第2話 緋之原菊菜
「緋之原菊菜です」
菊菜はキリッとした明るい表情で自己紹介をした。
声はハッキリとしていて、ややビジネスライクに感じる。
「あ……ど、どうも、之々良海郎です」
俺は席を立って挨拶した。
菊菜が席に着くと、
「それではあとはお二人で」
と言って女性職員は部屋を出ていった。
(うう、何から話せばいいんだろう)
などと俺がモタモタしていたら、
「まずは席にお着きになっては?」
と、落ち着いた声で菊菜に言われ、その時になって俺が立ちっぱなしだったことに気がついた。
「あ、す、すみません」
慌ててガチャガチャと椅子を引いて座る俺。
「えっと、その、まずは何を……」
話したらいいのでしょうか、と聞こうとしたら、
「早速始めましょう」
と、菊菜が持っていたブリーフケースから書類を取り出して机に広げた。
俺もひと通り目を通してはいたがよく分からないところも多かった。
「あ、はい」
(すげーーできる女子って感じだーー)
などと俺が内心感心しているうちに、菊菜は手際よく話しを進め始めた。
「プロフィールは既にご承知ということでよろしいかしら?」
「あ、は、はい」
(緋之原菊菜さん、二十九歳、よし覚えた!)
「基本の契約内容は標準雛形どおりでご了解?」
「は、はい、了解です」
俺が慌てて答えると、菊菜は心持ち口の端を上げて微笑んだ。
「では特記事項のお話を詰めましょう」
もう完全に仕事の取引モードの菊菜に、俺はついて行くのがやっとだった。
「まずは住居ですけど」
「はい」
「マンションを購入してください、できるだけ早く」
「は、はい……?」
マンションをできるだけ早く購入なんて言われても、一体どうすればいいのか分からない。
「名義は夫婦共同名義で財産権は五十パーセントずつにしてください」
(財産権?)
なんだか難しい話になってきたなと思った。
だが財産の話はきっちりしておかなくてはいかないと、なんかの記事で読んだことがあった。
なので、
「はい、分かりました」
と俺は答えた。
「次に家事全般について、勿論将来的な育児も含めてですが」
「はい」
「標準雛形ではその都度お互いに話し合いの上決定するとあります。が……」
「が……?」
「私、帰りが遅くなりがちな仕事をしていますので、基本的には全てあなた……之々良さんにやっていただきたいの」
「あの、それって全部俺がって、ことですか……?」
さすがにそれは極端ではないかと思って俺は異を唱えようとした。
「勿論、私も時間が許す限りは分担します」
俺の意を察したかのように菊菜が答えた。
「でも、家事全般と言っても、あなたが考えているほど多くはないと思います」
と、菊菜。
(帰りが遅いとか言ってるもんなぁ、少なくとも平日の夕飯はいらないってことか?)
「これも特記事項に加えようと思うのですが食事は全て別々にします」
「はあ……」
「お洗濯も別々、お風呂も別々で」
「はぁ……て、え?」
洗濯はともかく風呂が別は当たり前なのではないだろうか?
(それとも……)
などと考えていると、
「お洗濯はコインランドリーで、お風呂は銭湯でお願いします」
と菊菜が言った。
「お願いしますって……それは俺がコインランドリーと銭湯で決まり、ということですか?」
「ええ、勿論」
言葉通り、当然でしょという表情の菊菜。
(え、ええ?結婚ってこういうものなの?)
結婚は勿論、恋愛も知らない陰キャ非モテの俺ではあるが、これはさすがにちょっと違うのではと思う内容だ。
「それから夫婦別姓も特記事項に入れます。結婚後もお互いは名字で呼ぶことにしましょう、之々良さん」
「は、はい……えっと」
俺は手元のプロフィールを確認した。
「はい、緋之原さん」
(名字呼びか……そういう人もいるみたいだけどやっぱ淋しいよな……)
「それともう一つ、大事なことがあります」
「はい……」
これ以上何があるというのかと、俺は震える思いで身構えた。
「性行為についてです」
ごく普通のことのように菊菜が言った。
「はい……」
俺は内心驚いた。まさかそこまで特記事項に明記するのだろうか?
「標準雛形には『双方の合意がない性行為はしてはいけない』とあります」
「はい」
「それは了解でよろしいですね?そうでないと結婚契約ができませんので」
「はい」
「よろしい。では……」
と言って、菊菜は書類の束の中から一枚の用紙を取り出してテーブル越しに俺に見せた。
その書類には、
【性行為同意申請書】
と記されていた。
「……同意申請書?」
俺は呆気にとられてその書類を見た。
「はい」
「えっと、これはどういう……」
「そのままの意味です」
「そのままの……ということは」
俺は血の気が引いていくのを感じた。
「はい、性行為を希望する場合は、この【性行為同意申請書】を相手に提出して同意を得なければならない、ということを特記事項に入れます」
「え、あの……」
俺は何と言えばいいかわからずに口籠ってしまった。
「何か?」
菊菜が落ち着いた様子で聞いてきた。
「ということは、その……」
(全くできないということもあり得るってことなのか?)
そう聞こうとしたが、菊名の冷静な目に見つめられ俺は言葉を返せなかった。
「い、いえ……了解です」
「そう、それはよかったわ」
表情を和らげて菊菜が言った。
「勿論、これは仮決定ですから」
「はい」
「今日の打ち合わせの結果を踏まえた契約書と特記事項は私から事務局に提出しておきます。後日最終的なものが送られてくると思いますので、それに署名すれば契約結婚成立です」
「はい」
「勿論、修正協議もできますが、私としては今日の決定が最適だと思っています」
異論は認めないというオーラを全身から発して菊菜が言った。
そして後日結婚契約書と特記事項が送られてきた。
ところどころ不満はある。まずはマンションの購入だ。
勿論結婚していずれは持ち家を、ということは漠然とながら考えていた。
特記事項には「速やかに購入することとする」と記されている。
(速やかにってどれくらいだよ)
なんて思っていたら菊菜からショートメールが届いた。
開いてみると、
『このマンションなんてどうかしら?』
とリンクが貼ってあった。
開いてみて俺は危うくスマホを落としてしまうところだった。
「こんなの俺に買えるのかよぉおおーーーー!」
俺は一人大声で叫んでしまった。
そこにまた菊菜からショートメールが届いた。
『今すぐには無理だけれど、いずれ私も資金を出します』
(これって、大丈夫かな……)
当然この段階で拒否することもできた。
だがこの前の打ち合わせでは、話を手際よく進めてくれた菊菜に好感を持ったのも事実だ。
もし相手の女性が、控えめで自分の気持ちをあまり表に出さないタイプだったとしたらどうだっただろう。
そうなれば当然、陰キャコミュ障の俺が全てをお膳立てして進めなくてはならない。
(そんなことしてたら爺さんになっちまう)
というより相手の控え目女性に呆れられてしまうだろう。
そう考えれば一度の打合せでここまで話が進んだのは菊菜のおかげなのだ。
(この機を逃したら二度とチャンスは来ない!)
そんな、追い詰められた思いが俺を支配していた。
(また会って話がしたいな……)
なんて思っていたら、また菊菜からショートメールが届いた。
『明日の夜、会えますか?一緒にお食事しましょう!』
ズキュン!
これには完全にやられた。
勿論、俺は速攻で返信した。
『はい!是非お願いします!!――――
「あれが躓きの始まりだったのかなぁ……」
俺は腕に抱いた摩衣李を見ながらぼそりと呟いた。
「でもな摩衣李、あの時は楽しかったんだ……緋之原さんもたくさん笑ってくれたし……」
さっきまで泣いていた摩衣李も今はスヤスヤと眠っている。
俺はこの子をちゃんと育てていけるのだろうか……
実の娘ではないとはいえ責任が重くのしかかってくる。
摩衣李が来て三ヶ月、この子がいない生活を想像するのが徐々に難しくなってきていることも感じるのだ。
(とにかく今は摩衣李第一だ)
天使の寝顔の我が娘を見て俺は気持ちを引き締めた。