第28話 もう寝ちゃった?
アキラさんは、天井を見ていた。
虫の声だけが、部屋に残っていた。
「……え」
「あ、もちろんライクじゃなくてラブのほうね。昴さんのこと」
アキラさんが、なんでもないことみたいに言った。
俺の指が、まだ止まったままだった。理解が追いつかない。
「……」
「あはは、変な空気にしちゃったかな」
アキラさんが立ち上がった。テーブルの上のカルピスソーダを持って、台所に向かう。
「おやすみー」
足音が遠ざかって、引き戸が閉まった。
俺は、ソファに座ったまま動けなかった。テーブルの上に、麦茶のグラスが一つ残っていた。氷が、かすかに鳴った。
◇ ◇ ◇
目が覚めたのか覚めていなかったのか、よくわからなかった。
天井が白い。六月の朝の光が、カーテンの隙間から細く差している。
首の後ろが重い。枕が合わなかったみたいに、右の肩だけ凝っていた。
台所へ向かう。やかんをコンロにかけた。冷蔵庫を開ける。アキラさんの野菜ジュースが二本、炭酸水の隣に並んでいる。
インスタントコーヒーにお湯を注いだ。湯気がゆっくり立ち上がるのを、ぼんやり見ていた。
「おはよー」
アキラさんがリビングに出てきた。Tシャツにジャージのハーフパンツ、髪をざっくりひとつに束ねている。目がまだ少し眠そうだった。
「おはようございます」
「ん、コーヒーの匂いー。いいねぇ」
アキラさんのマグカップにもコーヒーを注いだ。レトロゲームのロゴ入りマグカップ。テーブルに二つ並べる。
「ありがとー」
いつも通りだった。声のトーンも、座り方も、マグカップの持ち方も。少しだけ機嫌がいいような気もする。鼻歌が、かすかに混じっていた。
パンを二枚、トースターに入れた。ジーッと音が鳴り始める。
「あのさー、冷蔵庫の卵、今日で期限だから使っちゃってね」
「……わかりました」
「あと洗濯物、昴さんの分も畳んどいたから」
「ありがとうございます」
昨夜のことにはお互いに触れない。触れられない。何事もなかったみたいに、朝が流れていく。
チン、とトースターが鳴った。パンを二枚出して、皿に並べる。
俺の口が、動きかけた。
「あの、昨日の——」
「あ、やば。今日シフト早いんだった。いってきまーす!」
アキラさんがトーストを一枚持って玄関に向かった。ばたばたとスニーカーを履く音。
「いってらっしゃい」
ドアが閉まった。
テーブルの上に、トーストが一枚残っていた。
◇ ◇ ◇
夜。作業部屋で配信を始めた。
いつも通りのはずだった。
コメントが流れているのに、拾い損ねた。『紗雪ちゃんさっきの見てー!』で気がついて、慌ててスクロールを戻す。
「あっ、ごめんなさい……見落としちゃいました」
リアクションが一拍遅れる。リスナーの名前を読み上げるとき、声が少し上ずった。
自分でわかっていた。壁一枚向こうに、さっき「ただいまー」と帰ってきた人がいる。それだけで、いつもの声が出ない。
配信を終えた。ヘッドセットを外す。耳の裏が汗ばんでいた。
隣の部屋から、笑い声が聞こえていた。
和太郎さんの、腹の底から出る声。ソロのレトロゲー配信。今日はいつも以上に弾んでいる。壁越しでもわかるくらい、声の張りが違った。
スマホで和太郎さんのチャンネルを開いた。コメント欄が流れていく。
『和太郎今日キレてんな』『ノーミスいけるんじゃね』『声の張りが違う』
画面の中で、和太郎さんがサクサク進めていた。判断が早い。テンポよくリスナーの名前を拾って、笑い声を混ぜている。
壁越しのアキラさんの生声と、スマホから流れる和太郎さんの声が、重なっていた。
やがて配信が終わった。「おつかれー! また来てくれよなー!」。壁の向こうから締めの挨拶が聞こえて、静かになった。
スマホの画面に、和太郎さんのアーカイブ一覧が残っていた。サムネイルが並んでいる。渋い顔で「おう、今日もやっていくぞ」と言っている、あの表情。
(……やっぱり、好きだな、この人の配信)
困ったとき、和太郎さんの配信を見る。いつからかそうなっていた。あの声を聞いていると、なんとなく落ち着く。
——誰かに相談したい。
この人に話を聞いてもらえたら、少しは楽になるだろうか。「和太郎さん、実は——」
俺の指が、サムネイルの上で止まっていた。
待て待て、本人じゃないか。
さっき、隣の部屋で配信してた人だ。朝、トーストを持って出ていった人だ。昨日の夜、天井を見ながら——
指が、サムネイルから離れた。
でも、誰かには話したい。
ちとせさん?
デスクの端のVRヘッドセットに手を伸ばしかけて、止まった。紗雪として何て言えばいい。
「同居人に告白されました」? 同居のことも、VTuber同士のことも、全部秘密だ。事情を話そうとした瞬間に、全部がほどける。
ちとせの「どうしたのー?」と言う顔が頭に浮かんだ。何ひとつ、答えられない。
ヘッドセットを元に戻した。
誰にも、言えない。
ぬるくなったコーヒーのマグカップに手を伸ばして、一口だけ飲んだ。
◇ ◇ ◇
配信終わりの夜食に、冷蔵庫に残っていた卵でチャーハンを作った。
「今日さー、会社で面白いことがあってさ」
アキラさんがチャーハンをかき込みながら喋っている。
「キャプションのデータ入稿したんだけどさ、文字が全部ゴシック体になってて。担当者がめっちゃ焦ってた」
「うわ……それは焦りますね」
「でしょー? 明朝体って指定してたのにさ。誰がどこで変えたんだろうねー。でもギリギリ直せたからオッケー」
アキラさんは配信好調の余韻もあってか、よく喋った。声が軽い。俺は相槌を打ちながら付け合せのインスタントスープを飲んでいた。
告白のことは、何も出てこなかった。
「ごちそうさまー。おやすみー」
「おやすみなさい」
それぞれの部屋に引っ込んだ。引き戸一枚隔てた隣の部屋で、アキラさんが布団に入る気配がした。
俺も布団に入って、天井を見ていた。暗い。窓の外で虫の声がしていた。
——好きになっちゃった。
あの声が、暗闇の中で何度も再生される。天井を見ているのに、目が閉じない。
からからっ、と音がした。
「ねーねー、もう寝ちゃった?」




