋が凍る。だが、出した手を引くだけの力はもう残っていない。

「しっかり祈ってなさい。自分が生き残れるように」

 そう言うと、フランカはラディの傷口に自分の口を付ける。

「う……」

 ものすごい勢いで身体中の力を抜き取られているような気がする。これまでにない恐怖を覚え、ラディは本能的に手を引っ込めようとしたがぴくりとも動かない。

 少年の汚れた手の甲にキスをする少女。

 きっと端から見ればそんな状態だ。

 白いワンピースを着た色白の少女が自分の手にキスし続けるのを、ラディは見ているだけしかできない。しかし、その時間も長くはなかった。

 もうろうとしていた意識は、闇の中へゆっくり沈んでいく。

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