10章-(6)悲観的な決意
ぎい、ぎぎい。
ざぷり。こぽり。
ボートのきしみと水をかく音が夜の湖に現れ、闇夜に染みて消える。
ふう、とリーリエはため息を吐く。天の巨大な右弦の月は空をうっすらと紺に染めるほど輝くが、しかしその下の湖は気が滅入るほど黒い。
だがリーリエは陰鬱な表情で船を漕ぐ。
それでも、湖へ向かう手は休まらない。
わたしが行かなきゃ……わたしが終わらせなきゃ……
悲痛な思いを胸に秘める……と、その時。
「え?」
彼女の耳が何か異変を捕らえた。
周囲は一面湖で、岸からもだいぶ離れたというのに。
何か……とん、とん、と地面を蹴るような音が……?
瞬間。
ドザン!
「きゃ……!!」
リーリエは悲鳴を上げ。
そして見た。
湖のただ中でボートに乗りこんだ、ソウジとマーリカの姿を。
◆◆◆
「え……!?」
リーリエが俺の顔を見て唖然とする。
「え、え……!?」
リーリエは周囲を見回し、改めて状況を把握し、改めて混乱する。
まあそういう反応はするだろう。
いきなり湖のど真ん中でボートに乗り込まれれば、誰だってそういう反応はする。
“いったいどうやってこの船に乗り込んできたのか?”
俺は彼女の頭の中の疑問に答えるべく、親指で来た道を指し示してやった。
「……氷!? 湖に氷の足場を作って、ここまで……!?」
「そういうこと。アンタの村のお人好しのおババから、たぶんアンタが今夜動くだろうって聞かされてさ。で、湖張ってたら案の定ボートで沖に向かうもんだから、こうやって追ってきたってわけ」
至極面倒くさそうな顔をしつつ、マーリカが解説。
「どうして……」
「どうしてだろうねえ? あたしもその辺聞きたいんだよねえ。ねえ、セイ?」
マーリカがボートの端に畳まれていた投網を引っぺがすとーー隠れていたセイが顔を出した。
「あなた……!」
唖然とするリーリエに、セイは真っ直ぐな瞳を向ける。
ここにいるのは当然、といわんばかりの瞳で。
「どうして……みんな、わたしなんかのために……」
「どうしてでしょうね~? ほんと、あたしからも聞いときたいな~?」
クスクスと笑うマーリカの瞳が、俺の方へ向く。
――スジが通らんから動いたまでだ。“普通”だろ? 俺の行動は正しいはずだ……
そう言った俺に対し、マーリカはゆっくりと首を横に振り、失笑。
「行きずりの見ず知らずの女のために命張るなんて全くもって“普通”じゃないわねえ……ソウジ、アンタ気づいてる? 自分自身の変化にさ?」
――俺が……変わった……?
「あの強盗団の連中と事を構えた時かな? アンタが変わったのは」
違う。
もっと前からだ。キョウコと出会い、己を知り“普通”を学び、そしてあの列車の一件で俺は自分の行くべき道をーー
「……気づいてる? アンタの心境の変化には、常にアンタの背中の“斧”が関わってるってことにさ?」
……なに……?
「魔剣は持ち主の感情を増幅させ、感情のエネルギーをエサにする。アンタの斧は怒りを増幅させる……けど、人の感情ってのはさ、一つだけを突出させることはできない」
――何が言いたい……?
「強い楽しみを知り、強い喜びを知り、強い悲しみを知るからこそ……深い怒りが生まれる。魔剣はエサとなる感情を引き出すために、持ち主の感受性をより敏感にさせる。怒りだけじゃない。喜び、悲しみ、愛情、憎しみ……あらゆる感情が鋭敏化する。もう気づいてるでしょ? ソウジ?」
…………
「アンタは元々冷たい人間だった。他人の痛みも感情もわからない。世界は自分か、それ以外だと簡単に片付けられる、先天的な人殺しのそれだった……それがなんてザマなの? 流されるセイを心配して、濁流に飲まれる魔人達まで|気遣って、あげく見ず知らずの女のためにこんなこと……全くもって“普通”じゃない。
もう分かったでしょ? アンタの今抱く感情はアンタのものじゃない。魔剣が作り出した偽りの感情ってわけ。アンタ、今まさに魔剣に取り込まれかけてるのよ?」
…………そうかも、しれない。
思い起こせば、伯爵の城で魔剣を手に入れた時から俺は少しずつ変化していた。
魔剣を手にするまで、俺は〈ナインズ〉の元“9”、オグンに対し怒りの感情しか感じてはいなかった。
だが、魔剣を手に入れ、レイザさんと共に彼の墓を見た時、哀れみや後悔の念を感じるように……
魔剣は持ち主の感情を食らい、終には持ち主の精神を壊す。そういう代物だ。
俺の感情の変化が魔剣の仕業だとすれば……この感情が偽りのものだと、するならば……
「…………」
心配そうに、セイはじっと俺を見つめている。
俺はゆっくりと首を振り、セイの髪を撫でてやった。
……いいさ。
偽りのものでいい。
結果としてまともな人に近づいているなら。瑞希の願う“普通”の人に近づいているなら……それでいい。
これが魔剣の罠であったとしても。偽りの感情だったとしても。
誰かの命が助かるならば。助けられるならば。
二度とあの港町シパイドでの間違いを犯さないためにも……
俺の決意とは裏腹に、セイは髪を撫でる俺へ嬉しそうな笑みを浮かべる。
そんな彼女を見ていると、胸に温かいものが湧き出てくる。
偽りの感情。
……構わない。最終的に、感情の手綱を握っているのが俺であればいい。最終的に斧に感情を奪われさえしなければいいんだ……
「えっと……」
困惑するリーリエ。俺はため息を一つ吐き、彼女へと向き直る。
俺のことはどうでもいい。今はリーリエ、彼女の事が問題だ。
――なんでそうやって死にたがる……?
俺の問いに、リーリエは目を伏せた。
――俺達が信用できないか? 湖の化物を倒せないと思っての行動か?
「……それもある」
正直に答え、リーリエの瞳が、まっすぐにこちらに向く。
「けれど一番の理由は家のため……村のため、だから」
――村のために死ぬ気か?
「ええ」
迷いのない言葉だった。
――あいつらはあんたの家族を生贄にしようとした。それが叶わないとなると、あんたの家族や親族を孤立させ、罪の意識をすりこみ、自発的に生贄となるように仕向けた……わかるか? 奴らはあんたから奪うことしかしない。それでもあの村の連中のために死ぬと?
「それでも、生きるためだから」
リーリエが、笑う。
悲しそうに、笑う。
「魔人が生きられる場所はどんどん狭くなってる。純人類に奪われている。皆生きるのに必死だし、最近は魔人の村でも同じ魔人を受け入れないようになっている……そんな状況。
わたしだって生きたいよ……死にたくない。でもわたしが死ななければどうなるの? わたしの家族はここ以外生きる場所はない……家族のために。村のためにも、わたしが生贄になれば丸く収まるから……だから……」
「他人のために死ぬの? 自分の命は自分だけのものでしょ? ありえなーい」
マーリカの言葉に少しだけ同意しつつ、俺は彼女に問うた。
――丸く収まるってのは村の連中の考えだろう? あんた自身はどうなんだよ? ここまでの仕打ちされて、あんたの心は丸く収まってるのか……?
「……ええ。わたしは生贄に選ばれて、誇らしいと……思ってる……」
重症だな、こいつは。
どうしたものかと考えている時――異変が起こる。
「……ソウジ」
マーリカの声。
わかっている。
こちらのボートに向かって、奇妙な一本の波が向かってきていた。
例の化物か……




