第3話 摩衣李
摩衣李が我が家に来たのは三ヶ月前、俺と菊菜が契約結婚をして一年が経った頃だ。
その時の摩衣李は一歳を迎えたばかりだった。
俺と菊菜の関係は法律上は夫婦だ。たが、実際のところは単なる同居人同士と言っていい。
まず何よりも、夫婦としてあるべき生活が全く無かった。
そう「夫婦生活」が皆無なのだ。
俺は結婚当初から律儀に【性行為同意申請書】を菊菜に出し続けた。
だが、菊菜は容赦なく全てを却下した。
「あの、理由を聞いても……?」
と、恐る恐る伺う俺に菊菜は、
「仕事で疲れた」「気分が優れない」「体調が悪い」などなど、様々な理由を付けて断ってくるのだ。
確かに『性行為は夫婦双方の合意のもとになされなければならない』と結婚契約にも記されている。
だが、いくらなんでもひどいではないか、と悶々とする日々を俺は送っていた。
このままでは、妻子がありながら死ぬまで童貞などという、悲しいことこの上ない生涯を送ることになりそうだ。
そもそも摩衣李がなぜ俺と菊菜の子になったのか。そこから話さなければならない。
摩衣李の母は菊菜の親戚筋にあたるらしい。
その摩衣李の母夫婦が交通事故で亡くなってしまった。
摩衣李の父には確認できる限りでは身内はいなかった。
つまり身寄りがなくなってしまった摩衣李を、唯一の親戚である菊菜が仕方なく引き取った、ということなのだ。
菊菜は摩衣李を引き取るにあたって、結婚契約の家事育児の分担の特記事項の適用を主張した。
「私も手伝えることは手伝うけど、基本的に摩衣李のことは之々良さんが世話をしてね」
と言ってきたのだ。
摩衣李は俺達夫婦の養子ということにした。
勿論、俺は摩衣李の世話をすることにはなんら異議は無かった。
だが、子育ては炊事洗濯とはわけが違う。
一人暮らしも長いと、一般的な家事はそれなりに工夫してできるようになるものだ。
だが、子育てとなると全く次元が違うと思うのだ。
「だったら子育ても早く慣れて工夫をしたらいいんじゃなくて?」
と菊菜に言われてしまい、俺は何も言い返せなかった。
ということで俺は、とりあえず摩衣李の保育所が決まるまでの間、会社に育児休暇の申請をすることにした。
「あれ?お前子供生まれたんだっけ?」
と、上司に不思議がられた。
「いえ、親戚の子を引き取らなきゃならなくなりまして」
「奥さんは育休取れないの?」
「はい、無理だと言われたもので」
と、説明しなんとか育児休暇をもらえた。
俺が育休を取るまでは菊菜が一時預かりをしてくれる保育園に摩衣李を連れて行ってくれていた。
「できるだけ早く育休取ってね」
としっかりと釘を差すことも忘れない菊菜だった。
ただ、保育所が決まっても送り迎えのことを考えると、今の会社で同じように働き続けるのは難しそうだ。
マンションのローンのことを考えると転職も避けたい。
(うちの会社、リモートはやってないよなぁ……)
こうしてドタバタているうちに保育所が決まった。
送りと迎えを分担しようと菊菜に相談すると、
「育休取れたんだから送り迎えも之々良さんがやって」
と一方的に言われてしまった。
『育児を含む家事全般は夫が主体的に行い、妻は補助的な役割を担う』
と結婚契約特記事項に記されているからだ。
そうなると、今の勤務を時短にしてもらわなければならない。
「うーーん、そうなると今のポジションは外れてもらうしかないなぁ」
時短勤務は認められたものの、上司からそう言われてしまった。
俺も年齢的に部下を持つチームリーダー的な役割を任され始めていた。
勤務時間も不規則になることもしばしばだ。
(摩衣李のためだ、仕方ないよな……給料は減っちまうけど)
ベビーベッドですやすやと眠っている摩衣李を見ながら俺は思った。
そして、摩衣李の初登園まで三日という時になって菊菜から長期出張の話があったのだ。
しかも、出発は二日後だというではないか。
「この出張の成果次第で転勤もあるかもしれないわ」
「そんなことになったら摩衣李は……」
俺が聞くと、
「それはあなたが考えて」
と、にべもない。
そして菊菜は俺と摩衣李を置いて出ていってしまった。
摩衣李を初めて保育園に送りに行った日は緊張した。
自慢ではないが、俺は中身は勿論のこと見た目も陰キャだ。
どうも目つきが陰キャしてるらしい。
自宅の洗面所の鏡で見る分には、慣れてしまっているからかよく分からない。
たが、スーパーなどの鏡にたまたま自分の姿が映ったのを見てしまうと、
(うわ……くらっ)
と自分でも思ってしまう。
保育士さんはほとんどが女性だ。
陰キャな俺が一歳の女児を連れて保育園に行けば、怪しんで当然だろう。
たが俺も伊達に三十年以上陰キャをやってはいない。
女性から怪しまれることなど想定済みだ。
「お、おおおはようございまっす!」
と、無理して陰キャらしからぬ明るさでご挨拶をしようとして、いきなりやらかしてしまった。
だがめげずに、保育士さんにすぐに見せられるように用意した入園決定通知書と運転免許証をサッと出す。
念の為、胸ポケットには戸籍謄本も用意してある。
とりあえずはなんとかなった、と思った。
だが保育士さんは眉をしかめて一歩引いている。
(うわぁーーやっちまったかぁーー)
俺は全身の毛穴から冷や汗を吹き出しながら硬直してしまった。
その時、
「ふぇええーー……」
と摩衣李が泣き出してしまった。エマージェンシーである。
(この泣き声は……!)
時間的にミルクやオムツではないはずだ眠いということもないだろういつもと違う環境によるストレスか?保育士さんから猜疑の目で見られた俺の緊張が摩衣李に伝わってしまったのかもしれない。
俺は秒で状況を判断した。
(よし、これだ!)
「おお、よしよし、大丈夫だ……大丈夫だぞ」
そう言いながら俺は摩衣李をあやした。
後から思えば陰キャの俺が保育士さんの前でこんなことをするなんて、穴があったら入りたい大自爆ものだが、その時は摩衣李のことが心配でそれどころではなかった。
それを見ていた保育士さんが、
「はーーい大丈夫ですよーー」
と言いながら俺の腕から摩衣李をそっと抱き上げてくれた。
「ふぇ……」
摩衣李の泣き声が静かになった。
(さすが保育士さん!)
ホッとするとともに保育士さんの偉大さを実感する俺だった。
「あの、之々良さん、ですね?」
と入園決定通知書を見ながら保育士さんが聞いてきた。
「そそそうです!之々良まま摩衣李です!!」
俺は気をつけの姿勢で答えた。
「すみません、お母様が来られると思ったていたので」
「いえ、大丈夫でっす!」
こうして俺は、緊張の保育園初登園イベントをクリアすることができた。
(迎えの時も書類は持ってこなきゃだよな)
同じ保育士さんが対応してくれるとは限らない。
初日こそ緊張したものの、慣れてくると保育士さんとも緊張せずに話せるようになってきた。
他の親御さんとも挨拶を交わす程度ならできるようになってもきた。
思っていたよりもお父さんの送り迎えが多いのも俺にとってはプラスだった。
朝の出勤前に保育園に摩衣李を預け、会社を早上がりして保育園にお迎えに行く。
そんな日々を送っていたが、勿論、子育ては保育園の送り迎えだけではない。
食事は勿論、服を着せる脱がせる、オムツを替える、風呂に入れる、などなど数え上げればきりがない。
入園前は弁当も作らなければならないかと覚悟していたが、保育園で給食が出るとのことだった。
「ふっ、給食のありがたさが身にしみるぜ」
と、謎の漢セリフをはいて気分を紛らせる俺だった。
とにかく俺には分からない事だらけなので、ネットや育児本で調べたり、保育士さんや他の親御さんにも聞いて教えてもらった。
生来の陰キャコミュ障の俺だが、こんな状況に追い込まれるとそれどころではなくなるのだと実感した。
とにかく分かる人に教えてもらわなければと必死になる。
おどおどオロオロしている間など無いのだ。
すべては摩衣李のため、それが俺の生きる意味になっていた。
とはいえ、俺一人では限界があるのも分かっている。
この生活を初めて一週間が過ぎたが、これから先も続けていけるか考えるとやはり不安だ。
「それはそれで仕方ないのよ」
とベテランの保育士さんが励ましてくれたりもする。
それでも、もう少しなんとかしてやれないものか、という思いが強くなってくる。
(緋之原さんにも頼んでみるかな……)
結婚契約上も『妻は補助的な役割を担う」と明示されている。
他のことはともかく、もう少し育児のことを手伝ってほしい。
あまり期待はできないが頼むだけは頼んでみよう。
そんな折、以前に見たニュースのことを思い出した。
『AGI搭載の有機アンドロイド実用化へ』
というニュースだ。
(もしかしたら育児をやってくれるアンドロイドとかもいるのかな?)
すると、菊菜からショートメールが届いた。
それを見て俺は
「え?」
と声を出して驚いてしまった。
『育児を頼めるアンドロイドがあるらしいわよ』
まさに今俺が考えていたことそのものズバリの内容が菊菜から送られてきた。




