20話 デンジャラス・ノスタルジア 償い
村山きつしの章
「これはなに?」
「ああううだあん」
「違うでしょ。これは、電車でしょ」
鈴音はダッフルバッグに入っていた乗り物の絵本をかつしに見せていた。
かつしはあまり泣かなくなり、ちゃんと座って母親の話を聞いていた。
きつしはこれ以上見落としがないようにかつしの情報が入ったフォルダを読み込んでいた。もう五周目だ。これから六周も七周もすることになるのだろう。
暇だ。かつしがしゃべられるようになって鈴音は狂喜乱舞で、すっかり教育ママになってしまった。きつしがやることといえば三時間に一回バケツを用意することとカゼインが含まれていない粉ミルクを作ることだ。
鈴音は絵本や学校の教材やらをかつしに見せては空回りしている。
かつしが話せるようになったとは言ってもまだはっきりとした単語や文章が話せるわけではない。こちらも聞き取れない、ぼんやりとした単語のような言葉を話しているだけだ。しかし、どこか聞き慣れた音だ。
例えばさっき言っていた「ああううだあん」はっきりと聞き取れたのは「だ」と「ん」だけだ。
直前の文字は「あ」と「う」だ。少し違和感がある。「あ、う、だ、ん」はっきりと思い出せはしないがどこか不吉というか、変な響きだ。
「じゃあこれの続きは?」
数学の教科書だ。なんとかという定理の証明。
「い、お、ご、お、し」
「だから違うって。さっきから言ってるじゃないの。任意の正の整数で始めて偶数ならば二で割って奇数なら三倍して一を足すという操作を繰り返すと?」
かつしは両手を振り回して教科書を叩いた。
「ちょっと。さっきもやったじゃない。コラッツ予想でしょ。シリコンバレーの企業が一億円の懸賞金をかけてた。学校でも課題が出たわよね。きつそ」
「も、も、もうどうが解いちゃったけど」
かつしは右手で左足を持とうとして転んだ。
「じゃ、く、さ、う」
「何言ってるのよ。さっきから。ねぇきつし。この子わたしたちには似てないわよ。どっちかというと小林よりなんですけど」
もうどうのやることだから自分の遺伝子を受け継いだ子供を作ったとしても納得はいく。
「ねぇ、鈴音」
「なに」
「そ、そ、そ、その、まださ、赤ちゃんなんだからべ、べ、勉強は早いんじゃないの」
「だってこの子しゃべったのよ? まだ赤ちゃんなのにしゃべったのよ。だから今から勉強して立派な人にしなきゃ」
「で、で、でも、この子は勉強したがってるのかな。もっと違うことをしたいと思うんだけど」
「例えばどんなこと?」
「ほら、普通にさ、そ、そうだね。あの、なんか、手遊びとか」
「手遊び? どんな」
「ど、ど、どんなって。『おててどこ』とか?」
鈴音はかつしを持ち上げると、右手を握り拳にしてきつしのお腹に打ちつけた。
「なに」
「手遊び」
「いや、それはべ、べ、別にいいけどさ。暴力だよ」
「あなたたちも暴力じゃない」
「それはそうだけど、ち、ち、小さい子に片棒を担がせるのはどうかと思うよ」
「片棒を担ぐっていう言い方」鈴音は軽く吹いた。
「言い方なんてなんでもいいでしょ。今は勉強じゃなくて、なんていうか。じょ、常識みたいなのを教えるのがいいんじゃないの」
「ひとごろし」
「え?」
「わたしじゃないわよ」
確かにひとごろしと聞こえた。まさか。
鈴音に抱かれているかつしの口元を見た。
「ひ、と、ご、ろ、し」
「……なんて?」
「お、ろ、せ」
鈴音は肩を震わせるとかつしを床に下ろした。かつしは自分の足で自立すると、「よちよち」でも「よろよろ」でも「はいはい」でもなく『きびきび』と歩き始めた。
「うそでしょ」
鈴音がぴゃっと飛び退くとかつしは鈴音の方を見て
「ひ、と、ご、ろ、し」
直感的に危機を悟って抱き上げようとしたがかつしは身をかがめてきつしの足の間をはってキッチンの方へ逃げた。鈴音の目を見た。鈴音は自分の目を見た。
「外に出してはいけない」二人のココロでその声が響くと、かつしに向き合った。
かつしはおおよそ赤ん坊とは思えぬ形相でにたりと笑った。
鈴音は不意をつかれたように後退りした。
その時、かつしはコンロの上に飛び乗って正面に走り、きつしがその先をカバーするとかつしは、ぴょいと隣にジャンプしてリビングに飛び降りた。
「鍵を閉めて!」
きつしの声で鈴音は玄関に駆け出した。かつしはソファに飛び乗った。急いであとを追ってソファを確かめたが、かつしの姿はどこにも見当たらない。
どこだ。どこに行った、と思っていたら、足を引っ張られる感触があった。前につんのめってソファに倒れたが、それだけにとどまらず体重がかかって机に鼻をぶつけて、血を出した。
階段を駆け上がる音がする。鈴音が追いかける音も。
「うぅっ」
きつしはありがちにうめいてティッシュで鼻血を拭いた。これは、この凶暴さはもうどうが設定したことなのか、それとも、自分たちの育て方が悪かったのか。どっちも考えたくない。
二階から鈴音の悲鳴を聞くとすぐに飛び起きて、三段飛ばしで階段を上がった。
二階に行ったことがなかったから分からなかったが一階よりも部屋の一つ一つが狭い上に数が多い。
隠れられたら見つけられない。火星の迷路の方が何倍もやさしい。
「きつし!」
鈴音の声がする。右だ。
「鈴音!」
すぐ右の部屋のドアを開けると段ボールの上で、鈴音がトイレットペーパーでぐるぐる巻きにされて倒れていた。部屋は一面段ボールで埋め尽くされている。
ガラクタをしまっているものらしい。足の踏み場がない。
「だ、だ、だ、だ、大丈夫?」
つまずきながら鈴音に駆け寄る。
「大丈夫だけど、どこに行ったか分からない」
「ひ、と、ご、ろ、し」の「し」とドアが閉まる音が重なった。
おむつ姿のかつしがこちらを見ている。
「ひ、と、ご、ろ、し」
「ちょ、ちょちょちょ、ちょ、ちょっと落ち着いてくれない? 何が不満だったのさ」
「ひ、と、ご、ろ、し」
「シンクに汚物を吐かせたのがやだったのかい? 高熱を出したこと? あ、あ、あらかじめ情報を見てなかったのは悪かったけどここまで恨むことないだろ」
「ひ、と、こ、ろ、す」
「ちょっと待って。汚い言葉は使っちゃだめなんだよ」
奇声をあげて飛びかかってくる。立ち上がって腰でブロックするが、ひっついて離れない。制服のブレザーの中をまさぐる。
「ちょ」
右腰のホルスターの銃が揺れる。
「ちょっ……と」
腰を右に振ると重さがなくなる。かつしは正面の段ボールに突っ込んで倒れた。段ボールの中に入っているものがガチャガチャと音をたてて落ちていく。かつしの姿は段ボールと埃に埋もれて見えなくなった。
「だ、だ、だ、大丈夫?」
鈴音の手をとって立ち上がるのを手伝う。
「だいじょうぶ……」
「ならよかった」
肩で息をしていると、つんざくような泣き声が聞こえてくる。二人の視線は崩れた段ボールに向く。きつしは鈴音を見る。鈴音はきつしを見る。自分たちが何をしたか思い返す。子供が欲しいとせがみ、友人に作らせて、しかし出来上がった子供に然るべきケアもできず過度な期待をかけて少しいたずらをすると目くじらたてて追いかけた。子供は悪くない。
さっきまで敵と戦うように子供に向き合っていた。今だって、かつしより先に鈴音に歩み寄っていったではないか。子供を持つには未熟すぎるし簡単に考えるべきことでもなかった。大変などというレベルではない。命を預かるのだ。組織の人員のように他人の命を背負うのとはわけも重みも違う。自分の子供。
この世でたった一人、最後まで自分を信じるであろう人間。




