第1話:静寂なる処刑場
その場所は、真珠の名を冠するに相応しい、冷徹なまでの純白に支配されていた。
王宮『真珠の間』。
天井まで届く巨大なステンドグラスからは、無慈悲な月光が白大理石の床に降り注ぎ、その鏡のような表面を刺すように照らし出している。磨き抜かれた床には、数分前まで「王国の至宝」と讃えられていたはずの青年――イクセス・ヴァン・アスタロトが、ただ一人、惨めに膝を突き、額を冷たい石に擦り付けていた。
イクセスは、かつて愛を誓ったはずの女性の、汚れなき白革の靴先を、地を這う虫のような視線で見つめていた。その靴の表面には、一粒の塵も許さぬ「清潔」という名の暴力が宿っている。
「……顔を上げなさい、イクセス。いつまでそうして、無様に床を舐めているつもり? 見苦しいわよ。その湿った吐息で、私の愛する真珠の床を汚さないで頂戴。貴様の存在そのものが、我が王国の清廉な空気を濁らせていることに、まだ気づかないの?」
扇子を閉じるパチンという乾いた音が、広大な間に鋭く響き渡った。
声の主は、アスタロト王国の第一王女、マリアンヌ。
彼女が纏うドレスは、最高級の魔導シルクを幾重にも重ね、彼女が動くたびに幻想的な燐光を散らしている。そのドレスの裾一房、あるいは刺繍された糸の一本でさえも、今のイクセスには決して贖うことのできない、身分という名の重みがあった。
イクセスはゆっくりと、泥を啜るような重さで頭を上げた。
視界が歪んでいるのは、情けなく流した涙のせいではない。数刻前からこの広間に満たされている、上位貴族たちの悪意に満ちた「重圧魔力」のせいだ。肺を直接押し潰されるような物理的な圧迫感。それ以上に、これから行われる『剥奪の儀式』を前にして、体内を網目状に走る魔力回路が、異物を検知したかのように不吉な脈動を繰り返し、心臓の奥を刺すような鋭い痛みを発していた。
「マリアンヌ様……私は、身に覚えのない罪で、ございます……。国庫の魔石を流用したなど、断じて……すべては、冬を越せぬ領民たちのために、土壌を活性化させる環境改善薬の触媒として、正当な手続きを経て……」
「黙りなさいと言っているの。聞き苦しいわ。誰が貴様の、泥臭い言い訳を許したというの?」
マリアンヌの扇子の先が、イクセスの顎を強引に持ち上げた。
目前に迫る彼女の瞳は、燃えるような紅蓮色。だが、そこにはかつて彼に向けられていた甘い光など微塵もなかった。あるのは、出来の悪い、あるいは修復不可能なほどに壊れた「道具」を、ゴミ箱へ放り込む際のような、底冷えのする侮蔑だけだ。
「魔石の流用など、証拠が必要ならいくらでも用意させてあげるわ。……もっとも、そんな形式的なことはどうでもいいの。本当の問題は、あなたの存在そのものが、我が王国の『完璧な美』を著しく損なうという事実よ。わかる? イクセス。あなたからは、いつも鼻を突くような『土』の臭いがする。それが心底、反吐が出るほど不快だったのよ。王女である私の傍らに、土を弄ぶ不潔な男がいる。その事実だけで、私の尊厳は傷ついたわ」
周囲を取り囲む貴族たちから、さざ波のような、下卑た笑い声が漏れた。
彼らは手に持った最高級のクリスタルグラスを傾け、琥珀色のヴィンテージ・ワインを悠然と喉に流し込む。
ゴクリ、という下卑た嚥下音。その音さえも、今のイクセスにとっては処刑のカウントダウンに聞こえた。彼らにとって、この断罪劇は劇場の演目よりも贅沢な、極上の「ざまぁ」を楽しむための娯楽に過ぎないのだ。
「錬金術師ならば、金を作れ。不老不死の妙薬を作れ。……それなのに、あなたが血道を上げて作ったものと言えば何? 『作物の育ちを良くする魔法の肥料』? 『泥水を飲み水に変えるフィルター』? 笑わせないで。そんな卑しい民草のための道具など、この高貴なる王宮のどこに必要だと言うの? 貴様は錬金術師という尊い職を、ただの農作業の延長へと堕としたのよ。それは、この国の知性に対する冒涜だわ」
マリアンヌは、まるで道端に落ちた家畜の糞でも踏みつけるような目で、イクセスの胸元を見下ろした。
そこには、王家との深い繋がり、そして彼が第一級錬金術師であることを公的に証明する、黄金の紋章が刻印されている。イクセスの体内に張り巡らされた、血管よりも細く複雑な魔力回路は、この紋章を接点として王国の巨大な魔力源と連結していた。これこそが、彼の奇跡を成す力の源泉であり、錬金術師としての生命線だった。
「あなたのような、泥を愛でる『無能』には、その高潔な回路すら分不相応な贅沢だわ。……騎士団長、やりなさい。彼の中から、不相応な特権をすべて根こそぎ掻き出してしまいなさい。跡形もなく、細胞の一つひとつからね」
背後に控えていた、鎧を纏った巨漢が、ギィ、と重い金属音を響かせて歩み寄る。
近衛騎士団長ボルドー。彼の手には、魔力を強制的に引き剥がし、霊的な回路を破壊するための禁忌の儀礼用具『破魔の楔』が握られていた。鈍く黒ずんだ鉄の杭が、月光を吸い込んで邪悪な光を放つ。
「待って……待ってください! その回路は私の、二十年の研鑽と、魂そのものだ! それを切れば、私は二度と魔法を――」
「死なない程度には手加減してあげるわ。……追放された後の『エメラルド・デス』で、せいぜい長く、惨めに、孤独に、命の灯火が汚泥にまみれて消えるのを待つがいいわ。あそこなら、あなたが愛してやまない毒も泥も、腐るほど転がっているもの。あなたには、お似合いの終の住処でしょう?」
マリアンヌが冷酷な笑みを浮かべ、白皙の指先で優雅に、死の宣告を告げる合図を送った。
次の瞬間、ボルドーの剛腕によって『破魔の楔』が、イクセスの胸骨の真上、紋章の核へと容赦なく叩き込まれた。
「ぎ、……あああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
絶叫。
それはもはや、人間の喉から発せられる音の限界を超えていた。
肺の中の空気がすべて、一瞬で沸騰した溶岩に置換されたような錯覚。
ジ、という、肉と魔力が焼ける嫌な臭いが、神聖な広間に立ち込める。楔から放たれた負の魔力が、イクセスの体内回路を凄まじい勢いで「逆流」し、全身の毛細血管、神経節、そして脳細胞の隅々までを内側から爆破するように焼き切っていく。
イクセスの胸元から、かつては輝かしかった黄金の光が、生木を無理やり引き裂くような凄まじい異音と共に、粒子となって溢れ出した。
その光の破片が、床に落ち、薄い氷が砕けるような音を立てて虚空へと消滅していく。
それはイクセスが、爪を泥に染め、血を吐くような努力で築き上げた誇りであり、未来そのものだった。それが今、マリアンヌの気まぐれな「不快感」という理由だけで、ゴミのように捨てられていく。
「見てなさい。王家の回路を失った途端、この男、あんなに青白い顔をして。まるで、光を奪われ、陸に打ち上げられた深海の魚のようね。口をパクパクさせて、滑稽だわ。ねえ、みんな、そう思わない?」
マリアンヌの勝ち誇ったような嘲笑は、遠のく意識の中で、深い水底から聞く鐘の音のように歪んで響いた。
視界が、不自然なほどの真っ白な閃光に染まっていく。
崩れ落ちるイクセスの身体。指先が床の大理石を無様に掻きむしり、その衝撃で爪が剥がれて赤い血が白亜の床を汚していく。だが、その指先の痛みさえも、魂の核を直接削り取られる絶望感の前では、微々たる刺激に過ぎなかった。
(ああ……そうか。この世界は、最初から、どこまでも狂っていたんだな……。誠実さなど、ここでは毒にしかならないのか……)
完全に意識が闇に落ちる寸前。
肉体と精神が耐えうる限界を超えた苦痛が、脳内の「ある禁忌の境界線」を突破した。
これまで「魔法という名の不可解な奇跡」として処理されていた世界の物理現象が、突如として別の形、別の理論、別の言語を成して頭脳に流れ込んできた。
それは、奪い去られた旧時代の回路の穴を、埋め尽くすようにして噴出した異質な知識の巨大な奔流。
前世。
科学という名の、もう一つの「世界の再定義」。
――警告。生体維持エネルギーが臨界点を突破。
――窒素(N)、リン(P)、カリウム(K)。土壌組成および植物細胞の分子構造、再計算完了。
――不純物ろ過プロセス、多層式高分子化学反応による最適化シミュレーションを開始。
――全魔力経路を、現代科学知識を触媒とした『真・錬金回路』へ強制的に移行。
王宮の静寂は、もはや処刑の静けさではなかった。
それは、数千年の魔法文明が、一人の男の覚醒によって根底から覆るための、嵐の前の凪。
床に這いつくばり、ピクリとも動かなくなったイクセスの瞳が、意識を失いながらも、一瞬だけ――王家の黄金よりも深く、冷徹なまでの知性と、凍てつく復讐心を湛えた「琥珀色」の輝きを放ったことに気づく者は、まだ、この場に一人もいなかった。
「……連れて行きなさい。汚らわしい。明日、国境の門から、あの毒霧の向こうへ放り捨てるように。二度とその不潔な顔を見せないで頂戴」
マリアンヌの、鈴を転がすような、だが冷酷極まりない命令と共に、イクセスの身体は兵士たちによって雑に引きずられ、広間から運び出されていった。
後に残ったのは、剥がれた爪の生々しい血痕と、砕け散った黄金の光の残滓だけだった。
はじめまして作者です。最初の3話だけ真面目に書いてますが、徐々に邪道になります。最終的には単なるヤ〇〇ンで終わります。本編72話+α最後までよろしくです
碧衣




