ちゃぷたーじゅうなな 『らじかるぱにっく』
「ぬぁああああああ!!?」
「ふしゃあぁああああっ!!!」
風呂場に、俺の絶叫と猫の威嚇する声が木霊した。
「師匠っ!?」
「いやまてっ! あ、いや別に良いやっ!」
今開けられるのは不味いと思ったが、考えたら俺、ちゃんと服着てた。うん、ヤバイくらいに混乱中。
「どうしたんですかっ!!」
弟子が扉を開けると、その隙間からするりと逃げていく猫。
「ど、どうしたんですか師匠!?」
「どうしたもこうしたも……!」
猫を風呂に突っ込もうとしたら、思いっきり噛まれました。今まさに右手から出血中です。無茶苦茶痛いです。マジで。
「うわぁああっ! 神経が痛いっ!?」
「え、それ当たり前……」
「うぉおおおお!! 俺の黄金の右腕がぁあああ!?」
「ちょ……っ! 師匠、良いから落ち着いて下さいっ!! うわわっ! 血が吹き出しますから拳を握らないでっ!」
……絶賛大混乱中。
「あー、びっくりした」
「びっくりしたのはこっちです……」
俺の手にガーゼを当てながら、弟子が呆れたように息を吐いた。
「だってほら、見てみろ。見事に血管の上だぞこれ。下手すりゃ死んでんじゃねえの」
「そうなんですか?」
「いや、知らないけど」
ただ、あのくそ猫の牙が見事に俺の血管を抉ったのは事実であり、その所為で出血多量になったのも事実だ。
「良いハンターになりますね」
暢気な弟子の台詞に、俺は顔を顰める。
「俺を狩るなよ……」
俺は獲物じゃないし。というか、むしろ俺は、アイツを世話している恩人じゃないのか? 違うのか?
「ああぁもう。何でだよ……っ」
「うわっ、し、師匠……! だから拳を握ると血が……っ!!」
苛立ち混じりに拳を握ると……おお、吹き出てる吹き出てる。
「まったくもう……はい、終わりましたよ」
ガーゼの上から包帯を巻いて、弟子は軽く俺の手を叩いた。
「痛いから叩くな……やれやれ」
……しかし、利き腕が使えないのはマジで困る。一応職業柄、ある程度左腕も使えるのだが、それでも右腕ほど器用には使えない。
「……はあ。あの猫。戻ってきたら鍋にしてやる」
「ダメですって……」
いや、やらないから、そんな呆れた顔をするな。……大体、猫って不味いらしいし。
「でも、なんで師匠ばかり噛まれるんでしょうね……」
「……うん?」
首を傾げる弟子に、俺は動きを止める。うん、ちょいまった……そういや、
「お前、噛まれたことって……」
「え? ありませんけど」
「……だよなあ」
俺ばかり噛まれてるという事実。何故だ。
いや、弟子を噛まないのは偉いけど、出来たらその優しさを俺にも向けて欲しい。
「つうか、餌やってるのとか殆ど俺だろうが……」
一番世話をしている筈の人間を一番噛むってのは何なんだ、恩知らずめ。
「でも、どうしてお風呂に入れようなんて思ったんですか?」
指を顎に当て、首を傾げる弟子。
「あ? そりゃ汚れてたからな。綺麗にしてやったほうが良いだろ。そりゃあ、猫は水が嫌いってことぐらいは知ってるけどさ……」
それに殆ど放し飼いだから、アイツが出歩くと外の塵とか埃が家の中に散らばるし。
「で、洗おうとしたら……あの野郎」
思いっきり噛みやがった。
「あ、あは……。でも、じゃあどうしましょうね」
「あー。うん。そうだな……あ、そっか。お前、あいつに噛まれないんだから、お前が風呂に入れれば良いんだ」
「あ、良いですねっ」
手を合わせる弟子。うん。そうだ、これが一番簡単じゃないか。
「それじゃあ、今日の夜にでも一緒に入りますっ」
「ああ、そうだな。それがい――」
……待て。
「……やっぱり、俺が入れる」
「えーっ」
不満げに声を上げる弟子。……いや、分かってるよ。俺、すげぇアホなことだって気付いてるよ。
気付いてるけどさぁ……。
……だってあいつ、オスだもん。
……まあ、それはともかく。だ。
「あー……いった……」
とにかく右腕が痛むせいで不便過ぎる。ものを掴むことが出来なくは無いが、力は入らないし、痛いし。
「……ったく。俺は、ほら。痛みには弱いんだが……」
――困った。
「師匠……、大丈夫ですか?」
弟子が心配そうに顔を覗き込んでくるので、軽く手を振って応える。
「む……」
……無意識に右腕を振ってしまい、苦痛に顔を顰める。
「……あー。不便だわ。これ」
利き腕だからな……分かっていても、気を抜くと使ってしまう。
「……ま、飯にするか」
夕飯でも作ろうと腰を上げると、弟子が俺を制した。
「わたしが作りますから、師匠は休んでて下さいね」
「ああ……頼む」
まあ……この腕じゃ出来ないからなぁ。
♪
そんなこんなで夕食。
「……うおぉ」
……上手く食べれない。別に、左手でスプーンを使うくらいわけないと思っていたのに。
「くっそ……」
「師匠、大丈夫ですか……」
「大丈夫だ、心配するな」
「でも、食べれてないじゃないですか……」
……沈黙する。
……そうなんだよな。
「うーん……あ、そうだ」
弟子は唐突に顔を上げると、身体を乗り出して自分のスプーンで俺の料理を掬う。
そして、
「はい、ししょう。あーん」
「…………」
……あれ、何か既視感。微妙に朧気で、思い出したくない気恥ずかしい記憶が頭を過ぎる。いや、あのね? ……やっぱり恥ずかしいよ?
「……く」
……でも、他に食う方法があるかと言えば、なぁ。
……あぁ、もうっ!
「……はぐっ」
俺は、スプーンに乗せられた料理を食べた。
「美味しいですか?」
「……ん」
「えへへ……」
はにかむ弟子から、俺は視線を逸らす。
……恥ずいわっ。
♪
――さぁ、遂にこの時が来た。
「……ってか、猫は何処だ」
「えっと……さっきまでその辺に居た気がしたんですけど……」
辺りを見渡すが、その姿が無い。
「くそっ、逃げたか」
「逃げたみたいですねー」
これは……捜索しなきゃいけないのだろうか?
「っていうか、どうしてアイツの為にこんなに頑張らなきゃいけないんだ」
不意に冷静になる俺。いや、うん。腕を噛まれてまで頑張ることですか?
「えっと……じゃあ、止めときます? 師匠の右手も痛そうですし」
「む……そう言われると」
……なんというか、止めろとか言われると逆に止めたくなくなるのが、俺の駄目な所であり。
「……いや、頑張る」
呟くと、弟子が呆れたように眉を顰めて、
「……あまのじゃく」
……仕方ないだろ。
「じゃ、捜索といこうか」
「わたしも探すんですか……?」
「当然だ。弟子なら師匠の役に立て」
「えー……」
「……良いから行く! 俺あっち、お前こっち!」
うんざりした声を上げる弟子に指示を出す。 ……気持ちは分かるが、そこまであからさまに嫌そうな顔をしなくても。
……というわけで、発見である。猫には悪いが、小屋の敷地内に居る限り、結界の魔力感知で簡単に見付かるわけで。
……見付かったのは良いのだが。
「……棚の上。か」
台所の棚の上で、思いっきり威嚇してくる猫。その位置は、俺の顔より高い。
猫社会では、相手よりも高い位置に居るほうが上位に立っているという認識で、つまり……。
「フシャーッ!!」
「……怖っ!」
今の俺って言うのは、あくまでもアイツの基準としては、下位な訳で、当然言うことなんて聞いちゃくれません。
「くそ、そんなに風呂が嫌か……っ」
「しゃーっ!」
「でもな、そんな汚い姿のままでうろつかれても困るんだよこっちは」
衛生的に悪いから。……まあ、アイツの体調とかに、悪影響があったら、マズイから。
「……つーわけでだ。降りろ」
「ふしゃっ」
手を伸ばしたら、即座に猫パンチしてきた。
「…………」
……とりあえず退却。いや、逃げるんで無くてな?
「おい、弟子さんよ」
律儀にも、ちゃんと倉庫の方を探していた弟子に声を掛ける。
「あ、はい。見付かりましたか?」
「うん。まあ、来い」
「……?」
首を傾げる弟子の手を掴んで、台所に向かう。
「あそこに居る」
「はー……」
俺が指を差す先、猫は、相変わらず棚の上で俺達を威嚇していた。
「このまま掴まえようとすると、攻撃してくる」
「どうするんですか?」
「うん。だからだな……」
とりあえず、アイツよりも高い位置にいけば良いわけだ。
「……でも、対等な位置でも、結局師匠って……」
「……うん」
……やっぱり、攻撃されるわけで。
「そう。そこで、コレだ」
「か、肩車ですか……」
「おう」
もちろん弟子が上で。こいつだったら攻撃されることも無いだろうし。
「うー……ん。わかりました」
……というわけで。俺がしゃがんで、その上を弟子が跨ぐ。
……うん。
「……師匠?」
「いや、なんでもない。じゃあ、行くぞ」
首筋にかぼちゃパンツ――ではなくっ! 煩悩を振り払うために、俺は勢いを付けて立ち上がった。
「――にゃっ!!?」
「あ」
勢いあまって、天井に弟子の頭をぶつけた。
「……うー」
弟子の恨めしそうな声が、頭上から聞こえる。
「悪い……」
謝りながら、少し身体を屈めた。微妙な中腰。……一番腰に来る体勢だ。
「ほら、早く猫を」
「はいー……」
弟子が涙声で答えながら、手を猫に伸ばす。
「…………」
特に抵抗するでもなく、静かに捕まれる猫。……やっぱり弟子なら噛み付かないのな。
「さて……ここからが勝負なわけだ」
「ふーっ」
噛まれないよう、とりあえず首筋を掴んでいるんだが。……このままどうやって洗えと。
「……はあ」
ため息を吐いて、首筋を掴んだままこちらを向かせる。誰かさんに良く似た、性格の悪そうな瞳が俺を見つめ返す。
「なあ、猫よ」
――全く。
「何やってんだろうな。俺……」
どうして急に、こんなことを思い立ったんだか。
……多分。
「やり残したことが無いように。だよなぁ……」
馬鹿か。こんなことよりももっと、本当はやらなきゃいけない事があるだろうに。
「……逃げてるよな」
下らない。とっくの昔に受け入れた筈なのに、今になって怖いのかよ……。
……何が怖いのか。俺は……死ぬのが怖いのか?
それとも……。アイツを置いていくのが、怖いのか。
「……なぁ、猫」
俺は、ぶら下げた猫に話掛ける。
「アイツは、俺が居なくても、独りで生きていけるかな……?」
「…………」
猫は、先程までの威嚇全開とは打って変り、静かに俺の話を聞いていた。――が、
「――っしゃあああ!!」
「うおっ!?」
突如、俺の手元から離れる猫。猫は身を翻して俺の方を向き、
「――ぬおっ!!?」
突然、何の威嚇も無く噛み付いて来たのを、紙一重で避ける。
「おま、おまっ……何すんだよ!?」
というか、怖、怖っ……!?
「ふしゃー……!!」
「なんだよ……」
何をそんなに怒ってんだ……って、あぁ……。
「……悪かったよ。俺が居なくなっても、お前も居るもんな」
……それでも、今のアイツは、俺が居なくなったらどうなるのか……。
「……わかった。後は任せる。から」
だから、俺はせめて最後まで、アイツの師匠として有り続けてやろう。アイツが、いつか俺の元から離れていくときの為に。……色々と、片付けていこう。
……つうわけで。
「よし。まずはお前を綺麗にしてしまおう」
「ふしゃぁあああああ!!!」
……って、やっぱり駄目ですかっ!?
「ふしゃぁあああああ!!!」
「ぎゃあああああ!!?」
「ししょうっ!?」
…………。
『らじかるぱにっく』
おわり。
次回更新は10月20日、20時予定。




