第15話 疑心
第3部「人類自滅」、始まります。
飛翔体は何もしていません。ただ「戻ってくる」という一文だけで、人間同士が壊れていく。
荻野博士のいる篠籠島で何が起きたのか。作戦コードN000001――敵が、初めて人間の判断になります。
勝利が割れた後、最初に聞こえた音は警報ではなかった。
紙をめくる音だった。
防衛庁地下第七区画、第二作戦室。
長机の上には、各国から送られてきた緊急報告が積み重なっていた。国境紛争、輸送路の封鎖、観測データの秘匿疑惑、臨時政権の樹立宣言、軍港での発砲、避難民列車の襲撃――そのどれもが、白い飛翔体による直接被害ではなく、人間が人間を疑い、人間へ向けて銃口を上げた記録ばかりだ。
飛翔体は戻ってくる。
その一文だけで世界中の国家が、自分たちの持っている食糧、燃料、弾薬、観測装置、技術者、そして未来を数え始め、数え始めた瞬間に、人類は一つではなくなった。
加藤一尉は報告書を読んでいた。目は文字を追っているのに、文字の奥にある人間の顔ばかりが浮かんでくる。燃料タンクを守る兵士、鉄道橋の上で止められた避難民、首都から遠ざけられた子ども――飛翔体へ向けるために集められたはずの力が、地上でゆっくりと向きを変えていく。
人類を救うために作られた兵器が、人類を脅すための言葉になる。
加藤は紙を置いた。
指先が汚れていた。インクではない。蓮華一号機の修理区画でついた油が爪の間に残り、洗っても落ちなかった。
それが妙に安心できた。少なくとも油は、嘘をつかない。
「各国共同観測網、再編要求を拒否」
榊原洋介技官が読み上げた。声はいつもより低い。
「北米連合は、白い飛翔体の再接近角度を独自解析すると発表。欧州共同防衛機構は、華計画の詳細開示を日本政府へ要求。アジア沿岸三国は、蓮華量産計画の国際管理を提案。提案という名の接収です」
黒崎司令は作戦室の正面で腕を組んでいた。
「提案と書いてあるなら、まだ外交文書だ」
「撃つと書かれるまでは、ですか」
「撃つと書く前に撃つ国もある」
榊原は黙った。反論ではなく、事実を飲み込むための沈黙だった。
報告には、まだ続きがあった。
大陸連合は共同観測網から距離を置き、独自の追跡と独自の防衛行動を進めていた。備えを最初に終えた国が、最も強い発言権を持つ。飛翔体が戻るなら、恐怖そのものが交渉の材料になる。
北米連合は支援と引き換えに、華計画の技術者と観測記録への立ち入りを求めていた。同盟の名を借りた監視だと、榊原の報告書の隅に小さく書かれている。大きく書けば、それは告発になる。
海に面したアジアの国々は割れていた。避難の海路も港も、大国の艦隊が通れば廊下に変わる。緩衝地帯に置かれた国は、守られる代わりに、真っ先に差し出される。
飛翔体は、まだ遠い。それでも地上では、飛翔体を逸らした力の奪い合いがもう始まっていた。
奥山凪三尉は作戦室の隅に座っていた。医療区画から戻されたばかりで、顔色はまだ悪い。搭乗服ではなく、灰色の整備服を着ている。襟元が少し乱れていたが、誰も直せとは言わなかった。
奥山は報告書を読んでいない。読まなくても、分かるのだろう。怖いものは紙の中にある前から、空気の中に滲む。
伊藤二尉は壁際に立っていた。腕を組み、目を閉じている。眠っているようにも見えるが、加藤は伊藤が眠っていないことを知っていた。
彼は、音を聞いている。
紙の擦れ、靴の軋み、通信卓の低い唸り、換気ダクトの風、そして誰かが呼吸を止める一瞬まで――空を飛んでいた人間は、見えないものを音で測る癖がある。
「烈火からの続報は」
加藤が訊いた。
榊原は首を横に振った。
「信号は継続しています。ただ、復号可能な情報は減っています。真壁二佐の生存確認は、最後に取れた手動入力から六時間前です」
「帰還軌道は」
「未確立」
その言葉が作戦室に落ちた。勝利の翌朝から、同じ響きが何度も落ちている。未確立、未確認、不明――人間は、分からないものに耐えるのが下手だ。白い飛翔体に耐えられなかったように、黒い烈火が帰れるか分からないことにも、やはり耐えられない。
だから、分かるものを探す。敵、犯人、裏切り者、撃てる相手を。
黒崎が言った。
「次の議題へ移る」
作戦室の照明が一段落ちた。正面の表示盤に、暗い海と小さな島の地図が映る。
篠籠島。東京から南へ約二百キロ。古い火山島で、外周に漁港と町があり、中央部の山腹に研究施設がある。蓮華の祖父である鉄脚が生まれた場所であり、荻野誠一博士の研究所がある島だった。
加藤の背中に冷たいものが走った。
「篠籠島研究所から、全通信が途絶した」
黒崎の声は淡々としていた。
「途絶前、島内自警組織と研究所警備班が、政府派遣監査団を拘束。島内の港湾、空港、通信施設を封鎖。篠籠島町役場は、現在機能していない」
榊原が続ける。
「研究所から発信された最後の通信です」
表示盤に古い映像が出た。画質は粗い。
荻野博士が映っていた。
白衣は相変わらず汚れている。眼鏡の片方に傷があり、髪は伸び、頬はこけている。ただ、目だけが異様に澄んでいた。
加藤はその目を知っていた。まともな時の荻野の目だ。だからこそ、怖かった。
『政府は、人を帰す設計を捨てた』
荻野の声が作戦室に流れる。
『華計画は、白いものを追い払った。だが戻る。戻るなら、上はまた同じことをする。月華を深く繋ぎ、烈火を帰さず、蓮華を人間相手に使う。必要という言葉で、人間を壊す』
奥山が小さく息を止めた。
『篠籠島研究所は、本時刻をもって完全封鎖する。鉄脚系列、蓮華系列、月華関連、ならびに二足歩行重機の基礎開発資料は、研究所管理下に置く。政府にも、軍にも、同盟国にも渡さない』
荻野は画面の向こうで、誰かを睨むように顔を上げた。
『加藤』
作戦室の空気が変わった。加藤は動かなかった。
『お前が来い。お前が来ないなら、蓮華は全部、ただの鉄の足になる』
映像はそこで切れた。
沈黙。
誰もすぐには言葉を出さなかった。
奥山が恐る恐る言った。
「博士は……内乱を起こした、という扱いですか」
黒崎は答えた。
「政府見解では、武装占拠および反乱行為だ」
「政府見解では」
「俺個人の感想は、作戦命令に含まれない」
奥山は視線を落とした。
「博士、生きていますよね」
榊原は表示盤を操作した。島の上空映像が映る。雲の切れ間から見えるのは灰色の町で、港には漁船が停泊したまま動かず、道路には車列があるのに人影は少ない。
研究所へ続く山道に、黒い点が並んでいた。
点は、動いていた。
丸い。球体に、二本の脚が生えている。
胴体は完全な球ではなく、装甲板で覆われた丸い殻だった。左右に短い作業腕が折り畳まれ、下部から逆関節の脚が伸びている。頭部はない。球殻の正面に、細い光学窓が一つだけ走っていた。
それらは無人で歩いていた。ぎこちなくはない。むしろ滑らかすぎる。人間が恐怖や迷いで止まる瞬間を持たない歩き方だった。
「全自動型ボール型二足歩行重機」
榊原が言った。
「研究所内での呼称は不明。災害地形調査用の無人脚部ユニットを、警備用途へ改造したものと推定されます。外部からの電子制御ではなく、光学認識と機械式制御を組み合わせた自律行動。飛翔体干渉下でも最低限動く設計です」
伊藤が目を開けた。
「最低限ではない」
榊原が振り向く。
「見ただけで分かるのか」
「歩幅が揃いすぎている。足裏の接地が蓮華より綺麗です。あれは試作品ではない。博士は、前から作っていた」
加藤は表示盤を見続けた。黒い球体が、山道を守っている。研究所の門の前にも、発電施設の周辺にも、港湾倉庫の屋根にも。島全体が、丸い鉄の番人に囲まれている。
「もう一つあります」
榊原が映像を切り替えた。町の上空、商店街の屋根より少し高い位置に、銀灰色の機体が浮かんでいた。
ヘリでも固定翼でもなく、月華ほど美しくもなかった。
胴体は薄く、腹部から複数の円盤状フィンが垂れ、尾部には羽根とも推進器とも言えない構造が揺れている。機体は音もなく、ゆっくりと町中を漂っていた。飛んでいる、というより、浮遊している。
伊藤の表情が初めて変わった。
「月華ではない」
「断定できるか」
「月華なら、もっと嫌な姿をしています」
奥山が小さく言った。
「嫌な姿で分かるんですか」
「分かる」
伊藤は目を細めた。
「ただ、近い。月華の姿勢補助リンクと同じ思想が入っている」
榊原が次の資料を出す。
「そして、問題があります」
表示盤の中央に赤字が出た。
月華一号機、所在不明。
奥山の顔から色が消えた。
「所在不明って」
「第零格納庫から搬送中に、記録が途絶しました」
榊原の声は硬かった。
「政府側の輸送記録では、月華は防衛庁地下第七区画へ戻される予定でした。しかし中継輸送庫で停電。その後、機体識別信号が消失。現時点で月華一号機の位置は確認できていません」
「盗まれたんですか」
「盗難、秘匿移送、内部協力、あるいは荻野博士による事前工作。全て未確認です」
「未確認ばっかりだ」
奥山の声が震えた。
「未確認ばっかりじゃないですか」
三枝真帆二尉はいない。医療区画に戻っている。だから、奥山の肩を支える人間はいなかった。
加藤は立ち上がった。
「奥山」
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「そうか」
加藤は頷いた。
「俺もだ」
奥山が顔を上げた。伊藤も加藤を見る。黒崎は何も言わない。
加藤は表示盤の中の篠籠島を見た。
荻野がいて、博士は反乱を起こし、月華は消えた。無人の球体重機が島を守り、謎の飛行型機体が町を漂い、白い飛翔体は戻ってくる。烈火はまだ帰れず、世界は互いを疑っている。
怖くないはずがない。
それでも、怖いと認めることだけは、まだ人間の側に残っている。
通信卓のランプが点いた。女性の声が流れた。
『第1特務機械化隊、加藤一尉、奥山三尉、伊藤二尉。こちら統合作戦通信、白瀬凛三尉』
若い声だった。だが、震えていない。震えないように訓練された声ではなく、震えながら、それを通信に乗せない声だった。
『これより、統合幕僚監部特別命令を伝達します』
黒崎が手を上げた。作戦室の全員が立った。奥山も少し遅れて立つ。
『作戦コード、N000001』
白瀬三尉の声が地下の作戦室に響いた。
『作戦目的。篠籠島の状況探査、ならびに荻野誠一博士の安否確認。副目的として、島内研究施設に保管された二足歩行重機関連開発資料、鉄脚系列、蓮華系列、月華関連資料、無人自律重機運用データの保全を行う』
加藤はN000001という番号を心の中で繰り返した。
N。国内。人間。おそらく、そういう意味だった。
飛翔体相手の作戦ではない。敵が白いものではなく、人間の判断であることを示す番号だった。
『交戦規定。民間人保護を最優先。研究所警備勢力および自律重機への発砲は、自己防衛および民間人保護に必要な場合に限定。荻野博士の殺害は禁止。拘束は、状況により許可』
奥山が小さく呟いた。
「殺害禁止って、言葉にしなきゃいけないんですね」
伊藤が答えた。
「言葉にしないと、必要という言葉が勝つ」
白瀬の通信は続く。
『投入戦力。第1特務機械化隊、蓮華一号機、二号機、三号機。各機、現地踏査装備へ換装。B-MAX搭載機は一号機および予備二号機。ただし、B-MAX使用には黒崎司令および加藤一尉の二重承認を要する』
奥山が動きを止めた。伊藤の目も細くなる。加藤は表情を変えなかった。ただ腹の底が重くなる。
B-MAX。
その名前は、地下第七区画でほとんど口にされない。蓮華の量産計画に組み込まれていた短時間過負荷機構で、数分間だけ、蓄電、油圧、筋節補助、熱交換系を限界まで解放し、機体性能を三倍近くまで引き上げる。走行速度も、腕部出力も、跳躍力も、反応も、全てが上がる。
ただし、乗る人間も同じ速度へ引きずられる。機体が速くなるのではない。人間の恐怖、怒り、判断、痛みが、機械に合わせて焼かれるのだ。
使用者には精神障害を起こす可能性がある。資料に書かれた冷たい表現だ。
実際には、もっと単純だった。
戻ってこられなくなるかもしれない。
『詳細な航路、揚陸地点、通信規約は、出撃前ブリーフィングで提示します。以上』
通信が切れた。作戦室はすぐには動かなかった。
黒崎が加藤を見た。
「質問は」
「ありません」
加藤は答えた。
奥山が顔を上げた。
「隊長」
「何だ」
「B-MAX、積むんですか」
加藤は少しだけ間を置いた。
「命令上は」
「命令上じゃなくて」
奥山の声は震えていた。逃げるための震えではない。
「隊長は、積むつもりですか」
加藤は奥山を見た。奥山は怖がっている。その怖がり方が過去の自分を少しだけ思い出させた。
自分は、あんなふうには怖がれなかった。怖いと言えなかった。だから、別のものになった。
「積む」
加藤は言った。
奥山の唇が白くなった。
「使うかは別だ」
「別って、でも」
「島には民間人がいる。無人重機もいる。謎の飛行型もいる。月華がどこにあるかも分からない。選択肢を減らして行けば、死ぬのは俺たちだけではない」
「選択肢って便利ですね」
奥山は言った。その言葉は荻野博士の言葉と似ていた。必要という言葉で、人間は自分を壊す。
加藤は否定しなかった。
「便利だ」
「怖いです」
「分かっている」
「違います」
奥山は首を横に振った。
「B-MAXが怖いんじゃないです。隊長が怖いんです」
作戦室の空気が張りつめた。榊原が目を伏せる。黒崎は動かない。伊藤だけが奥山を見ていた。
加藤は奥山の言葉を受け止めた。当然だ。奥山は、知っている。加藤がB-MAXを使った唯一の搭乗者であることを。
精神障害は起こさなかった。資料にはそう書かれている。
成功例。生還例。機体損耗率七割。任務達成。
だが資料は、壊れた建物の匂いを書かない。味方車両を踏み潰した音を書かない。止まれと叫んだ整備員の声を書かない。加藤一尉が、あらゆるものに対して見境なく攻撃を続け、甚大な被害を出した過去を書かない。
精神障害は起こさなかった。だから何だ。
人間の形のまま、人間でないことをした。それを、障害ではないと誰が決めた。
「奥山」
加藤は静かに言った。
「その話は、俺からする」
「いえ」
奥山は加藤を見た。目が赤い。泣きそうなのではなく、怖さを逃がさないために目を開いている。
「僕が話します」
加藤は止めなかった。
奥山は作戦室の床を見た。それから、言葉を探しながら話し始めた。
「B-MAXの最初の実戦使用は、六年前の八丈沖災害対応試験。記録上は、孤立した作業員の救出と、暴走した無人クレーンの制圧です」
伊藤が目を閉じた。榊原は書類を握る。その場にいる全員が、記録の続きを知っていた。だが、奥山の声で聞くのは初めてだった。
「加藤隊長は、B-MAXを使用しました。精神接続系は正常。認知機能検査も、作戦後の記録では異常なし。だから、B-MAXの危険性は限定的だと評価された」
奥山は息を吸った。
「でも、違う」
加藤は六年前の海の匂いを思い出した。
潮、燃料、焦げたゴム、水面に浮かぶ鉄片。自分の手ではない巨大な手が、敵も味方もなく掴み、引き裂き、叩きつけていた。
あの時、自分は何も失っていなかった。判断もあった。記憶もある。だから最悪だった。
狂っていたからではない。正気で、止まれなかった。
「隊長は壊れなかった」
奥山は言った。
「でも、止まらなかった。全部が敵に見えた。救助対象のコンテナも、味方の投光車も、倒れたクレーンの影も。隊長は、誰も死なせないために出たのに、あらゆるものを攻撃した。甚大な被害が出た。死者は出なかったって、記録には強調されてます。でも、死ななかった人たちは、壊れました」
奥山の声が少し途切れた。
「僕は、その映像を見ました。訓練校で。教材として。成功例として」
加藤は目を閉じた。
成功例。その言葉は、銃弾より長く人を傷つけることがある。
「僕は、あれを見て、蓮華に乗りたくないと思いました」
奥山は笑おうとして、失敗した。
「でも、乗りました。たぶん、怖かったからです。あんなものを、怖くない人だけに任せたら駄目だと思ったから」
作戦室に換気の音だけが残った。
加藤は奥山を見た。
臆病者。誰かがそう呼び、荻野も呼び、本人もそう思っている。だが、怖がりながら正しい場所に立つ人間は、時に誰よりも強い。
加藤は自分にはそれができなかったことを知っている。
「よく話した」
加藤は言った。
奥山は首を横に振った。
「褒めないでください。怖くて喋っただけです」
「怖くて喋れるなら、十分だ」
伊藤が壁から離れた。
「B-MAXを積むなら、使用条件を増やすべきです」
黒崎が訊く。
「案は」
「搭乗者単独判断での起動禁止。司令承認、隊長承認に加え、同隊機一名の否認権を設定。通信途絶時は、民間人救助または味方機救出のための瞬間使用に限定。対象識別が三秒以上維持できない場合、自動遮断」
榊原が眉をひそめる。
「自動遮断は技術的に難しい」
「なら手動遮断線を外部に出してください。二号機か三号機から切る」
奥山が顔を上げた。
「それ、切ったら隊長の機体、止まるんですか」
「止まる。最悪、倒れる」
「島で倒れたら」
「死ぬかもしれない」
伊藤は加藤を見た。
「それでも、止められないよりましです」
加藤は頷いた。
「採用する」
黒崎は榊原へ言った。
「整備班に回せ」
「了解」
榊原は記録を書き始めた。その手つきに、少しだけ熱が戻っていた。
設計に落とせ。荻野博士の言葉が、加藤の中で響く。怖さも、罪も、後悔も、願いも、設計に落とさなければ、次も人は壊れる。
作戦室の表示盤には、篠籠島が映っている。島の町を、謎の飛行型機体がゆっくりと流れていく。商店街のシャッター、止まった軽トラック、港の錆びたクレーン――その下に、人がいるかもしれない。
研究所の奥に、荻野博士がいるかもしれない。月華が、どこかで眠っているかもしれない。あるいは、もう誰かに乗られているかもしれない。
疑う材料はいくらでもあった。政府を、荻野を、研究所を、消えた月華を、B-MAXを、そして加藤自身を疑える。
だが疑うだけでは、島へは行けない。
加藤は作戦室の全員へ向き直った。
「作戦コード、N000001。第1特務機械化隊は、篠籠島へ向かう」
奥山が小さく頷いた。伊藤は何も言わず、表示盤の飛行型機体を見ている。榊原は整備班への指示を書き始めた。
黒崎は加藤の顔を見ていた。上官の判断と、古い戦友の疲労。その両方が同時にある目だ。
「加藤」
「はい」
「荻野を連れて帰れ」
命令ではない。頼みでもない。その中間の、重い言葉だった。
加藤は答えた。
「帰します」
数時間後。
篠籠島沖合上空。
大型輸送機の貨物区画で三機の蓮華が降下架台に固定されていた。
外は夜ではなくなっていた。島の空が赤紫に燃えている。
篠籠島の町の一部から煙が上がり、港湾区画では何かが爆ぜる光が見えた。封鎖された島は、沈黙した研究所ではなかった。すでに戦場になっていた。
輸送機の中は、常に熱地獄だった。装甲の内側へ、エンジンの熱と機体振動が染み込んでくる。ひび割れた小型キャノピーの向こうで、赤い警告灯が激しく明滅していた。
DANGER。油圧低下。姿勢補助異常。外部航法途絶。
アナログ計器の針が狂ったように振れている。
蓮華は電子機器に頼らない。だが、頼らないことと、何も失わないことは同じではない。
空輸機そのものの誘導が崩れれば、蓮華はただの鉄塊になる。落ちる方向を間違えれば、町を潰す。降下に失敗すれば、海に沈む。
そして作戦開始から二十分後、失敗判定が出れば、篠籠島には戦術核が撃ち込まれる。白い飛翔体へまだ使われていない、人類最後の汚れた選択肢。それを、国内の島へ向ける準備が進んでいた。
通信回線が割れる。ノイズの向こうから、白瀬凛三尉の声が入った。
『……第1特務機械化隊、聞こえる!?』
統合作戦通信室で、白瀬はヘッドセットを強く押さえていた。顔はひどく白い。
彼女の視界を覆っているのは、かつての鮮明なデジタル映像ではなかった。ノイズ混じりのホログラフィック・ワイヤーフレーム地図。地形や都市の情報が、途切れ途切れの緑色の線で空間に浮き上がっている。山の稜線は時々欠け、港の輪郭は砂嵐のように崩れ、研究所へ続く道路だけが、不自然なほど鋭く点滅していた。
白瀬の指先が機械式のパッチパネルを激しく踏み換える。接続。切断。再接続。片耳から聞こえる雑音が、神経を紙やすりで削るように鳴っていた。
『誘導、航法、共にロスト! これより本職の目視によるアナログ信号でナビゲーションを行う! 死ぬな……死ぬんじゃないよ、パイロット!』
命令の最後だけ、声が人間に戻った。白瀬は通信の雑音の向こうで、生きている人間の名前を呼び続けた。
『加藤一尉、応答! 奥山三尉、応答! 伊藤二尉、応答!』
蓮華二号機、重武装型。その操縦殻で、奥山は額のゴーグルを跳ね上げた。目の端が白くなっている。
脳内麻薬が過剰に出ているのだと、医療区画で教えられた。恐怖を鈍らせるために身体が勝手に薬を作る。ありがたい仕組みのはずなのに、今はその白さが怖かった。怖さまで薄くなったら、戻れなくなる。
奥山は呼吸を数えた。一つ。二つ。三つ。数えられるものにしがみつく。
操縦桿を握った手が汗で滑った。彼は部隊内無線の送話レバーを押し込む。
「隊長! うまくいきますよね、これ……!」
声は悲鳴に近かった。だが、悲鳴でも通信に乗れば、隊の声になる。
一号機、指揮官仕様。加藤は座席に身体を沈め、油圧レバーへ手を置いていた。目が違っていた。
防衛庁地下で見せる沈着冷静な隊長の目ではない。若い頃、狂犬と呼ばれた男の目だった。都市の硝煙と、B-MAXの記憶と、荻野博士の声が、その奥で燃えている。
『ばーか、俺がいるんだから成功しないわけねーじゃねえか!!』
加藤の怒鳴り声が三機の操縦殻に響いた。
奥山はほんの少しだけ笑いそうになった。乱暴で、無茶で、根拠がない。それなのに、人間の声だった。
『さっき説明したとおり、伊藤と俺が研究所に侵入して資料を奪取する! 伊藤、大丈夫だな!?』
三号機。高機動ブーストユニットを背負った蓮華の操縦殻で、伊藤は暗いキャノピー越しに島の空を見ていた。手は、ブーストユニットの起動レバーに置かれている。
機体の背部に追加された飛行補助ユニットは、月華のような翼ではない。空を制するためのものでもない。地上で這い回る蓮華を、短時間だけ無理やり空へ投げるための泥縄の装備だった。
伊藤はそれでも笑った。
『ふっ……』
冷たく、しかし確かな笑い。
『なんの問題もありません。初の飛行タイプのユニットテストが、こんな泥縄の作戦なのが残念ですよ。空自のエースを、これ以上地上で這いまわらせないでほしい』
『まぁ、仕方ねーだろ、上の命令なんだからよ!』
加藤が油圧レバーを叩きつける。金属音が一号機の回線から漏れた。
『ついでに、あの謎の飛行物体も倒せるかもしれねえぞ!』
「な、何言ってるんですか! 地上にある兵器じゃ不可能だって、ユニオンランスで分かったじゃないですか!」
奥山が叫んだ。当然の正論だった。
白い飛翔体は、ユニオンランスを無力化した。月華でさえ、触れることはできなかった。島の町を浮遊する謎の機体が、飛翔体と同じものかは分からない。だが、分からないからこそ怖い。分からないものへ、地上の兵器で挑むなど無謀だった。
『ばーか、まだわからねえぞ』
加藤の声が低くなった。
『人類はまだ……核をまともに使ってねえんだからな』
奥山の喉が詰まった。
「作戦開始から二十分で、この島に核を撃ち込むなんて……もし作戦が失敗したら、僕たちは……!」
『失敗させねえよ』
加藤は即答した。強がりではない。自分の恐怖を、命令の形に叩き潰した声だった。
『行くぞ!』
輸送機の後部ハッチが手動ワイヤーで巻き上げられた。外気が爆発のように流れ込む。
暴風。硝煙。赤紫色の空。その向こうに、篠籠島の燃える市街地が広がっていた。
白瀬の声が最後の誘導を叫ぶ。
『降下角、手動補正! 合図で落ちろ! 第1特務機械化隊、蓮華班、今!』
加藤が吠えた。
『蓮華班、降下!!』
固定架台が外れた。三機の鉄塊が大型輸送機の腹から落ちる。
飛ぶのではない。墜ちるのでもない。質量そのままに、戦場へ向かって降りる。
赤紫の空の下、蓮華一号機、二号機、三号機は、燃える市街地へ落下していった。
着地は、成功というより衝突だった。
蓮華一号機の脚部緩衝器が悲鳴を上げ、アスファルトを砕いた。二号機は右膝をつき、重武装の肩部装甲で路肩の軽トラックを押し潰す。三号機は高機動ブーストユニットを短く噴かし、商店街のアーケードをかすめながら姿勢を立て直した。
地面が揺れた。窓ガラスが残っていた建物から、一斉に破片が落ちる。
奥山の操縦殻に警告音が重なった。左脚部負荷過大。肩部装甲接触。弾薬ラック固定異常。
「着地って言いましたよね!? 今の、落下事故じゃないですか!」
『生きてるなら着地だ』
加藤が言った。
その直後、白瀬の声が割り込んだ。
『前方路地、複数反応! 光学捕捉、来る!』
路地の向こうから鉄の足音が近づいてきた。最初は一つ。すぐに十を超えた。
瓦礫を踏み、燃えた看板を押し倒し、折れた電柱の影から現れたのは、丸い胴体を持つ無人ロボット部隊だった。
球体に近い装甲殻、下部から伸びる二本の脚、折り畳まれた短い作業腕。正面には、ピンク、あるいは赤色に妖しく光る単眼センサーが一つ。
その単眼がぬるりと動いた。人間の目ではない。だが、見るという行為だけは、あまりにも人間に似ていた。
「ピンポン野郎……」
奥山が呟いた。
誰がつけた呼称かは分からない。だが、球形の胴体と、路地を跳ねるように進む脚の動きは、そのふざけた名前を嫌でも思い出させた。
ふざけた名前なのに、笑えない。
電子が死んだ世界で、なぜ彼らが動くのか。考える暇はなかった。
単眼センサーが不気味に左右へ振れ、三機の蓮華を順に捉える。次の瞬間、先頭の一機が装甲殻の側面を開いた。小口径の機関砲が、花の蕾のようにせり出す。
『散れ!』
加藤が叫ぶより早く、火線が走った。赤い曳光が蓮華一号機の胸部装甲を叩いた。
金属音。火花。衝撃。
奥山の二号機にも破片が雨のように降りかかった。
「撃ってきた! 撃ってきました!」
『報告しなくても分かる!』
加藤の一号機が前へ出た。盾ではない。隊長機の厚い肩装甲を、無理やり盾として使った。
『伊藤、右へ回れ! 奥山、民家側へ撃つな! 路地だけ塞げ!』
『了解』
「了解、したくないけど了解!」
ピンポン野郎の進軍には、人間特有の躊躇いが一切なかった。負傷者を探す仕草もない。警告もない。恐怖もない。ただ機械的に、障害物を排除するためだけに、鉄の足音を近づけてくる。
蓮華を敵と認識したのか。それとも、島へ入った全てを障害物と見なしているのか。答えは、単眼の赤い光の奥にしかない。そして、その奥には人間がいない。
加藤は操縦桿を押し込んだ。
『蓮華班、交戦開始!』
蓮華の設計思想。歩くこと。戻ること。怖がること。荻野博士が教えたものが、今、荻野博士自身を捕らえている。
人を帰すための足が、人を閉じ込めるために使われている。
加藤は油の残った指を握った。
白い飛翔体は、まだ遠い。だが人類の崩壊は、もう地上にいる。それは巨大でも、白くもない。
作戦命令書、封鎖された島、消えた月華、丸い無人重機、必要という言葉。そして、疑心という、最も人間らしい毒。
加藤たちは、その中へ歩いていく。
蓮華の鉄の足で。
まだ、戻るために。
お読みいただきありがとうございます。
第15章「疑心」でした。
華計画の勝利が崩れた直後から、世界は飛翔体より先に人間同士の不信で軋み始めます。
荻野博士の研究所封鎖。月華の行方不明。島を守る無人の二足歩行重機。そしてB-MAX。
「人を守る技術」だったはずのものが、使い方次第で人を閉じ込める道具に変わっていきます。
奥山が語った加藤隊長の過去は、今後の大きな火種です。
次章では篠籠島への降下後、封鎖された町に踏み込んでいきます。




