第1話 狩人と猟犬
「諸君、入隊おめでとう」
四月の陽気な風が僅かに髪を揺らす。
空は晴々と澄み渡り、深呼吸をすると心なしか爽やかな気分にさせた。
「厳しい訓練を乗り越えてここにいる諸君は今、誇らしい気持ちでいることと思う」
帝国の紋である『双頭の獅子』。その旗が左右に立て掛けられた軍の訓練場で、壇上の男が威厳に満ちた声を張り上げていた。
大柄な体格を黒いスーツで包み、左の目蓋の上に目立つ傷を携えた、いかにも百戦錬磨といった風貌。帝国軍軍団長を務める鬼切玄信は、緊張した面持ちの新入隊員を見下ろす。
「知っての通り、地方では反帝国勢力である反乱軍の動きが活発になってきている。諸君の任務は過酷なものになると覚悟してほしい」
皇帝の圧政に苦しむ民間人が蜂起し、各地で紛争が勃発している。それを鎮圧し、脅威を排除することが軍の仕事だ。
「諸君と共に戦えること、光栄に思う。長い話も疲れるだろうからこれで終わろう。これより班で行動してもらう。各員、班長の指示に従ってくれ」
鬼切が壇上を降りた瞬間、場の緊張が和らいだ。立っているだけで場の空気を支配できるような圧力を持つ男だというのが、新入隊員たちがなんとなく共通させた感想だろう。
予め通達があった班に別れる為、綺麗に並んでいた列が崩れていく。ざわざわと賑わい始めた。
それぞれの集合場所に向けて歩き出す、真新しい黒いスーツに包んだ新人達。
そんな中、大衆の流れに混ざるように歩いて行く少年に明るい声が飛んだ。
「大志、スーツ似合ってるじゃん!」
肩を叩かれて、呼ばれた少年はくるりと振り返る。
明るい色の髪、声に見合った快活な印象の面差しの少女が、少年を上から下まで見回す。
「中のシャツは暗い赤とか緑も似合ったと思うよ。白にするなんて普通すぎ」
「新人のくせに、いきなりカラーシャツなんて着れるかよ。先輩方に目を付けられたらどうするんだ」
「相変わらず臆病って言うか、慎重って言うか……」
少女は呆れたように肩をすくめて見せた。
入隊の為に血反吐を吐くような訓練をしても性格までは変わらないらしい、と。
言いたい事がわかったのか、少年はむしろ呆れた顔を隠しもせず少女に向ける。
「あのな、俺はお前みたいに楽天家じゃないんだ。なんだよそのピンクのシャツ、新人のくせに。お前なぁ、軍の、しかも女のイジメは怖いんだぞ。食事に虫を仕込まれたり、軍舎裏に呼ばれて恥ずかしい写真撮られて脅されたりしたらどうすんだよ」
「なにそのテンプレみたいな展開。漫画の見過ぎだって」
「悪いことは言わないから、な? 今からでも白にしとけって。その方が確実だから」
「似合ってない?」
「いや似合ってはいるけど」
「じゃ、問題ナーシ」
「問題はないけど問題の火種だって」
「その臆病なんとかしなよ。班は別れちゃったし、私はもう面倒見てあげられないんだからね」
「見て貰った覚えもない。むしろお前の面倒見てた方だ俺は」
「え?」
「え?」
「ちょっとこの議題は後々ゆっくり語りましょ。ほら、途中まで一緒に行くわよ」
言い終わればさっさと歩いて行ってしまう少女に、少年__宮本大志は小さく諦めの溜め息を吐く。
そして一度、自分の格好を確認する。
黒い髪は短すぎず長すぎない、これといって特別な印象を持たれないはずだ。スーツも問題無し、靴もちゃんと磨いた。周りと比べても自分の格好はどこまでも『普通』だと判断する。
よし、と心中で意気込んでいると、前方でまたも呼ぶ声。
「大志、はやく来ないと遅れるわよ」
「初日でそれはマズイ」
口うるさい自称お目付役の幼馴染、成瀬ハルカの背を追った。
◇◆◇
「失礼します」
集合場所である小会議室に入る。同期が二人、すでに到着していた。
黒板と向かい合うように折り畳みテーブルと椅子が並んだだけの簡素な部屋。大志はとりあえず軽く挨拶をしながら、一番手前のテーブルの端に座った。
チラリと視線を二人に向ける。見たことが無い顔なので、自分が居た訓練校の出身では無いとすぐに判断できた。
どう円滑に自己紹介をするかと考えていると、二人の方が先に大志に声を掛ける。
「はじめまして、私は国塚美波です。二十三区訓練校出身です」
「お、同じく二十三区訓練校出身の、野崎香です。よろしく、お、お願いします」
先に自己紹介をした少女は、明るい声の印象を裏切らない活発そうなタイプだ。長い髪がさらりと揺れる。
続いてその隣に隠れるように立っている、あまり人慣れしていない感じの少女に大志が目を向ける。すると少女は慌てて小さく頭を下げた。
そして何より、二人とも白いシャツを着ている。やはり白で正解なのだと、ピンクのシャツを着てしまった幼馴染に心の中で告げた。
「俺は七区訓練校出身の、宮本大志です。こちらこそよろしく」
「敬語は無しでもいいですか? 同期ですし」
「もちろん。俺は堅苦しいのは苦手で」
「実は私もなんだ〜!」
途端に人懐っこい笑顔を咲かせる美波に、大志は心の中で「だろうな」と同意した。さっきの敬語、普段使い慣れていない雰囲気が僅かに滲んでいた。
美波は敬語という呪縛から解かれ、フレンドリーに大志にあれやこれやと質問をする。それに二、三言返すと十になって返ってくるような会話を続けていると、会議室の扉が開いた。
上官かと思って会話を止めてそちらを見ると、いかにも新人そうな、まだスーツを着慣れていない少年が一人立っている。
「お、遅くなりました! 道に迷ってしまって、僕、方向オンチで……」
軍人がそれはどうなんだ……と大志はまたも心の中で呟く。決して口にはしないが。
「それ、軍人としてどうよ?」
しかし美波はあっさりと言ってしまった。大志は言いたい。口は災いの元であると。
円滑に円満に、なんの問題も無く生活するには口に気をつけるべきである。相手に合わせてそれなりの会話をしていればいい。
「そうですよね、すみません……」
少年は肩を落として苦笑いを浮かべる。
見たところ、こういうタイプの少年はわざわざ相手に食ってかかる感じにも見えないが、しかし人は見た目によらないとも言う。ならば、相手のある程度の人間性を把握するまではなにも語るべきでは無い。
「なんてね。そんなの私たちがフォローすればいいんだよ。仲間なんだからさ!」
少年の前に立ってバシバシと肩を叩く美波に、なんて恐れの無い女なのだと内心で戦慄した。
ずっと昔からの知り合いです、と言われても納得してしまう距離感である。
少年は安心したように表情を緩め、意外に人懐っこい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます! あ、僕、東島健彦と言います。十五区訓練校出身です」
そこでまた全員で名乗り合い、名前を覚える為に心の中で何度も反復する。
滑り出しは和やかに会話が進む。大志は内心、安堵していた。
どうやらこの班には、規律を乱しそうな者もなにかと暴力に訴えそうな者もいない。
正直、大志の一番の心配事はこれだった。
これからの円滑な軍生活は、班員の人柄に左右されると言ってもいい。間違っても問題児がいてはならないのだ。
例えば「あんたらと仲良くする気は無い」と一匹狼気取っちゃう奴とか、ギャンブルや女好きのチャラ男とか、「俺は俺の判断で動く」とか命令無視しちゃう奴とか。それ系の問題児は本当に光の速さで帰って欲しいと、大志は思っている。
軍は班単位での行動が多い。いくら自身が規律を乱さずとも、班員が乱せば連帯責任にもなりかねないと危惧していたが、どうやら安心できそうだった。
「全員、揃っているな」
大志が内心で安堵の息を吐いたタイミングで、再び扉が開く。
左腕に付けた腕章で、上官だとすぐに判断する。椅子から立ち上がり、姿勢を正した。
上官である女性は、新人を見渡してから口を開いた。
「この班の班長を務める近藤和恵だ。と言っても、先の戦闘で班長に何人か欠員が出てしまって繰り上がっただけでな。頼り無いかもしれないが、よろしく頼む」
男勝りな口調とは裏腹に、茶目っ気溢れるウインクで可愛らしいという印象を受ける。
大志はまたも安堵した。
どうやら上官も問題は無いみたいだ。新人である自分が言うのも偉そうではあるが、上司の人柄も軍生活において影響が大きいからなと、大志は順調な流れに心底ホッとする。
間違ってもパワハラとか、部下に責任を押し付ける系の上官であってはならない。そんな就職先は地獄でしかない。
「暫くはこの班で行動するが、能力を見て再び振り分けることもある。その場合はまた通達があるので、それに従うように。さて、それではさっそくだが、皆と共に戦う“猟犬”との顔合わせだ」
場に、ピリッと緊張が走った
猟犬。
正式名称は『戦闘支援武装工作員』と言われる。文字通り、戦闘時に軍人のサポートをする役職である。
身体能力・五感などが通常の人間より遥かに優れており、帝国の開拓時からその力を皇帝に捧げてきた。
と言っても、決して誉れ高い意味では無い。
その正体は、第四次世界大戦の戦犯の子孫達である。
当時、各国からの休戦協定の申し出を跳ね除け、国内の反逆者を晒し首にし、敵が白旗を揚げても皆殺しにしたという数々の逸話が残っている。
その凶暴性と戦闘力を危惧した初代皇帝が、建国する際に彼等から武器と権力を取り上げた。長く続く戦争で数が減っていた彼等は、民衆に取り囲まれるように袋叩きにされたと聞いている。慈悲深い皇帝はそれを諌め、その力を今度こそ国に捧げることを約束させた、というのが伝えられている歴史だ。
つまりは、国が飼っている狂犬ということだ。
どんな凶暴性を持っているかわからない。美波と香が不安そうに顔を見合わせる。
それを見て、近藤が困ったように笑った。
「まぁ、彼らについてはいろいろ噂もあるが……心配するようなことは無いとだけ言っておく」
扉がノックされる。
近藤和恵が「入ってくれ」と声を掛けると、素直に開いた。
「あいにくと猟犬も人員不足でな。この班には二人配属される。優秀な軍人であれば、二人一組のバディを組むことになる。が、まぁそれは先の話か」
大志の視界にまず入ったのは、自分と同じ黒いスーツ。
片方は女性で、ショートカットがよく似合う、明るそうな子だ。カナリアイエローのシャツが印象に合っている。
もう片方は男性。きっちり整えた黒髪とメガネ、吊り上がった目がいかにも神経質そうな印象を受ける。グレーのシャツが硬い印象を持たせる。
「三浦和でっす。よろしくお願いしま〜す」
「紀州遊一郎」
(………………いや、それだけかよ)
大志はあくまで、あくまで心の中だけで思う。
女の方はまだ取っ付きやすい雰囲気があるが、男の方は論外もいいところだ。
見た目通り気難しいらしい。まさか「あんたらと仲良くする気は無い」系の一匹狼気取っちゃう奴なのだろうか。大志の胸に一抹の不安が過る。
「こら、ユウ、愛想良くって来る前に言ったじゃんか!」
それに遊一郎はフンと鼻を鳴らす。
和はやれやれとわざとらしく肩を竦めた。
しかし遊一郎はメガネを薬指で押し上げて仏頂面を崩すこともない。
「そんなんだからバディ組めないんだよ」
「別に組みたくも無い」
「かっわいくないなぁ、お姉さんの言うことは聞くもんよ」
「たかが一歳上なだけで偉そうにするな」
「紀州は相変わらずのようだな」
「そうなんですよ近藤さん! なんか言ってやってください!」
すっかり会話に置いて行かれた新入隊員四人は、適切な言葉も思い付かず黙り込む。
その様子を見た近藤が、補足するように説明を入れた。
「二人はもう二年、工作員として働いている。紀州は今、十九歳だったか。三浦の方は二十歳だから、皆より少しお兄さんお姉さんというやつだな」
「何かあったら何でも頼ってくれたまえ!」
胸を張る和に対し、遊一郎は鋭い双眸を大志達へ向ける。
「間違っても俺をお兄さんと認識するな」
(間違ってもしないって)
恐らくそこにいる新入隊員は全員が、そう思ったことだろう。
◇◆◇
「十時の方向、崖の下。大物がいるよ」
運転席からの女の声に、車内の全員が顔を上げた。
座席が向かい合うように設けられた大型車。車内の人間は席を立ち、崖の下を見に行く。
真昼間の大草原を、巨大なS級危険生物が走っている。幸いにも男たちの乗った車は崖の上を走っているので、獲物にはされないだろう。
「巨牙王が、なんでこんな所にいやがんだ?」
それは、遥か昔に『虎』と呼ばれた生き物に似ている。
発達した巨大な二本の前歯が最大の特徴だ。崖の下に居るのは体長約六メートル程。種の中でも大きい方だ。
性格は獰猛で好戦的。大きい体を維持する為に食べる量も凄まじい。
「もっと南方の山奥にいるはずだ。こんな人里の近い所まで下りて来るなんて、聞いたこともねぇ」
男の話に、運転席の女はハッとする。頭の中で地図を思い浮かべた。
「まずいね、この先には小さい集落があるはずだよ。あのままアイツが進めば、集落なんてあっという間に滅んじまう。この時期は発情期で気が立ってるだろうしね」
「集落に先回りして、避難させるとかどうッスか!?」
物珍しく巨牙王を見ていた大柄な男が、表情を一変させて提案した。男は「バカか」と返す。
「巨牙王の足なら車を飛ばしたところで、そう大差ねぇ。避難を呼びかけてる間にガブリだ」
「それじゃ、ここで、コロス?」
今度は長身のひょろりとした男が、挙手をしながら提案する。それに答えたのは運転席の女だ。
「決めるのはアタシ達じゃないよ」
その言葉に、全員の視線が一人に集中する。
青年はゆっくりと瞼を持ち上げた。
優しげな瞳が現れる。それから穏やかに笑った。
「ごめん、寝てた」
「オイ」
男が青年の頭を叩く。
青年は眉を下げて頭を押さえた。しょんぼりと「お前はすぐに手が出る……」と苦言をこぼす。
運転席の女から状況を知らされた青年は、ふむと顎に手を当てて思案した。
それからおっとりとした仕草で車の後ろの方を指差す。
そこには水や食料、野営道具の他に武器が積まれている。
「銃があるから、それで威嚇射撃をしてみたらどうだろう。わざわざ殺す必要も無いだろう。あの子はまだなにもしていないのだし」
一点の汚れもないような聖い笑みでそれだけ言うと、青年はまた瞳を閉じる。
車体の振動に身を任せ、ゆらゆらと揺れた。眠いらしい。
「いや、テメーなに寝ようとしてやがる。テメーがやるんじゃねぇのかよ」
男はそれを叩き起こした。
青年は心底困ったように笑う。
「僕は銃は性に合わないんだ。お前がやって」
「俺だって派手な武器は専門外なんだが?」
「でも基本、武器ならなんでも使えるだろう?」
「テメーもそうだと記憶してるが俺は?」
「うん、でもお前がやって」
穏やかな雰囲気なのに、有無を言わせず青年は男に押し付ける。
別に睨まれたわけでも凄まれたわけでもない。むしろ笑って「よろしく」と言う青年に、男は根負けした。
コイツは世界最強に頑固なのだと、男は知っている。
決まればさっさと男は動く。
積み重なった荷物の間からケースを引っ張り出し、蓋を開ける。
ランチャーが一丁。弾と一緒に保管されている。武器商人から買い付けたものだ。
それを持って、車の窓を開ける。
耐衝撃体勢を取って、狙いを定めた。引き金を引く。
ギャッと、巨牙王の驚いた鳴き声が微かに聞こえた。
その足元を狙ってもう一発。すると巨牙王の首がぐるんと回って崖の上を見る。
向かって来ようとしたので、すかさず男は二、三発連続で威嚇した。
土を抉るほどの重い弾に、さすがの巨牙王も背を向ける。進路は無事に変更され、どこかへと消えて行った。
「カッケー! さすがカズさんッス!」
大柄な男が憧憬の眼差しで拍手を送る。男はふんと鼻を鳴らして青年に向かった。
「オラ、これでいいだろ」
しかし青年からの返事は無い。
長身の男がひょろりと青年の顔を覗き込んだ。
「もう、寝てる、みたい」
「テメーほんとそういうところあるよな!!」
運転席の女は「幼稚園の遠足バスみたい」と、呆れの声を小さく上げた。
◇◆◇
大志達は、さっそく軍の広場に集められていた。
どうやら二つの班が合同で任務に当たるらしい。詳細は全員が揃ってからということで、もう一班が来るまで待機している。
それまで自由にしていてくれとの近藤の言葉で、班員と当たり障りの無い話をしていると、またも後ろから声が掛かった。
「初任務が大志と一緒なんて、嬉しいな」
聞き慣れた……と言うか、さっきまで聞いていた声。
確信を持って大志が振り返ると、やはり思っていた人物がにっこりと笑っていた。
「俺はそんなに嬉しくない」
「え〜!」
成瀬ハルカは、頬を膨らませて大志に詰め寄った。低い位置で二つに縛った長い髪から、シャンプーの匂いが感じられるほどに。
「かわいい幼馴染みになんて言い草なの!」
「かわいい……? そんな幼馴染みどこにもいないけど」
「殴られたいわけ!?」
「おー、こわ。怪力女」
「ムカつく!」
地団駄を踏むハルカを尻目で見て気付く。
ハルカのすぐ後ろに、男が一人立っていることに。
周りが新品のスーツの中、その男はどう見ても年季のある黒スーツを着ている。深みのある青いシャツの上には、まるで絹のように流れる白銀の髪が光っていた。入隊時172cmだった大志がほんの少しだけ見上げる身長と、細身なのに肩幅はある体型。
道行く女を振り向かせるだろう整った顔が、ハルカの後ろで静かに立っていた。
(……猟犬か)
左手首に付けられた重々しい機械造りのブレスレットを見て、そう判断する。
ほぼ全ての猟犬は、このブレスレットを付けている。
犬を完全に放し飼いしない為の、通称『首輪』。
その凶暴性が軍人、引いては国に向けられた時、即座に処分できるように。
処分の判断は飼い主である軍人に委ねられる。バディを組んでいるならその軍人が、組んでいない猟犬なら上官がそのスイッチを握る。飼い主の判断で、ブレスレットに内蔵された毒針がその命を一瞬で奪う。
余談だが、使用されている毒はA級危険生物の『紅孔雀』のものだ。
尾の先に強力な毒を持つ生き物である。毒が全身に回ると体中の毛細血管が破裂して、まるで紅い花が咲くようだと比喩された事からこの名前が付いた。
大志の視線の先に気づいたハルカが、男を呼ぶ。
「この人、私のバディね」
「もうバディを組めたのか」
しかし、大志は納得した。
ハルカは七区訓練校を首席卒業している。優秀ならば新入隊員でも専用の猟犬を与えられるとは聞いていた。
「柴尾くん、この唐変木は私の幼馴染みなの」
男はキョロリと、夜の海を思わせる目を向ける。
それから薄く笑った。
その美貌に笑いかけられ、大志は一瞬で様々な“想定”をした。
主に、こんな端麗な男とこれからバディを組む己の幼馴染みの未来予想である。
これはあれなんじゃないか、この男にはファンクラブがあって、彼とバディを組んだハルカが軍舎裏に呼ばれる展開とか。食事に虫が入れられたり靴に画鋲を入れられたりとか。
ハルカに同性の友達ができない危機なのではないかと、大志はものの一瞬で思考した。
そんな心配をしていると露見すれば、当の本人であるハルカは「なんでそんな漫画脳なの?」と茶化すのだろうが。
大志が大いにあり得そうな未来予想に固まっていると、美青年の方から口を開く。
「柴尾銀臣、よろしくな」
それに一度思考を中断し、大志は軽く頭を下げた。
「宮本大志です。よろしくお願いします」
「かっこいいでしょ、大志とは大違い!」
「うっせ」
「やだ、事実だからって怒らないでよ」
舌を出して笑うハルカに、大志がいよいよ詰め寄ろうとした時、近藤から号令が掛かった。
新入隊員達はすぐに整列し背筋を伸ばす。初の任務へ臨むのに、場に少し緊張感が生まれた。
その様子を微笑ましそうに見て、近藤は声を張り上げる。
「本日の任務は、帝国東部の端にある『虹霓の森』での定期調査任務だ。主に生態系の調査だな。生息している生物に大きく変化が無いか。また、帝国に脅威を及ぼすレベルかどうかを査定する。新人にはよく振り分けられる任務だ。班長クラスは私が同伴する。気を抜けというわけでは無いが、あまり肩に力を入れる必要は無いと思うぞ」
出動!
一層張り上げられた上官の声に、新人達は敬礼で返した。
◇◆◇
ガタンッと道の石に応じて、体が跳ねる。
大型軍用車に乗った大志達は帝都を抜け、目的地を目指していた。
大志は車窓から外を見る。あれだけ並んでいた民家が見えなくなって随分経つ。都から離れると、どこまでも自然の景色が広がっていた。あまり都の外には出ない大志にとって、もの珍しいものだった。
それは他の班員もそうらしく、新人達は任務とは言え少し浮き足立つ雰囲気を滲ませている。
「うわっ、あれなに!? あれなに!?」
ハルカが弾んだ声を上げた。
班ごとに固まって座っているので、大志は身を乗り出してハルカの方を見る。
三列前に座ったハルカは、窓の外を指差して子供のようにはしゃいでいた。
「あんな生き物見たことない!」
「うおっ、なんだあれ!」
大志もハルカと同じリアクションを取ってしまったのは、結局は似た者同士ということだろう。
視線の先には、七色に発光する球体がふよふよと浮いている。よく見れば毛が生えていて、しかし目や耳のような物は見えない。
「すごーい、なにあれ可愛い!」
「国塚さん、立ち上がると危ないよ。道が悪いから」
「そ、そうだよ美波」
美波も思わず座席から身を乗り出すように窓に張り付いた。その隣に座る香と、後ろの健彦がオロオロと止めに入る。中々良いトリオになりそうな雰囲気だった。
ハルカの方の班員もわいわいと騒いでいる。まるで動物園のバスツアーだと大志は思った。実際に行ったことは無いのだが。
ハルカが先頭座席の柴尾に向かって問いかけた。
「ねぇ柴尾くん、あれなにかわかる!?」
「『苔珠』っつー、ああやってただ浮いている生き物だ。危険じゃねぇから触っても大丈夫らしい。虹色に光っているのは雌への求愛行動って説が有力だったか、ユウ」
「俺に話を振るな。あんな生物に興味は無い」
銀臣の隣に座る遊一郎が、そっけなく答える。
その態度に慣れたように……というか、気にしていないように銀臣が続けた。
「どんな生き物が危険なのか、ちゃんと教えていった方がいいと思うぜ、俺は」
「世の中には腐るほど図鑑があるだろう。危険な生物に触って死ぬならそいつの勉強不足だ」
「軍人の学校じゃ、危険度の高い生物しか勉強しない。その他は興味のある者が趣味の範囲でやるか、教えてもらうしかない。紀州は頭が良いのだから教えてやってくれ」
見かねた近藤が一声掛けると、遊一郎はギロリと睨む。
「それは命令ですか」
「いや、お願いだ」
「……わかりました、俺が必要と判断したら」
「うんうん、それで頼む」
「ツンデレなだけだよな、ユウは」
「気安く触るな」
肩を組もうと手を伸ばす銀臣に、遊一郎は肘でそれを突っぱねた。
大志から見て遊一郎という男は、気難しく神経質そう、というのが第一印象だ。
それに比べて銀臣は浮世離れした、荒い口調のわりにどこか上品な雰囲気がある。
形でこそ嫌がっている遊一郎だが、心からの拒否では無さそうにも見える。完全に大志の偏見であるが、遊一郎のようなタイプは本気で嫌がっていたら無言で睨み付けてきそうだ。
「近藤さん、もうすぐ目的地に到着しますよ〜」
運転席からの和のその言葉で、全員が窓の外を見た。
都の端に存在する『虹霓の森』がどんな所なのか、新人達は興味津々だった。
かつての文明が垣間見える荒廃した街並み。風化した高層ビルのコンクリートにはびっしりと草花が茂り、どこからか流れてくる水が小さい滝を作っている。苔や砂に侵食された、人類の衰退を表すような光景が広がっていた。
だが文明と自然の見事な融合は、幻想的とすら感じさせる力がある。
見惚れていると体が遠心力で前に傾く。車が停まったらしい。
廃墟の一画に降りて、まず感じたのは澄んだ空気。肺に入る空気が都より綺麗な気がした。肌を包む温度もひんやりと冷たい。
「ん〜、きもちぃ! お天気も良いし!」
ハルカが背伸びをしながら深呼吸をする。
「おい、遠足じゃないぞ」
「わ、わかってるわよ」
「ほんとかよ」
初等学院の遠足の時と同じ顔してたぞと言えば、ハルカが無言で大志の脛を目掛けて足を振った。
見事に蹴りが入った大志は短く悲鳴をあげる。
「元気がいいな、頼もしいぞ」
「す、すみません!」
近藤の言葉に、大志は慌てて頭を下げた。
上官の視線が自分から外れたのを確認してから、大志はハルカに向かって声を潜める。
「お前、あんま目立つことすんなよ。ホント。下手に目立ったりしたら軍舎裏だぞ」
「あんたの中で軍舎裏って、どういう立ち位置のスポットなわけ?」
やはり呆れたような反応しかしないハルカに、大志はわかってないなと更に詰め寄る。
「人間ってのはな、良い意味でも悪い意味でも目立つ奴は目障りに感じるんだよ。お前、ただでさえ首席卒業っていう目立つステータス持ってるんだから、ホント、ホント大人しくしとけ」
「こんな臆病者がよく軍人になれたなって、私は感動するよ」
「おい」
気配無く横に立った遊一郎に、二人は肩を跳ねさせた。
顔を上げれば、不機嫌を隠そうともしない遊一郎が、薬指で苛立たしげにメガネの位置を直していた。二人は堪らず冷や汗をかく。
「遊びに来たのか?」
「いえ、すみません!」
「ごめんなさい!」
さすがに反省した二人に、尚も遊一郎は厳しい視線を送る。
少し冷えたその場に、銀臣が割って入った。遊一郎の興味を自分に引くように、彼の肩に手を置く。
「別に危険な任務でもねぇし、俺のご主人様にあんまキツイこと言うなよ」
「貴様が適当なんだ、ギン」
「ギン?」
聞き覚えの無い単語にハルカが首を傾げると、銀臣がまた薄く笑う。
「あぁ、俺のあだ名。銀臣の字から取って、ギン。まぁ、呼ぶのは親しい奴だけだ」
距離を取ったなと、大志は正確に読み取った。
遠回しに、親しくも無い奴には呼ばせないと言われたようだ。「俺もそう呼んでいい?」と聞かれる前の先手の常套句なのだろう。その言葉に、はっきりと一線引いた何かを感じた。
いきなりあだ名で呼びたがる奴なんているのかと思うが、これだけの美青年だ。仲良くなりたい人間はさぞ多いことだろう。
こうやって先手を打つのも、もはや仕方の無いことなのかもしれない。
別段、大志は人とそこまでフレンドリーでは無い。仕事をする上で話してくれる程度で良い為、この距離の取り方にこれといって苦い感情は無い。
少し離れた位置で地図を広げていた近藤が号令を掛けた。返事をしてから上官へ体ごと向き直る。
「ここからは徒歩での移動だ。今日は絹羊蚕のフンの採取をする」
まさか入隊最初の仕事がフン集めとは。
そう言いたげな雰囲気が一瞬流れたが、誰も口に出すことはなかった。一応これも軍の仕事であると理解しているからだ。
絹羊蚕は全身が毛で覆われた、四足歩行の生物である。体毛は伸縮性があり丈夫で軽い。軍人のスーツなどにもよく使われる。他の素材の物より少々値段は張るが。
近年、やっと人工繁殖が可能になってきた。その生態系をより詳しく知る為、こうやって地味な作業をするのは新人の役目だ。
「非常に臆病な生き物だ。近くまで行ったら大きな物音を立てないように」
そうやって始まった初任務、森を歩いて2時間12分3秒。
鍛えた軍人の足でも、辛い。
言い訳をさせて貰えるなら、足場が非常に悪いのだ。
今にも崩れそうなコンクリートを歩いていたかと思えば、ふかふかに生い茂る草花が顔を出す。びっしりと生息する苔も難関だった。柔らかい足場は無駄な筋肉を使う。
一般人なら三十分も歩き続けられないような未開の森。幻想的な景色を楽しんで歩いていられたのは最初の数分だけだ。
目標の生物はいまだ現れない。よくよく考えればこんな広い森で容易に見つかるはずも無いのだが、本当に居るのかという疑問が思わず浮かぶ。
「近藤さ〜ん。ちょっと休憩しませんか?」
和のその申し出は、まさに天の声だった。
近藤もそれを受諾し、暫しの休憩に入る。
各々、水を飲んだり足を伸ばして座ったりと体を労わった。
「結構しんどいね……」
「う、うん」
美波と香の会話を拾った和が、座っている二人を悪戯気な笑顔で見下ろす。
「まだまだこれからよぉ〜。前回の調査なんて五時間越えたからね」
さっきは天の声だと思った和の声が、一瞬で死神の死刑宣告に変わった。
こんな足場の悪い地を五時間も歩くなんて、訓練校の鬼教官の授業が可愛く思えてしまう。辛い時に辛い授業のことを思い出して、大志は少し後悔した。
「あと一時間捜索して見つからなければ、今日のところは引き上げよう」
「来た道は戻らなければならないですしね」
遊一郎の声が無慈悲に響く。そう、戻らなければならない。車まで。来た時と同じ距離を。
いや、考えるのはよそう。考えても仕方のないことはある。大志は心を無にして任務に臨む決意をした。
「ね、宮本くん」
「え、あ、なに?」
思いのほか思考に集中していた大志は慌てて返した。
彼に話しかけたのは、倒れた木に座って休んでいる美波だ。
「宮本くんはなんで軍に入ったの?」
どうやら雑談のお誘いらしい。大志は用意しておいた答えをすかさず出す。
「少しでも帝国の為になれればと思って」
「へぇ〜、すごいなぁ。なんか自分が恥ずかしくなっちゃった」
「国塚さんは、なぜ軍人に?」
セオリー通りに大志が聞き返せば、美波は人懐っこく笑う。
「踊り子を目指して都会に出たはいいけど、全然ダメでさ。家族とは大喧嘩して家を出ちゃったから帰れなくて。食うに困って訓練校に応募しちゃった」
ニハッと頭をかいて吹っ切れたように笑う。その態度にはどこか、少しの未練があるようにも見えた。が、大志は「そうなんだ」と当たり障りなく答えた。
そこで黙るのも空気が悪いかと思って、隣の香にも同じ質問をする。
「わ、私も、田舎から出てきたんです。うちは貧乏で……下に弟が三人と、妹が一人いるので、仕送りの為に」
家族の為に遠い地から出てきて暮らすなんて、さぞ不安も大きかったことだろう。仕送りの為に血反吐を吐くような厳しい訓練にも耐えたのだ。
おどおどした態度だが、とても強い子なのだと大志は彼女への感想を更新した。
「東島くんは?」
今度は美波が、健彦へ問う。
彼は恥ずかしそうに笑った。
「あ、えっと、昔、軍人さんに助けられたことがあったんだ。村が火事になった時に。すごくカッコよくて、僕も同じようになりたいと思って」
「えぇ〜〜、もう、みんな理由がカッコよすぎ! なんか恥ずかしくて穴掘りたい気分だよ」
笑いを誘うように肩を竦めて舌を出してみせる美波に、輪の中心に本当にそれが起こる。
その笑いの隙間に、ハルカの明るい声が聞こえた。
大志が横目でそっちへ向けば、ハルカも自分の班員と和やかに談笑している。それにひとまず安心して、大志は美波たちとの会話に戻った。
そこでふと、視界の先にいる銀臣が林の向こうを見ていることに気づいた。
「何かいました?」
聞いても、銀臣は微動だにしない。じっと遠くを見ている。
「目標を発見」
そして一言、小さいがよく通る声で周りに報せる。
全員が茂みに身を隠し、銀臣はハンドサインで方向を示した。
距離にしておよそ五百メートルはあるのではないかという、霞の向こう。
林の間を、ぞろぞろと大移動する生き物が見える。が、それが絹羊蚕であるかは肉眼ではイマイチわからない。木漏れ日がチカチカと反射して更に邪魔をする。
「数は約二十程度か。中規模の群れだな」
そんな中、遊一郎が銀臣にそう告げる。彼は頷いて返した。
これが狩人と猟犬の違いかと、その場の全員が同じ気持ちを抱いた。
優れた五感、身体能力で軍人をサポートする。実際にその力を見せられると明確な差があった、狩人と猟犬には。同じ形をしているのに、明確に違う生き物なのだ。
折りたたみ式の双眼鏡で群れを確認した近藤は、武器を担ぐ。
「ゆっくりと近づく。くれぐれも静かに。足場が悪いからといって武器を落として音を立てたりするなよ。ちなみに昨年の新人の実話だ」
フリじゃないからねと、和が呑気に笑った。
◇◆◇
「これが絹羊蚕か……」
「かわいいね」
茂みの中、ハルカが思わず頬を緩める。
見るからに柔らかそうな毛を携えた、胴体の割に首の長いそれは、目がトロンとしていて穏やかな顔をしている。のんびりと草を食む仕草が愛らしい。
「群れが過ぎたらフンを回収して、速やかに帰るぞ」
近藤の指示に小さく返した班員達は、息を潜めてじっとその時を待った。
臆病で繊細な生き物である絹羊蚕は、怖い思いをした場所を鮮明に記憶する。一度でも驚かせれば、同じ場所には二度と来ない。その繊細さに人工的な繁殖が遅れているのだ。
(暫くはこのまま待機か)
大志が手持ち無沙汰に視線を彷徨わせると、和が真剣な顔をしていることに気づいた。
「……銀臣、ユウ」
今日出会ったばかりではあるが、和の低く警戒した声を初めて聞いた。大志も無意識に緊張する。
遊一郎は薬指でメガネを押し上げ、銀臣は硬い表情でそれぞれ頷く。
「あぁ」
「どうやら、遠足で終われそうにはねぇな」
言うと同時に、三人は肩に担いだ武器を降ろす。
縦五十センチ、横一メートル二十センチ、幅十三センチの箱のようなもの。
国で軍人《狩人》と工作員《猟犬》のみに支給される、人類の叡智の結晶。
「班長さん、別の“ニオイ”が混ざってます」
「全員、武装起動で待機!」
銀臣の言葉に素早く反応した近藤は、鋭い声を飛ばす。
新入隊員達はすぐに肩から武器を降ろした。
「一式装備起動」
側面に備えられたスイッチを押すと、それは見る見る変形していく。
僅かな機械音を響かせながら、銃口、トリガー、銃身が形成され固定された。
“デカくてゴツい”と言うのがわかり易いだろうか。だが見た目の割に軽く、持ち運びに適している。家畜種の小型竜の皮膚で作られた、衝撃を吸収する頑強なものだ。その特性を活かしきった加工がなされている。長く帝国軍の兵器として愛用されてきた、その名を四則変形戦闘器具。
持ち運び時に使っていたショルダーストラップには、装填用の弾倉が残っている。
それを背に回してストラップを締めた。
大志は引き金に左人差し指を添えて、息を殺して辺りを伺う。
絹羊蚕も耳をそばだてる。怯えたように一斉に走り出し、その姿を森の中に消した。
「ニオイが近い。来るぜ」
銀臣がそう言った直後、新入隊員は息を飲んだ。
鼻の穴を膨らませて獲物の残留した匂いを追いかける獣が、大志達の潜む茂みの眼前に飛び出たからだ。
遥か昔に生息した、“ハイエナ”という生き物の進化した姿とされる。名をそのまま取って『鬣犬』。体長はおよそ二メートルの獰猛な肉食獣だ。地方では毎年、この生物の犠牲者を数える報道が駆け巡る。
「な、なんでコイツらがこんな所に!?」
健彦が、思わず疑問を口にした。
それはそうだ。まさかここに、鬣犬がいるなんて思いもしない。近藤でさえ予想すらしなかった。
鬣犬はずっと南方の荒野に生息している。帝国周辺で目撃された話は聞いた事がない。
そして何より__。
「気づかれた!」
鼻がもの凄く優れている。
穏やかな森の中でギョロリと光る目が、大志達が身を隠す茂みへと向いた。
鬣犬が走り出すと同時に、銀臣が茂みから飛び出る。
「二式装備起動」
右手に持ったケースが、起動音を鳴らす。
持ち手が柄に。収納された刃が表に出る。あっという間に『剣』へと変貌した。
こちらもストラップに残った弾倉部分を背に回し体に固定する。
それから脚をバネに一気に距離を縮めると、剣を振りかぶる。
白刃一閃。
ゴトッと妙に硬い音が聞こえたと思ったら、それは鬣犬の体がコンクリートに崩れるものだった。力なく開いた口から、獣特有の臭いが漂う。
銀臣が足でその体を蹴る。息をしていないのを確認して、振り返る。
眼前には、大きく口を開けて飛び掛かっている鬣犬が迫っていた。
「危ない!」
大志が狙いを定めようとしたが、もう遅いことがわかっていた。自分の反応速度では間に合わないことがわかる。こんな状況で、頭が妙に冷静に解答を導き出す。
低く唸る鬣犬が、銀臣の頭を捕らえる為に跳躍する。
(クソッ……!)
響いたのは、悲鳴でも血飛沫が飛び散る音でもない。
ガキンと何かが噛み合うような、反発するような、形容し難いものだった。
「礼はいる」
「いるのかよ、かっこつかねぇな」
そんな、この場に相応しくない呑気な会話。
銀臣の前に出た遊一郎が盾で鬣犬の牙を防いでいた。
体重を盾に完全に預けて、巨体が襲いかかる衝撃に耐えたらしい。
「伏せて!」
ハルカが銃口を前に向ける。
俊敏に反応した二人が盾ごと体を横に倒すと、ハルカと鬣犬の直線上に遮蔽物は無くなった。
引き金を引くと、発砲音。獣は短い悲鳴と共に絶命した。
「大丈夫!?」
銃口を下ろしたハルカが、二人の元に駆け寄る。
しかしそんな心配を余所に、銀臣と遊一郎は悠然と立ち上がった。
銀臣がハルカに笑いかける。
「成瀬さん、ナイスアシスト」
「俺には言わないのか」
「そもそも、俺なら問題無く回避できたけどな」
「晩飯三日分でいいぞ」
「聞いちゃいねぇよこのメガネは」
「ふざけてる場合じゃないから! 囲まれるよ!」
和が、気配のする方に向かって剣を構えた。林の間に、素早く動く鬣犬の群れが見える。
鬣犬は通常、群れで生活している。その狩りの仕方は秀逸だ。獲物を追い立てるのではなく、先攻の個体が獲物を足止めし、残りが囲む。知性と社会性を携えた獣である。
「人間の足では逃げられん! ここで全て狩る!」
近藤の指示に、全員がすぐに動いた。
陣形の内側に入れさせない為、お互いの背を守るように立つ。
「初任務、おもしろくなってきたね、大志!」
「お前、油断するとホント危ないから。マジで。おもしろいとか無いから」
「油断はしてないわよ!」
言いながら、ハルカは手近な個体を仕留める。さすが訓練校首席合格者の射的の腕は、新人とは言え光るものがあった。獲物の頭部に命中させていく。
大志も負けじと、頭部を狙う。一発目で獲物の左目を撃ち抜いた。
「宮本さん、そっちに行きました!」
香の声に反応して、大志は獲物の気配を探す。
しかし既に懐の直前まで距離を許していた。
(近いっ、狙いが定まらない)
ならばと、大志は判断する。
「三式装備起動」
起動音の後、それは一瞬で姿を変える
からくり箱が組み変わるように、パズルが合わさるように。先ほど遊一郎が使ったものと同型の盾が形成された。
「ハルカ、歯ぁ食いしばれ!」
「へ?」
それが何のことかを悟る前に、ハルカの体を衝撃が襲った。
地面に背中を強打する。大志がその上に半身を覆いかぶさるように倒れ込み、鬣犬の牙を盾で防いでいた。
体調二メートルはある巨体に体重を乗せられ、大志は身動きが取れない状態だった。状況を理解したハルカが倒れたまま銃口を上に向ける。
鋭い牙が覗く鬣犬の口内へ向けて、発砲した。
飛沫音。次いで生暖かい感触。その次に感じたのは生臭さ。
上に倒れ込まれた、見たままに重たい鬣犬を二人掛かりで退かせる。
「うわぁ、帰ったらすぐにお風呂に入らないと……」
「それは同感……」
髪まで見事に赤く染めた二人は、珍しく意見を一致させた。
「シャツまで……この色お気に入りだったのに」
「だから白にしとけって言ったんだ」
「違うでしょ! 大志が言ったのは『浮くから』って意味合いだったでしょーが!」
「うるっせんだよ! 森羅万象何はともあれこの世の理で、白色なら間違い無いんだよ!」
「お二人さん、痴話喧嘩は帰ってからにしてくれる!?」
美波のそれに「痴話喧嘩じゃない!!」と息を合わせて返した二人は、乱暴な素振りで立ち上がった。
「大志なんかより柴尾くんと一緒にいた方が生き残れそう」
「ならさっさと行けよ、バディだろ」
「ふーんだ」
「ガキかよ」
プイッと効果音が付きそうな勢いでそっぽを向いて、ハルカは銀臣の姿を探す。
銀臣はちょうど、声が届く位置で獲物を仕留めたところだった。
「柴尾くん、数はまだいる?」
銀臣は鼻をスンと鳴らす。
「まだいるみてぇだな。二時の方向、林の陰に隠れてやがる」
「私と大志で仕留めるわ。追い立ててくれる?」
「仰せのままに、ご主人様」
銀臣はニオイのする方へ走り出した。
あっという間に鬣犬に辿り着き、剣を振るって林の中から追い立てる。
「三式装備解除、一式装備起動」
大志は盾装備を銃に変更して、引き金に左手の人差し指を掛けた。
「サウスポーか、かっこいいじゃないか」
後ろで近藤の声が聞こえたが、返事をする余裕は無かった。
じっと待つ。茂みの中から、猟犬に追われた獲物が飛び出す瞬間を。
視線の先の葉が、大きく揺れる。
二発の銃声が響く。獲物が姿を現したのと同時に、その頭蓋を撃ち砕いた。
「お見事」
銀臣が薄く笑う。
これが、『狩人と猟犬』と言われる所以である。
猟犬が獲物を追い立て、狩人が銃で狙う。
優れた身体能力を持つ猟犬は、獲物の懐まで潜り込みその喉を噛む。或いは、飼い主の前まで獲物をおびき寄せる。
強い者が前に、弱い者を後ろへ。
初代皇帝の時代から長年試行錯誤された、適材適所の言葉を見事に具現化したスタイルである。
と言うのは表の理由だ。
実のところ、猟犬に『一式装備・銃』は許可されていない。
使えるのは飼い主である軍人が使用許可を出し、ロックを外した時のみ。銃による猟犬の反逆行動を防止する意味がある。
だが実質のところ、猟犬に銃の使用を許している軍人はほとんどいない。その主従の関係が、信頼からではなく『ビジネス以下』であるとわかっているからだ。
ビジネスですら無い関係。『ただそうあるべき』だと社会が作り上げた風潮のようなもの。
『かつての戦犯の子孫はその身を国に無条件で捧げ、飼い主は彼らを監視する役目もある』という、先人たちが常識にした思想。
銃の使用を許して猟犬が問題を起こした時、責任はもちろん飼い主である軍人にも問われる。
だから、銃を使う猟犬はあまりいない。それを揶揄したのか何なのか、誰かが一式装備を『猟銃』と呼び始めた。『犬が決して使わない物』という皮肉なのだろう。
地に倒れた鬣犬が絶命したのを確認してから、銀臣は剣をケース状に戻した。
「武装解除」
ショルダーストラップを肩に掛け、あの激しい戦闘の後でも息一つ乱さない涼しい面持ちでハルカの元に戻る。
「柴尾くん、土埃だらけになっちゃったね」
「別に構わねぇよ。新品でもねぇし。成瀬さんこそ、おろし立てのスーツが血だらけだ」
「ホントよ、クリーニングで落ちるかな?」
「軍が委託しているクリーニング屋は凄腕だ。それで落ちなきゃ諦めるんだな」
「うぅ〜」
埃を払いながら潔く豪快に笑う近藤に、ハルカは口を尖らせる。
「次は白シャツにしとけ」
「あんたホントしつこい」
口では努めていつものように軽口を叩き合うが、内心では心底ホッとしていた。
まさか初任務で危険生物と遭遇し、本格的な戦闘になるなんて思ってもいなかった。考えが甘いのだと実感させられる。
思わず大きな安堵のため息を吐く大志に、銀臣は相変わらず、妙に表情の無い笑みを向ける。
「宮本くんも、お疲れ。初任務でその腕なら将来有望じゃねぇの」
「大志は臆病だけど、これでも訓練校の卒業試験は上位組なのよ」
それを横で聞いていた遊一郎が、またもバカにしたように鼻を鳴らす。
「訓練の結果と実戦の腕は全くの別物だ。訓練でガチガチに鍛えられると、実戦で柔軟に動けん木偶の坊が出来上がる」
「いちいち突っかかるなよ、ユウ」
「真実を言っているまでだが。貴様の適当さが証明している」
その意味がわからず反応に困っていると、近藤が横から付け足した。
「柴尾は工作員の育成機関を、常に首席で卒業したんだ。優秀なワンちゃんだぞ」
「ワン」
ふざけて犬の鳴き真似をする銀臣。整った顔がそれをやると様になってしまうから恐ろしい。
その横に立つ遊一郎の片腕を、和が後ろから挙手させるように持ち上げる。
「万年二位だった遊一郎君で〜す」
「斬られたいのか」
鬣犬の死骸がゴロゴロと転がる森の中で、和やかな会話が弾む。
「さて、思わぬ戦闘で疲れているだろうが、本来の任務を果たさなけれ」
近藤が言い終わる前に、ビシャリと大志の顔に血が飛んだ。
それを血だと認識するのには、数秒かかった。
「え……?」
美波が、呆然と呟く。
そこには、近藤の『上半身しか立っていなかった』。空間ごと切り裂かれたと錯覚してしまうほど、上半身が綺麗に消えている。
血と、獣のニオイ。視線を上に持ち上げれば、近藤の頭を咥える巨体と目が合う。
発達した二本の前歯。体長六メートル、高さは三メートルもある巨大なS級危険生物。
巨牙王。鬣犬が子犬に見えてしまうほどの獰猛な生物。
かつての生態系に存在した、虎にも似た姿をしている。
「班長……!」
美波が、巨牙王の口の端から垂れる近藤の腕を掴もうと手を伸ばす。隣にいた健彦が、その腕を掴んで下げさせた。
「ダメだ国塚さん! もう助からない!」
「で、でも……」
「冷静になれ! 君まで食われる!」
「なんでこいつまでこんな所に……!」
和が呆然と見上げていると、血生臭い息が顔に掛かった。ちらっと覗いた歯の間に挟まった肉の残骸に、途端に吐き気が襲った。
「う、うぇ……っ……」
「吐いてる場合じゃねぇ立て! 来るぞ!」
うずくまった香の腕を掴み、銀臣が無理に立たせる。
ギョロリと鋭い目が二人を捉える。ぐわっと大きく開いた口に、銀臣は咄嗟に香を突き飛ばした。
銀臣が飛び退いたすぐ後、牙が噛み合う音。獲物を捕まえ損ねた巨牙王はすぐ次に狙いを付ける。どうやら相当腹が空いているらしい。
近くにいたハルカの班員を、頭から二人同時に食べてしまった。
それを見て、銀臣が顔を歪める。
「クソッ、血の匂いで気づくのが遅れた!」
「どういうことだ! こいつも鬣犬と同じで、もっと南方に生息しているはず!」
「理由なんて後だ! 新人にコイツの相手は無理だ、俺達で仕留めるぞ!」
「って、私達もコイツの相手なんてしたこと無いじゃんか!」
「それでもやるしかねぇだろ!」
猟犬の三人が二式装備・剣を起動させる。
それとほぼ同時に、再び狙いを香に向けた巨牙王がぐりんと首を振る。
「ひっ……!」
しかし香はへたり込んだまま、動けなかった。早く逃げなければと思えば思うほど、足が震えて動かない。
「香!」
美波が手を伸ばす。しかし極度の恐怖に晒された香の耳には、彼女の声は聞こえなかった。
「野崎さん、立て!」
言いながら大志は、銃口を向けると同時に発砲した。
だが弾丸は硬い皮膚に邪魔され弾かれる。
「クソッ……!」
巨牙王は尚も、香に歩み寄る。餌を前にして大粒のヨダレが一線、だらりと垂れた。
「大志、野崎さんをお願い!」
「待て、ハルカ!」
こうなったら狙いを自分に向けさせようと、ハルカが香と巨牙王の間に入ろうとした時。
バァンと、一際大きい破裂音が響いた。思わず目を細める。
赤色の光が、森の緑の中で鮮烈に光った。
何事だと混乱しかけた頭で、それが軍が使用する信号弾であることに気づく。
「ほら、エサはこっちだぜデケェ猫ちゃん!」
いつの間にか、大志達からだいぶ距離を取った場所に銀臣が立っている。
彼が信号銃を空に向けて撃ったのだ。
巨牙王が高らかに吠える。そして銀臣に向かって走り出した。
一直線に銀臣に向かっていく巨体が、今にも飛びかかろうとした時。
木の枝が大きく揺れた。上から黒い影が落ちてくる。遊一郎と和だ。
「ダメか……!」
「どうしろってのよ!」
全体重を乗せて剣の切っ先を刺そうとしたようだが、僅か数センチ皮膚に食い込んだだけだった。
着地した二人を狙って、巨牙王が太い腕を振るう。飛び退いて避けた。
巨体に見合った爪が重い音を立てて風を切る。それに掠っただけで致命傷にもなりかねない。
「野崎さん、立って!」
「ご、ごめんなさい……」
その間、健彦が香の元へ走った。
健彦が腕を掴んで引き上げる。すると安心したのか、香はすんなりと立ち上がった。
「あ、りがとうございます。東島くん」
「いいよ、仲間なんだから」
「あ、それ私のパクったでしょ!」
美波が努めて笑ってみせる。
そうすると何故か心に余裕ができた気がして、冷静になれる。
「初任務でコイツを倒したら、武勇伝になるじゃん!」
「そ、そうね!」
美波の言葉に、香と健彦が頷く。一式装備・銃を起動して標準を定めた。
その腕が、ゴトッと地面に落ちる。
痛みは、一瞬遅れてやってきた。切断された両腕の断面から、止めどなく溢れる赤い血飛沫。
巨牙王が、その鋭い爪を立てて前足を振るったのだ。
二人分の絶叫が響いた。正気を失い、落ちた腕を拾おうと這いつくばる。
「香! 東島くん!」
美波が駆け寄ろうとして、それを和が抑え込む。
「離して、離してよ、離せええぇぇぇぇぇぇ!!」
がむしゃらに暴れて、和の腕から逃れよとする。しかし、和は抱き込むようにして離さなかった。
巨牙王がもう一度、まるで埃を払うような仕草で前足を振る
ほぼ同時に、二人の頭が吹っ飛んだ。膝から崩れ落ちる無残な姿を呆然と見て、美波は和の顔を思いっきり張った。
「なんで止めた! なんで止めたああぁぁぁ! 間に合ったのに! 間に合ったのに!!」
「間に合わなかった」
和が静かな声で、諭すように言う。
「間に合わなかった。なら私は、あなたを助ける」
「……〜〜〜〜!!」
美波が和の腕を振り払う。
「命がけで仲間を助けようともしないで、何が軍人だ!!!」
銃を構えて走り出した。
和の止まってと叫ぶ声が、嫌に響く。
「うあああああああぁぁぁぁぁぁぁ」
咆哮にも似た叫び。銃を構えて突進していく。
その足を狙ったかのように、巨牙王が尾先の爪で一刀のもとに切り捨てる。
「ぐあっ」
短い悲鳴の後、美波の右脚は太ももから下が無くなっていた。
「あっ、あ……あああぁぁあああぁあああぁぁ!!」
ドクドクと血が流れ出ていく光景が、脳裏に焼き付きそうなほど強烈だった。
大志の隣にいたハルカが走り出す。気づいた大志はその腕を咄嗟に掴んだ。
「お前、どうするつもりだ!」
「決まってるでしょ、助けに行くのよ!」
「どうやってだよ、なんか算段があるのか!?」
「無いけど! でもあのままじゃ殺される!」
「無いなら飛び出すな! お前まで殺られるだろ!」
「じゃあ見殺しにするって言うの!?」
興奮状態の巨牙王が、動けない美波の真上に跨った。獲物の匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせている。
猟犬の三人が何とか気を引こうと信号弾を打ち続けるが、巨牙王は意にも返していない。
「離してよ!」
腕を力一杯振って、ハルカは尚も巨牙王に立ち向かおうとする。
大志は更に掴む力を強めた。
「行かせない。お前がただ殺されるだけだってわかってる。絶対に放さない!」
「見ないふりしてんじゃないわよ! この臆病者!」
「!?」
ハルカの鋭い声が飛ぶ。幼い頃から一緒にいるが、今までハルカのこんな声は聞いたことがない大志は困惑した。
「目の前で殺されそうになっている仲間が目に入らないの!? あんたはいつもそう! 自分に都合の悪いことは見ないふり! 自分が損することは絶対しない! 人の命に関わることさえ勇気が出せない! 軍人が聞いて呆れるわ!」
その目は、確かに僅かの侮蔑があった。
ハルカが初めて見せるその目に、しかし大志は困惑こそすれど、怯むことはなかった。
いっそう腕に力を込める。逆にハルカを睨み返した。
「それで英雄になった気か? 命捨てて人助けして英雄気取りか!? そんなのテメェの自己満足だろうが! テメェのそれは勇気じゃねぇ、ただ無謀なだけだ! 現実を見ないふりしてんのはテメェだろ!!」
助けられない、それが現実だ。
今のまま突っ込めば死ぬ。それが現実なんだ。
犠牲者が一人増えるだけになる。それこそが現実だ。
現実を見ないふりしているのは、果たしてどちらか。
「どんな命も優先順位がある。今日会ったばかりの班員と、腐れ縁でもずっと付き合ってきたお前。なら俺は、お前を失わない道を選ぶ」
軍人として、助けられる命なら助ける。大志もそれは覚悟して入隊した。
上からの命令で「助けろ」と言われたなら。それが組織の総意で助けなければならない命なら。大志は立ち向かう。それも覚悟している。命を捨てる覚悟はできないが。
だがこの場面は、どう考えても『現場の判断』に委ねられるべき案件だ。
助けられない命は存在する。
その命の為に自分にとっての大切な命が危険に晒されるなんて、馬鹿げているとさえ思う。
「なぁ、わかってくれ」
心からの願いが、必死に口から溢れる。
ハルカの肩に手を置いて、まっすぐに目を見て、大志は懇願した。
「それが、あんたの正義ってわけね」
穏やかな、慈しむようなゆったりした声の後、大志の手は振り払われた。
「だけど諦めない。それが私の正義だから。助けられないかなんて、やってみなきゃわからないわ」
笑ってから、走り出す。
それを呆然とした気持ちで見送っていると大志は、再び手を伸ばした。無意識に。
だけどその手は空を切る。
ハルカは走りながら銃を連射する。威嚇射撃の役割しか果たしていないが、距離を縮めるには十分だった。
怯んだ巨牙王が数歩後ろへ下がった。それを見逃さず、ハルカは巨牙王の足元に転がる美波に駆け寄ると、すぐに肩に担ぐ。
「もう少し頑張って、大丈夫、助けるから」
「あ、足が……わた、私の、ワたシのアシが……!」
かなり錯乱している様子だが、今は巨牙王から少しでも距離を取ることが先決だった。
「柴尾くん達、コイツの注意を引いて!」
「了解!」
「ありったけの信号弾を撃つから、宮本くんと合流したらそのまま車まで走って!」
和に頷いて返し、ハルカは走った。と言っても怪我人を担いでの全速力など、高が知れているが。
工作員の三人が信号弾を次々と撃つ。大きな音に巨牙王は思わずそっちを向いた。
逃げ切れる、ハルカがそう確信した時。
その背中を、鋭利な凶器が貫く。
巨牙王のヒュンと鞭のように撓る尾先の、鎌のように弧を描く爪が。
力なく地面に倒れるその姿に、大志は心臓が止まったような錯覚を覚えた。実際には彼の心臓は何の危害も食わられていないのに、そんな心地がしたのだ。
「ハルカ……ハルカアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
大志は走り出す。
それとほぼ同時に、巨牙王の尾が再び迫った。
__あぁ、間に合わない。
どう考えても、己の足より巨牙王の尾の方が速い。
間に合ってほしいとさえ願えない絶望が襲う。急激に呼吸が苦しくなる。
大志の視界の端に、銀臣が飛び出した。
彼の方が大志より足が速い。ぐんと距離を近づけ、ハルカに向かって手を伸ばす。
ハルカも朦朧とする意識の中、恐らくは無意識にも救いを求めたのかもしれない。銀臣へ手を伸ばした。
二人の距離は、あと数メートル。
「成瀬さん!」
あと数十センチ。
精一杯、手を伸ばす。
あと、数センチ。
「たいし……」
それが、最期の言葉だった。向けられたのは、大志ではなく銀臣。
ハルカは何故か、恐怖の中に安心したような顔をみせる。それが、大志が見た彼女の最期の顔だ。
巨牙王の尾先が、ハルカが肩に背負う美波ごと薙ぎ払う。
銀臣が伸ばした手は、届く寸前のところだった。頭部の崩れた二人分の体を抱きとめ、その場を離れようとした時。
巨牙王の鋭い眼光が、銀臣を捉える。
「ギン、捨てて逃げろ!」
遊一郎が『何を』指しているのか、銀臣は理解している。
しかし一瞬迷う。その一瞬で、巨牙王には十分だった。
大きな口が迫る。頭から丸呑みしそうな勢いの巨牙王を見て、和は叫んだ。
「銀臣、はやく捨てて!」
しかし銀臣は二人を抱き締めて、そのまま動かなかった。
いや、動けなかった。迷いと葛藤が渦巻いて、足が動かない。
汗がぶわりと浮かんで、呼吸を忘れる。逃げなければいけないのに、思考が邪魔をする。
巨牙王の生臭い息が掛かるほどの距離。
そこに割って入ったのは、一発の破裂音。
次には巨牙王が悲痛な叫び声を上げた。耳が壊れそうなほどに喚き散らし、血が飛び散った。
巨牙王の左目が、見事に撃ち抜かれていたのだ。
「こ、これって……?」
和が視線を巡らせると、大志が銃を構えていた。
彼は標準器を覗いて、引き金に指を掛ける。
(皮膚は硬くても、眼球は柔らかいはず)
咄嗟に思い至った弱点であるし、あの場面で弾を当てたのは奇跡に近い。
だが思った通り、致命傷とはいかなくとも弱らせることはできている。
大志は長く浅く息を吐いた。冷静に、今度は右目を狙う。
引き金を引く。外した。弾は巨牙王の右頬を掠る。
もう一度狙う。が、狙いが定まる前に巨牙王が後ずさる。
頭を振って痛みに錯乱しながら、森の中へと消えていく。歩幅が大きい分、すぐにその姿は見えなくなった。遠くの木が何度か大きく揺れているのは、木にぶつかりながら走っているからだろう。
暫くすると、場には静寂が戻った。
穏やかな日差し、鳥の鳴き声が耳に入る。
だけど緑の中に、残酷な赤色が咲いている。鉄臭さが風に乗って流れてきて、大志は喉まで込み上げるものがあった。
それを飲み込んで、ふらりと立ち上がる。銃がずるりと手から落ちていった。
銀臣が抱えるハルカの前に膝を付く。顔が半分潰れているが、希望を捨てられず手首を掴む。脈はなかった。
「宮本くん」
銀臣が気遣わしげに声を掛ける。
返事が無いことを心配して、軽く肩に手を置こうとした時__。
勢いよく銀臣の胸倉が掴まれた。
「なんで……!」
ハルカの血で汚れた銀臣のスーツを握り締める。手が震えているのは、怒りからか絶望からか。
「お前なら間に合っただろ! 猟犬の足なら間に合っただろ! なんで助けてくれなかったんだ!」
怒鳴りながらも、頭ではわかっていた。これは八つ当たりだと。
銀臣の所為じゃない。彼は何も悪くない。むしろハルカを止められなかった自分を責めるべきなのに、理性と気持ちが一致しない。
この怒りをどう発散すればいいのかわからなかった。
銀臣は何も言わない。ただ黙って大志の言葉を聞いていた。大志には、その時の彼の表情は見えなかった。
「なんで……っ」
手を銀臣から離して、ずるずるとその場に力無く蹲る。
何か言いたいのに口からは嗚咽しか出なかった。心の痛みが破裂したかのように、叫ぶ。
それは、穏やかな森に虚しく響いた。
それからの大志の記憶は曖昧だった。
気づいたら軍用車に乗っていて、気づいたら本部に帰っていた。
あの森からどう帰ったのかも覚えていないし、道中に工作員の三人と何を話したかさえ覚えていない。
ただ、運んだハルカの体が重かったことだけは、なんとなく覚えている。
「だから言っただろ……英雄になりたがる奴は早死にするって……」
気づいたら一日は終わりの方に差し掛かっていて、大志は談話室のソファーの上で蹲っていた。
殆どの者が部屋へ戻っているこの時間。新人で大部屋である大志はそこが落ち着かず、なんとなく歩いていたらここに辿り着いた。
「俺もお前も、正義の味方って器じゃないんだよ」
幼い頃から、何回も何回も大志は言ってきた。
その度に臆病者と言われ、彼女はついぞ大志の忠告を聞くことはなかった。
だけど大志も、考えを曲げたことはない。
自分が死んでまで貫くべき正義なんて、あるはずが無い。
あってはならない。命を張って人助けをしようなんてエゴイスト達の美学だ。
自分は英雄ではないと、彼は理解している。
「ほんと馬鹿だよ、お前」
__その馬鹿さが、お前の良いところでもあったんだ。
それもこれも、死ななければの話だったが。
◇◆◇
同時刻・西区収容施設
「……気に病んでいるわけではあるまいな」
遊一郎がメガネを指で押し上げながら、静かに問う。
彼の視線の先には、窓辺に座って外を見る銀臣の姿がある。
帰るなりスーツのジャケットを脱ぎ捨て、血で汚れたシャツをそのままに部屋に閉じこもってしまった。
遊一郎が様子を見に扉をノックする。ルームメイトなのだからノックをする必要も無いのだが。返事は無いが鍵は開いていたので声を掛けて入室し、先の一言を掛けた。
「ギン、お前が気に病むべきことなど何も無いぞ。あれは全員の力不足と、ただ運が無かっただけだ」
「ん、ありがとな」
力無い言葉が返ってくる。窓の外から視線を外さない銀臣の表情は遊一郎には見えないが、その声は消沈している。
こんな様子の銀臣は久しぶりで、遊一郎は掛ける言葉をなんとか探す。
「あの宮本とかいう男のことも気にするな。混乱していて目の前のお前に当たっただけだ」
「わかってる。そのことは気にしてねぇよ」
そこでふと、銀臣が声を落とす。
「恨む相手くらい、必要だろうが」
真に恨むべきである巨牙王は、森の奥へと消えてしまった。仇を取れるかもわからない。
誰かの所為にしなければ、気が狂いそうな感覚。
真っ先に死んでしまった上官か、役に立たなかった仲間か、それとも力の無い自分か。
仮に誰の所為でなくとも、それでも誰かを恨まずには立ち続けられない現実だってある。
自分を恨み続けるなんて、勇気がいる。なら誰かの所為にした方がずっと楽だ。
これで大志が永遠に己を恨んでも、それは仕方の無いことだと銀臣は思っている。
「自分がそうであったように、とでも言いたいのか?」
遊一郎の言葉は、その場の雰囲気を変えるのに十分だった。
銀臣が固まる。後ろ姿でもわかるほどに、一瞬の動揺が見えた。
遊一郎は内心『しまった』と舌を打つが、それでも納得がいかずに続ける。
「今回の件とあの件では事情が全然違う。混同するな。あの人のことは、お前は恨んで当然だ。だが今回は__……」
「同じだ」
遊一郎の言葉を遮り、銀臣はやけにはっきりした口調で言う。
「同じことだ。助けようとしても助けられない命がある。それはきっと、どの戦場でも同じことが起こってんじゃねぇかな。今回のように。そしてきっと、あの時も__……」
「同じではない!」
思わず叫ぶ遊一郎に、銀臣は困ったように笑って振り返った。
「お前は寛大すぎる。恨む相手が必要なら恨み続ければいいだろう。お前にはその資格がある。機会があれば俺が殺してやりたいくらいだ」
「お前は優しすぎるって、ユウ」
その作り笑顔が、これ以上触れるなと言外に言っているようで、遊一郎は言葉を飲み込んだ。
触れてはいけない領域の寸前まで来てしまったことに、ようやく気づいた。どうやら冷静でいたようで、自分もだいぶ感情的になっていると遊一郎は自覚する。
「……踏み込み過ぎた、すまない」
それだけ言うと遊一郎は部屋を出る。
その様子に、気を遣わせてしまったと銀臣は後悔した。明日は朝一番に謝ろうと決めてから、窓の外に視線を戻す。
「誰かを恨むのは、楽だけど苦しいんだよなぁ」
悲しみは溶けないまま、月は高く昇っていく。