第二十八話 雲外蒼天②
ーーー夜中、俺は異音に目覚めて村の建物群を見る。
それは、地獄と呼ぶにもまだ足りない。
燃え盛る煉獄すらも慈悲と呼べる、言葉では言い表せない最悪の世界だった。
思い返すのは、十年前のあの夜の光景。
母さんが誰かに殺された夜のこと。
右も左もわからず、自分の力を呪い、平穏に生きるため全ての自我を捨てた夜。
思い返すのは、二月前ぐらいのあの夜の光景。
俺が暮らしていた村が人狼たちによって滅ぼされた夜のこと。
オヤジが喰い殺され、今度は戦って平穏を勝ち取ると決めた夜。
何度も何度も悪夢を頭の中で反芻した。
残滓が脳にこびりつき離れずとも、忌まわしき過去が執拗に俺のことを絡め取ろうとも、その度に今度こそはそうならない様に最善の選択をしていたつもりだった。
そう。俺は精一杯、その時取れる最善の選択をしたはずだ。
帝国で修行した日々だって、美食家を打ち破ったのだって、全部確からしい成果であるはずだ。
俺がとった選択が最適解でなかったとしても、何であれこうはならなかったはずなんだ。
みんなは死なないはずだった。俺は苦しまないはずだった。北方の動乱は俺が収めるはずだった。
それでも、悪夢は終わらない。
記憶に蓋をしても、幾度となくその蓋は破壊されてこじ開けられる。自身の生まれに底なしの怨嗟を向けようと、現状は何も変わらない。
ーーー俺は結局、あの時死んでおくべきだったとつくづく思う。
心臓が、止まる寸前の様に警告音を鳴らす。
思考よりも先に、背筋が凍りついて動かない。
声も出ない。叫ぶことすら今の俺には出来ない。
そうして身体から力が失われ、膝から崩れ落ちる。
目の前に広がる光景を信じたく無いのに、ただの悪夢だと思いたいのに、どうしてこの地獄絵図をすぐに現実だと認識出来てしまうんだろう。
「嘘だ……。こんなの…だって、…じゃあクモナは……。なんで…俺は生きてるのに」
俺はすぐに、この村を焼け野原に変えた原因を突き止める。
ダッキだ。あの無慈悲なサディストだ。最悪の拷問狂だ。アイツがこの村を壊滅に追いやったのだとすぐにわかった。
だが、そうであるなら不可解な点が多い。
クモナは日夜、村の周辺を警戒しており、特に夜間は寝ずに全方位を厳戒していた。アイツの能力なら夜中の侵入者なんてネズミ一匹逃さない。ダッキが村に侵入する前に退避は可能な状態であるはずだ。
それに、俺のことを数日かけて探し回っていたダッキが黙って村人だけ殺して立ち去るか?
そんなことはしない。奴は俺がいるかどうか問いただすだろう。
(そうだよ…俺を…俺を差し出せば…こんなことにはならなかったはずだ………。…いや、)
違う。俺一人が犠牲になればこうはならなかった。では無い。
俺がいなければ、そもそもみんなは犠牲にならなかった。村のみんなも、協力を快く引き受けてくれた男衆も、俺に声をかけてくれた老婆も。誰も彼も死ぬことは無かった。
もっと言えばあの時俺がダッキを殺せていれば、ここ数日に壊滅した幾つかの市町村は無事だったのではなかろうか?
そう考えれば考える程、俺は煮えたぎる溶岩の中に浸かっているかの如く身体が熱くなった。
憤怒か、焦燥か。どちらにせよ取り返しのつかない状況に抱く最悪の感情に、身体が危険信号を出しているに違いない。
どうして、俺はあの時、無理をしてでもこの村を出なかった?
歩ける様になった時、一人で食事を取れる様になった時、どうして俺はこの村を去らなかったんだ?
どうなるかはわからなかったが、外には出れたはずだ。一人で帝国の支部を目指すことは現実的では無かったかもしれないけれど、誰かの力を借りれば不可能では無かった。
何故そうしなかったのか。理由は単純で、ただ甘えてしまったんだ。
クモナが俺を守ってくれると言ったから。アナが甲斐甲斐しく俺の面倒を見てくれるから。村人たちが温かく俺を迎えてくれて、あの老婆が声をかけてくれたから。
だから甘えてしまった。どうあれ帝国の兵士と出会うのにも、俺の身体が全快になるのにも時間がかかりそうだったから、もう少し、この村にいてもいいかと思ってしまったんだ。
こうなることは予測できていたのにも関わらず。
「……最、悪だ…。俺は…どうして……また同じことを……」
あまりにも愚かしい。救いようの無い滑稽な人間。
自分の不肖さに怒りを通り越して吐き気がする。
俺はまた、あの時と同じ様に、いるはずの生存者を探して歩き始めた。
轢き潰されて原型を留めていない遺体は、血溜まりの中で無言の断末魔を叫ぶ。
最早性別を判断する要素に欠けるが、男も、女も、年寄りも子供も。老若男女全てが大蛇の餌食になっている。
瓦礫の山から見える子供の腕。倒れた松明の横には、焼け焦げて煤状になっている誰かの顔があった。
(…………)
この世界は、あまりにも無慈悲だ。
荒廃した土地で、火焔の中に包まれて立つ真紅のドレス。忌々しそうに地団駄を踏み、空気を震わせるあの少女。
否、正信の獣。
全身に返り血を浴びて赤に染まるドレスは、元の色が元の色を忘れさせる程に仰々しく禍々しいオーラを放っていた。
「ーーーは、ハハっ。アハハハハ!なぁんだいるじゃ無いクソガキィ!」
「…ダッキ……」
「?どーしたの、もう悪態つく体力も無くなっちゃった?そりゃああんだけ毒を注入してやったんだから歩けてる方が不思議よね?片時も私のことを忘れられなかっただろぉ???」
興奮したダッキがクルクルとその場で飛び回りながら手を叩く。
フリルのついたゴシック調のドレスで楽しげに舞う様は、一見すると無邪気な子供の様だった。
その異様な返り血の量と、侮蔑的な言葉遣いさえ除けば、端麗で優美な少女でしか無い。
「でも、私も忘れてないぜクソガキ。お前に殴られたとこが、今もズキズキ疼くんだよ。お前を殺せば、この痛みは収まんのか?」
「………殺すなら、もうさっさとやってくれ」
「…ふうん。もう諦めちゃったっての?なっさけない!でも、お前みたいなのが一番イジメ甲斐があって最高よ!絶対タダじゃ殺してやらないから、存分に苦しんで頂戴」
そう言うとダッキは俺の首に手を伸ばし、鼻先が触れるぐらいの距離で俺の瞳を覗く。
光の力を練ってどうにかカウンターを試みる。
しかし、蛇の相貌に睨まれた俺はまるで動くことが出来なかった。
万全の状態であればなんてことなかった蛇の視線による硬直も、今の俺には最大限の効力を発揮する。
もう一息に殺して欲しかったけれど、それも叶わないんだ。
俺はこれから、コイツに痛ぶられて死ぬのだろう。
けれど、それも当然の報いだと感じる。偶々得た勝利で有頂天になって、助けてくれる人達の温情に甘えた報い。過去の過ちを改善しようとしなかった滑稽な俺への報いだ。
もう散々地獄の光景を見てきたんだ。
ここまで来ると、これ以上の苦しいことなんて早々無い…
…はずだった。
「ハルトを離してちょうだい!!」
「………。誰?お前」
ふと、俺の名を呼ぶ声がした。
声の方向に振り返ると、そこにいたのは華奢な体で鉄棒を構えるアナだった。
「アナ……。何、してるんだ…!何でここに!?早く!早く逃げろアナ!!」
「……逃げませんわ…。みすみすハルトを連れて行かせるものですか…!」
アナは武器を握る震える手に力を込める。
「だって…だってハルトは…。私と、同じだから…」
「何言ってんだ!!そんなこといいから!!逃げてくれ!!逃げろってはやく!!!」
「……ふぅ〜ん。…そー言うこと…」
何か思いついた様子のダッキは俺の首から顎に手を回し、力無くもたげる顔面を両手で撫で回す。
煌びやかな赤に装飾された長い爪で俺の髪を掻き分け、目、鼻、口を丁寧に、まるで赤子を撫でるかの様に触れる。
生者では無い、冷たい肌の感触が俺の頬を這い回った。
そうして、俺の顎をグイッと上げると、荒々しく唇を唇に押し付けてきた。
「っ〜〜〜〜〜!!!!!」
有無を言わさずに重ねられた唇。息苦しさに悶えようと強引に顔を掴まれ、逃げ場が無い。
口内に異物が入ってくる異様な感覚。
舌が俺の中に入ってきているのに、まるで温もりを感じず、冷たい氷を押し込まれている様な感覚になる。
その舌でダッキは入念に俺の前歯と口内を撫ぜると、仕上げとばかりに上唇を犬歯で強く噛んだ。
顎に沿う様に流れる一筋の血。それと共に流れる、目の前の獣の唾液。
恍惚とした表情のダッキは緩やかに目を細めると、動くことすらままならないアナに視線を向ける。
「卑しい女!お前、コイツとこうしたかったんだろ?お前、コイツのことが好きなんだろ!!ほらっ!阿婆擦れ!!」
「うっ……っわぁああああああ!!」
「やっ、やめろアナぁぁぁ!!!」
目の前の光景に耐えることが出来ず、鉄の棒を両手に握ったアナはダッキに向けて突貫する。
薄水色のネグリジェ姿で、華奢な肉体の普通の女の子が、屍人であるダッキに対抗できる訳なんて無いのに。アナもそんなこと、わかっているはずなのに。目の前の人物がこの村を襲撃した張本人だってわかっているはずなのに。
向かってきたアナを一瞥するとダッキは俺の顎から手を離し、ふわりと舞う様に空中に飛んだ。
ダッキを狙った鉄棒が空を切る。
ヒールの踵が、真紅のドレスが、燃え盛る火に照らされて影を作る。
寝そべる様に仰向けに飛んだダッキはアナの上を飛び越えると、右手でアナの頸に手を当て、そのままアナの意識を刈り取った。
抵抗する間もなく、アナは膝からその場に崩れ落ち倒れ込む。
俺が、身体を無理やり起こそうとももう遅い。先ほど唇を噛まれた時にまた神経毒を注入させられていたのだ。
「でも、いいぜ。丁度いい。お前ら二人とも、存分に使ってやる。クソガキの苦悶する顔が今にも目に浮かぶわ!!」
白に染まっていく視界。痺れて曲げることすらままならない指。平伏する様に地につけていた両腕も、今では力無く折れ、俺もアナ同様に顔から地面に伏せた。
目も当てれぬ程の無様さ。嘲笑すら誘う程の惨めさ。
そうして俺は、ダッキの耳障りな笑い声と、木や肉が焼ける最悪の異臭を感じながら、意識を落とした。
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「おい…おいおいおいおい嘘だろ嘘だろ!?」
焦燥に駆られ、帷の降りた暗闇をクモナは走る。
遠くに感じた違和感に気付いた時にはもう遅かった。
既に望みは無い。目に映る景色はそれの証左だ。
燃え上がり、空をぼんやりと橙色に染める村の方向。クモナが村の外れに到着した時には既に悲鳴は聞こえず、数百メートル離れた林の中でも、生者の気配がないことが伺えた。
(どうしてだ!?俺は、一匹たりとも生者の気配は見逃さなかったはずだぞ!!)
クモナは村の周囲を“影”で覆っている。
影の力は光の力の拡散とは逆で、収束である。その影を村の周囲の地面に潜ませることで、どんな生物であろうとトラップに引き込むことが出来た。
クモナはハルトよりも自身の力の修練を積んでいる。途轍もないエネルギーを消費はするが、ローズアイルの村北東周辺を一晩探知するだけであれば問題が無かった。
しかしそれを上回ったのがダッキの能力だ。
ダッキは、クモナが張った円形の影の内側に転移したのである。
(内側に…瞬間移動してきたってことか…?確かにそれなら…ハルトが急に現れたことも辻褄が合う…)
その事実に遅ればせながらクモナは気付く。
ハルトがローズアイルの村周辺に倒れていたことと、前日までアベラワーの街で作戦を実行していたことを考えればその選択肢も浮かんできたはず。
しかし、クモナはその選択肢を蔑ろにしていた。
クモナが村民から聞いた情報では、ダッキは蛇の神格者であると聞いていた。よって能力的にも転移の可能性は無く、ハルトがローズアイルの街付近で倒れていたのはまた別の要因であると考察していたのだ。
ハルトはアベラワーの戦闘の最後を毒に侵され記憶していない。
あの時目覚めたダッキの真の能力については、誰も知り得なかったのだ。
(くそっ…それしか考えられない!予測できたはずだ…!不自然さに気付けたはずだ!ダッキの能力が何かしら進化しているとも考えられたはずなんだ、くそったれ!!)
クモナの胸の内に鈍い後悔が広がっていく。
確実に蝕まれ、締め付けられる胸を抑えながら、クモナは必至の思いで林の中を走った。
そんなことを考えている暇は無いと。どうあれアナを探さなければ、ハルトを守らなければ。
自分の甘さを悔いるのはその後で、今は何を引き換えにもそれでしか失策を取り戻せないと考えた。
その時、
(っ!?!?)
視界の右奥遠くを歩く人影が見えた。
(あれは…女…?いや、あ、れは!)
クモナが、影の力で音を最小限に抑え近くまで寄ると、その人影の輪郭が明らかになる。
それは、ハルトとアナを引きずって歩くダッキであった。
「くそがっ!なぁんで私がこんな重てぇもん持って歩かなきゃいけねぇんだ!全部このクソガキのせいだ!!ぜってぇ極限まで痛めつけてから殺してやるからな!!!」
ダッキは恨み言を吐きながらガツガツと土をヒールで削って歩く。
少女の肉体で人を二人引きずって歩くには中々山道は険しい。今すぐにでも転移で移動したいダッキだったが、向こう見ずに能力を使用したことで転移は暫くの間使えなかった。
(……っ、アイツがダッキか!!クソ野郎!二人をあんな風に!!)
怒りに任せてダッキへ飛び掛かろうとするクモナ。
地面を引き摺られ、土に塗れたハルトとアナの痛ましい姿を見て、暴発しかけていた感情が一気に煮えたぎったのだ。
だが、クモナも連日の能力の酷使で最早まともに影を練れない程に消耗している。
昼夜問わず動き回り休息を殆ど取らなかったこと。影によるトラップを夜間中展開していたこと。これらが起因してクモナの戦闘能力は平時と比べて大幅に減衰していた。
ダッキへ攻撃を仕掛けようと拳に出現させようとした影の力は、霧の様に薄く拳に纏われた後、静かに消えていく。
クモナはダッキへと足を動かす前に、自身のエネルギーが尽きかけていた事実を実感した。
(ちっ、くしょう!!こんな時に…!連日の無理が…祟ってやがる…!)
ダッキとの距離は凡そ百メートル。夜更けの暗闇と、ダッキの五感も疲労から減衰していたことで、クモナがこれ以上近付かなければ感知されることは無い。
そう。これ以上行動を起こさなければ、ここで荒事が起こることは無かった。
しかしそれは、ハルトとアナをこの場では見殺しにすることを意味する。
手が届く距離にいる二人を、これから痛めつけられるであろう二人が連れ去られるのを、指を咥えて眺めているだけなことを意味する。
(俺は、俺は気の合う友人を!それにせっかく会えた俺の指標を…。ハルトが連れて行かれるのを!黙って見てろって言うのかよ!!)
クモナはハルトよりも戦闘経験が豊富だ。故に自分と目の前の敵の力量の差を理解していた。
どう足掻いても、今の自分では目の前の人物に勝てないことを。
天地がひっくり返ろうと二人を救えるなんてことはあり得ない。
自分がダッキを殺す前に二人を殺されるか、自分が捉えられてより最悪な状況に陥るか、それか自暴自棄になったダッキによって三人とも殺されるか。その三択でしか無いと理解していた。
クモナはここにきて極めて冷静であったのである。
(………)
やがて、クモナは血が出るほどに唇を噛み締め、断腸の思いで決断する。
この場ではダッキを攻撃しない、その決断を。
(今、俺がアイツに飛び掛かってどうなる。全くどうすることも出来ずに、今よりも最悪な状況になるだけだ。万に一つも救える可能性は無い…。だったら…)
クモナの影の神子の能力は収束。影は引力を持ち、付近にあるものを引き寄せて収納する機能を持つ。
肉体、匂い、そして音までも。敵に気付かれる極限まで削り落とすことが可能であった。
要するにクモナは影の中に身を潜めることで、ダッキに勘付かれること無く尾行することが出来る。
この土壇場で冷静さを欠くことの無かったクモナは、その選択を選んだ。
(……そうだ。今、自滅覚悟で挑んでどうする。それよりも、チャンスを伺って二人を救い出すか、奴の根城を突き止めて襲撃するか。俺が取れる選択肢はその二択だろーが!)
忸怩たる思いでそう考え、地面の陰に沈むクモナ。
好機を見逃さないために、疲れ果てた自分の身体に鞭を打って追跡を決意する。
ダッキが向かう先。
それはかつてイヴァン大帝が君臨していた地であり、現在死人の主人であるマリアが冥界領域の起点としている巨大都市の廃墟である。
そこの地下には、ダッキが北方大戦時に使用していた予備の拷問部屋があり、彼女は真っ先に、もっとも近くに在るそこを目指していた。
去るダッキとそれを追うクモナ。
これより、ハルトを救い出すための決死の追跡劇が幕を開ける。




