第三話
3
暫く、いや少し長い間待っていると。
トタトタという軽快な足音と、チリンチリンという可愛らしい鈴の音と共に、彼女は戻ってきた。
「長かったな。トイレ、見つかったか?」
「ええ、お陰様で。」
彼女の薄い笑みが、何故か今は物凄く恐ろしいものだと感じる。
「國島さん。」
「……はい。」
目を逸らすことさえ許しはしないという目つきで、真正面から睨めつけられる。
「…はぁもう、ああいうくだらない事はやめてください。大人気ないです。」
プクリの頬を膨らませて、また呆れ顔を浮かべて、説教を始める彼女の表情は、ころころと変わるので、なかなか飽きない。
不思議なことに、この少女はどんなに不機嫌な顔をしていても、どこかしら端にほんの少しの優しさが残ってしまうようだ。
「いい歳してるんだから。」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。」
「なんですか?今度は。」
「いや、そうじゃなくて」
まだ彼女の顔には、疑念と警戒が色濃く残っている。
しかしそれを抜きにして、かなりショックであった。
「俺、何歳に見える?」
「なんですか、そのくだらない質問は。その手のものは答えたくありません。」
「どう答えても理不尽に怒られる気がします。」
「いや、そういう忖度は抜きでいい。もっと単純に、俺は何歳に見える?」
こちらの顔を覗き込んで、しばらく思案した後。
「ええと…。三十路…入りたて…?」
膝から崩れ落ちた。
「あ、あ、ええと違うんです。それくらい若く見えるってことで、あからさまなお世辞とかじゃなくてですね!」
「じゅう…は………」
「……はい?」
「じゅう…はち…だ……。」
「ま、またまたぁ!二度は騙せませんよ!」
「本当だ。ほんと、なんだ…。」
「……え?…本当に…?同い年…?」
ウッ!
「その顔で…?」
「ウグッ!!」
言うじゃあないか…!
「あっ、ああっ!そのっ!ごめんなさい!あ、悪意があった訳じゃなくて、さっきのは純然たる本心であって!別に悪口とかそういうのじゃなくて!」
「グッハァッッ!!」
トドメを刺された。
「だから、そうとしか見えなかったんです!ごめんなさい!」
カン!カン!カン!
試合終了のゴングがなる。
彼女の無邪気なる言の葉の刃は、容赦なく俺を引き裂き、
無垢が故の容赦のなさに、俺は完膚なきまでに敗れ去った。
「あの、大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫だ。」
「これでさっきのと痛み分けだ…!」
「は、はぁ…。」
仇敵に手を差し出すと、戸惑いながらも拙く握り返される。
二人の間に、ライバル同士の奇妙な友情が芽生えようとしていた。
かもしれない。
その時。
「うぅわァァァァァァァ!!!!!」
遠くから悲鳴が轟いた。
「!」
「い、今の声は!」
「さ、佐藤さん…でしょうか…!?」
「と、とにかく!戻ろう!」
そうして手を取り合ったまま、俺達は『現場』へと向かって走った。
「どうしたんだ!!!」
俺たちが目覚めた部屋の廊下を挟んで対面にある部屋がどうやら悲鳴の元であるらしかった。
部屋の前に立っている大石へと声をかける。
「あっ!!國島さん!岡田さん!」
「あの!いま悲鳴が!」
「え、ええ。この、中で…。」
「何が、何が起きたんだ!」
「…。」
激しく問い詰めると、彼は目を臥せってしまう。
「……ッ……!」
埒が明かない!仕方ない、押し入る。
「あっ!ちょっとっ!」
止めようとする大石。
遮る手を払って、襖を力いっぱいに開く。
部屋の奥。暗い。何も見えずそのまま歩を進める。
何か、人影が壁に体を預けて座り込んでいるようだ。
そうして、少しずつ目が慣れてきた。
そこには。
大きく、大きく咲く暗紅の大輪。
役目を終えた、人形のよう。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。
足先が少し濡れる。
誰だ?いや、違う。既に、これは人じゃない。
これは、なんだ?
肉塊。もう動くことのないもの。
さっきまで動いていたもの、人間だったもの。
生きるための力はすべて抜け落ち、弛緩しきって投げ出されている手足。
一つのお顔が真っ二つ。
ぱっくりと大口を開けた頭蓋から赤と混ざりあった脳漿が垂れ落ちる。
それを目で追って行けば、彼女の表情がはっきりと目に入った。
「…ッッ!!キャ「う、わああああああああああああああああァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!」
瞬間、足が弾かれたように走り出す。
見たくない!あの顔を、一瞬でも視界に入れていたくない!
この惨状から、一秒でも速く逃げ出さなければ!
「國島さんッ!待って!!」
駄目だ、あれは駄目だ!
人の、正しくない死。望まぬが故、抗いも願望も何もかもねじ伏せられ理不尽を呪いながら生を終える恐怖。
絶望の絶頂の瞬間で時を止められ、その形相を切り取られ刻み付けられたかのような。
まるで、恐怖の彫像。
俺は、どこまで行っても、自分の生すら投げ出しても、あの、恐ろしい顔に追われるのか。
嫌だ。もう見たく無い。
どこまで、いつまで逃げればいい、ああ、どうすれば許してくれるんだ、母さん。
「ユウキは偉いね。」
そういって撫でてくれた母さんの声は、祝福の色に満ちていた。
しかし、その時の、その顔が思い出せない。
元々、母は俺の憧れであった。
それは、その評価に足る人物が他にいなかったからでもあったし、真に俺自身が彼女の在り方自体に心底陶酔していたからでもあった。
端的に言ってしまえば、彼女は夢追い人、だった。
自身の憧れへとまっすぐに突き進むその姿は、まさに鮮烈な輝きそのものだと、幼い頃の俺にはそう見えていた。
そして理想に向かって、決して平坦ではない道を何度もつまずきながら、傷つきながら、ひたすらにそれに近づこうとする姿は、俺の索然とした日常に光彩を与えてくれた。
彼女はけして練習部屋へ、自分を入れてくれることは無かったが、しかしそのピアノの音を扉の隙間から盗み聴くことが大好きだった。
そんな少年時代の優しい日々も長く続きはしなかった。
両親の決裂は、ある日唐突に訪れたというわけではなかった。
俺は長年、夢を追う母と安定を求める父の間に軋轢があるのを知っていた。
両親が言い合う声で眠れずに、布団の中で丸くなって耳を塞いだ記憶は未だ鮮明に思い出せる。
そうして、その時は訪れた。
父と母は袂を別ち、俺は決断を迫られることになる。
未だ幼かった俺だったが、この決断の意味は十二分に理解していた。
それだけの猶予を彼らはくれたのだ。
そうして、俺は父のもとで暮らした。
当時自分が何を考え、どんな心情だったかは分からない。
どんな理由であれ自分は、はっきりと母を裏切ったのだ。
別れ際、彼女はいつもと同じ様に頭を撫でてくれた。
それが、俺が直接に見る母の最後の顔だった。
しかしやはり、その表情だけが思い出せずにいた。
その後、母と決裂した父を、その生き方を憎み、恨んだこともあった。
しかし、すぐにそれは愚かな間違いだと気付かされることになる。
母の訃報は、唐突だった。
離婚後の母は、狭いアパートで暮らしていたらしい。
独りで誰に看取られることなく亡くなったそうだ。
その衝撃も受け止め切らぬうちに、俺のもとに一つの写真が届いた。
亡くなる少し前に母を撮った写真だ。
それに写る彼女の表情だけは、何度忘れようとしても、頭からこびりついて離れない。
懊悩、無念、苦悶、憎悪。
すべてを混ぜて濃縮したかのような、激しい面魂。
その激烈な感情は何に向けたものか。
それは写真をひと目見たときにわかってしまった。
彼女の才を受け入れられなかった世界か、寄り添おうとしなかった親族か、生き方を否定した父か。
どれも、違うだろう。
何か恨んでいたモノがあるとすればきっとそれは、唯一母を裏切った、俺だ。
その写真を俺は二度とも見たくは無かった。
きっと今も、國島家にある蔵書に一枚、挟んであるだろう。
しかしそれ以来毎日、夢にその顔貼り付けた母が出てきて、俺に呪いの言葉吐くのだ。
その夢は俺の精神をどんどんと蝕んでいき、体に不調をきたし始める。
しかし、俺よりも先に父が母と同じ様に病床に臥せった。
その間でさえ、彼は母について語ることは無く、そのまま静かに亡くなった。
そうして俺は一人、あの恐ろしい幻影に悩ませ続けられることになる。
「お前のせいだ。お前が、殺したんだ。」
やめろ。やめてくれ。
「辛かった、苦しかった。孤独だった。」
悪かった。許しくれ。母さん。
だって、だって仕方がなかったんだ。
許してくれ、許してくれ。許して、ください。
もう…許してください…。
「……し……さん。」
「……しまさん!」
「くにしまさん!!」
目を開けると、触れ合えそうなほど近くに岡田あずさの顔があった。
「……ぅあ…?」
「大丈夫ですか?國島さん。」
「あ、ああ……。大丈夫、だ。」
「…そんな風には、見えませんけど。」
よほど心配なのか、覗き込んだ顔の距離を一向に離そうとしない。
「だって、こんなに顔色が…。って悪すぎです!なんですか!メロンみたくなってますよ!」
「いや、少し吐き気がして…。」
今度は呆れたような表情へと、変えた。
「ハア…。あんなに取り乱しといて、吐き気だけ?」
「死体を見るなり部屋飛び出して行っちゃったと思ったら、今度は居間の隅の方でガタガタ震えちゃってて。」
「そんなことになってたのか。」
「え、覚えてないんです?何度呼びかけても反応してくれないから、ショックで死んじゃうんじゃないかって、すっごく心配したんだから!」
少し大げさだと思ってしまったが、彼女の顔つきは、言葉に相違ないほど不安げだ。
まるで本当に俺が今死んでしまうのではないかという顔。
そんなに俺の顔色は悪いのだろうか。
「その…私、あなたがまさかあんなに取り乱すとは…。」
「それは……。」
彼女は少し声をよどませる。
それも当然だろう。
いつでも構わないなどと豪語していた男が、死体一つを見るだけでこんなに取り乱すなど、滑稽極まりない。
しかし。
「でも私、変かな?」
「…?」
「実はね、少し安心しちゃったんだ。」
奇妙なことを言い始める。
「あれだけ死にたがっていた人もきっと、死ぬことが怖くないわけじゃないんだって。」
それで、何を安心するのか全くわからなかった。
「あっ!あなたに死ぬ気が無いって言ってるわけじゃないの!」
「でも、やっぱり心の底では…。」
そこまで言われて理解した、ああ、彼女は決定的な、致命的な勘違いをしている。
「それは違う。俺は死ぬのが怖いわけじゃないんだ。最後に死ぬという考えは変わらない。」
「ただ、あれは…あれだけは駄目なんだ…。」
「……國島…さん?」
あの…あの終わり方、だけは…。
「あー。んーおほん!その、そろそろいいかな。」
一度も周りを確認せず、超至近距離で話し合っていた俺たちは、既にこの皆が最初にいた場所、居間に当たるだろうか、そこに全員集っていることに気づかなかった。
「え、あ、うわっ!す、すみません。」
そう、全員集まっていた。
ただ一人、あの神経質そうな女性、中村幸代以外は。
少し間を置いて、大石が口を開いた。
「おそらく全員わかっていると思うが。」
「一人、死人がでてしまった。」
「それで…。まあ、これも言う必要はないんだろうが…。」
流石の大石も今までどおり、口を軽く動かすことはできないようだった。
「それでも、状況の整理をするべきだといったのは僕だ。」
スゥと薄く息を吸った。
「彼女、中村さんは誰かに殺された。」
彼が決定的な言葉を発した瞬間、場に一閃、緊張した雰囲気が走る。
おそらく全員、その次の言葉を恐れている。
「それでだが、彼女が亡くなる前、最後に見た人は、誰かいないか。」
誰も答えるものはいなかった。
仕方ない、それは自分に対する一つの疑念を強めてしまうからだ。
しかし、手を挙げる者がひとり。
「わ、俺だ。亡くなる前では無いのだが、俺が彼女の遺体の第一発見者だ。」
佐藤浩二だった。
「そうですか…。ではあなたが発見したときには、あの状態だった、と。」
「え、ええ…。」
大石は少し俯いて思案したあと言った。
「この場合、2つの可能性があると言える。」
「一つは、僕達をここへ攫った犯人が彼女を殺した。もしくは…。」
ゴクリ、と唾を飲んだ音が聞こえた気がした。
「ここにいる、誰かが彼女を殺したかだが…。」
「この可能性は、少ない。」
そう、言い切った。
「…待て、なぜそう言える。」
黙って耳を傾けていたが、大石の断言に思わず口を挟んでしまった。
「理由は、いくつかあるんだが…一つはまず、動機が誰にも無いことだ。」
「僕達は全員、ネット上にあった佐藤さんの募集で集ったクチだ。故に、個人間での恨みつらみは無い筈なんだ。」
「そうとは限らないだろ。それは、最初から計画されていた殺人の場合だ。例えば、そこのおっさん。俺が目を覚ましたときから中村幸代と喧嘩してたじゃねえか。」
「く、國島さん!」
隣から、俺を咎める声が聞こえた。
しかし構わず続ける。
「しかも、遺体最初に発見したのもおっさんだ。それを誰も証明してはくれない。喧嘩中につい、カッとなってやっちまっても…。」
「國島さんッッ!!」
グイと横から服を引っ張られて、少し熱くなってたことに気づいた。
「もう、やめて!少し、落ち着いて下さい!」
「そ、そうだ!私は何もしていない!証拠だってある!」
「ま、ま、落ち着いて、佐藤さん。それに國島さんもだ。この状況で取り乱してしまうのもわかる。
けどそれ自体、犯人の思い通りかもしれないんだよ。」
「犯人の思い通り…?それはどういうことだ。」
「僕がここにいる人たちが犯人じゃ無いといったことには一つ、確信があるんだ。」
「……?」
横であずさが首を傾げた。
「僕が探索していたときに、見たんだ。」
「この中の、誰でもない人影をちらりとね。暗くて、全身よくは見えなかったんだが、声をかけたら走ってどこかへ言ってしまったんだ。」
「…そいつが中村を殺した犯人だって言いたいのか?」
「ええ…。そもそも、僕達をここまで誘拐した犯人が、ただ閉じ込めただけだとも言い切れない。なら、ここで一人ひとり殺害するのが目的だとしても不思議じゃない。」
「今だって、誰かを殺そうとスキを伺っているかもしれない…。今ここで僕達が揉めることは悪手だと思うんだ。」
「待ってくれ、ここにいる俺たち以外に誰か潜んでいるっていうのか?」
「他に誰かそういう影を見つけたやつはいるか?」
そう言って全員の顔を見る。
すると、佐藤が手を挙げた。
「それだったら、お、俺も似たような影を見た。最初はこの中の誰かだと思ったんだが、今考えると着物のようなシルエットだったし…。」
着物…?
「…僕と佐藤さんは同じ人影を見た…ということか…?」
大石は再び、顎に手を当てて何かを思案するような格好になる。
「…と、もかく、いえ尚更僕が言いたいのは、これは僕達の手に負えることじゃない、という事だ。亡くなられた中村さんには悪いけれど、今は脱出することを最優先にするべきだと思うんだ。」
「後は、ここを出て現場は警察に任せるべきだと、僕は思う。」
確かに、そのことに異論は無かった。
死にたい、とは言ったが俺はあの死に方だけは、それだけはごめんだった。
「そういば…皆の捜索の成果をまだ聞けていなかったね。」
思い出した、というように手をポン、と叩いて大石は言って、佐藤へと顔を向けて返答を促した。
「ああ。俺は、あちら側の部屋を見てきた、が、特に何もなかった。」
「そうか…。では、次に國島さんと岡田さんだが、君たちは一緒に行動していたんだったね。」
「ああ、俺たちはあっちの通路の奥まで進んだが。まあ別に大したものはなかった。トイレくらいか、なあ?」
横にいたあずさに、同意を求めると。
「あぁ〜、ええと…。」
非常に歯切れの悪い答えが、帰ってきた。
「おい。もしかして、なんかあったのか…?」
何故か気まずそうに両人差し指を胸の前で突き合わせている。
「実は…トイレに行ったあと帰りの通路に横に扉があったんですよね…。」
「な、なんで早く言わねぇんだ!」
「仕方ないじゃないですか!あの時は怒りで頭がいっぱいでしたし、その後はそんな機会、一度もなかったですし…!」
逆ギレし始めた。
そこに大石が口を挟む。
「ま、待ってくれ!兎に角、そこに扉があったんだね?それで、それをどうしたんだ?」
「いえ、皆に報告しようと思って、そのままです。」
「そうか、じゃあ、そこが出口かどうかはまだ分からないんだね?」
「え、ええ。中は確認していません。」
「じゃあ皆で、確認しに行かないか?」
首を横に振る者はいなかった。
3.5
楽しげに走るきみ。
それを見てわたしも楽しくなる。
抜けるように青い空。落ちてきそうな白い雲。
公園で駆け回るきみを見て、わたしも一緒に走ってく。
きみを追って走ってく。
涼しげな風が吹き抜ける。
青いはらっぱで走り疲れて一緒に寝転がって。
手を繋いで笑いかけたら、きみは無邪気に笑い返す。
あると信じていた、わたしときみの時間。
夢見ていた、きみとわたしの時間。
掴めたはずの、わたしとあの子の時間。
もう、叶うことはないけれど。