転移
仕事が終わって会社を出たところで、スマートフォンが震えた。
画面には叔母の名前。
嫌な予感を覚えながら電話に出る。
「お米がなくなりそうだから買ってきて。ついでに洗剤も」
「……今日は疲れてるからちょっと」
「はぁ? 家族なんだから、これくらいいいじゃないの。どうせ通り道なんだし」
その言葉を聞いて、小さく息をつく。
「……分かった」
反論するのも面倒だった。
通話を切ると、夜風が頬を撫でる。
駅前は仕事帰りの人たちで賑わっていた。
楽しそうに笑い合う会社員。
恋人らしい二人。親子連れ。
その中を一人で歩く。
幼い頃、交通事故で両親を亡くした。
そのあと親戚に引き取られ育てられた。
残された遺産は「管理してあげる」という言葉とともに、いつの間にか身内の遊興費へ消えていた。
「家族なんだから」の一言で労働力として良いように使われる日々。
逃げるように一人暮らしを始めてもそれは変わらず。
買い物。送迎。
ちょっとしたお金の立て替え。
断れば空気が悪くなるから、結局引き受けてしまう。
それが当たり前になっていた。
「はぁ……」
深いため息が漏れる。
断れない弱い自分が嫌いだった。
ただ、自分の時間が欲しい。
家に帰って、お風呂に入って、美味しいものを食べ好きな動画でも見ながら寝たい。
それだけだった。
「疲れたなぁ」
俯き、歩きながらぽつりと呟く。
その瞬間だった。
足元に淡い光が広がる。
「え?」
螺旋を描くように光が地面を走り、複雑な模様を形作る。
まるでファンタジーのような魔法陣。
あっけにとられた瞬間、身体から重力が消えた。
周囲の喧騒が消え、身体がふわりと浮く感覚。
そして――。
「……っ!」
瞬きの間に、足元は湿った土へと変わっていた。
目の前は見渡す限りの木々。
青い空へと伸びていく巨木たち。
さっきまでいた駅前は跡形もなかった。
土と湿度の空気。
「なにこれ?」
見知らぬ景色に立ち尽くしていると、目の前に青い光が集まり正方形のモニターになる。
半透明の、大きな画面だった。
【異世界へようこそ】
「……異世界?」
思わず読み上げる。
画面は静かに切り替わった。
【固有スキルを確認します】
《地球所有》
「地球、所有?」
【あなたは地球の所有者として登録されました】
「えぇ……?」
意味が分からない。
地球って、所有できるものなの?
困惑していると、新しい項目が複数表示された。
【地球モニター】
【帰還】
【所有権限】
試しに『地球モニター』へ触れる。
画面いっぱいに映像が映し出された。
夜の街。
車が走る駅前。
「……これ」
ついさっきまで自分がいた場所だった。
映像は自由に動かせるらしい。
指を上に滑らせると視点が上昇し、日本列島が映る。
さらに高く雲を抜け、宇宙へ。
青く輝く地球。
「地球だ……」
映画でも見ているような感覚だった。
次に『帰還』へ触れる。
【地球へ帰還しますか?】
【YES/NO】
「帰れるんだ」
少しだけ安心した。帰れないわけではない。その気になれば、戻れるらしい。
画面を見つめたまま考える。
叔母からの繰り返される電話。
明日も明後日もその先も何も変わらないだろう日々。
「……」
指先がさ迷い、そのまま動きを止めた。
「……いいか。帰らなくて」
自分でも驚くほど、あっさりと言葉が出た。
仕事だって自分の代わりはいくらでもいる。
誰かが泣いて探してくれるとも思えない。未練はなかった。
自分でもつまらない人間だと思う。
だったら、こんな時くらい自分の気持ちを優先してもいいだろう。
『NO』を押す。
森を吹き抜ける風が心地いい。
モニターが再び光る。
【《地球所有》第一権限を解放します】
画面の端に、新しい項目が一つ追加された。
【所有物の取り寄せ】
「……え?」
思わず瞬きをする。
触れると、画面が切り替わった。
【取り寄せ可能な対象を表示します】
一覧が現れる。
【大気】
【海水】
【淡水】
【土壌】
【砂】
【岩石】
【植物】
【鉱物】
【建造物】
【乗り物】
【日用品】
【その他】
「……えぇ?」
思わず画面を二度見した。
さらに詳しくスクロールすると、項目は延々と続いている。
「ちょっと待ってよ……」
壮大過ぎて頭が追いつかない。
ふと目へ入ったのは【所持品】だった。
タップすると自分の家の中の私物がズラリと表示される。
洋服。ノートパソコン。本。食器。
身の丈に合った内容に安堵する。
「あ」
【自転車】
あの家を出て一人暮らしを始めたときに買った。
安物だけど、バイト代を貯めて買った相棒だ。
思わず『取り寄せ』ボタンを押す。
足元に光の輪が広がった。
ポンッ。
軽い音とともに、自転車が現れた。
「……私のだ」
傷の位置も、前かごに貼った防犯シールもそのまま。
間違いなく、自分の自転車だった。
「すごい……本当に地球から取り寄せたんだ」
どこまでも続く木々の中に、自転車と私だけがぽつんと立っている。
それが妙におかしくて、思わず笑ってしまった。
「ふふっ。」
妙に浮かれた気分で自転車にまたがる。この先に何があるかなんて分からない。
それでも、不思議と心は軽かった。




