第7話 ちょっとだけのはずだった
たこ焼きの上でかつお節が揺れている。
「紗雪ちゃん最近忙しい? ここんとこ、あんまりVR来ないじゃん」
乙奏ちとせさん。もともと和太郎さんのV仲間で、コラボをきっかけに俺とも知り合った。
配信では千歳飴モチーフの和風ロリアバターなのに、VRだとたこ焼きになる人。
子持ちで、4歳の子どもが寝た後にVRに来ることが多い。
「すみません、ちょっとバタバタしてて……」
「いいよいいよ。来てくれた時に話せればさ」
「——あ、そういえば和太郎さんの配信たまに見てるんだけどさ、最近なんか楽しそうだよね」
端から見れば美少女とたこ焼きの女子トーク。片方はボイチェンの男だが。
「……うん、確かに最近調子良さそうですよねっ」
「でしょ? 前よりなんか、余裕がある感じ」
——理由は知っている。防音室で全力の声を出せるようになったこと。演出がリスナーに受けたこと。でもそれは言えない。
「まあいいことだよね〜。和太郎さんが楽しそうだと、こっちも嬉しいし」
ちとせさんはそれ以上踏み込まなかった。たこ焼きが少し揺れて、話題が変わる。
「そういえば、うちの子がさ〜、最近やっと自分で靴履けるようになったの」
「わぁ」
「でも左右逆なの。毎回。逆に器用じゃない?」
「……あはは、確かに」
「旦那も苦笑いしてるけど、本人が満足してるからいいかなって。まあなんやかんや、三人で平和にやってるよ〜」
「……いいですね」
「紗雪ちゃんは? 誰かいい人いないの?」
——こちらに微笑みかける、女性の顔がよぎった。
(……そういうのは)
「いないです」
「ふーん。まあ紗雪ちゃんモテそうだけどね〜」
「……えーっ、どうですかね」
ちとせさんはそれ以上聞かなかった。「あ、子ども起きたかも。またね〜!」とたこ焼きが手を振って、ログアウトしていった。
ヘッドセットを外した。
部屋が静かだった。
◇ ◇ ◇
翌日。
冷蔵庫を開けると、プリンがあった。俺が買ったものじゃない。玄関には和太郎さんのスリッパが揃えてある。
——いつからあったっけ。
今日は紗雪の配信日だ。和太郎さんが仕事帰りに機材の設定を確認しに来て——用事が終わった後も、リビングのソファに座っている。
「ねえ、今日の配信ワールドどうするの?」
「この前教えてもらった通りに。小さいのから回って、最後に——」
「元気なやつね。いいじゃん。楽しみ」
和太郎さんが笑った。俺は防音室に入って、ヘッドセットを被った。
配信を始める。
最初に小さなカフェのワールドに入った。狭い空間。暖色の照明。窓の外に雨が降っている。
『……ここ、落ち着きますね。見てくださいこの窓、雨の音がするんですよ』
次に、少し広い和風庭園。石畳と水の音。
『見て見て、この苔……すごくないですか? 近づくと模様が変わるんです』
コメントの反応がいい。「紗雪ちゃん今日楽しそう」「ワールド選びいいね」——
最後に、あの広場。色鮮やかで、空が広い。
——確かに違う。小さいワールドを経由したから、ここに着いた時の開放感が倍になっている。
配信が終わった。
◇ ◇ ◇
リビングに戻ると、和太郎さんがソファでスマホを置いた。
「よかったよ! あのワールドの順番、正解だったね。最後の広場に着いた時の紗雪ちゃんの声、全然違ってた」
「和太郎さんのアドバイスのおかげです。リスナーの反応も良かったです」
「ふふ。楽しんでもらえると嬉しいよね。——ねえ、ところでさ」
和太郎さんが、少しだけ前のめりになった。
「私もあれ被ってみたい」
「……え?」
「VR。あのヘッドセット。ずっと気になってたんだよね」
予備のHMDはある。仕事用と開発用で複数台持っている。
「……いいですけど、酔うかもしれないですよ」
「大丈夫大丈夫。ちょっとだけ」
ちょっとだけ、とこの人が言った時は、ちょっとだけで終わった試しがない。
紗雪のアカウントでログインした状態で、和太郎さんにHMDを渡す。装着を手伝った。ストラップ等を調整。
「見えます?」
「——うわっ。すごい」
目の前に鏡がある。鏡の中に紗雪が立っている。
「紗雪ちゃんが目の前にいる! マジで目の前にいる!」
「それ鏡です。和太郎さんが動くと——」
「動いてる! わー! 紗雪ちゃんになっちゃった〜!」
「……いい反応です。テンション上がりますよね」
「あはは、手がちっちゃい。かわいい」
「せっかくなんで、フルトラもつけますか。全身動くようになりますよ」
「え、やるやる」
トラッカーを取り出す。
「トラッカーつけるんで、一回ヘッドセット外してもらって——」
「やだ。外したくない。紗雪ちゃんが消えちゃう」
「腰と足首にベルトで巻くんですけど……」
「さっき紗雪ちゃんがつけてるの見てたから大丈夫。付けてもらっていい?」
「……じゃあ、つけますね。失礼します」
和太郎さんはHMDを被ったまま、鏡の中の紗雪に夢中だ。
腰にベルトを巻いた。ブラウスの上から。手が、少しだけ震えた。
足首に屈んでストラップを締める。和太郎さんは上で「あ、なんか足に何かついた」と笑っている。
「きつくないですか」
「大丈夫〜」
別のHMDを被って、別アカウントでログインした。和太郎さん……紗雪のアバターの横に立ち、鏡の前で調整操作。
「——すごい、足も動く」
鏡の中の紗雪が一歩踏み出した。和太郎さんの歩幅で。
「ちょっと気持ち悪い……いや待って、慣れる」
俺はパブリックアバターの初期状態で、和太郎さんが操る紗雪の隣に立った。
「ねえねえ、ポーズ取っていい?」
紗雪が、鏡の前でくるっと回った。
——前にカワイイポーズを教わった時と同じ動きだった。肘を内側に入れて、首を傾けて、片足を少し後ろに引く。
教わらなくても、この人の身体に染みついている。
「おお、動く動く! すごいこれ!」
鏡の中の紗雪が、片足に重心を預けて、首を傾けて、こちらに微笑んでいる。
俺がやったらぎこちなくなるポーズを、和太郎さんは何の意識もなくやっている。
本人は動くことに喜んでいるだけで、自分がどれだけ様になっているか気にしていない。
「ねえ、さっきの配信の場所行ってみたい!」
「いいですよ」
さっき配信で回ったワールドを、今度は二人で歩いた。
カフェのワールド。和太郎さんが——紗雪のアバターが、窓の外の雨を見上げた。
「すごい、配信で見てるのと全然違う。ここにいる感じがする……ここ、落ち着くね」
落ち着く……さっき俺が配信でも言ったこと。
和風庭園。石畳の上をゆっくり歩いている。俺が操作する時より、自然と歩幅が小さい。
最後の広場に着いた。くるりと振り返った。
「——すごい。ここ最高じゃん」
両手を広げて、色鮮やかな空の下で回っている。
——やっぱりうちのこ可愛い。
でも——それだけではない、気がした。
紗雪の動きが、いつもと違う。俺が動かす時は、意識してポーズを取る。可愛く見せようとする。
でも動いている和太郎さんは、何も意識していない。振り返る時の重心の移し方、手の開き方、首の傾け方。全部が自然で、全部が——
「ねえ、あっちにも行ってみていい?」
「……あ、はい。どうぞ」
「やった!」
紗雪が歩き出した。俺が動かす時とは違う、小さな歩幅で。
ワールドを三つ、四つ。新しい場所に着くたびに「わっ、綺麗~!」「えっ何ここ!?」と和太郎さんが声を上げる。
途中、VR酔いで「うっ」と立ち止まることもあったけど、少し休んで「もうちょっと」とまた歩き出す。
「ねえこの箱なに?」
「あ、それギミックで——触ると——」
紗雪の手が箱に触れた瞬間、中から光の粒がポンと弾けて飛び散った。
「きゃっ」
和太郎さんの声が聞こえた。ヘッドセットの外から。VRの中の紗雪は、両手で顔を覆っている。
——和太郎でもいたずらっ子でもない声だった。
「……びっくりした。ねえ今の何?」
「すみません、先に言えばよかった」
「いやいや。もう一回やって。心の準備するから」
ヘッドセットの外から聞こえる和太郎さんの笑い声。VRの中で聞こえる紗雪の笑い声。二つが、少しだけずれて重なった。
◇ ◇ ◇
——ひとしきり遊んだ後、和太郎さんがヘッドセットを外した。
「……さすがに酔いがきつくなってきた」
「初めてでこれだけ動けたの、すごいですよ」
「ふふ、楽しかった〜。またやりたい」
和太郎さんが目を瞬かせている。ヘッドセットを外した直後の、現実に焦点が戻りきっていない顔。
「——さて、そろそろ帰らないと」
和太郎さんがスマホを手に取った。画面を見て、止まった。
「…………え」
「どうしました?」
「終電……ない」




