高校三年、冬 後編
『進路決まった?一般だっけ?』
『めっちゃ簡単に聞くじゃん。おれ推薦』
『オレも推薦!!今度そっち帰るから遊ぼ』
高校で寮生活をしている友人から久々にメッセージが来た。互いにセンシティブな話題かと思って下らない連絡を取って以降進路に関する話題は特に触れていなかったのだが、とうとう我慢出来なくなったらしい。
スポーツ推薦で県内ではそこそこ水泳の有名な高校に行った友人は、大会のない週末などにたまにしか帰ってこないから会う機会はかなり減ってしまっていた。
わざわざ応援に行くようなこともないから、遊ぶために連絡をするのはどれくらいぶりだろうか。
すっかり引退をしたから冬休みは結構帰ると返事が来たから、お互い決まってる組でがっつり遊ぼう、とスタンプを付けて返した。
同じ中学出身の別の友人に適当に目星を付ける。今も連絡を取り合う仲で、進路が確定している人間は他に誰が居ただろうか。
この辺に聞いてみる、と送れば、任せるわと奇妙なスタンプが送られてきた。見たことのないそれをタップしてみると、ホラー映画のキャラクターをデフォルメしたスタンプのようだった。
相変わらずオカルト好きなんだな、と思わず笑ってしまう。離れようが何だろうが、人間の好みはそうそう変わらないらしい。
返事来たら連絡するからと伝えてカレンダーを見る。高校最後の冬休みが目前まで迫ってきていた。
耳元で何事か囁かれている声がする。
こうして起こされるのももう何年目になるのだろう、こいつがおれについてきてすぐ始まったんだったか、それとも少し経ってからだったか。当たり前のように毎晩毎晩発生するそれの詳細をもういちいち覚えていない。
悪夢を見たり、物理的にダメージを負わされたり、しょうもない嫌がらせをされたり。内容こそ変われどそのどれも全て継続しているけれど、この睡眠時に囁かれるこれだけは大きな変化はない。
相変わらず内容は聞き取れないし、耳を塞いでも聞こえてくるそれは恐怖よりももう苛立ちが勝つ。お経にも聞こえるし、笑い声にも聞こえるし、恨みつらみのようにも聞こえる。心当たりが一切ないそれ。
「ほんとやめて」
はあ、とため息をつきながら呟いた。どうせまだ夜中なのだろう、時刻を確認して完全に目覚めてしまうのが嫌だった。
一応辺りを見渡したけれど、あいつの姿は見えなかった。暗い部屋にエアコンの音が鈍く響いている。
こんなものに気付かないくらい熟睡出来れば良いのだけれど、絶妙な音量で聞こえてくるそれはどうにも気になってしまう。入眠時や睡眠中に容赦なく訪れるそれの内容がせめて理解出来れば気にならなくなるのだろうか。
誤魔化すためにイヤホンをつけたところでそんなものが効果がないことは分かりきっていた。どうやっているのか、あいつは障害物などないかのようにおれに直接音を送り込んでくる。耳になのか、それとも脳みそに直接なのか。どちらでもいい、結果に変わりはない。聞いたところでどうせ辞めてくれる訳ではないからもう諦めている。
「飽きないの?」
「飽きないね」
愉快そうな声が響いた。会話をする気になったのか、囁き声がぴたりと止まる。ずる、と天井から滲み出るようにそいつが出てきた。
上半身だけ覗かせて、どうやって支えているのか腰から下は天井に埋まったままだ。
髪の毛は床に向かって流れているから、こんな状態になっても重力には逆らえないものなんだな、と取り留めのないことを考える。
「おれ、明日も学校なんだけど」
「知ってるよ」
「朝早いんだよ」
「知ってるよ」
だから何、と言わんばかりにそいつが少し首を傾けた。おれの都合がどうでもいいのはもう十二分に理解している。
けれどおれもずっと我慢しているのだから、たまにはこいつにも譲歩をしてもらいたいと思うのはおかしいことでもないはずである。
「寝たいの、おれ。分かる? ほんとやめてくんないかな」
「何で?」
何でじゃない。人間は寝ないと最悪死んでしまう。
おれがもしもこんな事で死んでしまったら、こいつはやっぱり笑うのだろうか。──迎えに行ってやればいい? 以前の会話が一瞬過ぎってぞっとする。どうして死んだ後までこいつに付き纏われなければならないんだ。
「なに、なんかあげれば言うこと聞いてくれたりすんの」
「どうだろうね」
「はっきりしてくれよ」
話すうちに結局目は冴えてきてしまって、もういいや、なんて投げやりな気持ちで部屋の照明のスイッチを押した。
暗闇に慣れた目には眩しすぎて、一瞬ぎゅっと強く瞼を瞑る。あいつには何のダメージもないようなのが憎たらしい、おれが数回瞬きをする様をにやにやしながら見下ろしている。
ほんとにだるい。呟きながら何かないかなと部屋を見渡す。どうだろうねと言うことは、あいつにくれてやる物によっては本当に言うことを聞いてくれる可能性があるのかもしれない。
「あー。これ良いじゃん、ほら」
「何?」
机の向こう、壁に貼ってあるコルクボードを指差した。過去の学校行事で撮影されたものを購入したり、何かのイベントの時に印刷して皆んなで分け合った写真たちが乱雑に飾ってある。
そのうちの一つ、中学での修学旅行の一枚だった。
「見ろよこれ、ほら。お前着いてきてたろ? 心霊写真になっちゃってんの」
ちょっと騒がれて大変だったんだぞ、と当時を思い出して嫌な気分になりながら指差した。
おれと友人がカメラに向かってピースサインをしているなんてことのない写真だった。背景には修学旅行で定番の寺の、絶景スポットがやや見切れるかたちで写っている。
それだけの何でもない写真のはずだったのに、おれの後ろに黒い人影みたいなものが写っていると目敏い友人が見付けてはしゃぎだしたのだ。その観光地の代名詞に被さるようにぼんやりと黒く入り込んでいる。
「毎晩毎晩ほんと疲れてんの、おれ。どうせ嫌がらせすんなら朝早く起こすとかにして。そしたらお前が唯一写ってるその心霊写真あげるから」
「ああ、確かに写ってるね」
「だからほんと夜のぶつぶつ言うやつやめて。明日も早いんだよ。レアだろ? お前の写真。やってくれるならそれあげるからさ、約束約束」
おれの指差すほうに向かってずるずると降りてきていたそいつが、ぴたりと動きを止めた。
写真を少し見てから、ゆっくりとおれのほうに振り返る。ほんの少し眉根を寄せて、呆れているような。不本意ながら長い付き合いだというのに見たことのない表情だった。
「やばいね、おまえ」
「は? 何が?」
もう一度そいつが写真に向き直る。なるほどね、と呟いたそれは、思わず溢れたみたいな響きだった。
耳元の爆発音で飛び起きた。
何かが破裂したみたいなそれに、トラックでも突っ込んできたのかと思ってベッドから慌てて降りて周囲を窺う。
余りの衝撃に心臓がばくばくと鳴っている。何事かと部屋を見渡すけれどこれといって異常は見当たらない。
浅い呼吸をどうにか落ち着かせようと胸元を抑えると同時に、不意に髪の毛を鷲掴みにされた。一切想定していなかったそれに混乱したままの体は力が入らなくて、引かれるままに強制的に上を向かせられる。
ぼんやりしたオレンジの照明と、カーテンの隙間から差し込む朝日と、その中でもなお薄暗い血の気の引いた顔が目に入った。ぐぐ、とにやついたそれが近付いておれの視界を埋め尽くす。
「ほら、起こしてやったよ」
「……は、」
間抜け面、と一言残してそいつは不意に姿を消した。秒針の音がやけに響いて聞こえる。
よろよろと後退して、ベッドにぶつかった拍子に座り込む。いつものアラームの時間よりほんの少しだけ早い時刻だった。
「……え、まじ?」
写真の話をしてから再度眠って、いつもなら途中のどこかで絶対に一度は起こされるようなことがあったのに。昨夜はあれから起きることがなく、その上、
「はは」
──どうせ嫌がらせすんなら朝早く起こすとかにして。
あれを律儀に守ったとでも言うのだろうか。
「おもしろ、」
起こし方は最悪だったけれど。
すぐにスマホのアラームが鳴り出したけれど、力が抜けたままのおれはしばらくぼんやりと座り込んでいた。
気分のいい一日だった。
普段よりよく笑っていた自覚がある。朝から電車で座席の確保も出来たし、普段なかなか買えない購買の人気のパンもゲットすることができた。妙に運が回ってきていた。
夜中に一度起こされたとは言えいつもよりも睡眠時間もまとまって取れたし、あんな簡単なやり取りでここまで上向きになるとは思っていなかった。あいつは相変わらずおれに引っ付いてきていたけれど、今日のおまえ気持ち悪いね、なんて言葉も気にならないほどに気分が良かった。
長年の嫌がらせから解放される糸口が見えた気がしたのだ、仕方のないことだと思う。
そうして油断していたのもあったのだろう。
「嘘だろ……」
夜に囁き声が聞こえてくる嫌がらせは終わったかと思っていたのに、結局はぬか喜びであったらしい。
その日の夜、意気揚々と眠りについたおれは、深夜に耳慣れたそれでまた起こされてしまった。
気分よくあいつにも「おやすみ」と生まれて初めて挨拶をしたのに。まるで馬鹿みたいだった。どうりであいつは虚をつかれたような変な顔をしていた訳である。
「え、待って、これ辞めてくれたんじゃなかったの」
嘘だろ、とがばりと上体を起こして姿の見えないそいつに問いかける。一瞬大きくなった囁きに呼応するみたいに常夜灯がちかちかと点滅を繰り返した。
「辞めるとは言ってないよ」
ぶわ、と部屋の中央にもやが溜まるみたいに人影が出現した。気怠そうにベッドサイドに佇んでいる。
「だって昨日はなかったじゃん」
「昨日はね」
「は?」
「夜のやつやめて、明日も早いんだよ、って言っただろ。おまえ」
だから昨日はやらなかったよ。優しい? こてりと首を傾けた。あからさまに馬鹿にされている。
「まじかよ……」
「あはは」
ばちばちと照明が荒ぶりだす。こいつの気分に共鳴しているのだろう、壊れそうだからやめてほしい。
一気に脱力してしまってベッドに倒れ込んだ。上げて落とすのがこんなに精神的に来るものだなんて。中学の時に占い師と出会った時も感じたそれをまた味わうとは思っていなかった。
「明日はなにで起こされたい?」
首でも締めようか? と朝食のメニューを聞くみたいにそいつが軽い口調で笑った。昨日と同じじゃつまんないでしょ、とレパートリーを思い出すように顎に手を当てている。
「嘘でしょ、何でそっちは継続なの」
「どうせ嫌がらせすんなら朝早く起こすとかにして、でしょ。おまえが言ったんだからね」
承ったよ、とそいつが笑う。耐えきれなくなったらしい照明が、とうとうばちりと音を立てて消えた。
最悪なことにその日から毎朝そいつによる傍迷惑なアラームは続いた。
自己解釈も甚だしいそれは多様な起こし方でおれを苦しめた。宣言通りに首を絞められたり、胸の上に乗られてじわじわと体重をかけられたり。
おれの反応がいいからと一番多かったのは初日にもやられた爆発音だった。日に日に寿命が削られている気がする、余計なことを言わなければ良かったとつくづく思う。口は災いの元とはこういうことを言うのだろう。
起こされるだけならまだしも、毎朝ほんの少しずつその時間が早まってきているのもまたストレスだった。最初は自分で設定していたアラームの前後に起こされていたのに、気付けば朝日よりも早く起こされる日も出てき始めた。
少しでも睡眠時間の確保がしたいおれは、仕方がないので早く寝ることを選んだ。どうせ夜中にあのぼそぼそ声で起こされることになるが、夜更かしして全く眠れないよりはマシだった。
結果として最終的に九時に寝て朝四時に起きることが増えた。じじいなの? と級友に笑われてしまったが、おれは笑えなかった。これもただの生存戦略なんだよ、と返してもふうん、と不思議そうに言われるだけだった。
そんな日々を過ごすうちに、学校はいよいよ冬休みに入った。ラストスパートの追い込みをかける友人たちはとうとうスマホを親に預けることにしたらしい。さよなら……と悲しげなメッセージを最後に連絡が付かなくなった友人がちらほらと居る。
それを良いことにどうでもいいネットミームの画像を別の友人と共にグループに送り付けていたが、時折つく既読の文字に「これ親だったらどうする?」と気が付いて恐ろしくなって送るのをやめた。この歳で親の力で縁を切られてしまってはあまりにも物悲しい。
あいつらの合格願いに初詣でも行く? と推薦組の友人から連絡が来て、あーおれ地元の友達と初詣行くんだよね、と謝罪の書かれたスタンプを送った。三が日明けてからどっか飯でも行こうと適当な話で終わる。
結局目星をつけていた別の友人たちは家族や彼女と約束していたからと断られてしまって、寮から帰宅する友人はおれと二人で初詣に行くことになってしまっている。それでも良いかと一応確認はしたが、臨むところだとまた奇妙なスタンプでもって返された。よく意味は分からなかった。
「久しぶり! 元気してたー?」
「三ヶ月ぶりくらい? 元気。そっちは?」
「引退したから体力持て余してる。めちゃ元気!」
お肉がついてきちゃって困っちゃうわ、とけらけらと友人が笑った。十年も続けた水泳をぱたりとやめればそれはそうなるだろう。
大学入っても続けるの、と聞くと大学では趣味程度かなあとあっさり返された。ここまで全力で頑張って、もう泳ぎ切った気分とのことだった。
「でもさあ、完全に辞めたいわけじゃないんだよね」
「趣味でやるんだろ?」
「んー。教える側も良いなあって思って」
間隔の開いた街灯の下、夜も更けているのに歩く人々はおれたち以外にも多くいる。もこもこと冬仕様の重装備をして、笑い合いながら非日常の空気を吸っていた。恐らく皆この先の神社に向かっているのだろう、おれたちの目的地も徒歩数分のそこだった。
甘酒は今年も売っているだろうか、と想像しながら雪を踏み付ける。年越しまで残り一時間半ほどだった。
「トレーナー的な?」
「いや、学校の先生目指す!」
オレ顧問なりたい! と友人が声を上げる。すげえじゃん、と考える間もなく飛び出たそれに照れたように笑った。
「中学ん時の顧問がいたからさ、やっぱりオレ頑張れたから」
部活めっちゃキツかったけど、とぽりぽりと頭を掻いている。あの当時は休みが足りないだの練習多すぎだの文句ばかり言っていたけれど、それでもやはり彼にとっては大事な青春だったのだろう。
お前は何系なん、と問われて少しだけ言い淀む。
「人間系……?」
「人間系……?」
「人間科学系」
何か人間の心の有り様が気になったからとぼそぼそと話すと、今ひとつ分からなかったのか、ふうん、と首を傾げられる。就職先がこんな感じらしいと話せば、ようやく思い当たったのかなるほどな、とぶんぶんと幾度も頷いていた。
お互いの通う予定の大学の場所を説明し合うと、電車で一時間程度の距離にある事が分かった。微妙な距離だなと苦笑する。何かあれば頼れなくもない何とも言えない位置関係。
「そっちも一人暮らし?」
「そそ。さすがに寮はもう懲り懲りかも」
「楽そうなのにな」
「全然! まじでやばいよ、プライベート皆無」
距離の近さだけは良かったけど、とぶつぶつ言う友人に頑張ったねーと適当に返していると、人混みで賑わう神社がそろそろ見え始めてきた。
極端に大きい訳でもないけれど小さすぎもしない、地域に根付いたよくある神社だ。祭りの季節と今の時期だけは人で溢れるけれど、普段は近所の人間の散歩コースの一つになっているような静かな場所である。
かく言うおれも夏と年越しくらいにしか来たことがない、恐らく隣の友人も同じことだろう。
ひとまず列に並んで参拝をしようと話し合う。年を越すギリギリ前にご挨拶になりそうだ、と思った。
そうして予想通りにさくさくと列は進んだ。日が昇ってからが混むのだったか、どうだったか。去年の様子をもう覚えていない。
それを友人に告げると、県内の別の神社が混んでるんじゃないか、と返される。どうも来年の干支に由来する神社がそちらにあるらしい。
今年はこっちが穴場なワケ、と力強く言ってくる友人に穴場の神社って何だろうなと返す。二人で考えてもよく分からなかった。
「初詣って参拝終わったら何すんだっけ」
「初詣初めて?」
お守りとかおみくじとかでしょ、ほらそこ、と参拝とは別の行列を顎で指す。人垣の向こう、社務所の中でバイトだろう巫女さんがにこやかに会計をしている様が視界に入った。
学業成就かなあ、と友人が財布の中身を確認している。おれも思わずそれに倣ってから、並ぶか、と頷いて列に向かった。
「さすがに寒いわ、ホッカイロ持ってないの」
「何で持ってきてないの。おれのしかない」
筋肉でガードしろよと呆れて告げると、唇をにゅうと尖らせた。よく伸びるものだと感心する。
「おれ並んでるから甘酒買ってきてよ。あったまって一石二鳥じゃん」
「飲みたいだけだろお前! どこ?」
「あそこ」
鳥居の向こうで売っているのを参拝前におれはチェックしていた。その時はそちらに並ぶためにわざわざ行列から外れたくなかったのと、帰りでいいかと思って一旦は買わなかったのだが、友人が買ってきてくれるのならば話は別である。
夏祭りではラムネを飲んでかき氷を食べたくなるみたいに、初詣では無性に甘酒を飲みたくなる。スーパーなどでパックのものを買うのとは違う、どうしてああも美味しく感じるのだろうか。
まあ寒いからというのが一番大きな理由だろうけれど。
「結構遠いじゃん、がち?」
「早くね。一応聞いとくけど学業成就で良いの?」
「……うん。もー!」
青いやつね! と言い残して競歩みたいに歩き出した友人に、恋愛成就のお守りも買ってやろうかなと思い付いて笑ってしまった。境内で走るのはいけないことだと思ったらしい。
いい奴なのである。いい奴なのだが、それまでが水泳にストイックすぎたせいなのかそれとも単純に暑苦しいせいなのか、ようやく出来た彼女に振られたと号泣しながら電話を掛けてきたのは先月のことだった。
受験生が何やってんのと思わないことはなかったが、それでも尚一緒に居たかったのだろう。三週間ほどで終わってしまった恋だったようだが。短えよ、と言いかけて必死で飲み込んだ。中高生はそんなものなのかもしれない。
「えーと……これとこれお願いします。あとこれと。全部袋分けてもらっていいですか」
甘酒も混んでいたのか友人は間に合わなかった。代わりにおれが買っていいものか少し迷ったが、まあ要らなければ別のやつに押し付ければ良いだろう。自分の分のお守りと、友人の分の学業成就と恋守りなるものを巫女に渡した。
にっこりと微笑まれてから恥ずかしくなる。おれの分じゃないんです、と心の中で言い訳をした。
「あ、あと破魔矢下さい。小さいやつ」
レジスターの横に立ててある破魔矢を指差して追加してもらう。父に頼まれていたそれを危うく忘れるところだった。思い出して良かったと胸を撫で下ろす。
「はい、では合計が──」
受け取ったそれを手にして振り返ると、友人は依然甘酒の行列に並んでいるようだった。おれたちが着いた頃より少し混み始めているのかもしれない。ほんの少しだけ悪いことをした気分になった。
手持ち無沙汰になり、お守りの入った袋をがさがさと揺らす。破魔矢でバランスが悪いことに気付いてそれを抜き取り、とんとんと肩を叩いた。軽い感触に何で出来ているんだろうと手の中を眺める。
一瞬耳がきん、と鳴る。周囲の騒めきが遠のいた気がした。
「どうせ効きもしないのに願掛けなんかするんだね」
はっとして横を向くと、神聖な境内にそぐわない存在がそこにいた。このところ早寝だったおれが遅い時間まで外に居るのが不思議なのか、こんな場所までわざわざからかいに現れたようだった。
神社でも出てくるのか、こいつ。今更そんなことを思う。人前でも関係ないのは知っていたけれど、どうしてかこういう場所なら安全と少し思ってしまっていた。
「効くといいね」
覗き込むみたいにしてそいつが笑った。周りに人が沢山いるから、おれが何も言えないと知っているのだろう。
友人はまだ遠くにいる。
「ほんとうざ」
「あ」
何の気なしに振った手にはまだ破魔矢が握られていた。そいつとの距離を取るように、振り払うように腕をぶん、と上下に動かす。何の意図もない行動だった。
その瞬間、普段押しても叩いても何の感触もないそいつに一瞬触れた感覚がした。と言っても一瞬で、本当に軽くぶつかったような。それだけの感覚だった。
え、と驚いて様子を窺う。そいつも驚いたみたいにじっと自分の右手を見ていた。
指を握ったり閉じたりさせて、丸くなった目が見下ろしている。今まで一度も見たことのない表情だった。
伸ばした小指を左手で握り込む。そうしてにやりと笑って、ゆっくりとおれの顔を見る。
今度は何年も見続けた、いつもの人を苛つかせる笑顔だった。
「やるじゃん」
「は?」
行列に並んでいる大学生の集団が騒いでいる。いつの間にか騒めきが戻っていた。
酔っ払っているのか、間延びした声でカウントダウンだと叫んでいるのが聞こえた。きゅう、はち、なな。
「──めっちゃ並んでた、やばいよ甘酒! どんだけ人気あんのこれ、オレ飲んだことないんだけど」
に、いち、ぜろ。ハッピーニューイヤー!
集団が笑って、つられたように周囲の人々もくすくすと笑いながらそれぞれの連れと挨拶を交わし合っている。
え、いま年越したの? と甘酒を啜りながら友人がおれに一つ差し出してくる。受け取りながらおれも友人の分のお守りを手渡した。
あいつはいつもみたいに笑ったあと、ぶわりともやを散らすみたいに空気に溶けて消えていった。
あまりにもあっさりとしていて何の実感もない。
ないけれど、長年おれに付き纏ってきたあいつを、おれはその日から全く見なくなったのだった。




