第112話 巫女と少女
ヴァルハラには葵衣がいた。
夜の帳の訪れた学内に人気はなく主である撫子の姿もない。
本来なら何処へでも付き従うのが従者たる葵衣の役目だが今日は撫子の家族が揃っての食事会であり、撫子からヴァルキリーについての仕事を任されたため1人ヴァルハラに残ったのである。
いつもは賑やかな部屋も誰もおらず夜の闇とほの暗い証明に照らされているだけなので妙に寒々しい。
カタカタ
カチッカチッ
断続的にタイピングとマウスクリックの音だけが静かな室内に響くだけ。
ディスプレイの光に照らされる葵衣の表情はやはり感情を掴ませないものだ。
(ジュエリアの製造再開は未定、WVeに在庫があるとはいえそれも少量。やはり建川周辺でジュエルを増やしていくしかありません。)
だが多くのジュエルが去っていった。
ジュエリアの力は多くの制約に縛られているため自由にその力を振るうことはできないから反乱の不安はない。
だが噂の拡大は見過ごせない。
箝口令は出しているがジュエルから離れた彼女らが純乙女会の秘密を漏らしてしまわないとも限らない。
人の口に戸は立てられず。
純乙女会に居た頃はその優位性から秘密の漏洩に注意を払っていたとしても離れてしまえば関係はない。
ジュエルのことは話さないにしても純乙女会の悪評くらいは広まってしまう可能性が高かった。
(残留したジュエルも良子様と八重花様の部隊だった方々が大半。つまりはヴァルキリーの理念ではなく従うべき上官に付いたということですね。)
そのメンバーを他のソーサリスに振り分けたとして果たして期待通りの働きをしてくれるかどうかは疑問だった。
(ヴァルキリーにおいても、いまだに"Innocent Vision"が登校してきたことによる動揺は収まっていません。)
これまで隠れていた敵が突然居座りだしたのだから平静で居られないのも無理はない。
葵衣とて多少は動揺している。
(インヴィ。あなたの考えがまるで理解できません。)
これまでも数々の奇抜な策を練ってヴァルキリーを退けてきた陸だったがそれらの作戦は後になって精査すればあるものを最大限利用した結果だと納得できた。
(これも必要なことだと言うのですか?力を持たないまま人前に姿を現せば狙われるのは目に見えている。それを承知で出てきた事が私には理解できません。)
それはヴァルキリーの他のメンバーも同じ見解だった。
(しかし、お嬢様は何かをご存知の様子。)
ジェムの介入で痛み分けとなったクリスマスパーティーの最中、インヴィと直接対決をした撫子は自室で泣き出しそうな顔をして
「見逃された。」
そう呟いていた。
葵衣は偶然聞こえてしまったその呟きを聞かなかったことにしていたがずっと気になっていた。
(お嬢様は1対1での勝負でインヴィに…)
そこから先は思いに上らせるのも憚られた。
だが陸が生きている事実はそれを認めなければ説明できない。
(インヴィが力を隠していたか、あるいは戦いの中で目覚め、身を隠す必要性がなくなった?)
カタッ
葵衣の手が止まる。
それはとある可能性の提示。
これまで幾度となく考えてきたInnocent Visionへの対策と自ら体験してきた過去の現象、それらが1つの結末へと集束した。
最悪の結末へと。
葵衣の左目が朱く輝く。
普段感情を見せない葵衣が歯を食い縛り怒りを露にしていた。
「そんなわけがない。」
声を荒らげ机を叩く。
葵衣らしからぬ行動を幸か不幸か見るものはなかった。
振動で溢れた紅茶を見つめながらも動かない。
「そんな、わけ…お嬢様。」
水面に映る葵衣の瞳は絶望に似た色を映していた。
芦屋さんのお見舞いを終えて家に帰り、部屋に運ばれた食事をネットサーフィンしながら食べて寝た翌朝、学校に向かっていると制服にコートやマフラーといった一般的な学生の集団の中に一点変わったものを見掛けた。
(巫女?)
襦袢に緋袴の所謂巫女服の女性がしずしずと学生の流れの中にいた。
当然のように学生たちは巫女から距離を取っている。
(学生なのかな?)
なんで巫女服なのかは分からないが神社の戒律には明るくないので忌避する材料にはなり得ない。
尤も自分から声をかけるつもりはないが。
あとついでに巫女属性があるわけでもない。
「あ。」
巫女が小さく嬉しそうな声をあげたのが聞こえた。
そのまま小走りに進んでいった巫女は脇道から出てきた女子生徒に駆け寄った。
(作倉さん?)
離れて声は聞こえなくなったが相手は作倉さんで間違いない。
2人とも周囲が避けているのを気にした様子もなく和やかな感じで歩き出した。
立ち止まった際に少しだけ見えた横顔に見覚えがあった。
(確か、お祭りの時に見た太宮神社の巫女だったかな?)
あの時不潔ですとか言われたせいで微妙に印象に残っていた。
(でも太宮神社の巫女と作倉さんにどんな接点があるんだ?)
分からないことはどんなに頭を捻ったところで分からない。
そのうち作倉さんに聞いてみようと思いつつ、人波に飲まれて学校へと向かうのであった。
「そう言えば忘れてました。」
叶はポンと手を叩いた。
琴は何事かと首を傾げる。
「半場君が帰ってきたんですよ。」
「ああ、なるほど。そうですか…って、ええ!?」
本当に世間話のノリで報告されたせいで一瞬その重大さに気付けなかった琴は思い至り驚きの声を上げた。
「3学期の始業式の日から登校してきてますよ。」
「もう3日経っているじゃありませんか。どうして教えてくれなかったのですか?」
驚きを隠しきれずちょっと恨みの隠ったジト目で睨む琴に叶は身を引きつつ苦笑を浮かべる。
「私も驚いちゃって。それで忘れてました。」
最近こそ琴と叶は友達だが元々は陸との仲介役として琴が接触を謀ったのだ。
それを叶が忘れてしまっては本末転倒だ。
「そうですか。それではクリスマスの日の不吉な運勢は乗り越えたということですか。」
「多分、そうだと思います。まだちゃんと半場君とお話しできていないので詳しくは分からないんですけど。」
叶はさらに困ったような笑みを浮かべた。
琴は叶の言動に首を傾げる。
「どうしてですか?出会ったらそれこそ人目も憚らず抱きついて根掘り葉堀聞き出すものだと思っていました。」
琴は叶が陸に抱いているのが恋愛感情だと信じて疑っていない。
そしてなまじ実体験が無いため書物やメディアの恋愛に影響を受けてそういう反応が普通なのだと思い込んでいた。
叶は少し考えるように空を見上げ、恥ずかしそうに微笑んだ。
「本当は半場君に会えたらいろんな事を聞こうって思ってました。でも、実際に会えて、今まで通りの半場君の姿を見たら、なんだか安心しちゃって。」
「そうですか。」
経験のない琴にはその感覚は理解できなかったが嬉しそうな叶を見ると催促しようとは思えなかった。
叶はグッと拳を握る。
「でも琴先輩も半場君とお話があるんですよね?それなら頑張って誘ってみます。」
自分の事だと尻込みしていたのに他人のためには一生懸命になれる叶がいとおしくて琴は叶の頭に手を添えた。
「叶さんはいい子ですね。」
「は、恥ずかしいですよ。琴先輩。」
そう反論しつつもどこか嬉しそうな叶。
朝っぱらから若干桃色オーラを放つ熱い友情に男女ともわりと興味津々に横目で見ながら通りすぎていった。
巫女と作倉さんがゆっくり歩きながら話をしているうちに悪いとは思ったけど声をかけずに追い抜いて教室に到着した。
横を通りすぎるときに僕の名前が出たような気がしたが何を話していたのだろう?
「!」
ふと強い殺気を感じた。
視線を向けるとそこには黒原君がいた。
だけど初めそれが彼だと気付けなかった。
目付きからして異常者のソレに近い。
前に見たときよりも随分と色艶も悪くなったように見える。
他の生徒は気付いていないようだから気のせいか、あるいはゆっくりと変化してきたのか?
嫌な感じがする。
この感覚を僕は知っていた。
(ジェム…まさか。)
僕は左目に手を当てながらInnocent Visionを使おうとして
「おはようございます、半場君。」
作倉さんに声をかけられて断念した。
それにもし僕がInnocent Visionで見てしまったら僕の予想が現実になってしまう。
「おはよう、作倉さん。」
だから僕は目を瞑る。
今受けている刺すような殺気も、できれば外れてほしい予想も見ないように。
作倉さんは挨拶をした後も僕の前から立ち去ろうとはしなかった。
八重花たちや芳賀君はまだ来ていないので話し相手になってくれるのはありがたいのだがどうもそういうわけではなさそうだ。
昔のようにどもってしまっているというよりは言葉を選んでいるように見えた。
「実は私のお友達が半場君にお会いしたいと言ってまして、出来れば私と一緒に会ってもらいたいんです。それに、私も半場君にお話があるので。」
作倉さんは口調こそ穏やかなもののしっかりした目で僕を見ていた。
作倉さんの話したいことは分かっているつもりだし僕も聞きたいことがある。
ただ、作倉さんの友達に関してはどういう相手か予想できない。
(もしかしたら予知を持つ人物か?)
それは憶測の域を出ない僕の願望。
期待しないでおこう。
それよりも
「また別の女か!?」
「お会いしたいって、まさか告白か!?」
「とうとう作倉さんが動くのね。」
「新たな修羅場よ!」
さっきの一言をねじ曲がった感じに解釈したクラスメイトが騒いでいた。
「…。」
「あはは…」
僕も作倉さんも苦笑するしかない。
黒原君に至っては今にも襲いかかってきそうなほどの怒気を発している。
あれでよく周りに気付かれないものだ。
「それで今日の放課後はどうでしょう?」
この状況でも話を進める作倉さんは逞しくなったのか天然なだけか。
「別に構わないよ。」
「ありがとうございます。」
作倉さんは嬉しそうに笑った。
そこにぞろぞろと久住さんたちが入ってきた。
「おはよー、って何この騒ぎ?」
「にゃはは、またりくりくが何かしたの?」
入ってきていきなり僕が原因だと言ってくるのは失礼だと思わないでもないが事実なので反論できない。
八重花はこちらに冷たい視線を送りつつ別の殺気に気付いたようだったがわずかな違いで黒原君は教室を出ていってしまった。
「それで、りくは私に内緒で叶と何をするつもりなの?」
黒原君に興味を失った八重花は言葉に棘をつけたまま近付いてきた。
「作倉さんの友達が僕に会って話がしたいって言うからその約束をしただけだって。内緒でもなんでもないし。」
「それはデートよね?」
「うーん。どうなんだろう?」
具体的にどういう話をするのか分からないため答えづらい。
助けを求めて作倉さんに目を向けたが
「どうなんでしょう?」
作倉さんも首を傾げていた。
要領を得ないことに八重花は不満げでため息をついて腕を組んだ。
「それなら私も…」
「八重花さん、今日はジュ…ん乙女会の様子を見てくれる予定です!」
いつの間にか八重花の部隊のジュエルらしき女子生徒が後ろで喚いていた。
約束をしたのは間違いないらしくとても嫌そうな顔をしていた。
「…今日はビシバシいくわよ。」
諦めた八重花はなにやら怒りの矛先を彼女らにぶつけるようだった。
事の成り行きを見守っていた作倉さんは小さくため息をついていた。
それは残念というよりは安堵のように聞こえたし八重花じゃなくても話に乗ってきそうな久住さんや中山さんが困ったように笑うだけなのか気になった。
「あ、もうすぐチャイムです。それじゃあ半場君、よろしくお願いします。」
妙な違和感の正体を聞き出す前に作倉さんは机に戻っていってしまった。
すぐにホームルームが始まってすぐさま授業になった。
僕は授業内容なんて上の空で相手の事を考えていた。
(作倉さんの友達だけど僕に接触して来ようとしているとなるとやっぱりヴァルキリーか?一般人の作倉さんに素性を隠して僕に近づいて奇襲してくる可能性はある。それに魔女の方からのアプローチとも考えられるな。)
両組織が僕を、Innocent Visionをどう認識しているか分からない以上警戒しないといけない。
(あるいは、未来視に関わること。)
作倉さんからも話があると言っていたしその線かもしれない。
僕は机に突っ伏して憂鬱な思いで窓の外を見た。
(告白とかじゃ、困るなぁ。)
一番普通の内容が最難関な僕であった。