表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

28/28

第28話 もう寝ちゃった?

 アキラさんは、天井を見ていた。


 虫の声だけが、部屋に残っていた。


「……え」


「あ、もちろんライクじゃなくてラブのほうね。(すばる)さんのこと」


 アキラさんが、なんでもないことみたいに言った。


 俺の指が、まだ止まったままだった。理解が追いつかない。


「……」


「あはは、変な空気にしちゃったかな」


 アキラさんが立ち上がった。テーブルの上のカルピスソーダを持って、台所に向かう。


「おやすみー」


 足音が遠ざかって、引き戸が閉まった。


 俺は、ソファに座ったまま動けなかった。テーブルの上に、麦茶のグラスが一つ残っていた。氷が、かすかに鳴った。


◇ ◇ ◇


 目が覚めたのか覚めていなかったのか、よくわからなかった。


 天井が白い。六月の朝の光が、カーテンの隙間から細く差している。


 首の後ろが重い。枕が合わなかったみたいに、右の肩だけ凝っていた。


 台所へ向かう。やかんをコンロにかけた。冷蔵庫を開ける。アキラさんの野菜ジュースが二本、炭酸水の隣に並んでいる。


 インスタントコーヒーにお湯を注いだ。湯気がゆっくり立ち上がるのを、ぼんやり見ていた。


「おはよー」


 アキラさんがリビングに出てきた。Tシャツにジャージのハーフパンツ、髪をざっくりひとつに束ねている。目がまだ少し眠そうだった。


「おはようございます」


「ん、コーヒーの匂いー。いいねぇ」


 アキラさんのマグカップにもコーヒーを注いだ。レトロゲームのロゴ入りマグカップ。テーブルに二つ並べる。


「ありがとー」


 いつも通りだった。声のトーンも、座り方も、マグカップの持ち方も。少しだけ機嫌がいいような気もする。鼻歌が、かすかに混じっていた。


 パンを二枚、トースターに入れた。ジーッと音が鳴り始める。


「あのさー、冷蔵庫の卵、今日で期限だから使っちゃってね」


「……わかりました」


「あと洗濯物、昴さんの分も畳んどいたから」


「ありがとうございます」


 昨夜のことにはお互いに触れない。触れられない。何事もなかったみたいに、朝が流れていく。


 チン、とトースターが鳴った。パンを二枚出して、皿に並べる。


 俺の口が、動きかけた。


「あの、昨日の——」


「あ、やば。今日シフト早いんだった。いってきまーす!」


 アキラさんがトーストを一枚持って玄関に向かった。ばたばたとスニーカーを履く音。


「いってらっしゃい」


 ドアが閉まった。


 テーブルの上に、トーストが一枚残っていた。


◇ ◇ ◇


 夜。作業部屋で配信を始めた。


 いつも通りのはずだった。


 コメントが流れているのに、拾い損ねた。『紗雪ちゃんさっきの見てー!』で気がついて、慌ててスクロールを戻す。


「あっ、ごめんなさい……見落としちゃいました」


 リアクションが一拍遅れる。リスナーの名前を読み上げるとき、声が少し上ずった。


 自分でわかっていた。壁一枚向こうに、さっき「ただいまー」と帰ってきた人がいる。それだけで、いつもの声が出ない。


 配信を終えた。ヘッドセットを外す。耳の裏が汗ばんでいた。


 隣の部屋から、笑い声が聞こえていた。


 和太郎(わたろう)さんの、腹の底から出る声。ソロのレトロゲー配信。今日はいつも以上に弾んでいる。壁越しでもわかるくらい、声の張りが違った。


 スマホで和太郎さんのチャンネルを開いた。コメント欄が流れていく。


 『和太郎今日キレてんな』『ノーミスいけるんじゃね』『声の張りが違う』


 画面の中で、和太郎さんがサクサク進めていた。判断が早い。テンポよくリスナーの名前を拾って、笑い声を混ぜている。


 壁越しのアキラさんの生声と、スマホから流れる和太郎さんの声が、重なっていた。


 やがて配信が終わった。「おつかれー! また来てくれよなー!」。壁の向こうから締めの挨拶が聞こえて、静かになった。


 スマホの画面に、和太郎さんのアーカイブ一覧が残っていた。サムネイルが並んでいる。渋い顔で「おう、今日もやっていくぞ」と言っている、あの表情。


 (……やっぱり、好きだな、この人の配信)


 困ったとき、和太郎さんの配信を見る。いつからかそうなっていた。あの声を聞いていると、なんとなく落ち着く。


 ——誰かに相談したい。


 この人に話を聞いてもらえたら、少しは楽になるだろうか。「和太郎さん、実は——」


 俺の指が、サムネイルの上で止まっていた。


 待て待て、本人じゃないか。


 さっき、隣の部屋で配信してた人だ。朝、トーストを持って出ていった人だ。昨日の夜、天井を見ながら——


 指が、サムネイルから離れた。


 でも、誰かには話したい。


 ちとせさん?


 デスクの端のVRヘッドセットに手を伸ばしかけて、止まった。紗雪(さゆき)として何て言えばいい。


「同居人に告白されました」? 同居のことも、VTuber同士のことも、全部秘密だ。事情を話そうとした瞬間に、全部がほどける。


 ちとせの「どうしたのー?」と言う顔が頭に浮かんだ。何ひとつ、答えられない。


 ヘッドセットを元に戻した。


 誰にも、言えない。


 ぬるくなったコーヒーのマグカップに手を伸ばして、一口だけ飲んだ。


◇ ◇ ◇


 配信終わりの夜食に、冷蔵庫に残っていた卵でチャーハンを作った。


「今日さー、会社で面白いことがあってさ」


 アキラさんがチャーハンをかき込みながら喋っている。


「キャプションのデータ入稿したんだけどさ、文字が全部ゴシック体になってて。担当者がめっちゃ焦ってた」


「うわ……それは焦りますね」


「でしょー? 明朝体って指定してたのにさ。誰がどこで変えたんだろうねー。でもギリギリ直せたからオッケー」


 アキラさんは配信好調の余韻もあってか、よく喋った。声が軽い。俺は相槌を打ちながら付け合せのインスタントスープを飲んでいた。


 告白のことは、何も出てこなかった。


「ごちそうさまー。おやすみー」


「おやすみなさい」


 それぞれの部屋に引っ込んだ。引き戸一枚隔てた隣の部屋で、アキラさんが布団に入る気配がした。


 俺も布団に入って、天井を見ていた。暗い。窓の外で虫の声がしていた。


 ——好きになっちゃった。


 あの声が、暗闇の中で何度も再生される。天井を見ているのに、目が閉じない。


 からからっ、と音がした。


「ねーねー、もう寝ちゃった?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ