第一章 第八話 勇者は気づく おかあさんは 柔らかくて あったかくて いい匂いがして いつも味方でいてくれる事に
「母さんに、会ったんだ」
リィべは、長く話して疲れたのか、喉をホットミルクで潤しながら小さく頷いた。
「父さんも生きてたんだ」
神は生き返らせると言っていたけど、本当かどうか分からなかった。
けれど、本当に生き返っているんだ。ちゃんと生きて仕事してるんだな。
っていうか、超象局って何だよ。
知らなかったよ。そんなところで働いてるなんて!
しかも二人とも同じ職場なのかよ。仲良過ぎだろ。
あと、全長五十メートルのビッグフット?
オレが知ってるのと全然違うじゃないか。
大体、そういうのはフィクションや都市伝説の中だけじゃなかったのかよ?
何度もツッコミを入れたら少し落ち着いてきてある事に気づく。
今のオレの状況も変わらないか。
両親に『勇者やってるよ』なんていっても信じてくれないだろうしなぁ。
見上げると、父さんと母さんの幸せそうな姿が天井に映し出された。
いいなぁー。
……直接会って怒鳴ってやりたい。あんたらが幸せなのは、神様に作り変えられたオレが勇者になって冥王を倒したからだぞ! って。
あーくそ、瞼の裏が熱くて、水漏れしてきそうだよ!
瞼を閉じていると、近くに人の気配を感じる。
見上げると、側にいたのはもちろん彼女で、しかも息がかかるほどの近さ。
「何だよ。近いって」
驚いて口から心臓が飛び出そうになったじゃないか!
彼女は何も言わずにしゃがむと、オレと目線を合わせてくる。
「だから近――うわっ!」
そして突然抱きしめられた。
彼女の着ている割烹着の滑らかな肌触りと柔らかな温もり。
そして、さっき飲んでいたホットミルクよりも優しくて甘い匂いが、オレの思考を麻痺させる。
「ユーちゃん」
優しく囁かれると、抵抗する気が失せてくるからやめてほしい。
女の人ってずるいよな。
「……離してくれよ」
「離しません」
ぎゅぅーと、更に力を込めてくる。
柔らかな感触と甘い匂いが強くなり、オレの五感のツボを刺激してきた。
段々、そう段々と脳が考えるのをやめていこうとする。
そのせいで、羞恥心まで奥に引っ込もうとしていく。
いやお前はいなくなっちゃダメだ。
心の中で手を必死に伸ばして、逃げようとする羞恥心を慌ててひっ捕まえた。
「ユーちゃん、こっち見て」
心の中で一悶着していると、リィべが覗き込んできたので慌てて目を逸らした。
「どうして逃げるの?」
「どうしてって……」
恥ずかしいからに決まってるだろ。
反射的に身体が動くんだよ。
「何でおかあさんを避けるの?」
「さ、避けてないってば!」
「嘘は、駄目」
うわっ、今度は左右から頰を固定してきた。首が動かせないぞ。
けれど甘いな。さっきと同じように目を動かせば……、
だ、駄目だ! 動かしても動かしても、二つの金色の太陽が追いかけてくる。
動きを読まれているのか、視界がずっと夜明けのように明るい。
こうなったら!
「もう分かったよ。降参、降参する」
オレは両手を上げて負けを認める事にした。
「おかあさんの勝ち。でも聞いてもいい?」
「どうぞ」
「何で綺麗な瞳を隠しちゃったの? それじゃ外の様子が分からないわよ」
オレがこの鬼ごっこを終わらせる為に導き出した手段。
それは瞼を閉じて視界を保護する事だった。
こうすれば、彼女も諦めるかと思ったんだが……。
「ユーちゃん、やっぱり、おかあさんの事嫌いかしら」
んん?
「おかあさん、避けられてばかりでとっても悲しいわ」
泣き落としだ。これはこっちの瞼という城門を開けさせようとする罠だ。
騙されないぞ!
「竜がヒトを癒すのはいけない事なの?」
段々と声が震えて来たぞ。な、泣くのか?
いや、これも嘘泣き……絶対嘘泣きだ!
「ユーちゃんが嫌だというなら、一人がいいって言うなら、とっても悲しいけどおかあさん出て行くわ」
「えっ!」
オレは思わず瞼を開けてしまった。そこで交差する金色の視線。
そしてペロッと舌を出して微笑む彼女。
「ふふ。やっと、おかあさんと目を合わせてくれたわね」
「だ、騙したなー」
「ごめんなさい。でも、これだけは聞かせて?」
いつもニコニコしている彼女からは、想像もできない真剣な表情と少し硬い声音にオレは固まってしまう。
「おかあさんは一緒にいちゃ駄目?」
心臓が破裂するような一言が投げかけられる。
「おかあさんは、ユーちゃんに幸せになってほしいの。その為なら何だって協力するわ」
何だって協力……?
その一言を聞いた時、イケナイ事を考えた所為でお腹の下の方がカァーと熱くなってきた。
こんな時に何を考えてるんだオレは!
熱を振り払うように激しく首を振りまくる。
そんなオレを見て、彼女は不思議そうに首をかしげていた。
「どうしたの?」
「な、な、何でもないよ」
「ユーちゃん答えて。貴方にとっておかあさんは必要な存在? それとも、いらない存在、かな」
自分で「いらない存在」と言う時、悲しそうに顔を伏せないでくれよ。
「いらないなんて言ってないだろう! やめろよ……そうやって自分を卑下する人は……嫌いだ」
「ごめんなさい。じゃあ、おかあさんはここにいていい? ユーちゃんと一緒にここで暮らしてもいい?」
「…………」
「ユーちゃん?」
ちょっと待ってくれ。今なんて言っていいか考えてるんだから。
だから「無視しないで」と言いたそうな顔でこっちを見ないでください。
お願いします。すごい罪悪感だから!
ああ、もう集中できない。この場で答えるべき適当な言葉が思いつかない。
「大丈夫ユーちゃん? 目がぐるぐる回ってるわ」
オレの気持ちは固まっている。
けれど、どう言えばいいのか分からない。
なんて言えばいいんだよ。
最初会った時はさっさと出ていけ。って思ったさ。突然現れてオレの母親と名乗った時は何言ってるんだって思ったよ。
けれど、今はもう違う。
家事全般をしてくれて、住む場所も快適にしてくれた。
趣味も理解してくれるし、料理も美味しくて、いつも側にいてくれて……それに褒めてくれる。
あっ、
「ユーちゃん、泣いてるの?」
「な、泣いてなんか、ないさ……」
バレた。
見られたと分かった途端、涙が止まらない。どんどんどんどん、まるで滝のように流れてくる。
とっくに視界は滲んでいるのに、不思議なことに目の前の彼女の姿は少しも滲まなかった。
「やっぱりおかあさんなんて、ユーちゃんにとっては不快だったわよね……」
彼女の顔が悲しみに包まれる。
どうやらオレが一緒にいる事を拒否してると思い込んでしまったらしい。
彼女が立ち上がり、腕が、身体が、オレから離れようとする。
このままじゃ、またひとりぼっちに……!
「待って!」
「ユーちゃん?」
オレは離れようとする彼女の右腕を捕まえるというよりも、全身を使ってしがみついた。
「い、行かないで……」
一人にはなりたくなかった。この世界に来てオレの事を気に掛けてくれる存在を離したくなかった。
「もう一人は嫌だ。誰にも相手されないのは嫌だよぅ」
割烹着の袖がしわくちゃになる程強く掴んでいるのに、彼女は嫌な顔一つせず微笑みを讃えたまま、再びしゃがみこむと、自由な左手をこっちに伸ばして来た。
叩かれる!
痛みを覚悟して、視界を閉ざした後に感じたのは想像と違う感覚だった。
「ごめんね。おかあさん酷いことしちゃったわね」
しなやかでふにっとした物に頭を撫でられる。
それは彼女の左掌だった。
手のひらから伝わる温もりが、地肌から頭蓋骨を抜けて、直接脳を撫でられているみたいだ。
「いい子いい子。ユーちゃんはいい子いい子」
そんな言葉をかけながら、オレの頭を優しく包み込むように繰り返し撫でてくれる。
一撫でされる度に、オレの身体から嫌なものが蒸発していくようだった。
「おかあさんはユーちゃんと一緒にいてもいい?」
先程と同じ問いかけをしながら、オレの涙を指で優しく拭ってくれる。
「うん」
もう自分をごまかすのは止めた。
「朝になったら、ユーちゃんを起こして朝ごはん作って、それが終わったらお家の掃除して、昼食の準備して午後の家事済ませて、夕飯作って寝かしつけていいの?」
「毎日してくれるの?」
「もちろん、だっておかあさんですもの」
「ずっと一緒にいてくれる?」
「もちろん、だっておかあさんですもの」
「いなくなったりしない?」
「ユーちゃんを置いていなくなる事なんてありません。だって……おかあさんですもの」
リィべは指を立てて「あ、でも」と付け加える。
「悪いことしたら怒りますよ。おしりペンペンですからね」
「……はい」
ボクはその間も頭を撫で続けられていた。
撫でられ続けたせいで、頭がスライムのように蕩けそうなふにゃふにゃとした感覚だ。
恥ずかしいという気持ちはほんの少しある。
でも、今はずっとこうして貰いたかった。
「いい子ね。いい子はおかあさんがもっと褒めてあげましょうね」
リィべの手が頭から離れる。少し、いやかなり名残惜しい。
何をするんだろうと思っていたら、ボクの目の前でしゃがみこみ、大きく両手を広げた。
「ユーちゃんおいで〜」
そんな事されたら、普通の人は何言ってるんだと返すんだろうけど、ボクは違う。
一秒も離れていたくなくて、リィベの胸に頭から飛び込んだ。
頭を柔らかなものに包まれ、背中を両腕でしっかりと包み込まれる。
「ふふふ。よしよし」
リィベは抱きしめたボクを軽々と持ち上げて椅子に座る。
「重くないの?」
「全然。これで、もーと褒めてあげられるし、ぎゅうぅぅぅって出来るのよ」
今のボクは、リィべの弾力のあるふとももの上に座らされて、抱っこされているような格好になっている。
普通なら凄い恥ずかしいだろう。
けれどリィべの、柔らかさと温かさと甘い匂いがボクの全てを包み込んでくれる。
トロリとした人肌に温められた蜜の中にいるようで、スゴくスゴく心地いい。
「ふふ。かわいいかわいいユーちゃん」
リィべの声が鼓膜を震わせる度に、優しい気持ちになっていくような……そしてこの感覚は何?
まるで時計の針が巻き戻るようなこの感覚は一体……?
「ユーちゃん。おかあさんに聞いて欲しいことはない?」
「聞いて欲しい事って?」
顔を上げると、リィべが微笑みながら頷く。
「もし、心の中に溜め込んでいる嫌なものがあるなら、おかあさんに話して。すっごく楽になるから」
心の中に溜め込んだもの。
それは特に考えなくてもすぐに思い当たる。
「ある……けど話してもいいの? きっと嫌な気持ちになるよ」
「ええ話して。おかあさんが全部聞いてユーちゃんの嫌な記憶を全部吸い尽くしてあげます」
頭を撫でられる。
「じゃあ……」
リィべに撫でられると、普段なら恥ずかしくて脳がストッパーをかけていた事も、躊躇う事なく口に出すことができるようになっていた。
「以前にも言ったと思うけど、勇者になんてなりたくなかった。神様はボクが選ばれし人間みたいな事を言ってたけど、本当は怖くてやりたくなんかなかった」
「そうよね。たった一人で悪と戦うなんてとても大変だもんね」
「でもね。冥王が、地球に攻めてくるかもしれないと知った時、ボクは勇者になる事を決心したんだ」
「それはどうして?」
「なんて言えばいいのかな。地球にいた頃のボクは弱くて惨めで友達もいないような人間だったんだ。けれど……」
「けれど?」
「やっぱり自分が生まれ育ったところだし、冥王に支配されたら、自分の趣味が無くなっちゃうのは嫌だったから。そんな理由で勇者になるのはおかしい?」
「そんな事ないわ。ユーちゃんの趣味は、とても素晴らしいものじゃない。自分の好きな事が出来なくなるのはとても嫌な事よね」
ああ、この女性は、ボクを認めてくれるんだ。
それに気づいた途端、更に心の中に溜め込んでいた思いが溢れ出す。
「それとね。もう一つ理由があるんだ。聞いてくれる?」
「もちろん。おかあさんに全部話して」
頭を撫でながら、更に強くぎゅってしてくれる。
ボクもいつのまにか彼女の背中に手を回して、目の前の柔らかな二つの膨らみに、思いっきり顔を押しつける。
どれだけ力を込めて押し込んでも、二つの双丘はボクを優しく受け止めてくれた。
「地球に残してきた母さんの事なんだ。父さんが死んだ時、母さんはボクの前ではいつも笑顔だったけど、ある日見ちゃったんだ」
「何を見たの?」
「父さんの部屋で肩を震わせてたんだ」
「そう……」
夜、トイレに起きた時、僅かに開いたドアの隙間から聞こえる小さな泣き声。
「でも後にも先にも、泣いている姿を見たのはそれっきりだったんだよ」
その後、母さんは何かに取り憑かれるように、仕事に没頭していた。
もしかしたら、いつか同じ仕事をしていれば、死んだ父さんに会えるとでも思ってたのかもしれない。
「だからボクはしっかりしなきゃと思っていたけど、現実は特撮ドラマのヒーローみたいに上手くはいかなかったよ」
辛い出来事を味わった人間が、周りから頼りにされるほどに成長するなんてフィクションの世界だけしかないのだ。
「結局ボクは父さんが持っていた古いビデオばっかり見て過ごすような駄目人間になっちゃった。それでも、それでも母さんの為に何かしようと思ったよ。だから勇者になれば、みんなから頼りにされるような人間になると思った。最初は嫌われても、世界を救えばみんなの見る目は変わると信じてた……信じてたのに……」
「ユーちゃんは寂しかったのね」
「えっ?」
リィべに撫でられるたびに、頭から首にかけてチリチリと心地良い電気が走っていく。
まるで死んでいた細胞が蘇っていくような新鮮な刺激だった。
「誰かに認めてもらいたかった。けれど、そのきっかけが分からなくて今まで踏み出せなかったのよね」
「うん」
勇者になって世界を救えば、みんなから慕われ、誇りに思われる。
それは幻想。
喉元に突きつけられたのは、最悪の現実という名の刃。
「そうだよ。ボクは誰かに認めてもらいたかったんだ。なのに、なのに……!」
今までの出来事を思い出すと涙が止まらない。
ギリギリと両手に力が入っていく。爪が柔らかなものに食い込む感触が伝わるが、そんな事を気にする余裕はなくなっていた。
溢れ出した怒りが止まらない。止められない!
ボクは心の膿を、何個も何個も彼女に投げつける。
「なのに、みんな、ボクを化け物みたいな目で見るんだ! 挙げ句の果てに、冥王を倒して帰って来れば、ボクを騙して力を封じてから、こんなところに閉じ込めた!」
「うん。うん」
更に両手に力を込めると、まるで涙のような温かい液体が滴り落ち、ボクの指に絡みついてくる。
「なんでそんな目に合わなきゃいけないんだ! ボクは地球でも、この世界でも、いらない子なの? こんな事になるなら、勇者にならずに死ぬまでつまらない生活をだらだら送っていたかった!」
「……うん。うん」
リィべは何も反論しない。声を震わせながら頷いて聞いてくれる。
「そうだよ。世界なんて救うんじゃなかった。あのまま、安全で快適な部屋にずっとずっといれば良かったんだ……」
涙と鼻水が、リィべの割烹着をグショグショに濡らしていく。
それでも彼女の口から文句が出ることは決してない。
「ユーちゃんはそれで良かったの?」
代わりに質問をボクに投げかけてきた。
「そうやって閉じこもってばかりで何もしないで、嫌なことから目を背けて生きていくのが、貴方の望みだったの?」
「そ、それは……」
違う。と答えたかった。
けれど、目の前で転んだ人がいたら、ボクは見て見ぬ振りをして通り過ぎる。
だって面倒なことには巻き込まれたくない。それに助けられる力なんてないんだ。
ボクはそういう人間なんだよ。
「そう、ボクは楽して生きていく人間なんだ。失望したでしょ?」
失望したでしょ? 自分で口に出した途端、胸のあたりにシャベルで抉られたような痛みが走る。
痛いよ。苦しいよ。お願いだからボクを嫌わないで。
「ウソはいけません」
そんなボクの胸の痛みを一瞬にして癒す、優しい声が掛けられる。
「もし誰かが助けを求めていたら、後先考えずに助けに行くのがユーちゃんでしょ?」
「そんな事、ないよ」
「でもユーちゃんは娘を助けてくれた」
「あっ……」
思い出す。あの時助けた白銀の幼竜の事を。
「あの竜は今も元気なの?」
「ええ。ユーちゃんに助けて貰ったお陰で、今は民を率いる女王を務めているわ」
「……女王」
「ええ。娘だけじゃない。皆貴方に助けられた事を覚えている。感謝しているのよ」
「嘘だよ」
照れ臭くなって割烹着に包まれた二つの膨らみに顔を埋める。
今の一言には、感謝されているなんて信じられないという気持ちと、もっと褒めて欲しいという気持ちが混ぜこぜになっていた。
「嘘だ……」
「嘘じゃ、ありません」
ボクの顔がリィべの両手によってゆっくりと上に向けられて、黄金の太陽に見つめられた。
そのお日様をどれだけ直視しても目は潰れることはない。
むしろ目を通して、全身がポカポカと暖かくなってくる気がする。
「おかあさんだって、ユーちゃんには感謝してるの」
再びボクは抱きしめられる。
甘い匂いが、ボクの怒りを蕩けさせ、強張ったままの指の力が抜けていく。
「冥王から助けてくれたから、民は今も普段通りの生活が送れている。娘は元気に女王としての責務を果たしているの。そして……」
「そして?」
ボクの耳のすぐ近くで、どんなお菓子よりも甘い一言が囁かれ、耳が、ぬっくぬくの吐息に包み込まれる。
「おかあさんはユーちゃんをいっぱい、いっ〜ぱい甘やかす事が出来るのよ」
唇の動きを感じるほどの近さ。でも、もっともっとくっついていたいよ。
「甘やかす?」
ふっくらとした唇から紡がれる甘やかすという言葉。まるで上品な砂糖菓子のような、なんて甘美な響きなんだろう。
「ボクを甘やかして……くれるの?」
「ええ。たくさん甘えていいのよ。おかあさんはその為にここに来たのだから」
リィべの柔らかな微笑みは、嘘を言っている顔には見えない。
「ボクはもう子供じゃないんだよ」
「おかあさんから見たら、まだまだ子供です」
「それに血も繋がってないし……」
「ユーちゃん」
少し強い口調でボクの言葉を遮る。
「血が繋がってないとか、種族が違うとかそんなの関係ありません」
リィべは両手をボクの頰に添えて、額と額をコッツンコしてきた。
もちろん痛くはない。ちょっと驚いただけ。
「おかあさんは頑張るユーちゃんを褒めて、いい子いい子して、美味しいご飯を作ってお風呂に入れて、寝かしつけたいの」
そこまで言ってから、ちょこんと首を傾げてきた。
「そんな永遠の甘やかされ生活は嫌?」
彼女は、リィべは本気なんだ。本心からボクを甘やかそうとしてくれているんだ。
だったらボクも本心から返事するしかないじゃん。
「……やじゃない」
恥ずかしい。でもリィべは急かそうともせずにジッと次の言葉を待ってくれていた。
「嫌じゃない。一緒にいてほしい」
「おかあさんはここにいていいのね?」
「うん。一緒にいて。その、沢山、沢山甘やかしてほしいんだ!」
言った。遂に言ってしまった。実際口に出して大丈夫なのか?
やっぱり無理とか言われたら……。
「あらあら、まあまあ」
リィべは涙を流していたけど、嫌だから泣いているわけではないらしい。
だってその顔は笑っていたから。
笑いながら泣いていたんだ。
「ごめんね。別に悲しい事があったから泣いてるんじゃないの。とっても嬉しいからなの」
「嬉しいの?」
「ええ。涙は嬉しくても出るものなのよ」
リィべは自らの目元を拭うと、ボクを今までよりもキツく抱きしめる。
ボクの顔に暖かい液体が、ポタリポタリと垂れてくる。
そこから伝わるのは彼女の喜びの感情。
「く、苦しいよ」
「もう少しこのままで、ね?」
しばらくして、リィべは満足したのかボクから離れた。
「じゃあ、さっき言った通り、いっぱい甘やかしてあげますからね。嫌だって言っても止めませんよ?」
そんなからかうような口調でも、実際に止める気ないんだろうな。
だから、こう聞いても大丈夫、嫌われないよね?
「その今から甘えてもいい?」
リィべの顔が驚きで固まったように見えた。
うっ、いきなり甘えてもいいはやっぱり変だよな? でも今までも散々似たようなことして来たわけだし……。
「もう、しょうがない子」
リィべはちょっと困ったような態度を見せながらも、ボクをしっかりと抱っこしてくれる。
ああ、凄い安心する。
トクン……トクン。
一定の間隔で微かに音が聞こえる。なんの音だろう?
でもうるさくはない。むしろずっと聞いていたいような……。
「甘えん坊なユーちゃん」
さっきまでボクの頭を撫でてくれていた右手がソッと背中に移動して来た。
そして。
「そんな甘えん坊さんには、コレをしてあげます」
ポンポンとボクの背中を叩いてきたのだ。
痛みは全くない。
一定のリズムと、適度な力加減。何これ、ずっとポンポンしてほしいよ。
「ふああ〜〜あふっ」
つい欠伸が出ちゃった。
「あら、眠くなって来ちゃったのかしら」
「……うん」
瞼が重い。何度擦っても眠気は取れない。むしろドンドン大きくなっていく。
「寝ちゃってもいいのよ」
ポンポンと背中を叩かれるたびに眠気のエレベーターはどんどん下へ降りていく。
「眠いけど、寝たくない」
「あら、何で?」
「だって……眠って目を覚ましたら、この幸せな時間が終わってしまいそうな気がするんだもん」
「あらまあ、大丈夫よー。おかあさんはどこにも行きません。ずっとユーちゃんと一緒ですからねー」
ポンポン。
トクントクン。
背中から聞こえる音と共に、身体に直接振動が伝わってくる。
これは、リィベの心臓の音?
「眠かったら寝ちゃってもいいのよ。大丈夫だからねー」
ポンポン、トクントクン。
そうか、トクントクンって音は彼女の心臓の鼓動だったのか。
背中から伝わる優しいポンポンと、鼓膜を直接震わせるトクントクン。
この二つの音が、ボクの意識をあったかくて柔らかくて優しい場所に案内してくれるようだった。
リィべはボクの背中をポンポンしながら歌を唄う。
眠れユーちゃん おかあさんの胸に抱かれて
暖かく居心地が良い それはゆりかご
おかあさんの腕の中 おかあさんの愛で
何者にも貴方を傷つけたりさせない
ゆったりとしたリズムで歌っている。これは子守唄だろうか。
お休みなさい 誰にも邪魔はさせないから
わたくしの可愛いユーちゃん ゆっくりお眠り
おかあさんの優しい胸に抱かれて
時計が巻き戻るような感覚。
それは赤ん坊に戻っていく音だったんだ。
今のボクの心は完全に一人じゃ何もできない甘えん坊になっている。
じゃあ、もう遠慮なんてしなくていいよね。
子守唄とトクントクンを聞きながら、ポンポンされて柔らかくて甘い匂いに包み込まれたまま寝ちゃっていいんだ。
「おやすみ……」
おかあさん。
「おやすみなさい。可愛い坊や」
額に、柔らかい感触を感じたところで、ボクの意識は深く深く潜っていく。
そこは呼吸のできる温かな水の中でプカプカと漂うような心地よさだった。
水の中なのに人肌のように温かく、呼吸もできる。
しかも身体は浮かんでいるのに、まるで抱きしめられているように固定されていて、不安も一切感じさせない。
こんな安心できる幸せな場所があったんだ。
どこかで、体験した事があるような気がする。 子供の頃、いや、それよりも前に……いつだろうか?
いいや。今は何も考えたくない……。
☆☆☆☆
オレを現実に戻したのは、何かが爆発したような音だった。
ここはオレの部屋?
窓の鎧戸を開けてみると、外は一面の銀世界。雪は降ってなくても日の光は弱々しく、地面に積もる雪の方がギラギラと日光を反射していて元気そうだ。
爆発音の原因らしきものは見当たらない。聞き間違いか?
外は見るからに寒そうだが、部屋の中はほんのり暖かい。
まるで暖房でも付いているかのように……。
でも、そんなものは探しても見当たらない。
なら、この温かさの正体は?
身体全体がふんわりとした膜に包み込まれているみたいだ。
まるで誰かに抱きしめられているみたいな……。
まさか!
もう一度周りを見渡す。添い寝してるかと思ったが、彼女の姿はない。
実は昨日までの出来事は、全て夢だったんじゃないか?
あまりにも寂しすぎて、頭がありもしない幻覚を見たんじゃないか?
だって昨日のオレはどうかしてたよな……。
昨晩の自分の行動を思い出す。
誰がどう見ても、母親に甘える子供そのものじゃないか!
『……沢山、沢山甘やかしてほしいんだ!』
しかもなんて台詞を……あ〜オレの馬鹿馬鹿馬鹿!
でも、それ以上に、彼女の、リィべの顔を見たくてたまらない自分がいた。
「そういえば、起こしに来ないな」
いつもならオレが起きるより早く来るのに、今日はまだノックの音も聞こえない。
なんか嫌な予感がする。
万が一の事があってもいいように、両手のガントブレイドに目を落とす。
これを発動させるのは一万年ぶりだが、ちゃんと使えるはずだ。
オレはベッドから降りて直ぐに部屋を出た。
廊下には、いないな。当たり前か。
「ん……キッチンかな」
オレは下層に向かう事に決めた。鼻が微かに美味しそうないい匂いを捉えたからだ。
何だよ。朝ごはん作ってるから来れないのか。
そう結論づけて、ホッと胸をなでおろす自分がいた。
昨日までの出来事は、今でも幻のような気がする。
でも夢でも妄想でも狐に化かされた訳でもないのは分かっている。
だって部屋には地球に置いてきたはずの漫画があったし、二人で洗った大浴場も、いつでも入れそうなほど綺麗になっていた。
それに、それにだ。
さっきまでは微かに感じていたが、下に降りる程ハッキリと感じるこの美味しそうな匂い。
多分キッチンだな。
オレは逸る気持ちを抑えて、リビングに入って直ぐにキッチンの方を見る。
「あれ?」
そこには誰もいなかった。
オレの予想では、楽しそうに朝ごはんを作っている彼女の後ろ姿が見える筈だったのに、誰もいない。
何で? 嘘だろ?
やばい。また弱い子供の自分が出て来て、目頭が熱くなって来る。
弱音が涙となって流れる寸前、外と中を繋ぐ門が開いた音が聞こえた。
そして聞きたかった声も。
「……早くご飯の支度しないと――いけない! ユーちゃん起こす時間とっくに過ぎてるわ!でも先に火を止めないと」
パタパタとパンプスが床を鳴らし、こちらに走ってくる。
マズイ。今の顔見られたら変な心配されそうだ!
もう、リビングから部屋に戻るのは間に合わない。
オレは彼女が入って来る前に目が痛くなるほど強く擦る。
泣いてるところなんて見られたら色々と大変だからな。
オレが涙を拭き終えるのと、リビングの扉が開けられたのはほぼ同時だった。
「あら! おはようユーちゃん」
「お、おはよう」
「なーんだ……もう起きちゃったのね」
何故かオレが起きた事にちょっとご不満なようだ。
まさか、起こしに行きたかったとか?
「……おかあさんが起こしてあげるまで寝てていいのに……」
あ〜やっぱりそういう事。
「でも、一人で起きれるなんて偉いわ。いい子いい子」
たったそんな事で頭を撫でて褒めてくれる。
それだけで、心がポカポカと暖かくなるから不思議だ。
「どこに……」
「ん? なに」
「どこ行ってたんだよ」
こんな言い方、まるで拗ねた子供みたいじゃないか。
「……ごめんなさい。ちょっと外の雪が積もって扉が塞がってたから雪かきしてたのよ」
なるほど、普通女性が、そんな事を言ったら「何を馬鹿な」と一笑付すだろうが、竜である彼女にはそんなの簡単なお仕事なのだろう。
「直ぐに朝ごはん用意するから座って待ってて」
「うん」
キッチンに向かうリィベとすれ違う時、微かに違和感を感じた。
この焦げたような臭いは……。
「きゃあああー!」
リィべの悲鳴が剣のようにオレの思考を断ち切る。
「どうした!」
「大変! お魚が焦げちゃった……」
ああ、魚が焦げた臭いね。
「そういえばユーちゃん。ご飯を食べた後はどうするの?」
焦げた魚の処理をしながら、リィべはそんな事を聞いてきた。
「どうするって、特にする事ないから部屋で漫画でも読んでるよ」
オレは淹れてもらったお茶を飲みながら答えた。
「おかあさんは残った所のお掃除や、フルオンから食材を調達してこようと思ってるの」
「ふーん」
「ところで、今日はいいのかしら?」
「何が?」
オレが返すと、リィベは暖かい春の日差しのような微笑みをオレに向けた。
「今日はユーちゃんは甘えてこないのかなー? って」
「!!!」
危なっ! 口に含んだものを吹き出す所だったぞ!
「あ、甘えないよ。オレは子供じゃないんだからな!」
「あらまあ、ユーちゃん恥ずかしがらなくてもいいのに」
「恥ずかしいとかじゃなくて……後ひとつ言っておくぞ!」
これだけは、はっきり言っておかないとな!
「何かしらユーちゃん」
「その『ユーちゃん』は止めてくれ」
「え〜〜何で? 理由を教えてちょうだい」
言えるわけないだろ! 子供扱いされて恥ずかしいなんて!
「せめて、せめて、ちゃん付けは止めてくれ」
取り敢えずはぐらかした。
「分かったわ」
何と、まさか了承してくれるとは!
「えっいいの?」
「ユーちゃんが嫌だと言うなら、呼び方変えるわ。何がいいかしら」
何がいいと聞かれたけど、正直考えてなかったな。まさか了承してくれるとは思ってなかったから。
取り敢えず……。
「取り敢えずちゃん付けをやめて頂ければ、と思います」
何だこの言葉遣い。
「……分かったわ」
「やった――」
「ただし」
オレの喜びも束の間だった。
「ただし? 何?」
オレはガッツポーズの途中で動きを止める。
リィベは目を細めると自分の胸に手を当てた。
「おかあさんの事もちゃんと呼んで欲しいな 」
「ちゃんと?」
リィベちゃんと呼べと、そんな訳ないか。
「そう、お前やあんたじゃなくて、おかあさんって」
「な、名前じゃダメなのかよ」
リィべって呼ぶのも結構恥ずかしいんだぞ。
「だーめ。おかあさんの事を名前で呼ぶ子供なんているかしら?」
「世界のどこかにはいるんじゃないの」
地球でも、お母さんとかママとか呼び方がいろいろあるんだからそういう家族もいるんじゃないの?
「む〜〜」
どうして頬を膨らましてるんでしょうか?
「む〜〜」
そんな可愛らしく唸っても嫌なものは嫌なの恥ずかしいの。
「ユーちゃんの、いじわる。おかあさん怒りました。絶対ユーちゃんの呼び方は変えません。ここに宣言します」
「ちょっと待って。何でそうなるの?」
「ユーちゃんがいじわるするからです」
ぷいと、顔を反らすとそれ以上は何も言わなくなってしまった。
「悪かったよ。オレが謝るから」
「ほんとう?」
リィベは後ろを向いたままだ。
「ほ、本当だって!」
「じゃあ、おかあさんって呼んで」
「ええっ!」
振り向いたリィベは涙目だ。
ひ、ひきょうな〜、そんな顔されたら何も言えなくなるじゃないか!
「ユーちゃん。おかあさんって呼んで、ね?」
「お、むー、おかあ、むぐぐ、おかあ……おかあ」
「うんうん」
そんな期待するような顔してこっち見るな。死ぬほど恥ずかしいんだからな!
「おかあ……おかあ……」
「もうちょっと、もうちょっとよー」
やめろ。そんな初めてハイハイする子供を褒めるような言い方は!
「お、おか、おかあ……おかあ――」
これ以上続かない。
まるで言葉から手が伸びて喉にしっかりと捕まっているようで出てこない
「はい。そこまでー」
「な、何で?」
いきなり抱きしめられたぞ。
「頑張ったユーちゃんはえらいえらい」
むぎゅうと抱きしめられて、顔に柔らかいものが押し付けられて幸せ……じゃなくて。
「まだ言い切ってないぞ」
だからといって「じゃあ言って」とか言われたらそれはそれで困るけど。
「いいの。ユーちゃんのがんばりは、おかあさんにちゃんと通じましたよ。よしよし」
抱きしめられたまま頭を撫でてきた。
「そ、そうですか」
ちゃんと出来なくても褒めてくれるなんて、少し甘やかしすぎじゃないかと思うのだが。
こんなんじゃ子供が親離れ出来なくなるぞ。
……オレは子供じゃないけど。
「さっ、お腹空いてるでしょ。朝ごはんにしましょう」
朝食の支度のためにリィベはオレから離れる。
離れた途端に柔らかな温もりが途端に恋しくなってきた。
それを表に出さないように、オレは拳を握りしめ、白い割烹着を着た背中を見つめながらこう思う。
例え周りから気持ち悪いだのおかしいだの言われようと、オレは感謝しているよ。
だって、ぼっちで引き籠りだったオレを救ってくれたんだから。
もし、リィべの事を悪く言う奴がいたら、例え神だろうとぶっ飛ばしてやる!
だからありがとう……か、か、かあさ――。
そこまで言った途端に全身から汗が吹き出す。
同時に内側から蹴られるほどの勢いで心臓が脈打った。
「どうしたのユーちゃん。ご飯の用意できたわよ。ほら座って座って」
「う、うん」
心の中でもこんなに恥ずかしいんだ。
口に出して呼ぶのは、当分先だろうな。というか呼ぶ機会なんてあるのか?
「……どういたしまして」
なんて思っていたら、そんなリィベの声が聞こえた気がした。
「えっ? 今なんて?」
まさか、心の声聞こえた?
「何も言ってないわ。さあご飯にしましょう」
こうして、世界から化け物扱いされてきた勇者は一万年経ってやっと、温かな安らぎを得ることができた。
それは想像してたのとは少し、いや大分違っていたけれど……。
「美味しい?」
「うん。おいしい」
おかあさんのおかげで、オレはこの世界に来て初めて幸せだと思うことができたんだよ。
「良かったぁ。いっぱい食べてね。ユーちゃん」
第一章 完
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