第一章 第七話 金の瞳の竜 異世界へ飛ぶ
勇者によって冥王の魔の手から救われた民と娘と共にわたくしは、ヒトの住む世界とは隔絶した四次元空間フルオンに戻って竜達の国を再興し、穏やかな生活を取り戻していました。
翡翠の瞳の勇者と別れてから一万年経った頃でしょうか、わたくし達の世界に来訪者が現れたのです。
その日の早朝、わたくしは強力な力を感じて目を覚ましました。
同じく力を感じ取って目を覚ましたのでしょう。一緒に寝ていた娘のレニャが顔を上げます。
「ははうえぇ〜、何か身体がピリピリして変な感じがするぅ〜〜」
「何でしょうね。ちょっと様子を見てきます。メーヒェンいますか?」
「はい。リィべ様」
「レニャと一緒にいてください。何かあったらすぐに避難を」
「畏まりました」
「母上、レニャも一緒に行く〜」
「駄目です。何か危険な事が起こるかもしれません。メーヒェンと待っていなさい。いいですね」
「は〜〜い。でもでも早く帰ってきてね」
「分かってます」
わたくしは自らの頭でレニャの頭を撫でてから、外に出ました。
入れ替わりに入ってきたメーヒェンに声を掛けます。
「頼みます」
「はい。お気をつけてリィべ様」
すでに他の民達も異変に気付いたのでしょう。
何事が起きたのかと慌てていました。
「皆、落ち着きなさい」
わたくしの声に落ち着きを取り戻した民達は口々にこう言います。
何かとてつもなく強い力を感じたと。
わたくしや娘だけでなく、ここにいる全ての竜達が畏れ戦くほどの力。
民達を避難させたわたくしは単身その力の発生源へ向かいました。
そこにいたのは私と同じくらいの大きさの一頭の金色の鱗の竜だったのです。
身体は蛇のように細長く、四本の脚も細く頼りなさそうに見えます。
しかし、長い二本の髭が生え、黄色い猫目の瞳からは強い力と知性を感じさせました。
「貴方は何者ですか?」
「お初にお目にかかる。リィべ女王」
「王位は娘に継承しました」
「そうか。それは失礼」
「こちらの質問に答えてはいただけませんか?」
わたくしは少し憤りを感じています。
突然皆を驚かせて、更には飄々とした態度で、まるでこちらを小馬鹿にしているようだったから。
それに冥王のような侵略者だとしたら、断固としてこれを迎え撃つ覚悟でした。
今の所、悪意は感じませんが油断するわけにはいきません。
「そう、怖い顔をするな。美しい顔が台無しだぞ」
わたくしは睨み続けます。
「分かった分かった。そう睨むなよ全く。俺は神。この世界を作った存在だ」
ぶっきらぼうに神と名乗った竜の体が眩く光り輝き、それが収まった頃には筋骨たくましいヒューマンの男が先程まで竜のいた場所に仁王立ちしています。
身長はわたくしの指先程に小さくなりましたが、その体から溢れんばかりの力は、王族のわたくしよりもはるかに強いのが感じられました。。
それだけならば神というのも信じられるでしょうが。
「……本当に神ですか?」
「そうだ。おいおい、ちゃんと答えたのに何故睨まれ続けなければならないんだ」
自らを神と名乗る者を、すんなりと信じると事など出来ません。
何かあればすぐに動けるように、相手の一挙手一投足に注意を払います。
「そう警戒するな。もし俺がここを侵略しに来たのなら、ここで呑気に待ってやしないぞ」
神と名乗る男は、少し機嫌悪そうに両腕を胸の前で組みました。
「わたくし達を油断させているだけかもしれません」
「ムムム。本当に竜という生き物は面倒くさいなぁ。同じ姿になっていれば警戒されないと思えば、全く意味がなかった」
「我々は一度侵略されたのです。警戒するのは当たり前のこと。それに神が存在するのなら、悪に苦しむわたくし達を救ってくれた筈なのでは?」
神に対しての皮肉は万死に値するでしょう。
それでも言いたくなってしまったのです。
神自身が冥王を滅すれば、わたくしや娘、民達はもちろん、あの小さい勇者も苦しまなくて済んだはず。
「……言うな。俺はこの世界に長くいることはできんのだ。無理にでもいれば世界が崩壊してしまうのでな」
顔にしわを寄せながら、そう弁解してきました。
ただ、口調からは本当に悪いと思っているようです。
だからといって完全に信用はしませんけど。
「それで、なんの御用でしょうか。ただ謝罪しに来たわけではないのでしょう?」
「リィべよ。お前に頼みたい大事な話があるのだ」
「話? 話とは、貴方が仮に神だとして、わたくしのような下々の存在に頼みたいことがあるのでしょうか」
「ある。この世界の運命を左右するとても大事な話なのだ」
そんな重要な事を何故わたくしに……?
「実はだな……冥王が復活する兆しを見せている」
「えっ!」
忌まわしい名前が出て来た事に、わたくしは驚きを隠しきれませんでした。
それでもなんとか心を落ち着かせます。
「今……何と言ったのですか?」
「信じられないのも無理はない。だが遠くない未来に奴が甦るのは事実なのだ」
そんな……あの時確実に急所を撃ち抜かれ溶岩に落ちていったのを見ました。
わたくしは今まで封印していた、冥王に敗北した時の記憶を思い出してしまいました。
降伏したわたくしは、娘や民の命の保証と引き換えに冥王に仕える事になったのです。
拒否するなどと言う選択肢はその時はありませんでした。
娘達の命は冥王の手の中で弄ばれていたから。
その時に付けられた、逆らわない為の首輪。
アレが首に触れた瞬間、わたくしの心は踏み躙られ一度死んだのです。
それを救ってくれたのが、あの時の小さき勇者……そう!
「待ってください。勇者はどうしたのです? 彼がいれば冥王を倒せるのはではありませんか?」
助けてくれた彼のためなら協力を惜しむつもりはありません。
その思いと別に、わたくしは冥王に対する恐怖から何とか逃れようとしていました。
だから、勇者に任せてしまえばいいと、そんな浅ましい考えがあったのも事実です。
「もちろん勇者は健在だ……だが問題があってな。むしろ先に解決しなければいけないのはそちらの方だ」
「問題ですか?」
「そうだ。彼が冥王を倒した後どうなったか知っているか?」
わたくしは首を横に振ります。
「ヒトの世界を救った彼の事。さぞ英雄として、もてはやされたのではないのですか? それこそ、たくさんの伴侶を持って王族のような暮らしをしているのでは?」
自分でたくさんの伴侶と言っておきながら、幼い彼のイメージからは程遠いですね。
「まあ、子供に聞かせるような寝物語なら良かったのだが、現実は力を持つ者に厳しかったようだ」
「一体何があったのです!」
わたくしはつい語尾を荒げてしまいました。
何故そうなってしまったかは自分でもよくわかりません。
「落ち着けリィべ。ユートは冥王を倒した後、力を封じられて、ある場所に閉じ込められてしまったのだ。それは一万年経った今も変わらない」
「何故ヒトは自分たちを救ってくれた彼にそんな酷い仕打ちをそこまで愚かなのですか?」
わたくしの口から吐息と共に白い炎が噴き出します。
「怒るのは分かるが、鋭い牙を見せるな。流石の俺でも肝を冷やす」
無意識に牙を見せてしまったようで、すぐさま口を閉じます。
「失礼致しました」
彼が不幸な目に遭っていると知って、わたくしの中で怒りが激しい炎となって燃え上がるようでした。
「気にするな。それでだ。ヒトというのは脆く弱い。だからこそ協力して生きていくのだが、勇者の力は圧倒的すぎた。しかも、そこを冥王に付け込まれたようだ。」
神は失敗したな、と言いたげに後頭部を掻きます。
「奴め。倒される前に方々に手を打ち、ヒトの中にも魔物を紛れ込ませていたみたいなのだ。それにしても冥王を確実に倒す為の力だったのだがな」
「それで、わたくしに何をさせようと……?」
「ああ、簡単な事だ。勇者を救ってやってくれ」
「勇者を救う?」
「うむ。幸いな事に彼が閉じ込められている場所も分かっているし、力を封じる魔力はそこまで強くない。なのでリィべなら簡単に解除する事ができる。そしてその後は……」
勿体ぶるように神はそこで言葉を区切ります。
「彼を癒してやってくれ」
「わたくしがヒトの子を癒す?」
そんな事が出来るでしょうか? 竜とヒトは長い事交わらなかったのに。
「ああ、方法はそちらに任せる。俺にはそう言うのがよくわからんのでな。とにかく彼の心は厚い厚い氷の中だ。それを溶かしてやってほしい」
「彼には恐れられてしまうのでは?」
あの翡翠の瞳で蔑まれるのだけは嫌でした。
「お前達はヒトの姿に変化する事ができるだろう。その姿なら大丈夫だ……そもそも彼の元いた世界では竜がヒロインの話は沢山あるから問題ないだろう」
「ヒロイン?」
「何でもないこちらの話だ。それで協力してくれるのか?」
「わたくしでよければ協力させてもらいます」
何故でしょう。彼のために何か出来るのならと思うと、断るという選択肢は頭の中にはありませんでした。
「即決だな」
「何か? 民や娘はちゃんと説明して納得させるつもりです」
「もっと悩むかと思ったが、まあこちらとしてはありがたい」
「直ぐに向かいますので、彼の居場所を教えていただけません?」
「待て待て、顔が近いぞ」
神が腕を組んだまま仰け反ります。
「失礼しました」
わたくしは距離をとって謝ります。
「ふう、彼の事を事前に知っておいてもらう為に、先にあるところへ向かってもらいたいのだ」
「あるところ?」
「そう、地球という星の日本という国。そこが彼が元いた世界なのだ」
チキュウ、ニホン。そこが翡翠の瞳の勇者生誕の地。
彼のことを知るためならば、異世界へ行くことに何のためらいもありませんでした。
「では、いってきます。民のこと頼むわねレニャ」
「いってらっしゃい母上。みんなの事はレニャに任せて!」
「メーヒェン、大変だろうけどレニャの事をお願いします。」
「はい。いってらっしゃいませリィべ様。レニャ様のことは私にお任せください」
準備を終えたわたくしは、女王として民を率いる娘と侍女に見送られながら、空に開いた穴を見上げます。
それは去り際に神が残していったもの。
ここに入れば勇者ユートが以前住んでいたという日本に行けるそうなのです。
娘の声を背中に受けながら、わたくしは振り向くことなく飛翔し、別の世界への入口へと躊躇うことなく飛び込みました。
入口が閉じて漆黒に覆われたのも一瞬、目の前に光が溢れて視界が回復しました。
わたくしのいた灰色の世界と違う色のある世界。
煌めく星々、夜の女王のような黄金色の光を放つ満月。
下を見ると、星と月がもう一つ……いえどうやら水が張っていて、それに反射しているようですね。
ここが、日本という世界なのでしょうか?
あたりを見ても、星と月と空しか見えません。
下にあるのはとても大きな水溜りだけで、とてもヒトが住めそうな場所には思えません。
海の中、それとも、わたくし達のように翼を持っているのかしら。
勇者も空を飛べていたし、そういうものなのかも。
あら? あれは……鳥?
わたくしの視界に大きな鳥が入ってきました。
全長はわたくしより小さいですが、それでも鳥としてはかなりの大きさでしょう。
本当に鳥なのでしょうか?
よく見ると翼が羽ばたいておらず、胴体に沢山の目が並んでいて、そこから光を発しているようです。
少し気になりますね。近づいて見ましょう。
わたくしは背中の翼を目一杯羽ばたかせて、大きな鳥に近づきます。
幸い速度ばそれほどでもないようですぐに追いつく事ができました。
近づいて分かったのは、それは鳥ではないということ。
全身を覆うのは、ヒトが戦う時に着る鎧のような鉄。
頭は大きく、大きな片翼の下には丸いものが2つ付いていてすごい勢いで中が回転しています。
あまり近づきすぎると、吸い込まれてしまそうな勢いですね。
音もとてもうるさいですね。こんな大きな音を出して天敵に襲われたりしないのでしょうか?
あら、視線を感じる?
ふと見ると、胴体に並ぶ光る目に沢山の生き物の姿がありました。
そこにいたのは、頭髪が生え、顔には二つの目に鼻と口を持つ肌色の生命体。
トゥインクルワールドにいるヒューマンによく似ています。
どうやらこの鉄の鳥はヒトを運んでいるようですね。これで確信しました。
ここはわたくしの知っている世界ではありません。
わたくしに、ためらいがちな視線を送る彼らは、この世界に住むヒトと言っていいのでしょう。
一人の幼い男の子の好奇心に満ちた視線に気づきました。
ふふ、可愛らしい。
他のヒトが慌てふためくなか、手にお人形を持った彼だけが、笑顔でわたくしを指指して頻りに何か言っています。
『こんばんわ』
テレパシーを送って見ると、どうやら通じたようです。
彼は一瞬ピクリと驚くも、すぐに笑顔になってこちらに小さな手を振って来ます。
あらまぁ、本当に可愛いらしい。
ちらりとそちらに視線を送ると、彼らは一斉に視線を逸らして逃げていきます。
ちょっとショックだったのは、母親と思しき女性が、小さな男の子を抱いて逃げていってしまった事です。
やはり、この世界でもわたくしは恐れられてしまうようですね。
気をつけないといけません。ここには争いに来たのではないのだから。
鉄の胴体から、丸く大きな頭部に向かうと、そこには先程と雰囲気の違うヒトが二人います。
一人は眼鏡をかけ、頭に白いものが混じった男性。
もう一人は黒髪の若い男性です。
彼らはお揃いの白い服装で椅子に座り、こちらに驚いた視線を向けながらも、両手で何かを操っているよう。
もしかしたら、この鉄の鳥を操っているのかもしれませんね。
彼等なら、わたくしが向かう目的地の場所を知っているかもしれないと思い、テレパシーを送ります。
『こんばんわ』
二人は飛び出るくらいに目を見開いて、こちらを二度見しました。
どうやら通じたようです。
それにしても面白い反応。
さっきの子といい彼等といい、恐れよりも驚きの方が強い気がします。
なんと言えばいいのか「殺される」というよりも「本当にいるんだ!」という思いが強い気がしました。
さっきの男の子が持ってた人形も、ヒトというよりは二足歩行の怪物に似ていたような気が……。
いけない。彼等に話しかけているのにすっかり忘れていました。
もう一度基本の挨拶から。
『こんばんわ』
すると、向こうからも反応がありました。
『こ、こんばんは』
あら、予想に反して眼鏡の壮年の男性が返して来ました。
若い男性が制止するように何か言っていますが、それを宥めてから、わたくしの方に改めて視線を向けてきます。
『こちらの声が聞こえているのですか?』
『はい。貴方の頭に直接話しかけています』
『そうか。だから頭の中に直接響くようなのか』
眼鏡の男性は、むず痒いのか頭を掻いています。
『不快でしたら申し訳ありません。しかし思考の伝達方法がこれしかないのです。お許しください』
ヒトの姿に変化すれば、会話ができますけども、流石に鉄の鳥の速度には追いつけませんので。
『いえいえ構いませんよ。それで何の用でしょう』
『はい。わたくしはニホンという国に用があるのですが、初めてこの世界に来たので右も左もわからないのです』
『おお、日本に用があるのですか。私たちはそこから来たのです。すぐに方角をお教えしましょう』
眼鏡の男性は詳しく方角を教えてくれました。
『教えてくれた通りに行ってみます。ありがとう親切なお方』
『いえ。こちらもお役に立てて嬉しいですよ。まさか子供の頃に夢見た光景が現実になるとは……それでは良い空の旅を』
『はい。ありがとうございます』
わたくしは教えられた通り、鉄の鳥と反対方向に飛んでいきます。
この世界は親切なヒトが多いのですね。これならわたくしの目的もすぐに叶いそう。
そう思ったのも束の間、又わたくしの前に鉄の鳥がやって来たのです。
鉄の小鳥?
今度は先ほどよりも小さく、それでいて素早い動きは、わたくしに攻撃を仕掛けて来そうな気配を漂わせています。
鼻先まで迫ってきた二羽は、お尻から二つの炎を拭きながら、わたくしの進路を塞いで来ました。
灰色の全身は硬い金属に覆われているようで、翼の所には赤丸の装飾が施されていました。
どことなく先程の鉄の鳥と似ている気がします。
頭の所には半円形の透明なものが付いていて、その中にヒトが座っているみたい。
中のヒトは、口から管が伸びた虫のような兜をつけていて、顔はわかりません。
親を守るために子供達が助けに来たのでしょうか?
こちらに敵意がないことを知らせるために、わたくしはテレパシーを送ります。
しかし、向こうからは反応がありません。
まさか魔法で動くゴーレムか何かでしょうか?
鉄の小鳥達はこちらの問いかけを無視し、まるで何かを伝えるように翼を左右に振っています。
『申し訳ありません。こちらの世界に来たのは初めての為、貴方達の行動の意図が分からないのです。呼びかけにに答えてくれませんか? わたくしは戦いに来たのではありません。本当です」
小鳥は体を左右に振るのを止めました。
そして……とても緊張した硬い口調で精神感応に答えてくれました。
『こちらは日本国航空自衛隊。貴君は我が国の領空を侵犯している直ちに離脱せよ。繰り返す。こちらは…… 』
コウクウジエイタイ? 王国を守る軍隊みたいなものでしょうか?
日本国と言っていましたから、近くに日本がある事は間違いなさそうです。
それにしても、領空を侵犯……領空とは領土の事だとしたら、わたくしはヒトの家に土足で踏み入れた招かれざる存在ということになっていますね。
このままだと、わたくしは敵だと認識されてしまう。
早く誤解を説かないと。
『聞いてください。わたくしは貴方達の国に攻撃を仕掛ける意思はありません』
『貴君は我が国の領空を侵犯している……』
こちらの声が届かないのか、それとも無視しているのか、返事はなく同じ警告が流れてくるだけ
『お願いします。こちらの話を聞いてください。わたくしは貴方達と戦う気はないのです』
『貴君は我が国の……』
こちらがどんなに話しかけても、向こうからは同じ言葉が繰り返されるだけ。
一体どうすればいいの。
『はい。はい? いやしかしそれは……』
突然、そんな声をわたくしの耳が捉えました。
誰かと会話しているようなのですが、とても困惑した様子です。
テレパシーで繋がっているので、向こうの思考がこちらにも伝わって来ます。
今まで体験したことのない事態に大変焦っているようでした。
『そちらに案内すればいいのですか。場所は――了解しました。聞こえるか? 貴君を日本に案内する。先導するのでついて来てほしい』
良かった。どうやらこちらの意思が通じたようです。
『攻撃を中止してくれてありがとうございます。そちらについて行きますのでよろしくお願いします』
『……ついて来てくれ……それにしても女の人なような話し方だ。調子狂うな』
そう言いながら、二羽の小鳥はわたくしを案内してくれました。
最後の言葉がこちらに聞こえているのは黙っていましょう。
二羽の小鳥に先導されてわたくしは日本の土、正確には硬い灰色の大地に脚を下ろしたのです。
鋼鉄の小鳥達に案内されたわたくしを出迎えたのは沢山の眩しい光でした。
彼らはお揃いの緑の服装に頭を守る兜、中には黒い槍を持っているヒトの姿もちらほら見えます。
周りには馬のいない馬車や、こちらに長い鼻を向けるとても硬そうな鉄の箱などがいます。
その中央には何も置かれていない広い空間が広がっています。
どうやらそこに降りればいいのですね。
着地すると、土とは違う灰色の硬い大地が少し沈んだ気がしましたが気のせいですね……きっと。
「無礼な対応をお許しください」
翼を畳むと、わたくしに声をかけながら茶色のショートボブの女性が近づいて来ました。
白のシャツの上から黒いジャケットを羽織り、動きやすそうなタイトなパンツを履いています。
『貴女は?』
「すいません申し遅れました。私は超常現象対策局に所属している者で……」
彼女はハキハキとした口調で自己紹介をしてきました。
どうやら精神感応にも慣れているようです。
ですが、それ以上に彼女の名前を聞いて心臓が口から飛び上がるほどの衝撃を受けます。
「盾持薙といいます」
タテモチナギ! 見つけた。こんなに早く見つかるなんて、これも神の力かしら?
「どうかしましたか」
いけない。名乗ってもらって何も反応しないのは失礼ですね。
『いいえ何でもありません。タテモチナギさんですね』
「はい薙と呼んでください。そちらのお名前は?」
『わたくしの名前は……』
そこまで伝えてから、あることに気づきました。
彼女がずっとこちらを見上げていることに。
大変。このままでは首を痛めてしまうわ。
「どうしました? 何かありましたか?」
『ナギさん。ちょっと待っていてください』
わたくしは話がしやすいように、彼女の目の前で自分の体の皮膚、筋肉、骨、細胞の一つに至るまで変化させます。
変化を終えたわたくしの目線の高さは、驚いて固まるナギさんと同じになりました。
これで、彼女が首を傷めることはないでしょう。
「改めて、わたくしの名前はリィべ・ムトセラピア。よろしくお願いしますね。ナギさん」
精神感応ではなく、言葉を直接発して彼女の耳に届けます。
「…………」
反応がない。どうしましょう、言葉が通じないのかしら?
「ナギさん。大丈夫ですか?」
彼女の目の前で手を振っても、固まってしまったように反応がありません。
困りましたわね……あら?
周りから熱い視線を感じました。
見ると、お揃いの緑の服装の男性が顔を赤くしてこちらを見てるではありませんか。
何か話し合っているみたい。
「あ、あれってさっきの竜だよな」
「そのはずだぞ。俺たちの目の前で突然姿を変えたんだ」
「女性だったのか。う、美しい……」
呆然としていますが 一体どうしたのでしょうか?
「はっ!」
わたくしが頰に指を当てて考えていると、ナギさんも正気に戻られたようですね。
「その二本の角に金色の瞳、あ、貴女は先程の竜と同じ方……なのですよね?」
ナギさんは声を震わせながら、わたくしを指さします。
「はい。わたくしはリィべ。今は竜からヒトの女性の姿に変化したのです。先程から男性の視線を感じるのですが何か問題があるのでしょうか?」
周りのヒトは皆熱に浮かされたようにボーッとしています。
「問題って、お、大ありですよ!!!」
大アリ、ヒトより大きなアリの魔物のことかしら?
「ちょっと待ってくださいね! えっと着るものか、羽織るもの……ない! とりあえずこれ着てください!」
ナギさんはあたふたしながら、自分の着ている黒いジャケットを脱いで私に手渡してきました。
「何故これを着ないといけないのですか?」
「ものすごく言いにくいのですが、そ、そのままでは多くの人にとって刺激的すぎます……」
「ああ、そうでしたね。失礼しました。わたくしったら」
ヒトでありながら全裸なんてはしたないと思われても仕方ありませんね。
そう竜からヒト姿に変化したのは良かったのですが、身に纏う服の事は失念していたのです。
私はジャケットを受け取り、それを羽織ります。
「キツくなどないですか? サイズが合うといいのですが」
「大丈夫ですよ……あら?」
……前のボタンが閉まらず、無理をしたらボタンは弾け飛び、
「あぅちっ!」
「……ごめんなさい」
ナギさんのおでこに直撃してしまいました。
タテモチナギさんの案内で、自動車という黒い鉄の馬車に乗ったわたくしは、乗ったまま窓がたくさんある建物の中に入りました。
「リィベさん。この服を着て、少し待っていてください」
「ありがとうございます」
自動車を降りて案内された小さな一室には、扉が一つしかなく、中央に鉄のテーブルと椅子が二個置かれています。
左を向くと壁の一角が丸ごと鏡になっていました。
それ以外は特徴のない、いえ殺風景で少し寂しいお部屋です。
とりあえず待っていてと言われましたし、座って待っていましょうか。
今のわたくしは先ほど渡された下着とジャージという服を着ています。
最初着方が分からずに、左側に立ったナギさんに手伝ってもらいました。
しかし、ヒトは服を着て生きているという事をすっかり忘れていました。
竜の姿の時は服など着ませんからね。
実はこれも少しキツくて、胸元が空いたままですが、文句を言える立場ではないので、ここは我慢しておきましょう。
上で光るあれは、雷の魔法を使っているのかしら?
わたくしが天井で光る棒状の明かりを見ていると、扉が軽く叩かれて開きます。
入ってきたのは先ほど私を出迎えたナギさんでした。
扉が閉まると、外から微かな金属音が聞こえました。
ナギさんは、小脇に薄い本を挟み、両手に持ったお皿の上には、カップと袋詰めされた食べ物を載せています。
「お待たせしましたリィべさん」
「さん付けしなくていいですよ。呼び捨てで結構です」
「そうですか。じゃあお言葉に甘えて。これお茶とお菓子です。よろしければどうぞ」
「ありがとうございます」
私の対面に座ったナギさんは少し緊張した面持ちで口を開きます。
「では、単刀直入に聞きます……リィべ、貴女は何しに、この日本へ来たのですか?」
ナギさんは打って変わって鋭い槍の穂先のような視線を送って来ます。
警戒しているのですね。わたくしが何をするかわからないから。
まずはその警戒を解いてもらわないといけません。
「わたくしはこことは違う世界、トゥインクルワールドから来たのです」
「こことは違う、別次元の世界……あっ異世界という事ですね!」
ナギさんはテーブルに置いてある紙の束にわたくしの言葉を書き写しているようです。
何故か、異世界という言葉にすごく反応しています。しかもちょっと目が輝いているような?
「リィベは異世界から来たのですね。そこで何かあったんですか?」
「はい。わたくし達の世界では冥王という悪に蹂躙されかけたのですが、それを勇者の活躍によって救われたのです」
隠しても信じてはもらえないと思い、自分の記憶している事を、全て彼女に話します。
彼女はチラリと鏡を見ます。
「凄い……まるでラノベやアニメの世界みたい」
「ラノベ?」
ラノベやアニメ、この世界の呪文かしら?
「ああ、何でもありませんよ! 世界は救われたんですよね。その後は?」
「はい。世界は救われたのですが、今再び冥王が復活しようとしています」
そこまで言うと、書き写していた彼女の手が止まり、鏡を見ました。
「我々に援助を求めるという事ですか?」
「いいえ、貴女達に戦いの援軍を頼みに来た訳ではありません」
「そうですかー」
あからさまに安堵して、また鏡を見ました。
どうやら彼女達の軍はあまり強くない、それとも長い間戦争が起きておらず規模が小さい。
もしくは、今も何かと戦っていて、それに備えている?
「ではリィベは何しにこの世界へ?」
わたくしの思考はナギさんの質問によって断ち切られました。
「はい。わたくしはこの世界の文化を学びに来たのです」
「文化……我々の事を知りたいと言うことですね」
「ええ、その通りです。貴女達の世界の衣食住やどういう生活を送っているのか知りたいのです」
「はあ」
ナギさんのノートを書く手が止まり、鏡が気になるのか、何度も視線を送っていました。
わたくしは気付かないフリをして話を続けます。
「先ほど話した勇者、実はこの世界のヒトなのです」
「異世界転移!」
「ひゃっ!」
ナギさんが勢いよく立ち上がったのでビックリ。
しかも身体がテーブルにぶつかって、ペンが乾いた音を立てて落ちました。
「す、すいません!」
「大丈夫です。はい落ちましたよ」
「ありがとうございます。つい興奮してしまって」
ナギさんは頭を下げて椅子に腰掛けて質問を投げかけて来ます。
「その地球人は、男性ですか? それとも――」
「男の子です。緑の髪に翡翠の瞳で外見は十代前半の可愛らしい子ですよ。名前はユートと言います」
「ユート、ゆうと?」
彼の名前を聞いた途端、ナギさんの様子が少し変です。何か魚の骨が喉に引っかかったかのような……。
「貴女はユートの事を知ってるのではないですか? もしかして息子さんとか?」
「息子!」
ナギさんは黒目を大きく見開いて、わたくしを正面から見据えてきました。
「やっぱりそうなんで――」
「あっはははは」
あら、笑われてしまいました。何か可笑しい事言ってしまったでしょうか?
ナギさんはお腹を抑えてしばらく笑うと、落ち着いたのか、目尻を拭きながら、顔を上げます。
「……すいませんリィべ。私の息子なんてありえませんよ。私達夫婦には子供はいませんので」
「そうですか」
やはり記憶はないのですね。
「ところで、そのユートという少年ですが、名前からして日本人かもしれません。ちょっと調べてみます」
彼女はノートを持って外に出て行きました。
タテモチナギさん。あの人がわたくしが会いたかった人。
そう彼女が、地球でユートを産み育てた母。
戻ってくる間、わたくしは部屋の左手にある鏡をジッと見つめながら、置いてある飲み物、確かお茶と言っていましたね。それに口をつけます。
あら少し苦味があるけど、ほんのり甘みがありますね。
緑色だから、何かの草の汁なのでしょうけど美味しい。
次に、袋詰めされたお菓子というものを手に取って見ます。
袋は金色で触るとツルツルしていて、食べられなさそう。
マジックカット? と書かれたギザギザのところにほんのちょっと力を込めると袋が切れました。
中から現れたのは、茶色くて四角いもの。
匂いを嗅ぐと、ほんのり甘い香りがします。
問題なさそうなので、食べてみました。
あらまあ、噛むと、強い甘味を感じましたが、同時にほんの少しの苦味がしつこさを緩和しているよう。
口の中が空になってからお茶を飲むと、口の中がさっぱり。
なるほど、この二つの組み合わせはよく考えられていますね。
こちらの世界の食べ物は確実にトゥインクルワールドよりも優れています。
特にこの茶色のお菓子――袋にはチョコレートと書いてあります――は、レニャがとても喜びそうです。
お茶の方はちょっと苦みがあるから苦手かも。ふふふ。
「お待たせしました……あっお菓子お口に合いましたか?」
調べ物を終えたのかナギさんが戻ってきました。
「はいとても。こんな美味しいものは初めてです。かなり高価なものなのでしょうね。わたくしの為にありがとうございます」
「そ、そんなかしこまらないでくださいよ。お茶もお菓子も簡単に手に入る物ですから」
「あらまぁ、こんな美味しいものが手軽に手に入るのですか」
「ええ。買うこともできますし、自分で作ることも可能ですよ」
「えっそうなんですか」
「気に入ったのならまた持って来ますよ。それで、先程のユートという少年の事ですけど……」
「あっ、何か分かりましたか?」
「いえ。ユートという名前で検索したのですが、該当する少年はいませんね。同じ名前の人間もいましたけど、年齢や特徴が合いませんでした。彼の親族も見つかりませんでした」
「……そう、ですか」
やはりユートの全てはこの世界から消えてしまっていました。母親の記憶の中からも。
もし彼女が覚えていれば、趣味や好みなどを直接教えてもらおうと思ったのですが、本当に残念です。
「あの、この世界の文化を教えてくれる方はいませんでしょうか? ここにいられるのは七日間だけなのです」
神はこう言っていました。この世界で八日目の朝になったら、強制的にトゥインクルワールドへの入口が開くと。
それが戻る唯一の手段なのです。
「七日、一週間ですか……」
ナギさんは顎に手を当てて考え事をしているようで、チラチラと鏡の方に視線を送っています。
「あのナギさん」
「あっ、はい。ごめんなさい考え事を―― 」
「鏡の向こうにいる人と直接相談なされても、構いませんよ」
「えっ、何を言っておられるのですか?」
ナギさんの額から汗が吹き出しました。
嘘をつくのが苦手なようですね。
「ですから、鏡の向こうにいる人とご相談なされたらいかがですかと言ったんです」
「嫌だなぁ。鏡の向こうに私の上司なんていませんよ。あははは」
「ナギさん わたくしはジョウシと言う方がいるとは一言も言ってませんよ」
彼女は諦めたのか、首をガックリと落としましす。
すると、懐から薄くて四角い物を取り出し、右手の指で何か操作をしてから耳に当てました。
「局長。はい。彼女にバレてしまいました。どうしてでしょう……えっ私の所為? 何を言ってるんですか、えっ何度も鏡に目線を送ってた、と……も、申し訳ありません」
うなだれてしまいました……少し可哀想な事をしてしまいましたかしら?
「ナギさん。何も貴女の目線でヒトがいると気づいたのではないのですよ」
わたくしは可哀想になって助け舟を出しました。
「えっ、そうなんですか?」
「はい。わたくしには最初から分かっていました。鏡の向こうからじっとこちらに視線を送る気配を……」
本当に気づいたのは、部屋で着替えた時ですけど。
ナギさんが左側に立ったのは、着替えを手伝いながら、鏡の向こうの視線からわたくしの姿を隠してくれていたのでしょう。
「だからナギさんを責めるのはお門違いです」
彼女の持つ黒い板から息を呑む音が聞こえました。
その直後鏡が上に上がり、その奥から同じような格好をした男性が三人現れて部屋に入ってきました。
「リィべ・ムトセラピア様。わたくしは超象局局長の田中です。覗き見のような事をしてしまった無礼をお許しください」
中央の眼鏡の男性が一番偉いのでしょう。
彼が頭を深々と下げると、左右の二人も同じく頭を下げます。
「ごめんなさい!」
ナギさんは頭がテーブルに打ち付けそうな勢いで身体を九十度以上傾けます。
「頭をあげてくださいナギさん」
わたくしはナギさんの頭を上げさせながら、タナカと名乗った男性の方を見ます。
「ゆ、許していただけるのですか?」
眼鏡の男性が恐る恐る頭を上げながら訪ねてきました。
「ええ。いきなり別の世界から現れた者を警戒するのは当然の事です。ただ……」
「ただ?」
「断りもなく、覗かれるのはとても不快です」
わたくしの一言で、この部屋にいる全てのヒトの血の一滴まで凍りついていくようでした。
「……これからはそういうことはないように重々気をつけますのでお許しください」
眼鏡の男性は絞り出すように声を出し、先ほどより深々と頭を下げていました。
「局長さん。もうわたくしは怒っていませんよ」
「それは良かっ――」
「けれど、お願いがあるのです」
「お願い、ですか?」
「はい。それはですね……ナギさんをわたくしに貸して欲しいのです」
「ええっ!私ですか!」
わたくしの要望に、一番驚いていたのは当のナギさんでした。
そんな「私は美味しくないですよ!」って言いたそうな顔しないでください。
今はヒトを襲うなんて固く禁止してますから。
「広くはないですけど、こんなところでよければどうぞ」
わたくしはナギさんの住む家にお世話になることになりました。
ナギさんはわたくしを外に待たせると、数分たってから扉を開けてくれます。
息が切れているところを見ると、部屋の片付けをしていたのかもしれませんね。
そこまで気にする事ないのに。
「では失礼します。とてもいいお家ですね」
「ははは。家というよりも部屋といった方が正しいかな」
上着を脱いだナギさんは部屋の奥へ向かうので、わたくしもついていきます。
「これで部屋なのですか」
わたくしの世界のヒューマンの城よりも居心地が良さそうな気がするのですが。
「まあ、その辺はややこしいので特に知らなくてもいいですよ」
『ナギさんにこの世界の文化を色々と教えて欲しいのです』
そう超現局の局長さんにお願いしたら、彼は躊躇うことなく了承してくれました。
まあ、ナギさんにはちょっと悪い事をしてしまったかもしれませんが。
彼女に案内されて、部屋の間取りを教えてもらいます。
玄関を入ってすぐトイレとバスルーム。
少し進んで寝室があり、もう一つ部屋があります。
一番奥にはテーブルのあるリビングに調理などをするキッチンの事を教えてもらいました。
当たり前ですけど、本当にトゥインクルワールドとは違う世界なのですね。
見たことないものたくさんです。
「ナギさんこの白い大きな箱は何ですか?」
キッチンにある、わたくしの身長と同じくらいの大きな箱を開くと、ヒンヤリとした冷気が肌を撫でます。
中には袋詰めの食べ物? が入っていますね。
「それは冷蔵庫といって、食料を冷やして保存する機械ですよ」
「……レイゾウコ」
どういう原理なのでしょう。氷の魔法で再現できるでしょうか?
「あの、あんまり開けっ放しだと、中の物悪くなっちゃうから閉めてもらっていいですか」
「はい。申し訳ありません」
扉を閉めると、次に金属で出来た蛇のような物を見つけました。
銀色の深い容器の上にその蛇は乗っています。
先端には下に向かって穴が空いていますね。
「ナギさんこれは何ですか?」
「ん? それは蛇口です。水やお湯が出るんですよ」
ナギさんは金属の蛇の左右についている丸い突起を動かします。
すると、蛇の口から透明で澄んだ水が勢いよく出てきました。
「これを使って料理したり、飲料水に使うんです」
「すごい便利ですね」
「はい、んふふっ」
「どうしたんです?」
突然ナギさんが吹き出しました。
「すいません。蛇口を見ているリィべの目が、まるで子供みたいにキラキラ輝いて見えちゃって」
「まあ、こう見えてもナギさんよりは年上だと思いますよ」
「そうなんですか。因みに年を聞いてもいいですか?」
「いいですよ……万年生きています」
ちょっと恥ずかしかったので、小声で告げるとナギさんは石になったかのように固まってしまいました。
「ナギさん?」
声をかけると、石化が解除されたのか、ナギさんが息を吹き返します。
「ええっ! そんなに長生きなんですか?」
「はい。こう見えてもわたくしは竜。ヒトとは違う生き物ですから」
「そうでした。すっかり忘れてました」
「ナギさん。わたくしの年齢は秘密でお願いします」
わたくしは自分の唇に指を当てて、秘密にしてもらうように頼み込みます。
やっぱり恥ずかしいですからね。
「ええ。もちろん言いませんとも。私はこの事を墓まで持っていきます!」
ふふふ。そこまで決意を固めなくてよいのに。
水が流れる蛇口よりも、更に驚いたのはテレビという機械でした。
「この大きな黒い板は何でしょう?」
「それはテレビです。えっと、あったあった。これをテレビに向けて赤いボタン押してみて、そう、そのボタン」
「これですか」
テレビという機械に向けて赤いボタンを押すと、わたくしの顔を写していた黒い鏡が、一転して極彩色に変化しました。
その板からヒトが何人も現れると、こちらを無視して喋り続けます。
「こんにちは。わたくしはリィべ……あら? ナギさん彼らにこちらの声が聞こえないのでしょうか?」
「ああ。こっちの声は聞こえてませんよ」
「彼らはこの中にはいないのですか?」
「うん。テレビといって音と映像が出る機械です。そこに映っている人達は実際には違う場所にいるんですよ」
「凄い。わたくしのいる世界ではこういう事ができるのは極一部しか見かけません」
例えば、ヒューマンの魔法使いが作り出したと言われる水晶玉ぐらい。
わたくし達も精神感応である程度距離が離れていても通じ合えますが、それでも視界が届く距離までです。
「もしかして、ナギさんが持っている小さな板もテレビと同じキカイなのですか」
「うん、これ?」
ナギさんは上着の内ポケットから取り出したのは、先ほど耳に当てていた黒い板でした。
「はい。それです」
「これはスマートフォン、小さいけど、テレビよりもいろんな事ができるんです。触ってみますか」
ナギさんに手渡されたそれは、テレビと同じように前面が黒い鏡になっていてわたくしの顔が映っています。
突然、その鏡が輝きました。
写ったのは、ナギさんと男の人です。
二人とも親しげに肩を組んでポーズを取っていて、とても仲が良さそう。
優しい雰囲気の男性には、どこかユーちゃんと面影が似ている気がしました。
「あっ、今ロック解除します」
ナギさんはスマホの下面に親指を当てて見せてくれます。
「はい。これで使えるようになりましたよ」
「あの、そこに写っているお二人はナギさんと……旦那様ですか」
ナギさんは写真を見つめます。そのお顔は少し赤くなっていました。
「はい。私の夫です」
彼女は恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに話していきます。
「夫も同じ超象局に勤めていて、彼に助けてもらったのが初めての出会いなんです」
「助けてもらった?」
「ええ。高校生の頃、夜道を歩いていたら、突然宇宙人に襲われたんです」
「ウチュウジン?」
ナギさんによると、地球は宇宙という空間に浮かんでいて、そこには地球と同じように生命体が住んでいる星があるそうなのです。
そこからやってくるのが宇宙人。
「そのウチュウジンの脅威から助けてくれたのが……」
「はい。今の夫なのです」
そういう彼女の表情はとても誇らしげでした。
世界中で起きる不可解で説明のつかない現象、超常現象。
例えば、誰もいないのに話し声がする、小さな妖精が現れた、湖に大きな首長竜が現れた等を調査、解決する為の組織。
それが超常現象対策局、略して超象局と教えてもらいました。
彼女の旦那様、つまりユートのお父様はナギさんによると、
「夫は今カナダのロッキー山脈というところにいます。全長五十メートルの巨大猿ビッグフットの調査に行ってるんですよ」 だそうです。
窓の外からオレンジ色の光が差し込んできます。
見ると、太陽が「私のことを忘れないでね」と言いたげに橙色の光を放ちながら沈んでいきました。
「リィべ、お腹空いてません? そろそろ夕飯にしようと思うのですが」
夜中にこの世界についてもう夕方。その間何も食べていないことに気づきました。
竜とはいえ生き物。お腹だって空いてきます。
「良いですね。何か作るのですか?」
「んふふ。今日は楽してデリバリーしちゃいましょう」
ナギさんはスマホを耳に当てると、誰かと会話し始めました。
デリバリーって何でしょう?
しばらく経つと、玄関からピンポーンという軽やかな音色が聞こえてきました。
先程のデリバリーというものでしょうか?
わたくしが着ているのとは色違いのジャージに着替えたナギさんは、そのまま玄関に向かいました。
戻って来ると、薄くて四角い大きな箱を両手で持ってきたのです。
「お待たせしました。今、飲み物を用意しますから、先に開けていて下さい」
薄くしっかりした紙で出来た箱を開いてみると、中から熱々の湯気と濃厚な香りが漂ってきました。
「どうです? 美味しそうでしょう」
「はい。この丸いのは何という料理ですか?」
箱の中には、わたくしの顔より大きな丸い円盤が入っています。
全体に黄金色に輝くトロッとしたものが掛けられていて、その上には丸く切られたお肉や細長くカットされた野菜が載っています。
「これはピザっていう料理ですよ。半分ずつしましょうか」
ナギさんは手慣れた手つきで、ピザという料理を切り分けていきます。
「出来ました。はいどうぞ」
「ありがとうございます」
三角の形に切り分けられた一枚が一人分のようです。
「ひゃっ」
持ち上げてビックリ。熱々で黄金色のトロリとしたものが、うにょ〜〜んと伸びて糸を引いています。
「ナギさん。ど、どうすればいいですか」
「ああ、出来立てだからチーズが伸びるんですよ。これに載せてください」
渡された紙のお皿の上に載せる事で、何とか伸びたチーズが落ちずにすみました。
そのまま、まじまじと見つめます
「これが、チーズなのですか?」
「そうチーズです。よっと」
慣れているのか、ナギさんは伸びるチーズを上手く捌いて自分のお皿に載せていきます。
「リィべの世界にもあるんですか?」
「はい。でもこんなにトロッとしたのは初めて見ました」
前にエルフの森で食べた物は固くて少し臭みがありました。
しかしこのピザという料理に載っているチーズは見るからに柔らかく滑らかで、微かに甘い匂いもします。
「そんなに見つめてたら冷めちゃいますよ」
「いけない。つい見とれてしまいました」
わたくしは再びピザを手にとって一口。
「!」
「どうです。おいしいですか?」
「はい。とっても」
滑らかで濃厚な香りの甘いチーズと、上に載ったお肉や野菜の旨味が混ざり合い、それだけだとしつこいのですが、下のサクサクとした生地が丁度良いバランスを保っています。
「美味しい。これなら、何枚もいけそうですね」
「良かった! 気に入ってもらえて。どんどん食べてください。あとこの飲み物もピザによく合いますよ」
その後もわたくしはピザを堪能しました。
けれど、ナギさんが薦めてくれたビールはちょっと苦味とアルコールの刺激を強く感じて口に合いませんでした。
日の出と共に、目を覚ましたわたくしはリビングでテレビをつけていました。
もちろん彼女から許可はもらっていますよ。
因みにナギさんはまだ寝室です。
「う〜〜、おはようございます〜」
「おはようございますナギさん」
子供のように瞼をこすりながら現れた彼女は、初めて合った時とは印象がかなり違って見えました。
それに……なんだか顔色が優れないような。
「どうかしましたか? 具合が悪そうですけど?」
「ああ、大丈夫です」
額を抑えながらすれ違うナギさんから、微かなお酒の匂い。
「もしかして、昨日お酒飲みすぎました?」
「その通り。二日酔いです」
ナギさんは冷蔵庫から水が入った――ペットボトルという名前の――容器を取り出し、蓋を開けて飲んでいます。
「もう少ししたら治りますので大丈夫……あれ? 昨日のゴミが無くなってる」
「はい。アレを見て先程片付けておきました」
わたくしが指差したのは、ゴミの分別方法が書かれた紙です。
「この世界では、ちゃんと種類分けしているのですね」
「リィべの世界ではそういうのはしてないのですか?」
「はい。こういうのは見たことはないです」
これもきっと帰ったら役に立ちますね。覚えておきましょう。
「そういえば、テレビを勝手につけてしまっているのですがよろしかったですか?」
「もちろん。昨日も言ったと思いますが、好きに使ってください」
「ありがとうございます」
「ところで何を見ているんですか?」
ナギさんの視線の先には、実際に料理を作って紹介する二人の女性が画面に映っています。
「ああ、料理番組」
「はい。たくさんの種類があるのですね。どれも美味しそうで作り手の愛情を感じませんか?」
「ううん。ごめんなさい。私には分かりません」
ナギさんには通じなかったみたいです。
彼女は椅子に座ると水を飲みながら、スマホで何か操作し始めました。
その間もテレビでは料理の作り方を話しています。
いけない。一字一句も聞き逃すわけにはいきません!
料理番組は終わりました。次はナギさんに聞きたいことがあります。
「今よろしいですか?」
「どうしました」
「はい。先程の料理を作っていた方の着ていた服が気になりまして」
テレビを見て料理と同じくらいに気になったのは、先生と呼ばれていた女性の着ているお洋服でした。
「あれは着物ですよ。日本に古くから伝わる服です。長い布を腰の帯で締めているんです」
「綺麗ですね。時にあの色は何という色ですか?」
「あれは、ピンク……ちょっと違うか、待ってくださいね」
ナギさんはスマホを指でなぞり、何かを調べているようです。
「あった! なでしこ色ですね。同じ名前の花もあるんですよ」
彼女が見せてくれた画面には一輪の花が映っています。
それはどこか儚げで、けれど気品溢れる綺麗な花でした。
とって美しい。トゥインクルワールドでは見たことありません。
「ナデシコ、なでしこ、わたくしあの花と色がとても気に入りました」
何度も口に出したのは、絶対に忘れない為。
「着物の上から着ていた白い服、あれも着物の一種ですか」
「いえ、あれは割烹着っていうんです。料理とかする時に着物が汚れないように上から着るんです」
「カッボウギというのですね」
「昔はよくお母さんが家事をする時に使っていました」
「お母さんが……」
つまり、お母さんにとって重要な必需品という事ですね!
帰るまでにどこかで手に入らないかしら。
「なるほど、リィべの好きそうな服はそういう系統か……」
わたくしは割烹着の事を考えていて、ナギさんの呟きは耳から耳へ流れていってしまいました。
その日の夜、昨日と同じように玄関のチャイムが鳴ります。
「はいは〜い。待ってましたよー」
ナギさんはとても嬉しそうに表情を緩めながら、何かを受け取ったようです。
「何が届いたのですか?」
「んふふ。開けて見てください」
「? いいのですか」
ナギさんは「早く中を見て」と言わんばかりに首を縦に振ります。
「では……あらまぁ、これは」
「明日、それを着て街に出ましょう」
「……はい!」
翌日、雲ひとつない青空の下、わたくしは新しいお洋服を着て外を歩いていました。
「その服気に入ってくれたみたいですね」
「はいとっても」
昨晩彼女に渡された箱の中身。
それは、わたくしの服一式でした。
淡い水色で袖無しのワンピースという服と、 ビーチサンダルという涼しげな履物に、頭の角を隠すつばの大きな麦わら帽子もセットになっています。
わたくしは頂いたそれを着て、ナギさんと一緒に近くのスーパーと呼ばれるお店に向かっていました。
ナギさんの服装は黒のスーツではなく、半袖のシャツにジーンズという長ズボン。
靴は紐を結んで足に固定するスニーカー。
なんというか、とても動きやすそうな格好です。
彼女曰く「私はお洒落とは無縁なんで、動きやすさ重視です」とか。
スーパー。そこは楽園という言葉がぴったり。
たくさんの新鮮な野菜や果物、多種多様な調味料に更には生肉なども売られているなんて。
わたくしがヒトの姿で、ヒューマンの市場をのぞいた時とは大違いな場所でした。
思わず、たくさんの食材を買ってしまい恐縮していたわたくしに、ナギさんは「大丈夫大丈夫」と言ってくれましたが、本当によろしかったのでしょうか。
「あら?」
「どうしました?」
「いえ、何でもありません」
「早く中に入りましょう。日差しが強くて私溶けちゃいそうです」
「まあ、溶けるだなんて」
わたくしは麦わら帽子を抑えて、もう一度空を見ます。
何故なら上から視線を感じたから。
けれど見えるのは巨人の芸術家が塗ったような鮮やかな青い空に眩しい太陽だけ。
……まあ、いいでしょう。
たくさん詰まって、今にも破れそうな四つのビニール袋の中身を冷蔵庫に入れている間、ナギさんは「暑っちー」と言いながら、壁に据え付けられている機械を動かしました。
炎天下の日差しで燃えるように熱くなっていた部屋が涼しい風を浴びて、快適な温度に戻っていきます。
その名はエアコン。冷風と温風が出せる機械だそうです。
もう一つ扇風機という機械もあるのですが、今日のような酷暑ではあまり役に立たないそうです。
わたくしは扇風機が羽を回しているところが、一生懸命頑張っているように見えて好きなのですが。
エアコンは便利ですが、時々身体が死んだように冷たくなる時がありました。
便利すぎるのも考えものなのですね。
でも、快適に暮らすにはもってこいなので、どうにかしてトゥインクルワールドでも使えるようにしたいですね。
「お疲れ様です」
わたくしは冷蔵庫で冷えた麦茶をナギさんに持っていきます。
「ありがとう。リィべは暑くないですか?」
「暑いですよ。こちらの日差しの強さは予想外でした」
「それにしては、肌は赤くなってないし、汗ひとつかいてないように見えますけど」
「わたくしはこう見えても竜ですから。多少の熱さや寒さは平気です」
「羨ましい〜」
ナギさんは羨望の眼差しをこちらに向けながら、渡した麦茶を口にします。
この世界は、トゥインクルワールドよりも遥かに優れた文明ですが、肉体的にはそれほど変わらない、いえ劣っているように感じられました。
もちろん全員が全員ではありません。
ナギさんも、暑さで参っている姿からは想像できませんが、必要なところに適切な量の筋肉が付いています。
恐らく仕事で必要なのでしょう。
逆に言えばこの世界、日本という国は平和という証拠なのかもしれませんね。
そろそろお昼の時間ですね。
「あっナギさん。お腹空いていませんか? 今日はわたくしが作ろうと思います」
「暑くて動きたくはないのですが、何故かお腹は空くんですよね。ぜひお願いします。ところで何作るんですか?」
「お腹が空くのは健康な証拠です。何が出来るか楽しみに待っててください」
わたくしはこの前テレビで見た、夏にぴったりな料理を作ります。
ちょっと手間取りましたけど、レシピは全て記憶してあるので、特に失敗することなく完成しました!
ナギさん、喜んでくれると良いのですが。
「お待たせしました。どうぞ」
わたくしが持ってきたのはザルに乗せて一口大にくるりと纏めた白くて滑らかな食べ物です。
「おおっそうめん」
良かった。分かってくれました。
「はい。夏は喉越しが良いものがいいと聞きましたので」
「いただきます」
ナギさんはそうめんを一掬いして、麺つゆにチョンとつけると、チュルルンと勢いよく啜ります。
「う〜〜ん。美味しい」
「良かった。上手く茹でることができたみたいです」
「いやあ、私が茹でると失敗することがあるんですけど、リィべの茹で方は非の打ち所がないですよ!」
「まあ、ありがとうございます」
ナギさんはそれ以上何も言わずに食べることに集中することにしたようです。
十分も経たずにザルの上のそうめんは空になっていました。
「あっ、しまった……全部食べてしまった……」
「大丈夫。わたくしの分はとってあります」
「よかった〜〜」
ナギさんのお腹がら再びくうーと鳴ったのを、わたくしは聞き逃しませんでしたよ。
「めんぼくない」
「ナギさんちょっと待っていてください」
わたくしは台所に戻り、そうめんと一緒に作っておいたものを持ってきます。
「それは、おいなりさんですか?」
「ええ。そうめんだけでは足りないかなと思って」
実はこの前ピザを食べた時に、ナギさんはとても美味しそうにたくさん食べていたのを見たのです。
だから、いくら沢山あっても細いそうめんだけでは足りないかなと思って、おいなりさんを作ったのですか、正解だったみたいですね。
「いただきま〜す。あむっ……う、うまーい! これ中に入ってるの鶏肉ですね!」
彼女の笑顔を見て、わたくしも顔が綻ぶのを感じました。
「はい。鶏肉とお揚げを一緒に煮てみました」
「普通のおいなりさんも美味しいけどこっちの方が食べ応えありますね!」
ナギさんは喋りながらも、おいなりさんを頬張り続けていました。
用意していた八個はあっという間に彼女のお腹へと消えていきます。
「ごちそうさまでした」
綺麗に食べ終えた彼女は顔の前で手を合わせました。
「おそまつさまでした」
「はあ〜美味しかったー」
満足気にお腹をさする姿はまるで子供のよう。
それにしても、作った料理を食べてもらって美味しいって言ってもらった途端、身体の内側がじんわりと暖かくなりました。
不快感など全くなく、むしろとても幸せな気持ちです。
大切な人に手料理を振る舞って、美味しそうに食べてもらう。
想像しただけで、胸が暖かくなり、幸福な泡の中に包み込まれたみたい。
そこで翡翠の瞳の勇者の顔を思い浮かべます。
あの子にも食べさせてあげたい。そして幸せな気持ちになってほしい。
あの悲しそうな顔を笑顔で溢れさせたい。
その日、わたくしはそう決心したのでした。
今年の夏は、去年の最高気温を超える猛暑日が続いているらしく、この世界に来て五日間ずっと、エアコンはフル稼働しています。
竜のわたくしは大丈夫ですが、やはりヒトにはこの刺すような日差しは辛いようで、テレビのニュースでも連日、暑さ対策を報道していました。
「ナギさん。この世界の文明は進んでいるのですから、気候や温度を変える事はしないのですか?」
明日どころか、七日先の天気まで予報することができるのに、どうして天気を変更させることができないのでしょう。
「流石にそこまで科学は発達してませんよ。もしそんな事が出来る人間が現れたら、その人は神様ですよ」
「神様……」
わたくしをこの世界に導いた神様を思い出します。
彼――彼女かもしれませんが――なら世界の天気を変える事くらい造作もないのでしょう。
「あっナギさん。申し訳ないのですが、テレビの音量小さくしてもらってもいいですか」
「ん? ああ、事件のニュースですね。分かりました」
「すいません」
わたくしにとって、苦手なのは暑さよりもテレビで流れるニュースです。
もちろん天気など必要な情報は役に立てるのですが……毎日のように報道される悲惨な事件の数々は、耳に入るだけで、この身が切り裂かれそうです。
特に幼い子供が犠牲になったと知ると、娘のレニャの事を思い出します。
あの子がそんな酷い目にあったらと思うと、心が握り潰されるような錯覚を覚えて、とてもではないのですが見ていられませんでした。
「……リィべ」
「あっはい! 何でしょう」
ナギさんがわたくしの顔を心配そうに覗き込んで来ました。
「大丈夫ですか? 顔色悪いけど」
「何でもありませんよ」
「そうは見えないけど……」
わたくしがニュースで気分を悪くしたと思ったのでしょう。ナギさんはテレビを消してくれます。
無理に笑顔を作ってみたものの、余計にナギさんに心配かけることになってしまいました。
部屋を暗い沈黙が支配していきます。
「そうだ! 今日は一日中暑いらしいので、外に出るのはやめましょう。家にある私の趣味を紹介しますよ」
突然、暗い気分を吹き飛ばすように大声でそんな提案をしてきました。
「趣味ですか?」
「はい。付いて来てください」
ナギさんは自分の好きなものを紹介できるのが嬉しくてたまらないといった顔をして、わたくしをある部屋の前まで案内しました。
「この部屋にあるのですか」
「はい。ここです。驚かないでくださいよ」
ナギさんは扉を勢いよく開けます。その部屋は沢山の物に占拠されていて足の踏み場もありません。
「これが私達夫婦で集めたものです!」
床には茶色の紙でできたダンボールという箱がが天井に届きそうなほどうず高く積まれていました。
その隙間から微かに見える棚には、文字を書いたりして記録する本らしきものが、沢山入っているのが見えます。
「夫婦でということは、旦那様も同じ趣味なのですね」
「そうなんです。ちょっと待っててくださいね!」
ナギさんは、素早くかつ、高く積まれたダンボールを崩さないように中に入り、本棚から数冊の本を持ってきました。
「これは漫画といいます。リィべの世界にはこういう本は無いんじゃないかな」
持ってきたのは、表紙に大きく絵が描かれた本でした。
中を見てみると、文字よりも、躍動感あふれる絵が全体を占めています。
これは読みやすそう。本を読むとすぐ寝てしまうレニャでもこれなら楽しんで読んでくれそう。
「わたくしの世界ではこういうのは見た事ないですね。こちらの世界ではこれが主流なのですか」
「もちろん、文字がメインの小説などもありますよ。これはライトノベル。ラノベっていいます」
ラノベ、呪文ではなく本の種類だったのですね。
次に渡されたのは、先程の漫画と違い、沢山の文字が並んでいます。
表紙は青年と黒猫が描かれています。
時々可愛らしい少女の挿絵がありますが、こちらは読者の想像力で補う物のようです。
「あ、それ気になります?」
顔を上げるとナギさんの瞳は少女のように星が輝いていました。
「このラノベは《鈴を付けたネコはいつも憂鬱》といいまして、あらすじはですね「人と喋れる黒猫フジコはいつも退屈。そんなある日、一人の少女と出会った事で、フジコの退屈で憂鬱だった毎日に変化が訪れる」という話で……」
ナギさんの熱い語りは時計の長針が一周するまで続きました。
「――なんですよ……あっすいません! つい調子に乗って一巻のラストまで話してしまいました」
謝るナギさんは数センチ縮んでしまったように見えました。
「顔を上げてください。貴女の熱の入った説明を聞いて驚きました。漫画にラノベ……どちらも大人も子供も楽しめる夢と想像力に溢れた素晴らしい物語なのですね」
わたくしの言葉を聞いて、ナギさんに笑顔が戻ります。
「……気に入ってくれたようで嬉しいです!そうだ。私の大好きな作品があるんですよ。見てみませんか? ぜひ感想を聞きたいので! ね!」
あらまあ、ナギさんはこちらの意見を聞かずに、わたくしをリビングに座らせると、再び部屋に走っていきました。
戻ってきたときには、両手で抱えるように角が痛そうな四角くて分厚い箱を何個も持って戻ってきました。
「んふふ。お待たせしました」
ナギさんがテーブルに置いた箱には、先程の本と違って色のついたイラストが描かれていて、中には光を反射して青く輝く円盤が入っています。
「これは《ギャラクティカマン》、こちらは《怪獣皇帝ドシラ》。で、これが《万能潜艦》!」
「は、はあ」
どうやらこの箱の名前のようですね。
「これは一体どうやって見るのでしょう」
わたくしは万能潜艦と書かれた箱から一枚の円盤を取り出します。
円盤の表面には絵が描かれ、裏は青一色で漫画やラノベとは違い文字などはなく、見方の検討がつきません。
「ああ、リィべ。ディスクの裏面、青い所は触らないでください。指紋がつくと大変なので」
「ごめんなさい」
わたくしはナギさんに青い円盤を渡します。
「これは、このままでは見れません。このレコーダーに入れるのです」
彼女は慣れた手つきで、ディスクと呼ばれた円盤をレコーダーという機械のスリットに差し込みます。
レコーダーという機械はスリットという細い口でそれをスルスルと飲み込んでしまいました。
食べてしまったのかしら? あまり美味しそうには見えなかったけど。
直後、いつもニュースや料理番組を流していたテレビが、今まで見たことの無い映像が流れ始めました。
ああ、食べた訳ではないのですね。
画面にちょっと目が痛いほど赤字の大きなタイトルが現れました。
それが《万能潜艦》です。
ナギさんの熱いあらすじが始まります。
「万能潜艦は千年後の荒廃した未来から来た満月帝国が地球を征服しようとやって来たのです。人類は抗戦するのですが、戦力の差は絶望的……」
一旦区切って拳を握りしめました。かなり力がこもっているのがわたくしにも分かりました。
「そんな時、封印された超兵器が空に飛び上がり、宇宙の海を進んで、満月帝国を打倒するために月に向かうのです!」
彼女の熱い想いに応えるように、万能潜艦は艦首のドリルで突撃しその身を犠牲にして満月帝国を滅ぼしたのでした。
次に見たのは《怪獣皇帝ドシラ》です。
あらすじはこう。
人類の起こした愚かな核実験によって、開かれた異次元の穴から現れた怪獣ドシラ。
世界中を瓦礫と火の海に変えていくドシラが最後に向かうは極東の島国日本。
核兵器も効かない怪獣に一人の科学者が作り出した新兵器が用いられました。
果たして、勝つのは人類か? それとも怪獣皇帝か?
ラスト、ドシラに対して新兵器を使い、怪獣と共に泡と消えた科学者。
叶わぬ恋と知りながら、愛していた女性の為にその身を犠牲にした彼を見て、わたくしの目から温かいものが流れていました。
次に見たのは先程の二つの映画とは違い、一話三十分のドラマです。
『助けてギャラクティカマーン!』
画面の中で宇宙人に襲われている男の子が叫びます。
ああ、誰も助けに来ないのでしょうか。このまま宇宙人の毒牙に……。
するとどうでしょう。突如眩い光と共に銀色の巨人が現れ、同じく巨大化した宇宙人と戦いを繰り広げました。
巨人は負けそうになりながらも、両手から放った必殺技ギャラクシス光線で宇宙人を倒します。
三十秒という限られた活動時間をめいいっぱい使い、今日もまたギャラクティカマンは地球の平和を守るのでした。
九十分の映画二本と全三十九話十六時間のドラマ、合わせて十九時間を一気見てしまいました。
気づくともう夜が明けてしまいました。
「どうでしょう……面白かったですか?」
ナギさんが遠慮がちに聞いてきます。
「とても面白かったです。特にギャラクティカマン。騙された人類に敵だと罵られても、自らの正義感を変えない意志の強さ。彼こそが真の正義の味方なのですね」
「わあ! 分かってくれて嬉しいです。勇努もこのヒーローが大好きなんですよ。特にこの初代ギャラクティカマンとギャラクティガンマンが大好きで……」
「えっ?」
今ユートの事を?
「ん? どうしましたリィべ。鳩が豆鉄砲食らったような顔して」
「い、いえなんでもありません」
今話していた事を彼女は覚えてないみたいでした。
「わたくし、もっとこの特撮の事を知りたいのですが」
「それならお任せください。とっておきの場所を知っているんです!」
少し目が赤いナギさんは眠気を感じさせず、元気よく立ち上がりました。
出かける準備をしている間も、彼女はユートの話をした事をすっかり覚えていないようでした。
寝不足でテンションの高くなったままのナギさんに、電車という蛇のように長い鉄の箱に乗せられて、わたくしは電気街というところにいました。
そこには新旧様々なアニメ――呪文ではなかったようです――のグッズやゲームはもちろん、わたくしが気になった特撮関係のグッズも沢山置いてあります。
中にはかなり日に焼けて表紙が変色した本などもありますが、値段を見て驚きました。
定価の倍の値段がついているではありませんか。
ナギさんはその本を見つけてとても嬉しそうです。
ガラスのショーケースに顔をくっつけて、少し息が荒くなっていました。
「おおっ! この本はドシラ対メカドシラ大百科! しかも初版!! これは欲しい……」
彼女は自分のお財布の中身を確かめ始めました。
「定価より高いのに買うのですか?」
わたくしの疑問に「何を言いますか!」と言いたげな顔を向けてきます。
「リィべ。この本は今から四十年前に発行された本で、メカドシラの詳細な内部図解が描かれている唯一の本なんです! 今ここで逃したら私は一生後悔して毎日枕を涙で鳴らすことになってしまいます。だから止めないでください!」
「分かりました。いってらっしゃい」
ナギさんは鼻息荒く店員さんを呼ぶと、ショーケースから取り出された商品と一緒にレジに向かっていきました。
なかなか戻ってきませんね。そうだ。戻ってくる間いろいろなところを回ってみましょう。
そう決めたわたくしは、同じ建物にあるのお店に足を運んでみることにしました。
あら、これはギャラクティカマンの人形。こちらには悪の宇宙人や怪獣まで、それにしても良く出来てますね。
もしかして魂だけ抜かれちゃったとか……そんなわけありませんね。
これは、抱き枕カバーという名前なのですか。 可愛い女の子のイラストが描かれています。
何に使うのでしょう。一緒に寝るとか。
あそこにいる、エプロンをつけた女性の店員さんに尋ねてみましょう。
「すいません。これは何に使うのでしょうか?」
店員さんは、わたくしを見てちょっと顔を赤らめながら答えてくれます。
「は、はい! 自分の好きなキャラが描かれたカバーを抱き枕につけて一緒に寝るんですよ。こう添い寝するような感じで」
店員さんは、両手で抱きしめる仕草をしました。
「添い寝……」
わたくしはユートが美少女抱き枕を抱いて眠る姿を想像してしまいました。
「 駄目です。抱き枕と一緒に寝るくらいなら、わたくしが添い寝してあげます!」
店員さんの顔が更に真っ赤っかになりました。
恥ずかしい。まさか口に出してしまうなんて。
周りのお客さんも何事かとこちらを見ていました。
「教えてくれてありがとうございました」
店員さんに頭を下げてわたくしは、足早にお店を後にします。
はあ、あんな恥ずかしい事を口に出してしまうなんて……でも添い寝してあげたいと思ったのは本心からでした。
「ここは?」
黒い暖簾が目に留まりました。
そこには十八禁という大きなマークとこう書いてあります。
『未成年は入ってはいけません』と。
未成年、この世界で成人していないヒトの事を指す言葉でしたね。
わたくしはこの世界の年齢でいえば、成人を超えてますから入っても大丈夫なはず。
入ってみましょう。何事もこの世界を知る為です。
先程からお店にいるヒトがこちらに視線を送ってくるのが気になりますけれども。
「失礼します……あら? あらあら、これは……」
暖簾をくぐった先にあったのは沢山の肌色でした。
正確には可愛い女の子たちのグッズですね。
本や抱き枕カバーに描かれた絵はほとんど裸ばかり。
フィギュアも輝く肌色です。
それにしてもすごい精巧に出来ていますね。
これは何でしょう? 上半身だけですが、胸が大きく膨らんでます。
これは、マウスパッドというのですか。使い方の見当が全くつきません。
後でナギさんに聞いてみましょう。
本棚には薄い本が沢山あります。
沢山の本が所狭しと棚に詰め込まれていて、ちょっと取るのが大変――取れました!
どんな本なのかしら、あら、あらあら、こ、この表紙……。
「いた!」
今の声は、ナギさん?
のれんを吹き飛ぶほどの勢いで入ってきたのは汗だくのナギさんでした。
両手には沢山の袋がぶら下がっています。
走って来たのでしょう、息も絶え絶えです。
「まあ、どうしたのですか? そんなに急いで」
「そんなに、急いでって、そりゃそうですよ……」
膝に手をついて苦しそう。
「まずは深呼吸して、息を整えましょう。それからお話を聞きます」
「す、すいません……すう〜はぁ〜〜」
何度か深呼吸したおかげで、ナギさんは落ち着かを取り戻したようです。
「大丈夫ですか?」
「はい。落ち着きました……じゃなくて、勝手にどこかへ行かないでください。寿命が縮むかと思いましたよ〜」
「ごめんなさい。ナギさんが楽しそうに買い物されていたので、邪魔しては悪いかなと」
「いなくなったと知った時はビックリしましたよ。お陰で局長に怒られました……あっ!」
ナギさんは言ってはいけない事を言ったしまったとばかりに自分の口を塞ぎます。
「知ってますよ。わたくしを監視している人がいる事は」
「えっ、知ってたんですか」
わたくしは頷くだけで返事しました。
「いつからです」
「いつから、そうですね。家を出た時から、鋭い視線を感じていましたよ。殺意とかではなく、なんていうんでしょうか、そう。一時も目が離せないという感じでしたね」
「ぐう……」
ぐう? まるでぐうの音も出ないといった感じに声を出すナギさん。
「言い訳にしかなりませんが、リィべを危険視したわけではありませんから。その何かあってはいけないと思って、監視を……でも不快な気持ちにさせてしまいましたね。すいません」
まるで捨てられた子犬のようにシュンとしてしまいました。
わたくしは元気づけるために彼女の手を握ります。
「落ち込まないでください。わたくしは嫌な気分になっていませんから。ね?」
「そ、それなら良かったです」
ナギさんの顔色が少し明るくなりました。
「それにしても、よく分かりましたね。衛星とかで監視していたのに……」
「衛星とは?」
ナギさんの説明によると、この青空よりもさらに上の宇宙空間に衛星という人口の星が漂っているとか。
だから以前外に出た時、上からの視線を感じたのですね。
「ああ、そうだった! リィべここを離れましょう」
まるで何かに追われているかのような必死の表情でそう促してきました。
「いきなりどうしたのですか? 確かにお店でお話ししていたら邪魔でしょうが……」
それにしても、そんなに焦らなくてもいいのに。
「違うんですよ。このフロアはちょっと駄目というか、いや別に私は大丈夫なんですけど、恥ずかしいでしょう?」
何が恥ずかしいのかしら。
「いいえ。沢山の見た事ない商品があってとても楽しいですよ。それにしてもここは特に肌の露出が多いのですね」
「だからですよ! ここは、えっとなんて言えばいいのか……エッ、エツチな商品が売っている場所でして」
えつち? エツチな商品って聞いた事ないですね。
「そうだ! そのエツチな商品で、気になるものを発見したんですよ」
わたくしは一冊な本を両手で抱えて彼女に見せます。
「こ、これは……」
「そうこの表紙の真ん中の女性。わたくしにそっくりでしょう?」
表紙にはわたくしそっくりな女性ばかりか、娘のレニャと侍女のメーヒェンにそっくりな女性も描かれています。
しかも、実際見て来たのではないかと思えるほど、特徴を捉えていました
その本の名前は 《おかあさん達があなたをいっ〜〜ぱい甘やかしてあげるね》
「ナギさん。この素晴らしい本をわたくし是非とも買いたいのですが……ナギさん?」
どうしたのでしょう? 顎が外れてしまったのか口が開きっぱなしです。
「あっ、すいません。軽いショックで気絶してました。って、それを買うんですか!」
本を指差すナギさんは表情で「後悔しますよ」と語ってきます。
「はい是非とも。この本なら色々と勉強になりそうです」
どうやったらユートを癒すことができるか分かるかもしれませんしね。
「まあ、リィべも成人だから買っても問題ないか、分かりました。買ってきますよ」
「あっ、ちょっと待ってください」
わたくしは持っている本以外にも、欲しいと思ったグッズを山ほどカゴに詰め込んで、
「これでお願いします」
笑顔で彼女に渡しました。
対照的にナギさんはちょっと困ったような恥ずかしそうな表情で、それをレジに持って行きました。
未成年禁止と書かれたのれんの奥にあった商品の意味を知ったのは、ナギさんのマンションに帰ってからでした。
今思い出しても、少し恥ずかしいです。
その夜は七日目。つまり明日にはわたくしは帰ってしまいます。
だから、家でナギさんと買った商品――戦利品というらしいです――を開封して、沢山の漫画やアニメ、特撮を見て、わたくしが作った料理を二人で食べて、時間が経つのも忘れて大いに楽しみました。
もしかしたら近隣の方には大きな音でご迷惑をかけてしまったかもしれませんが、それくらい楽しい夜だったのです。
地球という世界に来て分かったことは沢山あります。
美味しい食事が大好き。
好きな事ががあれば大抵の嫌なことを忘れさせ、明日への活力になる。
そして、誰かと一緒にいるという事は、こんなにも新鮮で楽しい出来事が起こるものなのですね。
早く、わたくし達を助けてくれた翡翠の瞳の勇者、ユートにもこの気持ちを味わって欲しいと心から思いました。
そして夜が明けようとしています。
この世界で見る最後の夜明けです。
「ナギさん、ナギさん」
「ん、んん? ああリィべ。おはようございます」
彼女は目を擦りながら、重い瞼をなんとか開けようとします。
「おはようございます」
「どうしたんですか……まだ午前四時半ですよ。ワンピース着てどこかへ行くのですか?」
時計を確認するナギさん。どうやらまだ寝ぼけているみたい。
「今日は八日目ですよ。忘れてしまいましたか?」
「ようかめ? 八日目、八日目! そうでした今日は――」
気づいたのか、寝ていた椅子から勢いよく立ち上がります。
その衝撃でテーブルの上に散乱していたものが一斉に床に落ちていきました。
「はい。わたくしが戻る日です」
「時間はどれくらい残っていますか!」
「後、一時間程でしょうか」
「一時間! ならなんとかなるか。ちょっと待っててくださいね。用意しますから! 絶対一人で行かないでくださいよ」
ナギさんは喋りながらも部屋着のジャージを脱ぎ捨て、髪を整えながら、着替え始めます。
その途中でスマホが鳴りました。
「 はい盾持です。あっ局長! はい今用意しています。いえ決して寝過ごしたわけでは……はい。すぐそちらに向かいます!」
ナギさんはスマホで会話しながらも、器用にワイシャツを着てパンツを履いて、最後にジャケットに袖を通しました。
「行きましょうリィべ」
ナギさんはキリリと引き締まった顔をしています。そういう顔を仕事モードと言うとか。
「あの、行く前にお願いがあるのです」
「何でしょう。この前買った必要なものはすでに向こうについてますよ」
「それとは別に、趣味の部屋にある物も持っていってよろしいでしょうか?」
「私の部屋の?」
「はい」
ナギさんは趣味のグッズを置く部屋と言っていましたが、奥にベッドが置かれていました。
恐らく、あそこはユートの部屋だったのでしょう。
ならば、部屋にあるものをいくつか持っていけば、彼も喜ぶかもしれません。
彼女は考え込んでいるようで、顎に手を当てています。
やがて、口を開きました。
「……分かりました。それが貴女の役に立つのなら持っていってください」
そんな失礼なお願いも彼女は笑顔で了承してくれました。
「ありがとうございます!」
そうとなったら急がないと、わたくしは持っていくもの、枕にシーツ、そして本棚にある本を選んで風呂敷と呼ばれる布に包んでから背負いました。
「お、重くないですか?」
「大丈夫です。行きましょう」
「……分かりました。それじゃあこちらへ」
ナギさんは少し躊躇うそぶりを見せながらも、わたくしを案内してくれます。
外に出る時、最後に沢山の思い出ができたマンシャンをもう一度仰ぎ見ました。
「リィべ急いで!」
「はい。今行きます」
マンションに小さく頭を下げて、わたくしはナギさんの後を追いかけました。
黒い鉄の馬車、ではなく自動車の後部座席に乗って出発です。
車を邪魔するものはなく、青、黄、赤の鮮やかな光を放つ信号も全て青になっていました。
「局長に頼んで、警察を動かしてもらいました。目的地まで邪魔する車も人もいませんよ」
隣のナギさんの言葉で納得です。
最初に降り立った港には以前もいた自衛隊の車両が展開していました。
ナギさんによると、万が一の混乱を防ぐ為にだそうです。
「リィべ着きましたよ」
目的地に着いた車が止まり、ひとりでにドアが開かれます。
わたくしが降り立つと、まるで待っていたかのように何も無い空間が縦に裂けて、大きな穴が開きました。
「ナギさん、これでお別れですね」
振り向くと、彼女は両手で抱える程大きな箱を持っていました。
「これ持っていってください。きっと気に入ってくれると思います」
「開けてみても?」
頷いたナギさんの了承を得て、包みを開けてみると……。
「まあ! 」
そこに入っていたのは、真っ白な割烹着に、なでしこ色のワンピース!
「ナギさん、これは」
「リィべがとても気に入ったようだったので、探して手に入れておいたんです。届いたのは昨日でギリギリでした」
彼女は笑っていますが、目尻に涙がたまっているのを見逃しませんでした。
それを見て私の目頭も熱くなってきます。
「ありがとうございます。大切にさせてもらいますね」
ナギさんは首を下に向けているので表情は分かりませんが、肩が僅かに震わせながら返事します。
「……はい」
わたくしはトゥインクルワールドに持っていく荷物を、白い割烹着となでしこのワンピースと共に四次元空間に大切にしまっていきます。
次に被っている麦わら帽子、履いているビーチサンダル。
そして着ている水色のワンピースを脱ぐと同時に、竜の姿に戻りました。
こちらを見上げるナギさんの顔は涙と鼻水でくしゃくしゃです。
わたくしはテレパシーを送ります。
『短い間お世話になりました』
「私もぉ、忘れぇません!この一週間とても楽しかったですぅぅ! 」
テレパシーを送られたら、テレパシーで返すこともできるのですが、ナギさんは大きく声を張り上げます。
「貴女の事はぁ、一生ぉ忘れません!」
そんなに声を張り上げなくても大丈夫なのに、でもその震える大声は、わたくしの心を激しく震わせました。
『ありがとう。わたくしも貴女の事は決して忘れません』
これ以上は、名残惜しくなって別れが更に辛くなるのは分かっていました。
だから、見えない鎖を断ち切るように、手を振る彼女から視線を外し、空間に開いている穴に振り向いたその時でした。
「息子の事、よろしくお願いします!」
えっ?
ナギさんは泣きながら、こちらに大きく手を振っています。
「さようなら! さようならー!」
ユートの事はわたくしに任せてください。
異世界の親友、さようなら。
こうしてわたくしはトゥインクルワールドに戻ってきたのです。
それからも色々と大変でした。
日本で手に入れた野菜などを四次元空間内で育てられるように改良。
わたくしの魔力で家電製品を動かせるように試行錯誤して動かせるようにしました。
さあ、準備は整いました。
母の正装である割烹着になでしこ色のワンピースを着て、勇者ユートの元へ出発です。
彼のいる塔へ向かう間、わたくしはあることを考えていました。
ユートと呼ぶのは何か堅苦しいですね。別の呼び方ないかしら?
そうだわ、娘と同じように呼んでみましょう。
ユーちゃん、と。




