花と蝶
とある一本の花。何か目印でもなければ、同じ花が同じように咲いているので、どれがその花なのかすぐに見失ってしまう。
もちろん、かけらの気配を感じ取っているジェイが目的の花を見失うことはない。
ファルザスがジェイの差す花に近付くと、ラディ達は改めてその大きさに圧倒された。
「でかすぎだろ、これ……」
何重にも花びらが重なっているのだが、一番外側の花びらは完全に開いている。その端から端までは、ラディ達の家が丸々入ってもまだ余裕がありそうな程の距離。広くはないが狭くもない庭があるが、その庭を含めてもこの花の大きさの方が勝っている。花びら一枚がおおよそに見積もっても、ラディの自室より大きいはず。
内側の二重三重にある花びらは、完全に開いていない。ふくらんでいるが、まだつぼみ状態だ。もう少し時間が経てば開花するのだろうか。
開いている花びらに降り、まだ開いていない花びらをかき分けるようにしてラディ達はその中へ入る。感触は花びらなのに、厚みがあるので板のようだ。かき分けると言っても、重いし固いしでかなり苦労する。
どうにか花びらをかき分けて中心部に入ると、中は思ったより広い。巨大なめしべが柱のように立ち、ヌシみたいだ。
ただ、おしべが多くて花粉が多いのには少し閉口する。ジェイに言われ、少し強めの結界を張って入ったが、そのまま入ったら目や口に花粉が入ってかけら探しどころではなかっただろう。ラディ達がちょっと歩くだけでも足下に落ちている花粉が舞い上がる。
ファルザスは羽ばたいても風を起こさないようにできるが、さすがにつぼみの中へ入るとその大きな身体が邪魔になるので花の外で待機だ。
テルラにはファルザスと外で待っているか聞いてみたが、一緒に行くと答えた。置いて行かれるのが怖かったらしい。魔獣とのツーショットも抵抗があったのだろう。
黄色い雪のように花粉が降り、一歩進む毎に胸近くまで足下の花粉が舞っている。花の外ではみぞれを降らせるように氷魔法を使っていたラディだが、ここでそれをするとますます花粉が舞ってしまう。小さな氷を手の中に出し、それを手の中で溶かすという方法を取った。これなら、花粉に影響を与えない。
「ジェイ、どうだ?」
花粉に影響を与えなくても、ジェイにかけらの気配が感じ取れなくては意味がない。
「んー、あっちみたいだな。このめしべの向こう側ってところか」
めしべと言っても、花の大きさが半端ではないのでこちらも半端ではない。向こう側と簡単に言うが、突っ切ることとができないからぐるりと迂回する必要がある。
「おーい、ジェイ。また面倒なのが来たぞ」
花の外、と言うか、上の方からファルザスの声が降ってきた。
「め、面倒って……また蜂なの?」
まだ姿を見てないうちから、テルラが震える。レリーナの顔も青い。さっきのことを思えば無理もなかった。自分達の世界でも花があれば蜂が来るのもわかるが、人間の何倍ものサイズで団体行動されるのは困る。
「ファルザス、また蜂なのかぁ?」
ジェイが上に向かって確認する。
「いや、蝶だ」
それを聞いて、見習い魔法使い達はほっとする。蝶なら槍のような針で攻撃を仕掛けてくることはないだろう。この花に見合った大きさではあるだろうが、蜂よりはいい。カロックの蝶が針を持っていないことを祈る。
「……でも、面倒って?」
一度は安心したものの、ファルザスの言葉を思い返して不安になり、ラディはジェイの顔を見る。
「あいつら、蜜を吸うためならがんがんに攻めてくるんだよな」
「がんがんって言ったって、蜜を吸うだけなんだろ?」
期待を込めて聞いてみる。だいたい、蜜を吸うのに「がんがん」とは何なのだ。
「そうだけど、蝶のくせに鳥みたいなくちばしで花の中をつつくんだ。つつかれると無事じゃいられないしなぁ」
「のんきに言ってる場合じゃないでしょっ。それって、さっきの蜂の針攻撃と変わらないじゃない」
いっそテルラがパニックになって走り回らないのが奇跡だ、とラディは思った。気絶しないのは、それなりに長い期間訓練をしているので魔物の姿に多少は慣れているせいもあるのだろう。
だが、ここに現れるのは、フィールドで現れる幻影ではない。テルラが正気のうちにかけらを見付けて帰りたい、とラディは心底願うのだった。
「慌てて言っても、ここからすぐに出るのはちょっと無理があるだろ。隠れる場所もないしさ」
「だからって」
テルラが言い返そうとした時、花粉が舞い上がった。誰も動いていない。外から風が吹き込んだせいだ。どうやらファルザスが蝶と応戦し、お互いが羽ばたいて風が起きたらしい。
「気を付けろ。複数いるぞ」
ファルザスが怒鳴る。ラディのいる所から外はほとんど見えていないが、ファルザスにやられて落ちていく白い蝶が花びらのすき間からわずかに見えた。紋白蝶に似た魔物、ということだろうか。今のがファルザスにやられたのだとしても、彼の言葉通りならまだ他にもいるということ。つまり、多勢に無勢だ。いくら魔力の強いロック鳥と言っても、ファルザスだけにまかせる訳にはいかない。
「ジェイ、どうする? 一度外に出て、追い払った方がいいのか?」
「そうだな。けど、すぐに同じことが起きるだろうし……あ、別の奴が来るぞ」
ファルザスと仲間が応戦している隙に、別の蝶がラディ達のいる花に近付いて来た。花は他にもあるのに、花粉とは別にエサの匂いでも嗅ぎつけたのか。
昆虫独特の複眼が覗いた。細かい毛が生えた脚を花びらにひっかけ、顔が入るように開いたのだ。魔物が獲物の隠れた部屋に押し入るようなものである。
「きゃあっ」
顔からいきなり槍にも見える黒い棒のような物が伸びて来た。テルラのすぐそばに突き刺さり、足下が不安定になって転びそうになるテルラをレリーナが支える。
「あれが蝶の口? 俺達の世界と違うぞ。蜂の針と同じじゃないか」
テルラが蜂の攻撃と同じだと言った時、まさかと思った。しかし、現実に攻撃されるとその違いがわからない。蝶は丸まった管のような口を伸ばすのではなかったのか。
「毒はないぞ。まぁ、刺されたら毒のあるなしは関係ないか」
「ジェイ、慰めになってないわ」
花粉が舞う中、少女二人が急いで蝶の口から離れる。そうする間にも、蝶はさらに花びらを開き、身体も中へねじ込んできた。人間を花の中に紛れ込んだ小さな虫とでも思っているのか、それとも蜜を吸いたい部分にたまたま三人がいるのか、蝶の細いくちばしのような口が伸びてくる。その度に花粉が舞い上がった。
「これ、マズいな」
「マズいわよ、すっごくマズいわよ! 私達、すぐにここから出ることもできないじゃないの」
「うん、それもそうなんだけどさ」
「ジェイ、まだ何かあるのか?」
「この花、あんまり刺激を与えるのはよくないんだ。結界、もうちょっと強くしろ」
何のことかわからないまま、ラディはレリーナと自分の、テルラも自分の結界をさらに強化する。
「ねぇ、何だか狭くなってきたような……」
レリーナに言われ、ラディがふと横を向くと花びらがこちらに迫って来ている。見上げれば、さっきまでわずかながら見えていた空がどんどん小さくなっていた。花が閉じようとしているのだ。
さらに、実はラディ達を喰おうとしているのか、蝶がそのくちばしを何度もこちらに伸ばしていたが、急にその動きが鈍くなってきた。
テルラが息を飲んだような悲鳴を上げる。花の中へねじ込んでいた蝶の脚先が溶けていたのだ。
「どうして……何なの、この花。まさか食虫花?」
「こいつみたいに、花に刺激を与えすぎるとそうなるんだ。花が自分を守ろうとしてるみたいだな。オレ達が入る程度なら何ともなかったはずなんだけど、珍客のせいでこんなことになったんだ」
「こんな珍客の話なんて、どうでもいいわ。このままじゃ、私達まで溶けるじゃない。だいたい、溶けるのが早すぎよ」
いくら結界を強化しても、完璧な防御ではない。ここから逃げようにも、今となっては花は完全に閉じてしまっている。蝶がねじ込んでいた身体はどんどん溶かされ、中へ入りきらなかった部分と切り離されていた。頭と脚の部分は見ている間に溶かされてゆく。このままここにいては結界の力が弱まり、蝶と同じ運命をたどるのは時間の問題。
さらに花はただ閉じるだけでなく、中の異物を完全につぶしてしまうつもりなのか、花びらが迫って来ていた。まるで壁が迫ってくるかのような圧迫感だ。背後は柱のようなめしべが控えている。
「ラディ……」
さすがに怖くなってきたレリーナが、ラディにしがみついた。そんなレリーナをラディも抱き寄せたが、このままでは全員が圧死してしまう。
「ジェイ、どうすればいいんだ。花だから、火には弱いはずだろ。もう周囲に飛び火したらとか何とか言ってられないぞ」
「そうだな。……ん、待てよ?」
一度はラディに同意しかけたジェイだが、その身振りでラディ達の動きを制する。その後、にっと笑う。
「ラディ。やっぱお前って、召喚の腕はいいかも」
「え?」
どういう意味だと聞き返そうとした時、花びらの一部に切れ目が入った。切れ目より上の部分の花びらが、はらはらと落ちて行く。いや、サイズ的にはがらがらというイメージに近いかも知れない。
とにかく、一部が切り取られた形になった。おかげで外の景色が見える。花の中にいたのはせいぜい十分前後だが、とても久しぶりな気分だ。
「おーい、まだ溶かされてないか」
その景色の中に、ファルザスの姿が見えた。ロック鳥が放った風の力が、花の一部を切り裂いたのだ。
「ほら、さっさと出て来い。他の蝶は、花がしぼんだのを見てビビッてる。今のうちだ」
蝶達も、何をすれば花がどうなるかを知っている。すぼんだ花を見て、危険な状態になったのを悟ったのだ。一本の花がそうなると、周囲にある他の花も連鎖反応ですぼんでしまう。それをこじ開けてまで蜜を吸う気は、蝶達にもなかった。蜜を吸う前に自分達が溶かされてしまうから。
ラディ達は急いでファルザスの方へ走る。花のすぐそばを飛んでいると言っても、安定した地面の上で乗るのとは訳が違う。飛び乗ることにレリーナとテルラは抵抗があったが、ラディが先に乗って手を差し出してくれたことで、何とか乗ることができた。
三人はファルザスの背中で安堵のため息を深々とつく。もう少しで花に溶かされるところだった。
周囲にある花は、ほとんどすぼんでいる。さっきまでより花と花の間隔がずいぶん開き、グラワーの一部はすっかり景色が変わってしまった。
☆☆☆
ファルザスが花から助け出してくれたことに、ラディ達は大いに感謝した。
「花が閉じてしばらく何の動きもなかったから、すぐに溶かされたのかと思ったぜ。でも、ジェイがいるのにそれはないよなーって思ったからさ」
たぶん、出られなくなってあたふたしているのだろうと思い、出口を作った。生き物を溶かす花であっても、花びらそのものは特別頑丈なものではない。風の力は十分に通用するのだ。
「ラディに召喚の腕があるってジェイが言ったの、こういうことだったのね」
頼まれてもいないのに、自分を呼び出した術者を助け出す。呼ばれた魔獣が術者を気に入らなければ、まずこんな行動は起こさない。余程協力的な魔獣ならともかく、普通は指示されなければそのままにしておくことが多いのだ。今の場合、そんなことをされたら三人は花の中に入って来た蝶と運命を共にするところだった。
「呼び出した魔獣に好かれるのも、一つの才能だからな」
「ほめてもらえるのは嬉しいけどさ。ジェイ、召喚の腕は、はないだろ。それだと召喚しかできないみたいに聞こえる」
「え、そうか?」
「笑ってゴマかすなよな。それより、かけらはどうする?」
まだ見付かっていないうちに、花はしぼんでしまった。中へ入るのは危険すぎる。これではかけらが手に入らない。
「仕方ないな。ラディ、花の部分を切り落としてくれ」
「いいのか? そんなことをして」
「花には悪いけどな。花びらも切り裂かれてるし、あの花はもう咲けない。でも、時間が経てば次の花を咲かせることはできるんだ。だから、切るのは花の部分だけな」
ラディは言われた通り、風の刃を放って花の部分を切り落とした。首を落としたような気になる。
「うわ……蟻が一斉に逃げてら」
いくらしぼんでいると言っても、花は大きい。家一軒が数十メートル上空から落下するようなものだ。いくら魔物でも、楽観はできないだろう。
地面には、まだ巣穴に戻らないでうろうろしている蟻がたくさんいた。そこへ普段ならありえない花の落下である。きっと悲鳴をあげながら逃げ惑っているのだろうが、不幸な一部の蟻の上に花は落ちた。上空にいるラディ達にもかすかに地響きのような音が聞こえたから、地上にいれば相当の音がしていただろう。砂埃のような物も見えた。
花に押しつぶされるのを免れた蟻達は、後も見ずに逃げ出す。蜘蛛の子を散らすとは言うが、蟻も似たようなものだ。
「ファルザス、降りてくれ。あいつらが戻って来ないうちにかけらを取り出さないとな」
ジェイに言われ、ファルザスは花の近くへと舞い降りた。花につぶされて圧死している蟻が、ちょうど消えようとしている。だが、まだ死にきれない蟻は手足や触覚をぷるぷると振るわせていた。レリーナとテルラが顔をしかめる。
「ラディ、花を燃やしてくれ。あそこに手を突っ込んで捜すの、面倒だし」
「燃やして大丈夫なのか?」
「かけらは燃えたり溶けたりしないから、気にすんな。あの花を燃やすくらいなら、周辺に気を遣わなくていいし。ついでにこいつらも楽にしてやれるだろ」
ラディは一気に燃やすため、小さな爆裂を起こして花を燃やす。中途半端につぶされていた蟻も、その炎で事切れた。魔物の身体は消え、花の燃えかすだけが残る。
「んじゃ、次は氷な」
「注文が多いなぁ」
ラディが苦笑する。
「花が大きいから、燃えかすも大量だろ。灰の中に入るなんてオレだっていやだからな」
「ねぇ、もうかけらのある所はだいたいわかっているんだから、弱い魔法でもいいわよね。それなら、あたしがやるわ」
練習もかねて、レリーナが氷魔法の呪文を唱えた。あられのような氷がぱらぱらと地面に落ちる。そこからジェイはかけらの気配を捜し出し、軽く息を吹きかけて灰を飛ばした。
「よし、見付かったぞ」
「何、それ。小石のかけらじゃない」
ジェイの持っている物を見て、テルラがあきれたような顔をする。確かに何度もかけらという言葉は聞いたが、本当にかけらとは思わなかった。ジェイが持てば身体半分くらいのサイズだが、人間が持てばどこにでもありそうな石のかけらだ。あんな怖い目に遭って、見付かるものがあんなものとは。
「まぁ、これだけならな。他のかけらと合わせると、まともな地図の一部になるんだぜ。俺が復元魔法を使って戻すんだ」
「なぁ、それって時間かかるか? また蟻どもの姿が見えるぞ」
「ええっ」
三人が思わず声を上げた。
「あいつら、復活するの早いなー。もうちょっとビビッたままでいてくれればいいのに。よし、かけらは手に入ったんだし、場所を変えよう。ほら、みんな早くファルザスに乗れ」
ジェイにせかされ、今度はジェイもファルザスの頭にちょこんと乗ってその場を離れた。
グラワーにいるとまた巨大な虫が現れるかも知れないので、ファルザスはグラワーから少し離れた草原まで飛ぶ。普通のサイズの花が点々と咲く、普通の草原だ。それだけで気持ちが落ち着く。カロックにもラディ達の世界と同じような、何でもない場所があるのだ。
「ラディ、そんな所に入れてるの?」
制服の袖からこれまで復元させた地図を取り出す弟を見て、テルラが目を丸くする。
「これなら、そう簡単になくさないだろ。最初は本にはさんでたんだけど、いつジェイから呼び出しがあるかわからないし、ここにあればまず忘れないしさ」
「お前ら、そんなのを集めてるのか」
ロック鳥のファルザスから見れば、人間が見ている以上に小さい物を集めているように感じられるだろう。
「ああ。これが完成したら、ジェイの試練も終わるんだ。先はまだ長そうだけど」
ラディはジェイから新たなかけらを受け取ると、復元の魔法をかけた。石のようなかけらはどんどん平たくなり、見ている間にこれまで集めた地図と同化する。もうどこまでが今回のかけらの部分かわからなくなった。
「手慣れたものね」
「そりゃ、何度もやってればな」
テルラも復元魔法はできる。だが、今の弟のようにスムーズにできるだろうか。ものすごく呪文の詠唱がなめらかに思えた。それだけ魔法を使っているということだ。
「テルラ、お待たせ~。今回もかけらが無事に見付かったから、戻るための扉が出せるようになったぞ」
「ほんとっ? よかったぁ」
どんな言葉より嬉しい言葉。テルラは心底喜んだ。巨大な蜂や蟻、蝶が現れたり、花に溶かされそうになったりで、本当に一時は五体満足で帰れないんじゃないかと思ったのだ。
「もう帰るのか。つまんねぇな」
一方で、ファルザスはがっかりした様子だ。カロックでは会うことのない人間と行動を共にし、飛んでいる間も色々な会話を交わしたりして楽しんでいた。そんな時間が終わるとなって、面白くないのだ。
「ありがとう、ファルザス。色々と助かったよ」
「ねぇ、ラディが呼んだらまた来てくれる?」
「おう、いいぞ。また遊ぼうぜ」
「ファルザスにとっちゃ、遊びか。ま、いいや。楽しんでくれる方がオレも嬉しいし」
それから、ジェイは改めてテルラの方を向く。
「今日は本当に悪かったな、テルラ。また協力者以外の奴が入らないよう、できるだけの細工はやっておくよ」
「あ……その、終わったことだし……もういいわよ。私が間違えて入ることなんて、この先は絶対にないと思うわ。変に細工を増やして、ラディ達が来る時に何か障害になっても困るから、余計なことはしなくていいわよ」
「そっか? そりゃ、オレも小細工しなくていいなら助かる。んじゃ、飾り作り、がんばれよ」
「あ、ありがとう」
ジェイの言葉に、テルラが笑顔を浮かべる。カロックへ来て初めての笑みだった。
「ラディとレリーナは次もよろしくな」
「ええ」
「じゃあな」
ラディとレリーナはそれぞれの扉を開け、先にテルラが入ってラディが扉を閉めた。
本当に戻れた……。
屋内。天井がちゃんとある。床に置かれたベッドや机などの家具。窓から入る光。
自分の部屋ではないが、人間が生活する空間だ。確かに戻って来られたとわかり、テルラは大きくためいきをついた。
「……カロックへ行ってから、こっちはどれくらいの時間が経ってるの?」
「五分も経ってない。こっちの時間にはほとんど影響がないんだ」
「そうなの? まぁ、向こうで時間がかかりすぎて、こっちで行方不明騒ぎにならないのはありがたいわね。レリーナは?」
「自分の部屋に戻ってるよ。扉、二つあっただろ」
「そう言えば……そうね」
とにかく、無事に戻れた。テルラは改めてほっとする。恐怖や驚きの連続で息つく暇もなかったが、こうして帰って来ると「いい経験をしたのかも知れない」とも思える。いや、そう思っておかないと、大変すぎる経験で後からパニックを起こしそうだ。
鍛錬の差、か……。
レベルが下のはずのラディが自分より強い魔力を持っている、と知らされたのはテルラにはかなりショックだった。しかし、弟に抜かされてしまう程、自分がいかに本腰を入れてなかったかを自覚できた気がする。魔物退治に興味がなくても、魔法そのものに興味が薄くても、夢を叶えるための前段階なのだから手を抜いていいはずはないのだ。二度の認定試験に落ち、伸び悩んでいる、などと考えていたが、単に練習不足の結果で実力が足りてなかっただけ。そのことに気付けただけでも、収穫だ。
「先は長いって言ってたわね。ジェイの試練が終わる頃には、認定試験もパスしてるんじゃない?」
「そう、かな。だといいけどさ」
テルラよりラディの方が魔力は強い、と言われてから、テルラは意識してラディの魔法を見ていた。悔しいが、確かに攻撃力はなかなかの強さだ。命中率も高い。新しい技を覚えれば、今の彼ならすぐに使いこなせるだろうと思える。
「私、もうカロックへ行く気はないけど、地図が完成したら見せてよ。可能なら、でいいけど」
絶対に見たい訳ではない。だが、わずかでも関わったのだし、その後がどうなったかを知りたい、とも思う。
「ああ。完成した地図は、じいちゃんの部屋にあったんだ。だから、手元に置けると思う。その時、ゆっくり見せてやるよ」
「楽しみにしてるわ」
言いながら、テルラは部屋の扉を開けた。カロックではなく、部屋の外の廊下へつながる扉だ。見慣れた家の廊下が目に入る。
「あ、そうだ。伝言を忘れてたわ」
弟の部屋を出たテルラだが、思い出して部屋の中を振り返る。
「伝言? 誰から」
「ブラッシュよ。空いてる時間を教えてくれって」
「え……」
ラディは一瞬固まる。姉に伝言を頼んでまで、ラディが今何をしようとしているのか、ブラッシュは聞くつもりでいるのだ。
「なぁに? 顔を合わせるとマズいことでもある訳?」
「いや、そうじゃなくて……。カロックで疑問に思ったことをブラッシュに質問していたら、何かしでかそうとしてるのかって疑われるようになって」
「ブラッシュにカロックの話はしてないの?」
「いや、テルラの時と同じで、話しても信じるかなって」
現実に行くまでは、テルラだって信じなかったに違いない。普通に考えれば荒唐無稽だ。ブラッシュも信じるかは確かに怪しい。ラディが話したものかとちゅうちょするのもわかる。
だが、彼はテルラより頭が柔軟だ。もし信じなかったとしても、面白がって「それなら一緒に連れて行け」とでも言い出すだろう。
そんなことを想像すると、笑いがこみ上げる。
「何だよ、テルラ」
「別に。ねぇ、さっさと話して、ブラッシュもカロックへ連れて行ってあげれば? 早くしないと、ジェイが本当に協力者だけしか通れないようにするかもよ」
ブラッシュがカロックへ行けば、きっと彼なりに楽しむだろう。テルラと違い、魔物退治を仕事にしているのだから抵抗はないはずだ。
「んー……」
「確かに伝えたからね。ちゃんと返事するのよ」
悩む弟を尻目に、テルラは静かに扉を閉めたのだった。





