33.終章
【前回のあらすじ】
実家に戻る日、妻は姉のマンションから戻ると、無表情に身支度を始めます。彼女が出ていく準備をボクと両親は黙って待っているその異様な光景をボクはいたたまれなく感じます。
空港で別れる際、ボクはどうしても何かを伝えようとしますが、言葉が見つかりません。結局、何一つ声をかけることなく、彼女は搭乗ゲートに消えていくのでした。
こうしてボクはひとりの女性をズタズタに引き裂き、自分の背中と寸分違わず符合するアンドロギュノスを手に入れた。その行動に、何ら倫理性も、社会性も、道徳心も、憐憫の情もない。あるのは、ボク本来の姿を補完するもうひとつの存在、自らを写し出す鏡でもあり、心と身体の欠落を充足してくれるもうひとりのアンドロギュノスをひたすら追い求める飢餓感だけだった。
飢餓感による衝動だから理屈などない。あの日あの時、なぜそんな選択をしたのか、後で問われても意味も意義も見いだせない。ただ、結果を肯定し、その結末によるあらゆる責任は全て甘んじて受け入れるしかない。
恋はするものではなく落ちるものである。後付けの恋する理由はあっても、その瞬間は我知らず落ちるものなのだ。有利不利、合理不合理、損か得か、様々な価値判断で相手を選ぶことはあり得るだろう。人それぞれであれば良い。だが、恋に落ちゆくものに、なぜ落ちるのか、その原因を問うてもわかるはずがない。また、その回答を理屈の網で掬い取ろうとしても無駄である。
あの時のボクは完全に開き直っていた。恋は落ちるものだから仕方ない、今さら何を言われようと、元には戻らないという頑なな覚悟もあった。それは、ハルを愛していることの証を立てたかったのか、生まれてくる子供に対する義務感だったのかはわからない。それらとは全く違うものだったかもしれない。
ただ、ボクの心の中に、マーちゃんは存在していなかったことだけは間違いがない。
そんなボクの気持ちを察したのだろうか、妻は離婚には同意したが、離婚届に署名するのを頑として嫌がった。ボクと別れるのは承諾しても、何事もなかったかのようにボクがハルと結ばれることは許せなかったのだろう。いつまでも無言で抵抗した。2週間に一度、彼女の実家を訪れる日が続いた。半日、何も言わない彼女の前で、何も言えない時間を費やした。
やっとの思いで離婚届を手にしたが、役所に提出すると受付を拒否された。彼女が受理しないよう、手続きをしたままだったのだ。自殺未遂、離婚届の受付拒否…… さすがにキレそうになったが、ただひたすら彼女の翻意を待つしかボクには何もできなかった。
すべてが終わるのに3か月を要した。最後は、彼女の両親が、この無駄な睨み合いを続けても何の意味もないことを彼女に諭してようやく決着した。
この間、ハルは意外なほどあっけらかんとしていた。彼女は離婚の成り行きに関して一切質問しなかった。自殺未遂のことを話した時でさえ、無表情に聞いていた。ボクが話すだけのことを、頷きながら聞いているその姿には、あらゆる煩わしさから距離を置こうとする母性の本能的な強さを感じた。
離婚が成立した翌日、ボクとハルは揃って会社に辞表を出した。本部長と部長の前で顛末を報告した。良かったら転勤して心機一転やり直してみるかと言ってくれたが、もう覚悟は変わらなかった。
その頃には彼女の腰回りもややふっくらし始めていたから、タカさんあたりは、ハーちゃん最近太った? などと露骨に嫌味を投げつけた。
多くの人が素知らぬ顔をし始めていた。安住さんは年明け早々退職していた。
細山田とフジさんだけは相変わらず友人でいてくれた。辞表を提出した数日後、三人で飲んだ。
細山田がしみじみと語った。
「離婚できる奴とできない奴ではそもそも人種が違うな。フジさんやオレも何度も女房と離れたいと思ったけど、それは離婚ということではないんだな。離婚届を出す、って考えが頭をよぎる事は一度もなかった。フジさんそうでしょ?」
フジさんは同意したのか深く頷く。
「離れてしまいたいって気持ちが徐々に熟すとその延長線上に離婚があるわけじゃなくて、離婚できる奴はすぐにそのハードルを飛び越える。できないオレなんかはどこまで行ってもその選択肢は出てこない。だからもう人種が違うとしか思えんわけだ。
お前はそのハードルをいとも簡単に超えた。ある意味羨ましいが、オレには絶対に真似できないと思ったよ」
細山田らしい気がした。いくらモテても自分からは絶対に女性を誘わない、これが彼であり善良な人の姿だと思った。
「奥さんどうしてます?」
「追っかけ活動に勤しんでます、ハイ…… 」
相変わらずのことが笑えた。笑えるあいだはきっとボクのようなことにはならないんだろうと思う。
フジさんも笑っていた。そしていつもの口調でこう言った。
「まあ、お前は誰かに何か言われても素直に聞くやつじゃないしな、ハハハ
しかし、お前はいいが、ハルがいなくなるのが実に残念だ」
マーちゃんがフジさんのこういう言い方を痛烈な嫌味と受け取っていたことを思い出した。ボクにはまるで正反対、ハルを奪ったボクを認め、褒めてくれているようにしか聞こえないのだが。
それから数日後、ボクはハルの両親に会った。相当に嫌われるだろう、途中で席を立たれるだろうと覚悟して席に臨んだが、母親はハルに輪をかけたあっけらかんとした性格で、この先のことしか聞かなかった。父親も、キミがキンちゃんですか、噂は散々聞かされてますよと笑いながら迎えてくれた。
ふたりともきっとボクの離婚の顛末を聞きたかったのだろうが、ひと言もそれに触れることはなかった。きっと、ハルがボクのことを、ボクが何を嫌がり、何を好むか、両親に伝え、説得していたのだろう。
彼女は両親とボクの間で、ただニコニコしているだけだった。キンちゃんはお酒が大好きだから、お父さんとはきっと気が合うよと、しきりにボクと父にお酒をすすめた。
さらにその数日後、ボクたちは彼女の母親が見つけ出した、実家近くのマンションに転居した。ボクは結婚する前から持っていたものだけをそこに運んだ。
あの教会で撮った写真も何もかも、そのまま置いてきた。だからあの写真の行方は知らない。
こうしてボクはハルを選んだ。そのこと自体、今もって一瞬の後悔もない。
最後までお読みいただきありがとうございました。心より御礼申し上げます。




