表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪女の選択――愛される資格などないはずだった  作者: 音香(Otoca )


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/26

戻らない静かな夜

庭園のベンチから、リリアは動けずにいた。


石造りの背もたれは冷たく、

薄いドレス越しでも容赦なく体温を奪っていく。



暗闇に溶けてしまえたらいい。



そんな考えが浮かぶほど、胸の奥は静まり返っていた。


泣きたいわけでもない。怒りたいわけでもない。


ただ、何も感じたくなかった。



噴水の水音が、一定のリズムで響く。


遠くで楽団の演奏が微かに聞こえる。


祝宴は、まだ続いている。


(……戻らないと)


そう思うのに、足が動かない。


指先が冷えている。


ドレスの裾が、わずかに湿っているのに気づく。


転んだときに破片に触れたのだろう。


手のひらに鈍い痛みがある。


ゆっくりと握ってみると、ズキッ、とした。


それでも、立ち上がる気力は湧かなかった。



期待したのが間違いだった。


ほんの少し。


ほんの少しだけ、今日は普通にいられるのではないかと。


きれいなドレスを着て、誰かと笑ってもいいのではないかと。


――そんなことを考えた自分が、惨めだった。



胸の奥が、きしむ。



そのとき。



「……ローゼン卿」


低く、抑えた声が闇を裂いた。


ゆっくり顔を上げる。


視界の端に、背の高い影。



「……団長」


ラルフは数歩手前で立ち止まり、リリアを見下ろしていた。


何も問い詰めない。


何があったのか、どうしてここにいるのか。


それを聞く前に、彼は静かに上着を脱いだ。


「体が冷え切っている」


淡々とした声。


だが、怒りを押し込めているのが分かる。


肩にかけられた上着は、まだ体温を残していた。


厚い布越しに伝わる温もりに、思わず息が揺れる。


(……あたたかい)


それだけで、胸の奥が緩みそうになる。



「歩けるか」


問いは短い。


「はい」


立ち上がろうとした瞬間、足元がわずかにふらついた。


ラルフの手が、すぐに肩を支える。


無言で、強く。


王宮内へ戻る方向へ足が向けられたと気づいた瞬間、

リリアの足が止まった。


無意識だった。


戻りたくない。

あの空間に。

あの視線の中に。



その微かな抵抗を、ラルフは見逃さなかった。



「……」



ラルフが短く息を吐いた次の瞬間、

リリアの視界が揺れる。


身体が宙に浮いた。



「……顔、伏せてろ。抗議なら後で聞く」


有無を言わせない声音。


だが乱暴ではない。


抱き上げられた腕は、驚くほど安定していた。


心臓の鼓動が、すぐ近くにある。



人目を避けるように、庭園の脇道から静かな回廊へ。



楽団の音が遠ざかる。


華やかな世界から、切り離されていく。


ラルフの歩幅は一定で、迷いがない。


やがて重厚な扉が開き、暖炉の火が揺れる私室へ入った。


「……降ろすぞ」


ソファーへ下ろされると、全身から力が抜けた。


暖炉の熱が、凍えた指先に届く。


その温もりに、今度こそ呼吸が揺らぐ。


ラルフはすぐに使用人へ指示を出した。


声は低く、簡潔。

余計な感情を見せない。


だがその背中は、明らかに怒りを孕んでいる。


ほどなくして治癒師ルークが現れ、手のひらを優しく包んだ。


「少し、痛みますよ」


柔らかな光が広がり、傷が塞がっていく。


それと同時に、胃の奥の鈍痛も和らいだ。



「今日は温かくしてお休みください」



「ありがとうございます」


声は、かすれていた。


人の優しさに触れるたび、胸の奥がひりつく。



助けてもらう資格なんて、ないはずなのに。


ラルフはリリアの前にしゃがみ、目線を合わせる。


「風呂に入れるか?温まってこい」


命令のようで、押しつけではない。


「もう……大丈夫です」


反射的にそう言うと、

ラルフの目がわずかに細くなる。


「大丈夫な顔をしていない」


短い言葉。

逃げ道はない。



メイドが呼ばれ、浴室へ案内された。


手際よくドレスが外される。


鏡越しに見えた自分の姿は、

さっきよりもさらに小さく見えた。


湯船に沈むと、全身から力が抜けていく。


こんな湯に浸かったのは、いつ以来だろう。


宿舎ではシャワーしかない。


実家では、水だった。


寒くても、冷たくても、それが当たり前だった。


でも今は、暖かい。


湯気に包まれながら、自身を抱きしめた。



湯から上がり、寝間着に着替えさせられ、

再び私室へ戻る。


暖炉の火が揺れる。


ラルフが、そこにいる。



「……団長」


言葉が続かない。


何を言えばいいのか、分からない。



ラルフはただ近づき、濡れた髪をタオルで拭き始めた。


指先は器用で、一定のリズム。


子どもを扱うように、静かで丁寧だ。



「襲ったりはしない。安心して休め」



低く言われ、胸が一瞬跳ねる。


冗談めいているのに、どこか本気が混じっている声。



温かなスープが差し出される。


「一口でいい」


従うように口に含むと、優しい味が広がる。


その瞬間。


ようやく、体が“安全だ”と理解し始めた。



「ベッドで寝てろ」


短い指示。


ラルフも浴室へ向かった。


リリアはベッドの端に座り窓の外を眺めていた。



しばらくして、ラルフがバスローブ姿で出てきた。


「まだ起きてたのか」


ソファーへ座り、グラスにワインを注ぎ飲んだ。



リリアは静かに広いベッドの端に横になった。



ラルフも後れてベッドへやってきた。


「そんな端にいたら落ちる」


そして、腕の中へ引き寄せられる。


有無を言わせず、囲い込まれる。


規則正しく頭を撫でる手。


一定の呼吸。


守られている感覚。


その安心が、逆に怖い。


こんなふうに包まれることに、慣れていない。


「おやすみ」


「……おやすみなさい」



目を閉じる。


眠れるはずだった。


暖かくて、安全で。


もう、何も起きない夜のはずだった。



――そのはずだった。



――けれど。




夜中、ふと目が覚める。


知らない匂い。


知らないけれど、安心できる体温。


隣にある体温が、はっきりと分かる。


暖かくて、静かだった。


(……団長……)


暗がりに目が慣れてきて、

気づけば、無意識のままその顔を見つめていた。



呼吸は穏やかで、目は閉じられている。


眠っている――そう思った、そのとき。



「そんなに見て、どうした」


低い声が、すぐ近くで落ちた。


「……っ」


驚いて、視線を逸らす。


「すみません……」


返事は小さく、逃げるみたいだった。


ラルフは目を開けないまま、

ゆっくりと彼女の頭に手を置く。



撫でる、というより、

落ち着かせるような、一定の動き。



「眠れないのか」



「……いえ」


否定はしたが、その声は、どこか揺れていた。


腕枕をしている手が、

自然な流れで、彼女の肩を抱き寄せる。


触れた瞬間、素肌だと分かる。



――それでも、手は引かれなかった。


「……」


何も言わず、ただ、ゆっくりと撫でる。


肩から、首筋へ。


確かめるように、逃げ場を塞ぐように。



「……っ……」


声にならない反応が、喉から零れた。



ラルフは、気づかないふりをする。


むしろ、その反応を待っていたかのように、

動きを変えない。


撫でる速度は、変わらない。


だが、位置だけが、少しずつずれていく。



リリアは、彼のバスローブを掴んだ。


必死に、堪えるみたいに。


「……やめ…て……」


ようやく絞り出した声。


けれど、ラルフは答えない。



代わりに、唇が触れた。


一度。

リリアの唇に。

確かめるように。



次は、離れない。


静かな部屋に、かすかな音が落ちる。


舌が触れ、呼吸が乱れ、

彼女の身体が、はっきりと熱を帯びていくのが分かる。


耳元、首筋、胸元へと、唇がゆっくりと移っていく。


「……眠れないなら、協力した方がいいだろ」


低く、落ち着いた声。


その言葉に、リリアの身体が、びくりと跳ねた。


波が、押し寄せる。


逃げようとしても、抱き寄せる腕は緩まない。


何かが、決定的に変わった。


止める気がないと、はっきり伝わってくる。


……もう、力が入らない。


何度目かの波が過ぎたあと、

リリアは、ただ浅く息を繰り返していた。


「……もう、動けないか」


低い声。


労わるようでいて、終わりを告げる響きではない。


腕の中から逃げようとしても、

身体は言うことをきかない。


それでも――


触れられている感覚だけは、はっきり残っていた。


「……や……ぁっ……」


かすれた声が零れる。


ラルフは答えない。


代わりに、呼吸の近さだけが伝わる。


沈黙。


その数秒が、

次に何が来るのかを悟らせるには、十分だった。


再び、同じ場所に、同じ圧がかかる。


今度は、確かめるようにではなく、

最初から、そこしか見ていない手つきで。


「……っ……」


声を抑えようとした喉が、震える。


「声抑えるな」


囁きは短く、低い。


命令ではなく、当然のような断定。


抑え込もうとするほど、

身体は正直に反応してしまう。


「……ほら」


淡々とした声。


「もう、こんなだ」


逃げ道を塞ぐように、動きは途切れない。


一度、波に呑まれても、休ませる気配はなかった。


間を置かず、同じところを、強弱をつけながら。


リリアは力なく首を横に振る。


けれど、その言葉は、

止める合図としては受け取られなかった。


「嫌なら、こんな声にならない」


静かに落とされる言葉。


それが追い打ちになって、また、意識が揺れる。


何度目か分からない波のあと、抵抗できなくなった。


時間の感覚も、夜と朝の境目も、曖昧になる。



気づけば――


窓の外が、うっすらと明るい。



リリアは、ただ腕の中で、ぐったりと力を失っていた。


ラルフは、その様子を見下ろしながら、

ようやく動きを止める。


「……やっと、素直になったか」


独り言のような呟き。


返事はない。


抱き寄せ直され、そのまま、深い眠りに落ちていく。


目を覚ましたとき、窓の外は明るかった。


昼過ぎだと、すぐに分かった。


先に起きたラルフは、

深い眠りに落ちているリリアを見下ろしていた。



呼吸は穏やかで、指先まで完全に力が抜けている。


体力の差を考えるべきだった。


(……相当、やりすぎたな)


そう思いながらも、頭を撫でた。



頭を撫でると、

無意識に身じろぎをして、また静かになる。


安心させたかった。

眠らせるだけのつもりだった。


そのはずだった。


「……まあ、いいか」


小さく呟く。



後悔はない。


反省はある。



だが、それ以上に――


腕の中にいるという事実が、答えだった。


今日から三日間、臨時兵を除き、騎士団は休みだった。


ラルフはもう一度、そっと腕を回した。


リリアは、その温もりに応えるように、

再び深い眠りへ沈んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ