第一章 第四話 勇者は胃袋を掴まれ リィベは頬をつっつく
「ユーちゃん」
「んあっ?」
竜を助けた夢を見ていたオレが瞼を開けると、こちらを見下ろす二つの太陽と目があった。
見てもわかるほど柔らかそうな白い肌に、光を受けて少し赤みがかった黒髪を持つ女性が、聖母のごとき笑みを浮かべながら口を開く。
「途中からぐっすり寝ちゃってたわね。とっても可愛い寝顔だったわ」
ここはリビング? アレ? オレなんでここで座ってるんだっけ?
というかオレを見下ろすこの女性は……?
そうだ。いきなり扉を壊してオレの母とか言ってた女性だ。
すぐに立ち上がろうとしたのだが、それが出来ない。何故なら後頭部が凄い気持ちいいからだ。
フニュッと柔らかくて、適度に跳ね返してくるこのモチプルの弾力。
凄い良いクッションだ。この塔にそんな良いものあったのか。
「なあ、こんなクッション何処にあったんだ?」
まだ何処かにあるなら部屋に一つは欲しい。これがあったら凄い快適に過ごせるぞ。
「クッション?」
「うん。オレの後頭部の下にあるやつ」
オレは感触を確かめる為に後頭部を擦り付ける。
「んん……っ」
頭上からなんか変な声が……。
「ユーちゃん。それはクッションじゃないのよ」
「えっこんな柔らかいのに違うのか?」
更に後頭部を押し付けると、頭半分が温もりに包まれた。
なんだこりゃ天にも登る気持ちってこういう事を言うのか。
「んっ、そうなの……クッションじゃなくて……ンッ!」
何だよさっきから。変な声出して、こっちまで変な気分になるじゃないか……。
「どうし……えっ」
様子を見ようと頭を上げると、先程と同じように二つの太陽がこちらを見ていた。
ただ、その瞳は潤み、顔は上気して赤くなっている。
左手で口を抑えているが、その隙間から漏れる吐息は火傷するほど熱い。
もしかして……!
なんかとんでもない事をしてる気がして、慌てて――少し名残惜しかったけど――クッションから頭を離して振り向く。
そして見た。フルルンと白い割烹着を押し上げる水まんじゅうが揺れ動いていたのを。
「はぁっ……もう、ユーちゃん押し付けすぎです。おかあさん息苦しかったわ」
「もしかして、オレが頭乗せてたのって、おっ、おっ、おっ、ぱ」
「ええ」
太陽ような瞳を持つ女性は、オレの頭の感触を確かめるように自分の胸に手を置いて頷く。
「な、な、な、なんでそんな事を」
ま、まさか女性の胸に後頭部を埋めていたとは!
「起こさないほうがいいかなと思って。もしかして気持ち悪かったかしら?」
目尻を下げ、首をかしげながら聞いてきた。
いや気持ち悪いなんてことはなくむしろ気持ちよすぎてずっとそうしていたかったです。
何て言えるはずもないので、首を必死に横に振ることでこちらの意思を伝えた。
こちらの言いたいことが伝わったのか、彼女は胸に手を置いたまま笑顔になる。
「良かった。気に入ってくれたのね。またして欲しい時はいつでも言ってね」
「いや……あ、ああ」
いや大丈夫です。ときっぱり断りたかったが、あの温もりと柔らかさと弾力には抗いがたい魅力があったのも確かだった。
「あらまあ、おかあさん忘れてたわ。はい、これを見てみて」
「これは鏡?」
彼女は手鏡を取り出すとオレの前に持ってくる。
そこには鏡を持つ彼女以外に一人の少年が映っている。
誰だ?
誰かいるのかと後ろを振り向くと、柔らかい笑みを浮かべる彼女と目が合って慌てて首を前に戻す。
じゃあこの鏡に映っている少年は……。
「オレか?」
「ええ。ユーちゃんよ。どうかしら? 髪型これでいいかしら? おかあさんはとってもカッコよくなったと思うのだけれど」
確かに、この世界に来てから一度も切らずに伸び放題になり目元まで隠すほど長かった緑の髪は、今は短く切り揃えられて、とてもサッパリとしている。
前髪を整えてもらった事で、久しぶりに自分の瞳と対面した。
「気に入ってもらえたみたいね」
鏡を見ているオレに、彼女は顔が触れるほど迫ってくる。
微かに触れる頰はふっくらスベスベしていた。
「ち、近いって」
「ふふふ。ユーちゃんの瞳とっても綺麗。こっちの方が断然カッコイイわよ」
褒められて心臓がドクンと高鳴る。
今まで、自分の容姿を褒められたことなどなかったので、褒められるたびに顔が熱くなって反論できなくなってしまう。
「あら?」
鏡を見ていた彼女が何かに気づいたようだ。
「首に切った髪の毛が付いてるわ」
「うあっ」
彼女の指が首筋に触れた途端、ピリピリと電気マッサージのような電流が走って変な声が出てしまった。
「ごめんなさい。痛かったかしら?」
「何でもない。ちょっとびっくりしただけ。後は自分でやるからいいよ」
どうせ、ほっておけば勝手に飛んでいくだろうし。
「駄目よ。着ているお洋服に付いたりしてたらみっともないわ。ちょっと待ってて」
そう言って、リビングを出て行く。どこに行くのかと耳をすますと、パタパタと上に登って行く音が聞こえた。
しばらくすると、物が入った桶を抱えて戻ってきた。
「それは?」
「おかあさんが頭洗ってあげるわ」
掲げた桶に入っていたのは、どう見てもシャンプーのボトルとタオルだった。
「ちゃんとリンスインシャンプーよ」
「いやそんなこと聞いてない。な、なんでそんなものがここにあるんだよ」
この世界では地球の物が手に入るのか? いやそんなはずはない。この世界はどう見てもオレがいた日本よりも高い文明だったとは考えられない。
お風呂だって沐浴で、温泉みたいなところもなかったはず。
「ふふふ。これはね……おかあさんが買ってきたの」
何故か少し誇らしげな様子。
「一体どこで買えるんだよ」
「それは後で話すから。今は頭を洗いましょ。痒くてたまらないんじゃない?」
「えっああ……」
彼女に指摘されて気づく。
会話しているうちに自分の頭をポリポリ掻いてしまっていたのだ。
そこまで無意識の行動を指摘されては、もう何も言えず、彼女に促されるまま歩いていくと……。
「頭洗うだけだから洗面台でもいいわね」
「ちょっと待て」
「あら、何か問題あるかしら?」
「いや、問題は、全くない」
むしろ問題はない。快適な環境になっていて驚いているのだ。
ここに洗面台なんてなかったはずだ。ここにあったのは、そう井戸だ。
最初探し回って見つけたのはすでに枯れた井戸しかなかったはず。
なのに、今は水垢ひとつない洗面台へと姿を変えていた。
清潔感あふれる鏡に蛇口、どういう事だ?
蛇口の上部に二つのノブの内、一つをひねる。
「冷たっ!」
冷水が勢いよく出て手に掛かったので、慌てて止める。
「あらまあ! お洋服濡れてない? はいこれで拭いて」
「どうも」
彼女から渡されたほんのり温かいタオルで手についた冷たい水滴を拭う。
「今お湯出すからちょっと待ってて」
彼女がもう片方のノブを回すと、蛇口から出てきた水がしばらくすると湯気を纏う。
どうやら温水になったようだ。
「はい。服濡れちゃうから、これ付けて」
オレは水に濡れても大丈夫なクロスを被り洗面台の前へ。
「頭洗うだけだから、立ったままで大丈夫?」
因みに身長は彼女の方が大きいので、立ったまんまでも何の問題もなかったりする。
「ああ」
せめて口では反抗しようと、つっけんどんな返事をして見たが、彼女は微笑むだけ。
まるでこっちが小さい子供みたいじゃないか。
「これぐらいの温度なら大丈夫そう。ユーちゃんどうぞ」
彼女は柔らかそうな掌でお湯の温度を確かめてからオレをそこへ誘う。
オレは吸い込まれるように蛇口の下に頭を移動させた。
頭全体が濡れたのを確認した彼女は蛇口の温水を止める。
「ちょっと頭動かすわね」
彼女のしなやかな指がオレの頭に触れる。
今のオレは水が入らないように目を閉じているので、感覚が鋭敏になっている状態だ。
そんな時に頭を触れられると、チリチリとくすぐったいようなんとも言えない刺激が走る。
左側からシュコシュコとポンプを動かすような音が聞こえ、爽やかな香りが鼻をくすぐる。
どうやら彼女がシャンプーを掌に出したようだ。
彼女の髪から漂ういい匂いの正体はこれだったのか。
頭上で微かに何かをこすりあわせるような音が聞こえる。
シャンプーを泡立てているのだろうか?
次の瞬間、きめ細かい泡と細い棒のような感触がオレの頭全体に広がっていく。
「目に入ったらすぐ言ってね」
そうして十本の細い棒、いやこれは指か? それがゆっくりと動き、頭皮を滑る。
「爪とか当たってないかしら?」
「だ、大丈夫」
返事がしどろもどろなのは口に水が入ったからではない。
頭部が、頭全体が気持ちよすぎて口がうまく動かないんだよ!
彼女のほっそりとした指が十本同時にオレの地肌を優しく労わるように動き回る。
あーこれどうしよう。もう頭がフワフワして、ずっとこのままでいいような気がしてきた。
そんな考えに浸っていると、不意に彼女の指の動きが止まった。
「ユーちゃん大丈夫?」
「……えっ?」
「身体が小刻みに震えてるわ。それに首に鳥肌が立ってるけれど……もしかして、爪が当たっちゃったかしら?」
どうやら、気持ちよすぎて身体が震えていたらしい。
「何でもない。気持ちよかっただけ……あっ!」
言ってからしまったと思ったがもう遅い。
気持ちいいなんて言っちゃったよ。
「あらまあ……気持ちよかったなんて……そう言ってくれて嬉しいわ。じゃあ、もっと洗ってあげるわね!」
彼女がオレの一言でとても喜んでいるのはその声の弾み方からして一目瞭然だった。
「えっ! ちょっと大丈夫だから――」
それから数分間、彼女の指の動きに悶絶しっぱなしになるのだった。
ブォーと、熱風がオレの頭に吹き付けられると同時にブラシがオレの洗い立ての髪を梳いていく。
「ユーちゃん。もうちょっと顔上げてくれる? おかあさん上手く乾かせないわ」
「…………」
オレは何も言わずに頭を少し上げた。
「ええ。それくらいでいいわよ」
彼女に髪を乾かしてもらっている間、オレは前に設置された鏡を見れなかった。
何故なら目が合うのが恥ずかしかったから。
まさか女性に頭洗われるのがあんなに気持ちいなんて……。
そしてそれ以上に変な声が出てしまったのが死ぬほど恥ずかしい。
もし手元にドリルがあったなら、それを使って穴を掘り、今すぐ飛び込見たい気分だ。
「……よし大丈夫。はい。乾きましたよ」
彼女はドライヤー――もう驚く気も失せた――を止めると、オレの髪が濡れてないか触って確かめる。
偶然だろうけど、指が時々耳に当たるだけで、さっきの心地よさを思い出してしまう自分がいた。
それがバレないように出来る限り目線を下にするのを心掛ける。
「飛び跳ねた髪もなし。ユーちゃん癖っ毛なのね。洗ったら爆発したみたいになってて、おかあさんちょっとびっくりしたわ。ふふふ」
何が可笑しいのか。口元に手を当てて笑っている。
こっちの気も知らないで。
「はい。終わりましたよユーちゃん。お疲れ様」
そう労いながらクロスを取ってくれた。
「疲れてなんかいないよ。それよりもあんたの方が疲れたんじゃないのか?」
オレの言葉に彼女は目をパチクリさせる
って、また何でそんなこと聞いてるんだオレは!
「あらまあ、ありがとう。でもおかあさんはこれくらいじゃ疲れなんて感じないわ」
「何でだよ?」
来て早々、雪掻き分けてお風呂作ったり、牢獄の中改装したり、オレの髪切って頭……洗ってくれたりしたんだ。
並の人なら疲れるんじゃないのか?
「おかあさんは我が子が喜んでくれるお顔が見れただけで、疲れなんてどこかに吹っ飛んじゃうものなの。ふふふ」
「オレが喜んでる?」
彼女は柔らかい日差しのような微笑みを讃えながら、オレの頰に手を添えてくる。
触るなと言おうとしたが、その肌触りの良さと温かさはずっと触れていたいと思えてならない。
「ええ。おかあさんが初めて会った時から、今の今まで、ユーちゃんずっと泣きそうな顔していたもの。今の表情はあの時に見て以来」
「あの時以来?」
何だ。その気になるワードは。
「ええ。おかあさん達を助けてくれた時以来」
「助けた。オレがあんたを?」
覚えていない。オレは人助けなんてしてないぞ。
そりゃ冥王を倒して間接的に多くの人を救ったけれども……。
待てよ。彼女の金色の瞳と二本の角ってどこかで見たことがあると思ったけど……まさか!
オレが顔を上げると太陽のように輝く瞳と視線が交差する。
「あんたはもしかして……」
そこまでいったところで、しなやかな人差し指がオレの口に添えられる。
たったそれだけなのにそれ以上言葉は続かない。
「真実を話すのはもうちょっと後で。全て話すにはたくさんの時間がいるの。その前にユーちゃんには見てもらいたいものがあるのよ」
見てもらいたいもの?
オレは疑問を飲み込んだまま、先を歩くピンク色のワンピースの背中についていく。
「ここよ」
白い割烹着を着た彼女が立ち止まったのは、オレもよく知る、と言うより案内されなくても一人でたどり着ける場所。
自分の部屋だ。
いや、部屋とは名ばかりの牢屋と言った方が正しいか。
今日の朝までは、この塔自体がオレを閉じ込めておくための牢獄だったから。
それを破壊したのは目の前にいる女性だとは、今だに信じられない。
いくら金色の瞳に同色の二本角を生やしているとはいえ、それ以外は華奢な人間の女性そのもの。
とても扉と結界を破壊できるようには見えなかった。
けれど、オレはどこかで会った事がある。あの金色の瞳に宿る優しい光。
けれど、あの時は人の姿をしていなかった。
一体どういう事なのだろう?
「……ちゃん、ユーちゃん!」
「うわっ何だよ」
「それはこっちのセリフよ。急にボーとしてどうかしたの?」
「何でもない。それでオレの部屋がどうしたんだよ」
「ふふふ。開けてみて。きっと喜んでもらえるわ」
自信満々の表情でオレが扉を開けることを促してくる。
「いや、そっちが近いんだから、自分で開ければ?」
「それじゃ駄目なの。本人が開けた方が喜びも倍増するでしょ?」
そうなのか? 知らないけど。
よく分からないが、開けないとずっとここにいそうだから、さっさと開けるとしますか。
オレはドアノブに手をかけて、自分の部屋の入り口を勢いよく開けた。
開放すると同時に、眩い光がオレを包み込む。
「どう感想は?」
「…………」
何も出てこない。
オレの部屋が、天井を蜘蛛の巣で占領され床はゴミの埋め立て場みたいだった部屋が、光り輝いている。
「あらまあ、嬉しすぎて声も出ないのかしら」
「これ、あんたが?」
「そうよ。ユーちゃんが露天風呂に入ってる間に、お掃除しておいたの」
そんな馬鹿な。オレが温泉に行ってたのはせいぜい長くても一時間くらい。その間に汚れに汚れた部屋を綺麗にできるものなのか?
それに部屋全体がピカピカ輝いていて、照明が仕事をしていない。
「入ってもいいのか?」
「どうぞ。ここはユーちゃんのお部屋なんだから、遠慮しなくていいのよ」
そうは言うが、短時間でここまで劇的に様変わりしてると逆に入りづらい。
オレはゆっくりと慎重に足を踏み入れる。もしかしたらこの部屋自体が幻なのでは?
そう思って踏み出した足裏はしっかりと床の感触を伝えてきた。
オレの部屋は実在している。しかも綺麗になって!
天井にあった大量の蜘蛛の巣はひとつも見当たらない。しゃがんで床を見て触ってもチリひとつない。
藁の上に布を引いただけのベッドが姿を変えている。
ベッドの上に腰掛けると、シワひとつなくサラリとした清潔な白いシーツの下のマットレスが、オレの体重をしっかりと包み込むように支えてくる。
何故か懐かしい感覚を覚えた。
ベッドに腰掛けたまま、視線を上げると部屋にはなかったはずのものを見つけた。
それは本棚と机だ。
机は木材で出来た何の変哲も無い物だが、その上の箱にはオレの捨てたはずのマッハブーツやゴーリキーリングが綺麗に収められていた。
「散らかっていたから片付けておいたわ。大事なものでしょ?」
「ああ……」
それより問題は本棚の中身だ。
「これって……」
漫画やらラノベやら、オレが好きなジャンルの本ばかり、いやこの古びた怪獣大百科はオレの父さんが持っていたもの。
「気に入ってくれた?」
「これはどう言う事なんだ? 何で地球の、オレの家にあるはずの本が?」
「それはね。おかあさんが向こうの世界から持ってきたの」
「向こうの世界⁉︎ それってつまり地球に行った……?」
彼女は頷いた。
嘘だろ。でも彼女の表情はとても嘘をついているようには見えない。
「どういうことだよ!」
何が何だか分からなくなったオレは思わず彼女に詰め寄ってしまった。
「きゃあっ!」
悲鳴で我に帰る。気づくと彼女を押し倒していたのだ。
「ユーちゃん。落ち着いて、ちゃんと話すから、ね?」
そんな事をした犯人は誰? それはオレだ。
「ご、ごめんっ――」
早く離れなれないと。その一心だけで身体を動かしたのでバランスを崩す。
「危ない!」
まずいと思って後ろに左手を伸ばすも、自分の体重を支えられるはずもなく。
硬い床に頭がぶつかるな。
そう思った直後、上半身を柔らかいものにしっかりと抱きしめられる。
少し遅れて、オレの部屋に何かが崩れる大きな音が響き渡った。
頭をぶつけた衝撃は一向に襲ってこない。
ゆっくりと目を開けると、心配そうにこちらを見る彼女がいた。
「大丈夫?」
「あ、ああ。あんたは大丈夫なのか?」
「おかあさんは大丈夫よ」
「でもさっきすごい音が……!」
「それは本棚の本が崩れたからよ。おかあさんは怪我ひとつしてないわ」
良かった。
それを聞いて、胸をなでおろしたオレは、初めて指に違和感を感じた。
そこにツキリと痛みを感じたのだ。
痛いと訴える左人差し指を見てオレは固まる。
本棚に手をついたときに切ったのか、人差し指が小さく裂け、そこから異質な体液が……。
「ユーちゃん?」
しまった。見られた!
彼女がこっちを見ている。正確にはオレの指の傷、そこから流れる体液を見つめていた。
オレの異様な身体の一部を見て。目が離せないのだろう。
口に手を当てたまま固まっている。
「何でもない。何でもないから!」
オレは背中を向けて、人差し指を口に含み、流れ出す鉄の味の液体を吸う。
早く止まれ早く止まれ早く止まれ!
そう念じて吸うも、一向に舌に伝わる鉄の味は薄くならない。
焦って血圧が上がってるのか止まる気配がなかった。
「大丈夫? おかあさんに見せて」
指を口に入れたままなので、首を左右に振って拒否する。
「おかあさんに見せて、ね?」
嫌だ! これだけは誰にも見られたくない!
オレは首が吹き飛ぶほどの勢いで左右に振り続けた。
「おかあさんに見せなさい。ユーちゃん」
彼女は逆らい難い強い言葉で、オレの左腕を掴んできた。
「やめろっ!」
「ユ、ユーちゃん?」
オレの大声で驚いたのか、彼女の手がビクリと震えてその場で止まる。
それを見て胸のあたりに針が刺さったような痛みが走った。
けれど、それ以上に見られたくなかったのだ。
右掌で覆うようにして傷口を隠す。
傷口はまだ少し痛むが、彼女に大声を上げてしまった時に刺さった針の方がズキズキと心臓の鼓動のように大きく疼いていた。
「ユーちゃん。傷口を見せて」
「嫌だ。見るな」
「おかあさんは、怖がったり変な目で見たりしないわ」
「えっ?」
その言葉の意味を飲み込むのほんの少しの間に、彼女の柔らかな両掌がオレの両手を包み込んできた。
「やめろ、見ないで、くれよ……」
気づくと頰が濡れている。オレは泣きながら懇願していた。
「ユーちゃん。おかあさんの事を誤解してるみたいだから言っておきます」
「誤解?」
彼女は真っ直ぐオレの目を見て頷き口を開く。
「おかあさんは何があってもユーちゃんの味方」
「み、味方? 何で、何でだよ」
「何で? そんなの決まってるじゃない貴方のおかあさんだからよ」
その一言でオレの心を縛り付けていた鎖が一瞬にして吹き飛んでいくのを感じた。
「見せてユーちゃん。怪我が悪化したら大変だから、ね?」
オレは顔を伏せたまま、ゆっくりと左手を覆っていた右手を退けていく。
顔を伏せたままなのは、怖かったからだ。
見た途端、彼女もおぞましいモノを見た顔をするかもしれない。それがとてもとても怖い。
彼女はオレの手に両手を添えたまま、待ってくれているようだ。
彼女の掌から伝わる温かさで心の氷が溶けていく。
オレは右手を退けて左人差し指を彼女に見せた。
「血は出てるけど、傷は深くないし、破片とかも入ってないみたいね。良かった〜」
心底安堵したのが彼女の掌から伝わってくる。
「……気持ち悪くないのかよ」
「何の事?」
「オレの血、気持ち悪い色してるだろ」
指から流れる血液は赤ではなく緑色。
彼女にはどう見えているのか?
オレ本人も後々知ったのだが、身体を作り変えられた時に、血の色まで変えられてしまったらしい。
初めて人に見られた時の、あの目は忘れられない。
目は口ほどに物を言うというが、あの時は本当に目が喋り、視線は文字となってオレの心を貫いたのだ。
「化け物」と。
でも、彼女はオレの血を見ても驚きも慄きもしていない。
むしろ純粋に怪我したことを心配しているような素振りだ。
「気持ち悪くなんてありませんよ……あむっ」
はっ! えっええと……?
自分の目の前の光景で起きていることが信じられない。
彼女が、オレの指を口に含んでいる。
「な、何してるんだよ!」
「んあっ、何って血を止めないと、それにバイ菌入ってるかもしれないわ。はぷっ」
「うあっ」
そう言って、また口内に指を取り込まれてしまう。
何かが、傷口を撫でた? 何度も何度も傷をこれ以上拡げないように優しく優しく左右に動く。
これ、これは……。
ふと見ると、オレの指を咥えたまま微笑む彼女と目が合う。
眦を下げて、ほんの少し顔を赤らめる彼女の姿はとても扇情的で、オレの心臓が一際高鳴り、身体が熱くなってくる。
慌てて目を逸らすが、その顔が頭から離れず、更には指に伝わる熱くて柔らかな感触がオレの全身の血液を沸騰させるみたいだ。
「……うん、止まったみたいね」
っぽんという音と共に、永遠に続くかと思われたそれが終わりを迎えた。
温もりで濡れた人差し指を見ると、血が止まっているどころか傷口も完全に塞がっている。
よく見ると微かな傷痕が見えていたが、それもすぐに消えてしまった。
「あんた一体……」
「おかあさんに掛かれば、それぐらいすぐ治せるんです」
「はあ……」
もう何が何だかよく分からんが、何故だろう。納得してしまう自分がいた。
「ユーちゃんの怪我も治ったし、次は本棚片付けないとね」
彼女は率先して落ちた本を拾い、棚に入れて整頓し始めた。
「オレがやるよ」
「大丈夫。ユーちゃんはお休みしてて」
いや、こんな小さな傷でお休みも何もないんだが。
その間にも彼女は、散らかっていた本達を手際よく棚に収めていく。
「手伝うってば」
せめて、少しでも手伝おうと床に出来た本の山から一冊を手に取る。
「…………」
表紙に目が釘付けになった。
正しくはその本のタイトルにだ。
《おかあさん達があなたをいっ〜〜ぱい甘やかしてあげるね》
表紙にはそんなタイトルと共に、割烹着を着た女性が中心にいて。
左右には、王冠を頂く少女と、眼鏡をかけたメイドの三人が描かれている。
そして左下には『成人じゃないと買ってはいけません』と注意書きが……。
ペラリペラリと何ページかめくると、目眩く桃色ワールドだったのですぐに閉じた。
うん。これは人前で見たらいけない本だ。
「どうしたのユーちゃん。頭からビックリマーク出して」
「えっ? 出てるのか!」
頭を触るもそれらしいものは見つからなかった。
「冗談よ。そんな表情してたから、もしかしたらと思って。当たってたみたいね」
そりゃこんな本を見たらびっくりマークだって出るさ。
「ユーちゃんユーちゃん」
顔を上げると、彼女が表紙と同じように両手を広げて待ち構えていた。
「おいで〜」
「いや、行きません」
「え〜〜。こういうの好きって本には書いてあったのにおかしいわ」
「いや「おかしい」って、それはこっちのセリフ。この本はどうしたんだよ」
「それはね。本屋さんで見つけて買ったのよ」
「本屋で買った?どこで?」
「ふふふ」
笑ってはぐらかされた。
でもタイトルも中身も日本語で書かれていた。つまり地球で買ったのは間違いないのだろう
「後で全部教えてくれるんだろうな?」
「ええ。さっ、先に本を片付けちゃいましょ」
彼女はパパッと本棚を元に戻す。ピンクい本はいつのまにかオレの手を離れて一番目立つ所に置かれていた。
「やめてくれ。そんなとこに置かれたら表紙が気になって目が離せなくなる!」
出来ればその本は処理して欲しいのですが。
「あらそうよね。おかあさんウッカリしてたわ」
彼女は薄い本を手に取ると、本棚の奥に、その前には他の本を置いて巧妙にカムフラージュしてくれた。
「こういうのは、隠して置いたほうがいいものね。ここにしまっておくから……」
そこまで言って、オレの耳元に寄ってくる。
「後で読んでみてね」
「読まない!」
「ふふふ。はいはい」
彼女が部屋を出たのを確認してすぐさま、適切な処理をしようとしたのだが……流石に捨てる事は出来なかった。
「後で呼ぶから部屋で本でも読んで待ってて」
彼女は部屋を出る時、そう言っていたので、オレは部屋で暇をつぶすことに決めた。
以前ならただ寝ることしかなかったのだが、今は本があるので十分時間つぶしになった。
言っておくが、いくら一人になっても、あのピンクい本は見ていませんから。
『……ちゃん』
「ん?」
声が聞こえた?
漫画を読むのを中断し辺りを見回すも、誰もいない。
オレ以外にここにいるのは彼女だけだが、この部屋にはいない。
気のせいか。そう結論を出して視線を漫画に戻す。
するとまた、
『ユーちゃん』
今度はハッキリと聞こえたぞ。
しかも彼女だ。けどどこにいるんだ?
左右を見回してもおらず、見上げてもいない。
まさかベッドの下、そんな馬鹿なことを思いついて、覗いてみるが人の姿はない。
『ユーちゃん聞こえてたらお返事して』
「聞こえてるよ。何処にいるんだ? 隠れてるのか?」
『違うわ。おかあさんは下の階よ。だからさっきのオススメした本読んでてもいいのよ』
「いや読んでないから!」
どうやらこちらは見えてないらしい。
でも声だけ聞こえてくるのは何故?
聞こえるという表現はおかしいかもしれない。
そう頭の中に声が流れ込んでくるようなこの感覚。これって……。
テレパシーか? もうなんでもありになってきたな。
『もう少ししたら支度出来るからね』
「支度? なんの支度してるんだ?」
誰もいない空間に向かって話しかけてるのは、ちょっと恥ずかしいんだが。
『お夕飯よ』
オユウハンって、夕食の事か?
『出来上がったら呼ぶから待っててね』
それ以降は頭の中で声は響かない。テレパシーによる会話は終わったようだ。
部屋にいつの間にかセットされた時計は午後の六時を指し示している。
六時、今からご飯だとしたら夕飯ということになるのか。
この牢獄に閉じ込められてから外の光景は吹きすさぶ雪と風ばかり。
オレも鎧戸を閉めっぱなしで寝てばかりだったので、ほとんど昼か夜かもわからない生活を送っていたからな。
夕飯といったって、別にオレは食わなくても生きていけるし、そうだ、わざと不味いって言ってやろうっと。
そうすれば、きっと怒って出て行くだろうから、オレは一人で惰眠をむさぼる日々に戻るんだ……。
何だかそう考えると、胸にポッカリ穴が空いたような気がするのは気のせいだよな?
オレが下層に降りると。ふんわりと全体がいい匂いに包まれていることに気づく。
途端に、お腹がぐううと鳴いた。
おいおい勘弁してくれよ。何が作られてるか分からないのに、匂いだけで美味しいと思うなよ。
そう腹の虫を嗜めるも、確かにいい匂いなのだ。
一体何作っているのやら。
リビングには白いテーブルクロスが引かれたテーブルがある。
椅子は四脚あるが、大きさはそれほどでもないので、四人座ったらかなりぎゅうぎゅうになりそうだ。
リビングの奥のキッチンで何やら作業している割烹着の背中を見つける。彼女だ
「ふんふんふん〜〜ふ〜ふふふ〜〜ん」
すごく上機嫌で鼻歌を歌っているみたいだ。
よく聞くとリズムよくトントンと何かを叩く音が混じっていた。
背中から見てるのでよく分からないが、左手で何かを抑え右手は上下に動いている。
「ふふふ。ユーちゃん美味しいって言ってくれるかしら? 喜んでくれるといいなぁ」
彼女はオレを喜ばせようと料理を作っているのが、その声音からでも十分に分かる。
きっと今は満面の笑顔なのだろうと容易に想像がついた。
けど残念。オレは美味しいなんて口が裂けても言ってやらないから。
オレがテーブルに近づくと、足音が聞こえたのか彼女がこちらを振り向いた。
「あらもう降りてきたの? もう少ししたら出来るからその時に呼ぼうと思ってたのに」
「うん。夕飯って聞いたらお腹空いちゃってさ居ても経ってもいられなくなって降りてきちゃった駄目だったかな」
頭の中で考えた台詞は完全に棒読みになってしまった。
こりゃ演技だとバレたな。
「あらまあ! ううん。そんな事ないわよ。おかあさんの料理期待してくれて凄い嬉しいわ! すぐ用意するから待っててね」
「……うん」
満開の花のような笑顔を見て、自分がこれから行う事への罪悪感で少し胸がチクリとした。
椅子に座って待つ事少し、彼女がお盆をオレの前に置く。
「はぁい、お待たせしました」
どんなゲテモノ料理が出てくるのか心して待っていたが、出てきたのは見た事のある料理ばかり。
小鉢に入ったひじき。
お椀には味噌汁。
鮭の塩焼きが乗ったお皿に。
そして山盛りのご飯。
少し地味な感じだが、その分とても懐かしい。
まるで長い事音信不通だった友達とバッタリ再会したような感じだ。
「そんなに食い入るように見ても、料理は食べれないわよ」
「分かってるよ」
箸を持ったところで、どれから手をつけるか考える。
目に止まったのは、鮮やかな紅色の切り身。
コンガリ狐色で表面に脂が染み出し、焼き立ての香ばしい匂い。
ぐ、ぐうううゥゥゥゥッ〜〜。
「…………」
めっちゃ腹が鳴った。これは絶対聞かれた!
恐る恐る彼女の方を見てみると……。
「ふふふ」
両手で頬杖ついて、そんな笑い声を上げていた。
けど、「そんなにお腹空いてるの」という感じではなく「おかあさんの作ったご飯でお腹を空かせてくれて嬉しいわ」と喜んでいる様子。
お腹の音聞かれてそんなに喜ばれると、それはそれで恥ずかしいんですが。
「ユーちゃんご飯が冷めちゃうわ」
「あ、ああ、そうだった」
そうだ。恥ずかしがっている時じゃない。
早く食べないと。
その時のオレは、目の前の優しい雰囲気の夕食を前にして、わざと不味いと言ってやろうと思っていた気持ちはどこかに吹き飛んでいた。
鮭の切り身に箸を入れると、中からトロリと脂が溢れてくる。
それだけで生唾が出てきた。
頭の中でそれを早く食え。食わないと絶対後悔するぞと喚き立てているようだ。
切り分けたそれを口に入れた途端、ほんのりの甘さと絶妙な塩加減、さらに脂がコクとなり、口の中で踊り回る。
あまりにも新鮮な感覚に口の中が軽くシビれる。
「どう美味しい?」
感想を聞かれたけれど、今は喋ってる場合じゃないのでとりあえず頷いておく。
「そう。良かった」
どうやら伝わったようだ。
右手で茶碗を持ち、照明を反射して艶めく炊きたてのご飯を口いっぱいに頬張る。
ご飯の柔らかな甘みと、鮭の旨味と塩味が一体となった。
うおおおおおおおおおおおっ!
長い間取っていなかった食事によって身体に熱いものが漲っていく。
「ユ、ユーちゃん?」
誰かに呼ばれているのも気にせずに、切り身を口に放り込み、ご飯をかっ込み、時々味噌汁で流し込み又切り身に手を伸ばすを繰り返す。
鮭が半分になったところで、お茶碗に乾いた音がカランと響く。
「あっ」
しまった。ご飯無くなっちゃった。
配分間違えた〜。うう、結構ショックだ。オレはこれからご飯なしで鮭の切り身を食べないといけないのか?
……そんなの虚しすぎる
「ユーちゃんお代わりいる?」
ご飯を失い傷心状態のオレに女神の声が聞こえてきた。
「い、今なんて?」
「お代わりしたいんでしょ?」
「な、なんで分かるんだよ!」
「だって、お茶碗が空になった途端、この世の終わりみたいなお顔するんだもん。すぐ分かったわ」
なんて事だ。そんなに顔に出ていたなんて。
「それで、お代わりする?」
少し首を傾げながらの彼女の問いに、オレは只々頷いてお茶碗を差し出すしか選択肢がなかった。
「はい。ちょっと待っててね。山盛りでいいわよね」
こちらの返事を待つ事なく、テーブルからキッチンに向かいそこにある炊飯器から、新しいご飯をよそってくれる。
戻ってきた彼女の手には、一杯目と同じかそれ以上に山盛りになった白米が。
「まだまだいっぱいあるから、たくさん召し上がれ」
その一言でオレのリミッターが弾け飛び、最初と変わらぬ、いやそれ以上の勢いで二杯目を平らげた。
切り身が三分の一になったところで、オレのお茶碗からに二回目の乾いた音が聞こえた。
彼女の方を見ると、「なーに?」と言いたげにこちらを見返してくる。
アレを言えというのか。恥ずかしい。
けど、食欲には抗えなかった。
「お、お代わり」
そんな一言を言っただけで顔が熱くなって、彼女の顔を見ていられない。
けれど予想外の反応が返ってきて、オレの心は一瞬にして氷点下まで下がる。
「はい。と言いたいところだけど、ユーちゃん残さず食べないとダメですよ」
残さず食べる?
何か残ってたか、味噌汁も飲み干し、お茶碗は空っぽだし、鮭は残ってるけど次のご飯のために取ってあるからだ。
他に何か残って……?
「こ・れ」
彼女の両手にあったのは小鉢だ。そこに入った黒い物体ひじきがオレの視界に入る。
「ひじきも食べないとダ〜メ」
「ええっ!」
正直、黒くてウネウネしたそれを口に入れようと思えない。
「いらないよ」
「なんで嫌なの?」
そういやなんでだろう。
聞かれて初めて、嫌いな理由を探してみることにした。
「……色が美味しそうに見えない?」
「あらまあ、お口に入れたことはないの?」
「うん」
少なくとも自分の記憶にはない。
「じゃあ、食べてみましょう」
彼女は一口分を箸で取ってオレの口へ。
「あ〜〜ん」
「いいよ。自分で食べるから!」
「あ〜〜ん」
全くこっちの言うことを無視して、笑顔でオレが口を開けるのを待っている。
このままじゃ、オレが食べるまでこの状態だ。
ええい。しょうがない。
オレは目を閉じて勢いよく口を開けた。
「はい」
スッとひじきが舌の上に置かれたのを感じて、ちょっと鳥肌を立たせながら口を閉じた。
彼女の取り分けた量は一口分より少し多く、飲み込めない。
どうやら、噛まずに飲み込もうとしていたのが見破られていたようだ。
「よぉく噛むんですよ」
言われるままに顎を動かすと、ジュワっと優しい味が口いっぱいに広がる。
あれ、美味しい……。
そのまま何度か噛み続けてるいるうちに、入っているのがひじきだけではないことに気づく。
噛むと汁が溢れ出す油揚げかな、これは豆だろうか、丸っこくて食べ応えのあるものも入っている。
そして細長くてほんのりと甘い何か。
飲み込んでからオレは口を開いた。
「んっ……これひじき以外にも何か入ってる?」
「ええ。油揚げに大豆、にんじんが入っているわ」
「見せて」
彼女から小鉢を受け取り、箸を入れてみると、確かに黒いひじき以外にも、茶や橙の具材が入っていた。
一口取って口に入れる。美味しい。もう一口もう一口と食べているうちに、小鉢は空になっていた。
「ちゃんと全部食べれたのね。えらいえらい」
ただ苦手だったひじきを食べただけで、頭を撫でられた。
「美味しかったから食べれたんだよ」
それを聞いてか、頭を撫でていた手が止まる。
「そう言ってくれて嬉しい。おかあさん作った甲斐があったわ」
ニコニコしながらオレの頭は撫でられ続ける。
恥ずかしいけど、正直嫌じゃなかった。
「も、もういいよ。それよりお代わり、欲しいんだけど」
「あっそうだった。すぐ持ってくるわ。大盛りでいいわよね」
オレが頷くと、彼女はルンルンとスキップするように炊飯器へ向かう。
何がそんなに嬉しいんだか。
そんなオレの疑問は、目の前に置かれた白く輝く山を見た途端に考える事をやめた。
頭の中はご飯を早く食べたいという事だけに集中したからだ。
さて三杯目を食べようと思ったところで視線に気づく。
見ると、彼女がこちらをニコニコしながら子供を見守るような視線を送ってくる。
「何?」
オレはご飯を口に入れながら問い掛ける。
「ん? 作ったご飯を美味しそうに食べてくれて、おかあさんとっても嬉しいなぁ」
彼女がオレの方に手を伸ばす。ほとんど不意打ちで反応できなかった。
「なんだよ!」
「ほっぺに、ごはんつぶ付いてたの」
オレの頰についてたご飯粒をそのままパクリ。
た、食べた!
「うふふ。美味しい」
そう言われると、滅茶苦茶恥ずかしいんですけど……。
「そ、そういえばさ」
「何かしらユーちゃん」
「あんたは食べないのか?」
よく考えたら食卓の上にはオレの分しかご飯がない。
彼女の前には何も置かれていないのだ。
「もしかして、オレが全部食べちゃった、とか?」
ふと、そんな不安が胸をよぎる。
「そんなことないわ。ちゃんとおかあさんの分は取ってあります」
ほっ、良かった。
「じゃあ、なんで食べないんだよ」
「ユーちゃんが食べ方忘れてないか気になってんだけど、大丈夫みたいね」
「もし、忘れてたら?」
「その時はおかあさんが食べさせてあげようと思ってたわ」
彼女に抱き抱えられながら「あーん」させられるところを想像してしまう。
ちょっと残念、って何が残念なんだよ!
「オレは一人でも食べれるって分かっただろ。もう見なくていいから食べてくれよ」
「おかあさんも一緒に食べていいの?」
「構わないよ……それに一人で食べるより一緒に食べた方がいい……あっ!」
また何言ってるんだオレは!
「あらまあユーちゃんったら。すぐ持ってくるわね」
彼女はまさしく電光石火の速さでに自分の分のご飯を持ってきた。
「いただきます」
食前の礼をした彼女は綺麗な所作でご飯を食べていく。
あまりにも流れるような美しさで、口元に食べ物が運ばれていき、艶めく唇が動く姿に目が離せない。
「うん。美味しく出来てる。あらどうしたの?」
ヤバイ見つめているの気づかれた。
「な、何でもない! うんうん美味しい!」
オレは恥ずかしさを紛らわすためにご飯を思いっきりかっ込んだ。
「ふふ。変なユーちゃん」
彼女もまた食事に戻っていく。
オレも自分の分のご飯に集中する。
食卓に会話はない。箸が動く音だけが聞こえるだけ。
けどそれがとても心地よい時間だった。
「プハー、めっちゃ食べちゃった。もう入らない」
自分のお腹をポンと叩く。
苦しくて動けないが、この身体の内側が満たされている感覚嫌いじゃないなぁ。
このまま瞼を閉じてしまいたい……。
ああ、駄目駄目! これから彼女の話を聞くんだから。
食器を洗う音がまるで子守唄のように聞こえてきて、どんどん目頭が重くなるのを止められない。
……ちょっとくらいならいいか。
そう、ちょっと目を閉じるだけ……。
☆☆☆☆
「ユーちゃんお待たせ……あらまあっ」
後片付けを終えたわたくしが戻ってくると、ユーちゃんはテーブルの上に突っ伏しています。
最初は具合が悪いのかなとも思い、近づいて様子を見ました。
近くで顔色を見てみると、血色は良くとても健康そうです。
それに呼吸も一定で穏やか。
どうやら眠ってしまったようですね。
「ユーちゃん、ユーちゃん」
声を掛けてみても反応がありません。
「す〜すぴ〜〜」
どうやらかなり熟睡してるみたいですね。
これはどうしましょう? このあと大切な話をする予定でしたのですが……。
起こすのも可哀想ですし、しょうがありません。
「ちょっとゴメンね」
わたくしはユーちゃんを起こさないよう慎重に、背中と柔らかい太ももの裏に手を入れて抱き抱えます。
両手の中で眠るユーちゃんは無防備で温かくて、まるで大きな赤ちゃんのよう。
「さあ、お部屋に行きましょうね」
ユーちゃんの部屋に戻ったわたくしは彼をベッドの上に寝かせます。
「うーーん」
ここまで移動しても起きる気配はありません。
可愛らしい寝顔、見てたら我慢出来なくなってしまいました。
起こしちゃったらごめんなさい。
心の中で謝りながら指を伸ばします。狙うは……。
ツン。
ユーちゃんのほっぺをちょっと突っついてしまいました。
「んーー?」
あらいけない。起こしてしまったかしら?
「んー」
健やかな寝息、夢の世界に戻ったみたい。
じゃあもう少し。
ツンツン。ツンツン。
ふふふ。いつまでも突っついていたいプニプニほっぺ。
「んん?」
あ、起きてしまったかしら……。
「ん、すーすー」
ほっ。
このまま寝かしてあげましょう。
お話はまた明日。
「お休みなさいユーちゃん」
身体が冷えないように毛布をかけ、電気を消してから部屋を後にしました。
さてと……あら、この気配は?
廊下に出ると、外に複数の気配を感じました。
しかもまっすぐこちらに向かってくるようです。
「ちょっとおかあさん出かけて来ますね」
寝ているユーちゃんに声をかけてから部屋のドアを閉めます。
わたくしは塔の玄関から外へ出ました。
吹雪は止み、厚い雲は何処かへ消え去り、満月が煌々と輝いています。
綺麗。そうだ。今度ユーちゃんとお月見しましょう。
確か地球ではそういう習慣がありましたものね。
でもその前に……。
こちらに近づいて来る気配をなんとかしないといけませんね。
わたくしは着ている服を手早く脱いで四次元空間にしまいました。
そして身体を元の姿に戻していきます。
あっという間に、わたくしの視界はユーちゃんの寝ている塔を見下ろす形となりました。
素肌に当たる夜風が心地いい。
けれど、この身体では彼を抱きしめることは出来ません。
この大きな体や鋭い爪では彼を傷つけてしまう。
早く済ませましょう。
わたくしは背中の翼を広げて、満月が漂う夜空へ飛び立ちます。
飛び上がってすぐに、雪の大地を進む黒い豆粒の集団を見つけました。
見つけました。
私はその集団の前方に勢いよく降りていきます。
着地の衝撃で、積もっていた雪が飛び散り、彼等を覆い隠します。
小さな彼等は、雪のベールを跳ね除けて、わたくしの姿を見つけて唖然とした顔をしています。
それはそうでしょう。わたくし達の姿を見たことのあるヒトは滅多にいないでしょうから。
「……! …………!!!」
何かを叫んでいるようですが、声が小さすぎて聞こえません。
それよりも気になるのは、集団の中で一人だけわたくしの姿を見て微動だにしないヒト。
全員が身体を守る鎧を着て剣や槍を持っているのに、その人物は黒いローブに身を包んでいて、他とは異なる雰囲気を纏っています。
例えると、狼の群れにその皮を纏った狩人が紛れ込んでいるよう。
なのに狼は誰一人気づいていないようです。
わたくしは彼等の頭に直接話しかけることにしました。
『貴方達の目的は分かっています。この先にいる勇者を再び封じようというのでしょう?』
いきなり声が聞こえたからでしょう。ヒューマン達は自らの頭を抑え、信じられないと言った顔をしています。
『彼は貴方達に危害は加えません。それはわたくしが保証しましょう。さあこのままお帰りなさい。そして王に伝えるのです』
ヒューマンの兵達は顔を見合わせて、口を動かしながら頷いているようです。
どうやら納得してくれたようですね。
たった一人を除いて……。
兵達は黒ローブに相談しているようです。
『そこの黒いローブの者。そう貴方です』
黒ローブはビクリと身を震わせて、こちらを仰ぎ見ました。
それでも影に隠れて顔は見えません。
『貴方、ヒトではありませんね』
その言葉を頭の中に送った途端、周りの兵を押しのけて黒ローブを脱ぎ捨ると、正体を露わにしました。
二本の足と腕に胴体。そこまではヒトとそっくりなのですが、肌は黒く、むき出しの血管が全身を駆け巡っています。
そして頭部は脳がむき出しになっていて周りのヒトの二倍の大きさがありました。
ヒューマンの兵達は初めて知ったのか、異様な姿を見た衝撃で動けないようです。
『やはり魔族……冥王の命令ですね』
魔族は何も答えずに脱兎の如く逃げ出しました。
逃がしません。
わたくしは逃げる背中に向けて小さく息を吐きます。
吐息は白炎となり、逃げる魔族だけを確実に焼き滅ぼします。
白炎が消えた後、残ったのは黒く焦げた地面だけでした。
『貴方達は早くお帰りなさい。そして冥王の魔の手はまだ退けられていないと皆に伝えるのです。そしてもう一度考えなさい。貴方達の敵は一体誰なのか』
ヒューマンの兵達は蜘蛛の子を散らすように回れ右をして逃げ帰っていきました。
いけない。大切な事を忘れてました。
『いいですか! 勇者は貴方達に危害は加えません。けれど、もし彼に危害を加えようとすればわたくし達は全力で相手をしますので、そのつもりでいてください!』
逃げる兵達から返事は聞こえませんが、頭の中に直接語りかけたので、大丈夫でしょう。
それにしても、まだ諦めていないのですね……。
わたくしは寒さの所為ではない身体の震えを抑えながら塔に戻りました。
一刻も早く、あの子の顔を見たかったのです。
入る前に玄関先で服を着てから、彼の部屋へ少し早足で向かいます。
扉の前で立ち止まり耳をすませると、部屋から規則正しい寝息が聞こえてきました。
良かった。外の騒ぎで起きてはいないよう……あら?
安堵したのもつかの間、苦しそうな唸り声を耳が捉えました。
どうしたのかしら?
わたくしは様子を確かめるために部屋の扉をあけて中へ。
「ユーちゃん?」
「うーん、ううー」
こちらの声に反応しません。どうやら眠ってはいるみたいだけど……。
「嫌だ、うー嫌だよぉ」
苦しそうに呻いているわ。
まさか、わたくしのいない隙に魔族が!
夢魔か何かが取り憑いている。とも思ったのですが、それらしい反応はありませんでした。
良かった。でも相変わらず、胸を掻き毟り、お顔にシワが寄ってとても苦しそう。
「嫌だ。ボクをそんな目で見ないで、一人ぼっちにしないでよ」
ああ、なんて事なの。
この子は夢の中でも、ずっと苦しんでいるのですね。
「ユーちゃん」
わたくしは、こちらに助けを求めるように伸ばされた左手を、両手でそっと包み込みます。
「ボクを、ボクを一人にしないで」
「一人じゃないですよ。これからはおかあさんがずうっと一緒」
閉じる瞼の隙間から流れる一筋の涙を拭いながら、そう声をかけ続けました。
「一人に、しないでぇ」
「はい。一人になんかしません。貴方のその心の亀裂、おかあさんが必ず埋めてあげますからね」
彼の左手を優しくさすってあげると、安心してくれたのか、寝顔から眉間のシワは完全に消えて、気持ち良さそうな寝息を立て始めました。
「お休みなさい。いい夢見てね」
左手を戻そうとしたのですが、彼はギュッとわたくしの手を握って離してくれません。
「あらあらまあまあ、おかあさんと離れたくないのかしら? 可愛い子」
わたくしは彼が満足するまでそこにいました。
えっ? 辛くないのかって?
何で辛いと思うことがあるのです?
可愛い我が子に必要とされているのに、それを拒む親なんていません。
たとえ種族が違っていても、です。




