第7話 |特防群《とくぼうぐん》
第7章「特防群」。
特防群という組織と、加藤がそこに至るまでの過去に触れていきます。
そして、蓮華の原点となった二足歩行重機を生み出した人物、荻野博士が登場します。
白い飛翔体と戦うための機体が、最初から兵器として生まれたわけではなかったこと。
その根にあった思想と、博士自身の危うさを描く章です。
特別防衛特務群という名前は、長すぎる。
だから、地上の者たちは特防群と呼んだ。
だが地下第七区画にいる者たちは、あまりその名を口にしなかった。
名前を呼べば、そこにあるものが少しだけまともに見えてしまうからだった。
防衛庁直轄、独立指揮系統、秘匿予算、特殊合金運用権限、干渉圏内対応装備の実験と整備と運用。書類にすれば、そう説明できる。
だが実際には、違った。
特防群は、行き場のないものを集める場所だった。
時代遅れと笑われた技術、正規部隊では扱えない機械、予算上存在してはいけない研究。そして、普通の部隊では置いておけない人間。
壊れたもの。
壊れかけたもの。
壊れたことを、まだ誰にも気づかれていないもの。
それらを地下へ沈め、鉄と油と紙の中で動かし続ける。
特防群とは、そういう場所だった。
白い飛翔体が成層圏へ上がった日の午後、防衛庁地下第七区画に新しい命令書が届いた。
紙は厚く、印は多く、文言は慎重だ。
華計画の段階的拡張。
蓮華運用部隊の即応態勢強化。
月華再試験に向けた安全性評価。
烈火軌道投入準備の前倒し。
特別防衛特務群の人員、機材、研究予算の増強。
きれいな言葉が並んでいた。
だが、命令書の最後には、きれいでない一枚が挟んであった。
観測部からの速報だ。
白い飛翔体の周囲、干渉圏の外縁が、ここ三日でわずかに広がっている。数値にすれば誤差のような幅だ。だが誤差は、これまで動かなかった。動かないものが動いた。それだけで、上は色を失う。
次の接近予測、二十六日後。
命令書の日付は、そこから逆算されていた。
黒崎仁陸将補は、その命令書を机の上に置き、しばらく眺めていた。
増強。
防衛庁の上層部は、よくその言葉を使う。
増やせば強くなると思っている。
人員を増やし、機材を増やし、予算を増やし、報告書の枚数を増やす。それで現実も増えた分だけ扱いやすくなると信じている。
だが黒崎は知っていた。
特防群で本当に増えるのは、責任だけだ。
それも、誰かが最後に背負う責任だけが増えていく。
「加藤を呼べ」
黒崎が言うと、副官は短く頷いた。
加藤一尉は五分後に司令室へ入ってきた。
早い。
呼ばれる前から、どこかで待っていたような速さだった。
「第1特務機械化隊、加藤一尉」
「入れ」
加藤は敬礼を解き、机の前に立った。
顔に疲労はある。
だが姿勢は崩れていない。
黒崎は加藤のそういうところを好ましいとは思わなかった。
立っていられる人間ほど、倒れる時に音を立てない。
「命令が来た」
黒崎は紙を渡した。
加藤は読んだ。
目だけが動く。
表情はほとんど変わらなかった。
「増強ですか」
「そう書いてある」
「実質は」
「全部を早めろ、だ」
加藤は紙を机に戻した。
「無理です」
「知っている」
「なら、どうします」
「無理なことを、できるように見せる」
黒崎は言った。
「その間に、本当にできることを一つずつ拾う」
加藤は黙っていた。
この地下では、まともな作戦ほど嘘に近くなる。
まともでない作戦ほど、現実に近くなる。
「蓮華班に追加人員を入れる」
黒崎は続けた。
「整備、解析、操縦候補、通信、医療。各部隊から引き抜く。お前のところにも回す」
「選別は」
「こちらでやる」
「問題児が来ますね」
「来る」
「今でも十分です」
「足りん」
黒崎は加藤を見た。
「今の蓮華班は、お前、奥山、伊藤の三人が動けるから成立している。だが、それでは作戦にならない。記録にも、量産にも、再現性にもならない」
「人間を増やせば再現性が出るとは限りません」
「それでも増やす」
「誰が乗るんです」
「乗れる者だ」
「乗りたい者ではなく」
「乗りたい人間は落とす」
黒崎は短く言った。
加藤はほんのわずかに目を細めた。
「昔、同じことを言われました」
「荻野か」
その名前が出た時、司令室の空気が少し変わった。
荻野。
荻野誠一。
二足歩行重機の生みの親。
華計画の最初の花を、まだ花と呼ばれる前に作った男。
加藤は机の上の命令書を見た。
白い紙。
黒い文字。
その整い方が、ふいに潮の匂いを思い出させた。
地下第七区画ではあり得ない匂い。
湿った風。
錆びた鉄。
島の発電機。
そして、油にまみれた白衣の男。
その島は、一般の地図に載っていなかった。
伊豆諸島のさらに南、港が一つしかない小さな火山島。表向きは気象観測施設で、実際には防衛庁技術研究本部の外部実験場だった。研究員たちは篠籠島と呼んでいる。
波と風と発電機の音が絶えない島で、二十世紀の終わりに一体の奇妙な重機が作られた。
災害対応用高機動作業機。書類上の名前は長い。現場では誰もそう呼ばず、鉄脚で通っていた。
開発者の荻野誠一は、その呼び名には怒らない。
ただ、人型ロボットと呼ばれると不機嫌になった。
「ロボットではない」
荻野はよくそう言った。
「あれは、人間が歩くための拡張だ。機械に人間を真似させるんじゃない。人間の弱さを、機械で地面へ逃がすんだ」
その頃の加藤は、まだ二尉だった。
若く、荒く、怒りを隠すのが下手だ。
部隊では、扱いにくい男として知られていた。
命令違反はしない。
成績は悪くない。
体力もあり、判断も速い。
だが、危なかった。
危険を計算するのではなく、危険の方へ体を寄せる。
誰かが躊躇する一拍を、彼は待たない。
演習では先に出すぎる。
実弾訓練では詰めすぎる。
部下がついてこられない速さで動き、上官が止めるより先に状況を壊す。
勝てる。
だが、隣に置きたくない。
そういう兵士だった。
篠籠島へ送られた時、加藤は懲罰に近い異動だと思った。
実際、半分はその通りだ。
もう半分は、誰にも言えない選抜だった。
島へ着いた初日、加藤は格納庫の中で鉄脚を見た。
全高は四メートルを少し超える。
胴体は箱に近く、腕は細く、脚だけが異様に太い。膝関節はむき出しで、油圧管が束になり、ワイヤーが黒く光っている。装甲は薄く、見た目は兵器というより、建設現場から逃げ出してきた機械だった。
その機体が、格納庫の中央で一歩を踏み出す。
床が鳴った。
加藤は思わず笑った。
馬鹿げている。
そう思った。
戦車の方が強い。
装甲車の方が速い。
ヘリの方が便利だ。
人間の形に近づけた機械など、被弾面積を増やしただけの失敗作に見えた。
「笑ったな」
背後から声がした。
白衣を着た男が立っている。
白衣は白くなかった。
油と錆とインクで汚れている。
髪は乱れ、眼鏡は古く、靴は安全靴だった。
研究者というより、整備工場の頑固な親方に見えた。
「荻野所長ですか」
「博士と呼べ」
「博士」
「今の笑いは、良い笑いだ」
加藤は眉をひそめた。
「馬鹿にした笑いですが」
「だから良い。最初から感動する者は、だいたい乗せると死ぬ」
荻野は機体を見上げた。
「夢を見ている人間は、機械の限界を見ない。限界を見ない人間は、限界の向こうで潰れる」
「では、なぜ作ったんです」
「限界のこちら側で踏みとどまるためだ」
荻野は格納庫の床を杖で叩いた。
杖ではない。
長いスパナだ。
「車輪は速い。履帯は強い。翼は遠くへ行ける。だが、どれも地面を選ぶ。人間の足は遅い。弱い。すぐ折れる。それでも、最後に瓦礫の隙間へ入っていくのは足だ」
加藤は何も言わなかった。
「私は、足を作っている」
荻野は言った。
「強い足ではない。戻ってくる足だ」
加藤は黙って聞いていた。
「ただし、足だけでは迷う」
荻野は格納庫の外へ目を向けた。海の向こうに、かすかな灯りが見えていた。
「帰る場所を照らすものがいる。灯台のようなものが。それは、まだ作れていない」
篠籠島の研究所では、電子制御がよく壊れた。
「潮風、火山灰、湿気、落雷、古い発電機。壊す理由ならいくらでもある」
荻野はそう言って、壊れた基板を机に投げた。
「便利なものは、便利なまま死ぬ。だから、死んだ時に殴って直せる余地を残しておけ」
鉄脚の制御系は、時代遅れの塊だった。
光学式の姿勢確認。
油圧。
機械式リンク。
ワイヤー。
足裏の圧力を針で示す計器。
操縦者の肩、肘、膝、腰の動きを拾う、窮屈な操縦殻。
それらを見て、加藤は最初にこう言った。
「戦場では使えません」
荻野は嬉しそうに頷いた。
「よく分かっている」
「なら、なぜ防衛庁が金を出しているんです」
「防衛庁にも、たまに賢い馬鹿がいるからだ」
「意味が分かりません」
「君のような男を島へ寄こす連中だ」
加藤は黙った。
荻野は笑った。
「怒るな。怒っている時の君は判断が速すぎる」
「判断が速いのは悪いことではありません」
「そうだ。だが速すぎる判断は、周りを置いていく」
加藤は荻野を見た。
初対面からまだ一時間も経っていない。
なのに、この男は平然と踏み込んでくる。
「私の隊の話ですか」
「君の足の話だ」
「足」
「君は歩くのが下手だ」
加藤は返事をしなかった。
荻野は続けた。
「走るのはうまい。飛び込むのもうまい。壊すのもうまい。だが歩くのが下手だ。歩くというのは、片足を上げている間、もう片足で世界を支えることだ。君はすぐ両足を宙へ放り出す」
加藤はその言葉を笑えなかった。
馬鹿げている。
だが、的外れではなかった。
最初の搭乗試験で、加藤は鉄脚を転ばせた。
一歩目ではない。
八歩目だった。
七歩までは順調だった。
いや、順調に見えた。
加藤は機体の重心を掴むのが早い。油圧の遅れも、リンクの遊びも、足裏の圧も、すぐに理解した。操縦殻の中で体を少し傾けるだけで、鉄脚は不格好ながら前へ進んだ。
研究員たちは驚いた。
荻野は驚かない。
八歩目で、加藤は歩幅を伸ばした。
機体は反応した。
反応しすぎる。
右脚が床を噛み、左脚が遅れ、胴体がわずかに捻れる。加藤はそれを力で押さえ込もうとした。油圧が唸り、ワイヤーが張り、計器の針が跳ねた。
次の瞬間、鉄脚は膝から崩れた。
床へ倒れる音は、格納庫全体を震わせた。
操縦殻の中で、加藤は額を打った。
血が流れた。
外から研究員が叫ぶ。
安全装置が作動する。
荻野がハッチを開けた。
「生きているか」
「生きています」
「なら良い」
「良くありません」
「機体は壊れたが、君は壊れていない」
加藤は血の味を感じながら、荻野を睨んだ。
「機体の心配はしないんですか」
「する。だが機体は直せる」
「人間も治療できます」
「治療と修理は違う」
荻野は加藤の額へ布を押し当てた。
その手は、研究者の手ではなかった。
何度も機械を分解し、何度も指を切った者の手だ。
「君は速い。だから危ない。鉄脚は君の速さについていこうとする。だが機械は、ついていけない時に壊れる。人間も同じだ」
「説教ですか」
「違う」
荻野は言った。
「選抜だ」
加藤は息を止めた。
「君のような男が必要になる。普通の機械なら、君は乗せてはいけない人間だ。だが、この機械には向いているかもしれない」
「転ばせたのに」
「転んだ後、起きようとした」
「当然です」
「当然ではない」
荻野は、倒れた鉄脚を見た。
「多くの人間は、倒れた機械の中でまず言い訳を探す。君は足を探した。どこを踏めば起きられるかを探した。それは才能だ」
加藤は何も言えなかった。
褒められた気はしない。
むしろ、何かを見透かされた気がした。
——一尉。
声が、記憶の底を破った。
副官が、司令室の入口に立っている。加藤は、自分がまだ命令書の前に立っていたことを思い出した。ほんの数十秒。潮の匂いは、もう鉄と埃の匂いに戻っている。
「観測部から追加です。干渉圏外縁、また揺れました。今度は南寄りに」
「幅は」
「前回より、少し」
少し。
その少しが、二十六日を二十五日に削る。
加藤は命令書を置いた。置いても、時間は止まらない。
止まらないから、また島へ戻った。
篠籠島での訓練は、奇妙だった。
射撃より歩行。
速度より停止。
突入より後退。
撃破より回収。
荻野は、加藤に何度も戻る訓練をさせた。
崩れた斜面を三歩上がり、二歩戻る。
瓦礫の上で片足を上げ、十秒止まる。
重い荷を持ち上げるより先に、荷を下ろす場所を決める。
救助対象を担ぐより先に、自分の足場を作る。
加藤は苛立った。
「前へ出る訓練はしないんですか」
「している」
「戻ってばかりです」
「戻れない前進は、ただの落下だ」
荻野は平然と言った。
加藤は、その言葉を嫌った。
嫌ったから覚えた。
ある日、島に嵐が来た。
海は黒く、風は発電機の音を引き裂いた。観測塔の窓が割れ、港のクレーンが傾き、斜面の一部が崩れた。研究所の外部倉庫へ続く道が土砂で塞がれ、二人の整備員が取り残された。
救助車両は出せない。
ヘリは飛べなかった。
夜だった。
雨で視界はほとんどない。
荻野は鉄脚を出した。
加藤は操縦殻へ入った。
「訓練ではありません」
研究員の一人が言った。
「知っている」
荻野は答えた。
「だから訓練が要る」
鉄脚は雨の中へ出た。
ライトはすぐに死んだ。
電装系が水を吸う。
だが脚は動いた。
針は揺れ、油圧は唸り、ワイヤーは軋んだ。
加藤は何度も前へ出ようとした。
崩れた斜面の上に、整備員の声がある。
急げば助かる。
そう思った。
だが足場が崩れる。
焦れば鉄脚ごと落ちる。
落ちれば、整備員だけでなく自分も、後続も、全て失う。
戻れない前進は、ただの落下だ。
荻野の声が、頭の中で鳴った。
加藤は一歩戻った。
戻って、左脚を深く入れた。
アウトリガーを打ち込む。
固定。
右脚を上げる。
荷重を移す。
また戻る。
また踏む。
前へ進むために戻る。
それを繰り返した。
救助には四十分を要している。
加藤の感覚では、四時間だった。
二人の整備員は生きていた。
一人は脚を折り、もう一人は低体温で震えていた。
鉄脚の腕で二人を抱え、加藤は斜面を降りた。
戻り道の方が怖かった。
抱えている命が増えた分だけ、機体は重くなった。
自分が転べば、全部終わる。
それでも戻った。
格納庫へ入っても、研究員たちは拍手しない。
そんな余裕はなかった。
医療班が走り、荻野が機体の脚を見て、誰かが泣いていた。
加藤は操縦殻から出た。
体が震えていた。
寒さではない。
恐怖だった。
自分が失敗すれば、人が死ぬ。
その当たり前のことを、加藤はその夜初めて本当に知った。
荻野は、加藤に乾いたタオルを投げた。
「どうだった」
加藤は答えられなかった。
「怖かったか」
加藤は頷いた。
荻野は満足そうに言った。
「なら、乗れる」
その後、島の鉄脚は防衛庁の別計画へ吸収された。
災害対応用高機動作業機という名は、書類の奥へ消える。
特殊合金が入った。
装甲が厚くなる。
兵装がついた。
光学照準が加わる。
操縦殻は狭くなり、油圧は強くなり、脚はさらに太くなった。
名前も変わった。
蓮華。
荻野は、その名前を聞いた時、長く黙っていた。
「花か」
彼は言った。
「誰が考えた」
「上です」
加藤は答えた。
「上の人間は、血の匂いをごまかす名前をつけるのがうまい」
荻野はそう言って、蓮華の膝関節を叩いた。
「だが、悪い名ではない」
「嫌いではないんですか」
「花は地面から生える」
荻野は言った。
「空から降ってくるものではない」
加藤は、その時は意味を深く考えなかった。
今なら分かる。
荻野は、最初から空を信用していなかった。
飛ぶものではなく、戻るものを作っていた。
二年後、篠籠島の研究所は閉鎖された。華計画の中枢が本土地下へ移されたためだ。
研究員の多くは地下へ移り、残りは散った。
荻野は残った。
最後の日、加藤は島の港で博士を見た。
白衣ではなく、古い作業着を着ていた。
潮風で髪が乱れている。
足元には木箱が二つ。
中には図面と工具と、手書きのノートが入っていた。
「博士は地下へ行かないんですか」
「行く」
荻野は言った。
「だが、その前に島を閉める」
「研究所はもう空です」
「機械は空でも、場所は空にならない」
荻野は港の向こうを見た。
格納庫の屋根が見える。
あの中で鉄脚が歩いた。
加藤が転んだ。
整備員が救われた。
何人もの研究員が徹夜し、失敗し、罵り合い、笑い、油の中で眠った。
場所には、そういうものが残る。
「加藤」
荻野は言った。
「君は、まだ壊す方が得意だ」
「知っています」
「だが、戻ることを覚えた」
「少しは」
「なら、いつか部下を持て」
加藤は顔をしかめた。
「向いていません」
「向いている者に任せると、たいてい失敗する」
「ひどい理屈です」
「人を率いるのは、得意な者がやる仕事ではない。怖さを知った者がやる仕事だ」
荻野は木箱の上に手を置いた。
「君は、自分が速すぎることを知っている。壊せることも知っている。だから、止まる理由を持てる」
「理由がなければ」
「壊す」
荻野は即答した。
加藤は笑わなかった。
「博士」
「何だ」
「蓮華は、兵器になります」
「もうなっている」
「人を殺します」
「そうだ」
「それでいいんですか」
荻野は、すぐには答えなかった。
波が岸壁に当たる。
海鳥の声が遠くで聞こえる。
島の発電機は、もう止まっていた。
「よくない」
荻野は言った。
「だが、よくないものを誰かが作る時、作った者が最後まで見ていなければならない」
「責任ですか」
「責任という言葉は便利すぎる」
荻野は首を振った。
「私は、自分の足がどこへ行くのか見たいだけだ」
加藤はその言葉を忘れなかった。
忘れたくても、忘れられなかった。
現在。
防衛庁地下第七区画の格納庫で、加藤は蓮華一号機を見上げていた。
篠籠島の鉄脚とは、もう似ていない。
装甲は厚く、腕は強く、携帯型滑腔砲を扱えるよう肩部フレームは補強されている。膝関節には特殊合金の覆いがつき、足裏には干渉圏での滑りを抑えるための爪が増えた。
兵器だった。
誰が見ても、もう救助機械とは呼ばない。
それでも、歩く時の音だけは似ていた。
床を踏む音。
重さを地面へ逃がす音。
戻ってくるために、足場を探す音。
「隊長」
奥山が声をかけた。
顔色はまだ悪い。
だが医務室からまた抜け出してきたらしい。
加藤は振り返らなかった。
「戻れと言ったはずだ」
「戻りましたよ。一回」
「一回では足りない」
「僕もそう思います」
奥山は一号機を見上げた。
「追加人員が来るって本当ですか」
「本当だ」
「まともな人ですか」
「まともなら、ここへは来ない」
「ですよね」
奥山は納得したように頷いた。
その納得の仕方が、加藤には少し気になった。
「お前は、自分をまともではないと思っているのか」
「思ってますよ」
奥山は即答した。
「まともな人間は、怖い怖い言いながら蓮華に乗りません」
「怖いと言えるなら、まともだ」
「それ、隊長の基準ですよね」
「荻野博士の基準でもある」
奥山が首をかしげた。
「博士?」
「蓮華の祖父のような人だ」
「父じゃなくて」
「父と呼ぶには、本人が嫌がる」
「面倒くさそうな人ですね」
「そうだ」
加藤は少しだけ口元を緩めた。
奥山はそれを見逃さなかった。
「隊長、笑いました?」
「笑っていない」
「今のは笑った寄りです」
「医務室へ戻れ」
「はい」
奥山は返事だけして動かなかった。
沈黙が少しだけ続いた。
格納庫では整備員たちが働いている。二号機の砲架は交換され、三号機のブースターには新しい補強材が当てられている。遠くで榊原が誰かを怒鳴り、伊藤が静かに何かを指摘し、指摘された整備員がさらに静かに青ざめていた。
その忙しなさには、理由があった。
いま、まともに立てるのは一号機だけだ。二号機は砲架の途中、三号機のブースターは試験段階。作戦の窓は二十五日後。その日までに何機立たせられるか。数えるたびに答えが減る。
増やせと命令書は言う。地下の現実は、減らないように支えるだけで精一杯だった。
特防群。
問題児の集まり。
行き場のない者たち。
だが加藤は、そこに別のものも見ていた。
怖がりながら残る者。
嫌がりながら資料を開く者。
壊れた機械を直す者。
届かないと知っていて、紙テープの線を追う者。
それらは、壊れたものではない。
壊れやすいものだった。
壊れやすいものが、それでも踏みとどまっている。
荻野なら、きっとそう言う。
「奥山」
「はい」
「特防群は、強い者の部隊ではない」
奥山は加藤を見た。
「では、何の部隊ですか」
加藤は一号機の足元を見た。
重い足。
遅い足。
空を飛べず、海を渡れず、ただ地面を踏むための足。
「戻るための部隊だ」
奥山はしばらく黙った。
それから小さく言った。
「それなら、僕にも少し分かります」
「分かるだけでいい」
「できるかは別ですか」
「できるようにする」
加藤は言った。
「そのために隊がある」
同じ頃、地下第三区画の旧滑走試験室では、伊藤が蓮華三号機の前に立っていた。
手には月華の事故記録。
もう一方の手には、ブースター改修案の紙。
榊原が隣に立っている。
「無茶です」
榊原は言った。
「分かっています」
「蓮華三号機は月華を回収するための機体ではありません」
「今は」
「今も、今後もです」
「飛べるものが帰れないなら、帰れないものを迎えに行く機体が必要です」
榊原は返事をしなかった。
反論はいくつもある。
推力不足。
接続機構の未整備。
干渉圏内での機体姿勢。
搭乗者への負荷。
月華側の暴走。
そして何より、そんな任務が発生した時点で作戦は失敗している。
だが、失敗した作戦から人間を帰すことも、戦争の一部だった。
「荻野博士なら、何と言うでしょうね」
榊原がぽつりと言った。
伊藤は資料から目を上げた。
「会ったことがあるのですか」
「一度だけ。地下へ移る前に」
「どんな人でした」
「嫌な人でした」
榊原は即答した。
「こちらが隠したい誤差を、全部見つける人でした」
「技術者としては正しい」
「人間としては面倒です」
伊藤は少しだけ頷いた。
「なら、信用できます」
榊原は三号機を見上げた。
「博士は、いつも帰り道の話をしていました」
「帰り道」
「ええ。新しい機構を提案すると、まず訊くんです。壊れたらどう戻す、と。止まったら誰が押す、と。操縦者が泣いたら、誰が降ろす、と」
伊藤は黙った。
「泣く前提ですか」
「泣かない前提で設計するな、だそうです」
伊藤は月華の資料を閉じた。
荻野という男に、まだ会ったことはない。
だが少しだけ分かった気がした。
空を飛ぶ機械を作る者たちは、しばしば空へ行くことを考える。
荻野は、地面へ戻ることを考えた。
その思想が、蓮華の鈍い足の中に残っている。
「榊原技官」
「はい」
「博士は今どこに」
榊原は、わずかに表情を曇らせた。
「第零格納庫です」
「第零?」
「地下第七区画のさらに下です」
「聞いたことがありません」
「知らされていないからです」
伊藤は榊原を見た。
「何をしているのですか」
榊原は答える前に、周囲を見た。
誰も近くにいない。
それでも声を落とした。
「蓮華でも月華でも烈火でもないものを見ています」
「新型ですか」
「いいえ」
榊原は言った。
「最初の一機です」
夜。
黒崎は司令室で、古い内線電話を取った。
地下深くへ直接つながる回線だった。
呼び出し音は三度。
四度目の途中で、相手が出た。
『何だ』
老人の声だった。
低く、かすれ、ひどく不機嫌そうだ。
黒崎は少しだけ息を吐いた。
「荻野博士」
『博士と呼ぶなと言った覚えはない。だから呼べ』
「相変わらずですね」
『相変わらずで済むなら、まだ壊れていないということだ』
黒崎は机の上の命令書を見た。
華計画の段階的拡張。
人員増強。
月華再試験。
烈火軌道投入準備。
きれいな言葉。
壊れやすい現実。
「上が急がせています」
『上はいつも急ぐ。地面を見ていないからだ』
「干渉圏の外縁が揺れています。観測部は、次の窓が近いと」
『窓か』
荻野は鼻を鳴らした。
『上は、扉が開くと思っている。開くのは、こちらが手を伸ばせる時間の幅だけだ。伸ばした手が戻るところまで数えて、初めて窓と呼べる』
黒崎は返事をしなかった。
その通りだった。
「蓮華班に追加人員を入れます」
『加藤に任せろ』
「簡単に言いますね」
『難しく言っても同じだ』
黒崎は受話器を握り直した。
「博士。月華を再試験します」
電話の向こうが、少しだけ静かになった。
換気扇の音が聞こえる。
紙をめくる音もした。
『誰が決めた』
「政府です」
『政府は脳を操縦殻に入れない』
「分かっています」
『分かっている人間は、たいてい止められない』
黒崎は返事をしなかった。
その通りだった。
『加藤は』
「命令に従うと言っています」
『それだけか』
「帰す、と」
電話の向こうで、荻野が小さく笑った。
笑いというより、錆びた金属が擦れるような音だった。
『なら、少しは歩けるようになった』
「昔は違いましたか」
『あれは走っていただけだ。走るのは逃げる時と壊す時に役立つ。人を連れて戻る時には、歩くしかない』
黒崎は黙って聞いた。
『黒崎』
「はい」
『特防群を強くするな』
黒崎は眉をひそめた。
「どういう意味です」
『強い部隊にしようとすると、弱い者を捨てる。弱い者を捨てた部隊は、干渉圏で最初に壊れる』
「では、何を目指せと」
『怖がる者を残せ。嫌がる者を残せ。帰りたい者を残せ』
荻野の声は、いつになくはっきりしていた。
『帰りたい者だけが、帰り道を見る』
黒崎は受話器を耳に当てたまま、しばらく動かなかった。
その言葉は、命令書のどの行よりも重かった。
「博士」
『何だ』
「第零格納庫の機体は」
『まだ足が痛い』
「機械に痛みはありません」
『ある。作った者には分かる』
荻野は不機嫌そうに言った。
『あれは、まだ歩ける』
電話は切れた。
黒崎は受話器を置いた。
第零格納庫。
篠籠島から移された、最初の二足歩行重機。
蓮華の祖父。
華計画の根。
今は、地下のさらに下で眠っている。
いや、荻野の言葉を借りれば、痛みに耐えている。
加藤は、その夜、蓮華一号機の足元でしばらく立っていた。
格納庫には、機械の冷える音だけがあった。
加藤は一号機の脚に手を触れた。
冷たい。
だが、完全な冷たさではない。
整備されたばかりの油圧管には、まだわずかな熱が残っている。
「戻るぞ」
加藤は小さく言った。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
蓮華に。
奥山に。
伊藤に。
これから来る、まだ顔も知らない問題児たちに。
あるいは、篠籠島の嵐の中で震えていた若い自分に。
地下の天井の向こうでは、白い飛翔体が空を進んでいる。破壊不能なものとして。二十五日後、その白がどこまで近づいてくるのか、まだ誰も本当には知らなかった。
加藤は目を閉じた。
床の下のどこかで、古い鉄の足がまだ眠っている。荻野博士が作った、最初の一機。華計画の根。
その根が地面を掴んでいるから、花は咲く。戻るために。
その夜、奥山は訓練校時代の古い教材映像を見た。
B-MAX使用例。
資料上は、成功例。
映像の中で、若い加藤の蓮華は確かに速かった。
速すぎた。
敵味方識別の旗が倒れ、模擬標的が砕け、停止命令の赤い発光信号が何度も点滅する。
それでも蓮華は止まらなかった。
奥山は再生を止める。
画面の中の加藤は、勝っていた。
勝っているのに、帰ってきていなかった。
奥山は、自分の手が震えていることに気づいた。
この震えは、弱さではない。
たぶん、止めるための最後の線だ。
特防群を「強い者たちの特殊部隊」ではなく、「怖がりながらも戻ろうとする者たちの場所」として描きました。
荻野博士は、蓮華という機体の技術的な原点であると同時に、加藤の現在の指揮にも深く影響している人物です。
第6章で伊藤が抱え始めた「帰還」への執着とも、少しずつ重なっていきます。
彼は単なる善良な開発者ではなく、月華にも関わり、精神接続の危険を自分の身で知ってしまった人物でもあります。
その壊れ方が、今後の華計画にどう影を落とすのかも描いていく予定です。
次章では、奥山に焦点を当てます。
怖いと言い続ける彼が、なぜ蓮華に乗り続けるのか。
その弱さと危うさに踏み込んでいきます。




