黎明の欠片、奈落の抱擁
その日、俺――高瀬聖は、二度目の裏切りに遭った。いや、世界にではない。運命そのものに、だ。
「――聖っ、危ない!!」
悲鳴を上げたのは、15歳になる俺の甥、優斗だった。
高校生の時に一度、この異世界「ルミナス」に『聖人』として召喚された俺は、今や30歳。15年の時を経て、まさか甥の優斗を巻き込む形で二度目の召喚をされるとは思ってもみなかった。
しかも、今回の『聖人』として崇め奉られたのは優斗の方だった。
俺は「巻き込まれたただの一般人」として冷遇された。魔力測定の水晶が俺の膨大な光の力に耐えきれず、計測不能の泥を吐き出したせいで、無能の烙印を押されたのだ。本当は、15年前よりも遥かに強大な聖人の力がこの身に宿っているというのに。
だが、そんな誤解はどうでもよかった。胸を抉ったのは、別の刃だ。
「下がれ、部外者。これ以上聖人殿の足を引っ張るというなら、容赦なく斬る」
冷徹な声で俺を阻んだのは、この国の聖騎士団長――レオンハルト。
漆黒の髪に、凍てつくような琥珀色の瞳。15年前、まだ新人騎士だった頃、不器用に見せてくれたあの甘い微笑みは、今の彼には微塵も残っていなかった。
かつて俺たちは恋人同士だった。
新兵だった彼と、異世界に怯える聖人だった俺。寄り添い合い、愛を誓った。けれど15年前、俺は襲い来る魔物からレオンを庇い、そのまま深い谷底へと転落したのだ。死んだと思撃の中で元の世界へ戻り、15年が過ぎた。
再会したレオンは、俺を見ても眉一つ動かさなかった。
彼にとって俺は「聖人(優斗)の身の回りの世話をする、15年前の死者に酷似した怪しい年上の男」でしかなかったのだ。彼は聖人である優斗を守る厳格な騎士団長として、俺に冷徹な態度を崩さなかった。
(俺だって、分かってる……。お前はもう、あの頃の泣き虫な新人騎士じゃない。この国を背負う、立派な騎士団長なんだって……)
どれだけ冷たくされても、レオンが生きて、立派に職務を全うしている姿を見られるだけで幸せだと思おうとした。……だが、運命はどこまでも残酷だった。
王都近郊の視察中、突如として空間が裂け、15年前を遥かに凌駕する凶悪な上位魔物の群れが溢れ出したのだ。
騎士団の防衛陣形が崩れる。レオンが前線で剣を振るうが、背後から別の魔物が、怯える優斗へと鋭い爪を振り下ろした。
「優斗――っ!!」
体が勝手に動いていた。15年前と同じだ。
俺は優斗を突き飛ばし、その身で魔物の猛撃を受け止める。背中に走る激痛。そして、衝撃の弾みで、俺の体はまたしても、あの悪夢のような深い谷の縁へと投げ出された。
「……あ」
視界がスローモーションになる。
突き飛ばされた優斗の足元に、突如として現代日本へと繋がる帰還の光行陣が発動するのが見えた。時空の歪みが、優斗だけを元の世界へと引っ張り戻そうとしている。
「伯父さん!!」と叫ぶ優斗の姿が、光の中に消えていく。よかった、優斗は助かる。
そして、俺の体は重力に従い、真っ逆さまに暗黒の谷底へと落ちていく。
「――聖―――っ!!!」
上空から、引き裂かれるような絶叫が聞こえた。
見上げると、崖の縁から身を乗り出し、なりふり構わず手を伸ばすレオンの姿があった。その琥珀色の瞳には、15年間彼が押し殺し続けてきた、狂おしいほどの絶望と激情が、涙とともに溢れていた。
(あぁ……お前、気付いてたんだな……)
名乗れなかった俺を、責め立てることもせず、ただ冷たく突き放すことで守ろうとしていたのかもしれない。あるいは、信じるのが怖かったのか。どちらにせよ、もう遅い。
ドサリ、と激しい衝撃とともに谷底の岩場に叩きつけられる。
骨が砕ける音が響き、口から熱い血が溢れた。意識が遠のきかけるほどの重傷。だが、俺はまだ死ねない。
頭上を見上げれば、俺を追って、あるいは崖を伝って、無数の魔物たちがこの奈落へと這い降りてこようとしていた。このままでは、崖の上にいるレオンたちも全滅する。
「……二度も、俺の大切なものを奪わせるかよ」
身体を支配する激痛を、怒りと魔力で捩じ伏せる。
俺は血塗れの身体を起こし、大地に手を突いた。内に眠る、誰にも測定できなかった『本物の聖人』の力が、俺の感情に呼応して狂暴に狂い咲く。
「ル・ミ・ナ・ス――ッ!!」
ボロボロの身体から溢れ出たのは、夜を昼に変えるほどの圧倒的な黄金の光。
それは癒やしの光ではない。不浄なるものを塵一つ残さず消滅させる、神罰の輝きだ。
谷底を満たした光の濁流が、押し寄せる魔物の群れを、その細胞の一片に至るまで焼き尽くしていく。
「ガァァァッ……!」
魔物たちの断末魔が響き渡り、やがて光の粒子となって消えていく。数千、数万の魔物が、俺たった一人の力で、瞬く間に殲滅されていく。
静寂が戻った谷底で、俺は仰向けに倒れ込んだ。
視界は血に染まり、息をするたびに胸が焼けるように痛む。もう指一本動かせない。
だけど、不思議と怖くはなかった。
遠く上空から、誰かが狂ったように崖を駆け降りてくる足音が聞こえる。
鎧を擦れ合わせ、俺の名を何度も、何度も叫びながら、必死にこちらへ向かってくる、愛しい男の足音が――。




