第10話 |月華《げっか》
第10章。いよいよ月華が本格的に登場します。
蓮華が「戻るための足」なら、月華は「戻れなくなる空」に近い機体です。
荻野博士、伊藤、三枝、奥山たちが、その美しさと危険性に向き合います。
月華は、美しかった。
そのことが、まず危険だった。
蓮華は、美しくない。重く、鈍く、油の匂いを引きずって、床を踏むたびに建物ごと鳴らす。肩は厚く、脚は太く、操縦殻は狭い。あれは人間を守るための機械というより、人間を鉄の内側へ押し込めて、それでも歩かせるための機械だった。
月華は、その反対の顔をしていた。
格納庫の暗がりで、ほとんど音も立てずに吊られている。全高は蓮華より低く、腕も脚も細く、装甲は削れるだけ削られていた。その機体の線は、地面へ荷重を逃がすためではなく、空気と波動のわずかな隙間へ滑り込むためだけに引かれている。
背には、翼に似た何かがあった。
複数の特殊合金製フィンと手で角度を変えられる空力板、そして精神接続系と連動する姿勢補助リンク——固定翼でも推進器でもない、名前のつけにくい構造物だった。
見る者によっては、それを花弁と呼ぶ。
見る者によっては、刃と呼ぶ。
伊藤二尉は最初に見た瞬間、どちらでもないと思った。
あれは、逃げ道を持たない翼だ。
地下第零格納庫は、防衛庁地下第七区画の、さらに下にある。
公式な図面には、どこにも載っていない。
古い整備用昇降機で二層分降り、手動ロックを三つ外し、湿ったコンクリートの通路を進んだ先。空気は冷え、照明は乏しく、壁のところどころに潮に似た白い結晶が浮いていた。
地下なのに、海の匂いがした。
篠籠島から運ばれた機材が、長い時間をかけてこの空気を作ったのかもしれない。あるいは、荻野誠一博士が持ち込んだ何かが、まだ乾ききっていないのかもしれない。
加藤一尉は、そんなことを考えた。
彼は黒崎司令、伊藤、榊原技官、奥山、三枝真帆二尉とともに、第零格納庫へ入った。
奥山は、入口で一度足を止めた。
「ここ、入って大丈夫な場所ですか」
「許可は出ている」
黒崎が言った。
「許可が出ている場所ほど怖い時があります」
「正しい」
「正しいって言わないでください」
三枝は奥山の横で格納庫の奥を見ていた。
彼女は何も言わない。
ただ、指先が少しだけ動いている。医療者の目だった。機械ではなく、そこに乗るはずの人間の方を先に探している。
榊原は手元の紙束を抱え直した。
「第零格納庫、入室者記録。黒崎司令、加藤一尉、伊藤二尉、奥山三尉、三枝二尉、榊原」
「俺は記録される側か」
黒崎が言った。
「ここでは全員です」
榊原は短く答えた。
格納庫の奥で、古い工具が床に落ちる音がした。
誰かが悪態をつく。しわがれた声だった。
「記録なら、俺の死亡時刻も先に書いておけ。どうせ上の連中はその欄が好きだ」
奥山が小さく言った。
「怖い人の声がします」
「本人に言うな」
加藤は言った。
「言いませんよ」
「聞こえているぞ、臆病者」
声が返ってきた。
奥山は硬直した。
格納庫の奥から、白衣の老人が出てきた。
白衣は、もう白くなかった。油、インク、錆、焦げ跡、それに何か分からない黒い染みが生地全体へ染み込んでいる。髪は伸び、眼鏡は古く、片方のレンズには細い傷が走っていた。右手には杖を持っている。
杖ではない。
長いスパナだ。
荻野博士は、加藤を見た。
「まだ歩いているな」
「博士も」
「俺は歩いていない。引きずっているだけだ」
荻野は奥山を見た。
「お前が二号機か」
「奥山です」
「二号機だろう」
「人間の名前から始めていただけると助かります」
「助かりたいのか」
「常に」
荻野は少しだけ笑った。
「なら、乗れる」
奥山は加藤を見た。
「隊長、この人もそういう基準なんですか」
「そういう基準を作った人だ」
「最悪ですね」
「聞こえていると言った」
「すみません」
荻野は次に伊藤を見た。
目つきが変わった。
さっきまでの皮肉混じりの目ではない。機械を見る目——いや、壊れた機械の中に、まだ残っている人間を探す目だった。
「三号機」
伊藤は表情を変えなかった。
「伊藤です」
「三号機だ」
「人間の名前から始める気はないようですね」
「名前は後で剥がれる。機体番号は残る」
「人間としては不快です」
「技術者としては正しい」
伊藤は黙った。
荻野は近づき、伊藤の肩ではなく、背中のあたりを見た。
「火を背負う気か」
「必要なら」
「必要、か。便利な毒だ」
荻野は月華の方を見た。
「必要という言葉で、人間はたいてい自分を壊す」
第零格納庫には、二機があった。
一つは月華。
もう一つは、奥の暗がりに膝をついた、古い二足歩行重機だった。
蓮華ではない。
鉄脚。
篠籠島から移された、最初の一機。胴体は箱に近く、腕は細く、脚だけが不釣り合いに太い。装甲は薄く、膝関節はむき出しのまま、油圧管とワイヤーが古い血管のように表へ這っていた。
蓮華の祖父。
華計画の根。
その機体が、格納庫の奥で眠っている。地面を掴むために作られた古い足と、地面から引き剥がされた未完成の神経が、同じ屋根の下に並んでいる——それが、ほとんど悪い冗談のように見えた。
通路の奥で、鉄扉が鳴った。
伝令が一枚の紙を持って階段を降りてくる。
黒崎が受け取り、目を落とした。表情は動かない。動かないことが、答えだった。
「観測班からだ」
黒崎は紙を畳んだ。
「干渉圏が、昨夜からまた広がっている。止まっていない。次の接近予測が、二日早まった」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
榊原がペンを止める。
荻野だけが、月華を見上げたまま鼻を鳴らした。
「上は、月華を急がせるなよ」
「もう急がせている」
黒崎は短く言った。
「だろうな」
荻野はスパナで床を一度だけ叩いた。
時計の音に、少し似ていた。
「月華の説明を」
黒崎が言った。
荻野は嫌そうに顔をしかめる。
「説明は榊原にさせろ。あいつは壊れていない」
「博士の言葉で必要です」
「俺の言葉は報告書に向かない」
「だから必要です」
荻野は黙った。
そして、月華を見た。
目が細くなる。
憎しみとも、愛着とも、嫌悪とも違う。自分が作ってしまったものを見る、名前のない目だった。
「月華は、飛行機ではない」
荻野は言った。
「蓮華でもない。重機でもない。兵器と呼ぶには、まだきれいすぎる。だが道具と呼ぶには、人間を食いすぎる」
奥山が小さく息を呑んだ。
「精神接続式高機動空戦機」
榊原が補足した。
「電子制御を排除した結果、操縦者の脳を演算装置として使用します。身体所有感、前庭感覚、視覚補正、運動予測を機体姿勢へ直結し、飛翔体干渉波の微細な変動に反応する」
「簡単に言うと」
奥山が言った。
「人間の脳で飛ぶ」
伊藤が答えた。
「もっと嫌な言い方になりました」
「正確です」
荻野はスパナで床を叩いた。
「正確ではない。人間の脳で飛ぶならまだましだ。月華は、人間の脳に機体を生やす」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
荻野は続けた。
「腕を動かす。脚を動かす。人間は、それが自分の身体だと疑わない。月華はその疑わなさを利用する。翼を腕だと思わせる。推力を筋肉だと思わせる。姿勢変化を体の傾きだと思わせる。干渉波の痛みを、自分の皮膚のざわめきだと思わせる」
三枝の顔が、わずかに強張った。
「それは、解除できるのですか」
荻野は彼女を見た。
「衛生科か」
「三枝二尉です」
「解除はできる。問題は、人間が解除された後も自分の身体を覚えているかだ」
三枝は黙った。
伊藤は、破壊不能の検証資料を読んだ時のことを思い出していた。右腕を自分のものと認識できなくなった被験者。帰還不能。報告書の、あの冷たい文字。
その文字が、今は月華の白い機体の表面に、うっすら浮かんで見えた。
月華の初期試験記録は、紙では足りていなかった。
紙テープ、手書きのログ、音声記録の書き起こし、医療記録、被験者の発話、隔離観察室の看護メモ——すべてが箱に詰められ、第零格納庫の壁際へ積み上げられている。
榊原は、その一つを開いた。
「初期試験、第三十二回。被験者、荻野誠一」
奥山が思わず荻野を見た。
「博士が乗ったんですか」
「乗った」
荻野は簡単に言った。
「なぜ」
「俺が作ったからだ」
「それ、理由になりますか」
「ならん。だが理由にした」
榊原は読み上げた。
「接続深度、二十。被験者、正常応答。接続深度、三十五。左上肢の延長感を報告。接続深度、四十八。背部フィンを自己身体の一部として認識。接続深度、五十二。飛翔体干渉波模擬入力開始」
荻野は黙っていた。スパナを握る手だけが、少し強くなる。
「接続深度、六十。被験者、皮膚感覚の外部拡張を報告。接続深度、六十八。被験者、格納庫天井を『近い』と発言。実際の月華は固定架上で停止」
「天井が近かった」
荻野が言った。
全員が彼を見る。
「あの時、俺は吊られていた月華の中にいた。だが同時に、格納庫の天井へ腕を伸ばしていた。腕ではない。翼だ。いや、翼でもない。皮膚だった」
彼の声は、そこだけ少し遠かった。
「天井の錆びたボルトが見えた。いや、見えたんじゃない。触った。触ったのに、目で見ていた。目ではなかった。月華のフィンだ。フィンが目で、皮膚で、指だった」
三枝が一歩近づいた。
「博士」
「分かっている。今はここだ」
荻野は床をスパナで叩いた。
金属音。
一度。
二度。
三度。
「ここだ」
彼はもう一度言った。
それは、周囲へ向けた言葉ではない。自分を地面へ戻すための、手順だった。
奥山は、その音を聞いていた。
怖い時ほど、足元を見る。怖い時ほど、声を出す。荻野博士も、何かをしている。壊れた人間にも、戻るための手順がある——そのことが奥山には、ひどく怖く、それでいて少しだけ救いに見えた。
榊原は続きを読んだ。
「接続深度、七十二。被験者、飛翔体干渉波模擬入力に対し、追従反応を示す。接続深度、七十五。被験者、自己身体境界の混濁。接続深度、七十八。強制遮断」
紙をめくる音がした。
「遮断後、被験者は三分間、自分の右脚を認識できず。五分後、格納庫内の月華を『まだ私の背中にある』と発言。十二分後、通常会話に一部復帰。ただし以後、断続的な身体拡張錯覚、睡眠障害、時間感覚の混濁、機体との同一化発言を確認」
榊原は読み終えた。
誰も笑わない。
荻野は月華を見上げていた。
「俺は戻った」
彼は言った。
「完全には戻らなかったが、戻った。だから記録になった。戻らなかった者は、記録の中でしか喋れん」
黒崎が低く言った。
「死亡者は」
「いない」
榊原が答えた。
少し間を置いて、続ける。
「ただし、日常生活へ完全復帰できなかった被験者は、複数います」
奥山が小さく言った。
「それ、死亡者がいないって言っていいんですか」
荻野が奥山を見た。
「いい質問だ」
「褒めないでください。怖いです」
「怖がれ。正しい」
月華の操縦殻は、蓮華よりも広かった。
それなのに、伊藤には狭く見える。
理由は、すぐに分かった。蓮華の操縦殻は、人間を鉄に閉じ込める。月華の操縦殻は、人間の内側へ、機体の方を入れてくる。
座席は深く、背面には神経接続用の多層リンクがあった。頭部固定具、首筋の接触端子、脊椎沿いの圧力センサー、両腕両脚へ伸びる細い拘束帯。電子制御を使わないため、信号の多くは機械式、流体式、圧覚式の変換器で伝えられる。それでも、最終的に演算するのは、人間の脳だった。
「乗りたくありませんね」
奥山が言った。
「お前は乗せない」
加藤が答えた。
「今、この世で一番安心する言葉でした」
「候補者は別にいる」
黒崎の声で、空気が変わった。
奥山の安心は、長く続かなかった。
「誰ですか」
伊藤が訊いた。
黒崎は答える前に、荻野を見た。
荻野は嫌そうに顔をしかめた。
「月華は乗りたい者を乗せるな」
「蓮華と同じですね」
奥山が言った。
「蓮華より悪い」
荻野は即答した。
「蓮華は乗りたい者を殺す。月華は乗りたい者を喜ばせてから壊す」
その言葉は、格納庫の冷えた空気に沈んだ。
黒崎は一枚の紙を出した。
「候補者は、現時点で三名。いずれも精神接続適性、前庭感覚、反応速度、身体境界の柔軟性が高い」
「柔軟性という言葉が嫌ですね」
三枝が言った。医療者としての声だった。
「身体境界は、柔らかければいいものではありません」
「その通りだ」
荻野が言った。
「柔らかい壁は、破れやすい」
伊藤は候補者名簿を見た。
知らない名前が、二つ。
三つ目の名前で、目が止まった。
柏木美央。
違う。見間違いだった。そこにあるのは、別の名前だ。柏木ではない。佐伯でもない。だが、ほんの一瞬だけ、あの子の名前に見えた。
空を見上げる少女。柏木が、帰る理由だと言った存在。
伊藤は、紙を静かに閉じた。
「候補者の年齢は」
「最年少で十九」
黒崎が答えた。
「若すぎます」
「若い方が接続適性は高い」
荻野が言った。
「だから危険だ」
「博士は、反対ですか」
「月華そのものに反対だ」
「では、なぜここにいる」
伊藤の声は静かだった。それでも、その場の全員が、少しだけ彼を見た。
荻野も見た。
「作ったからだ」
「それは理由になりません」
「ならない。だが理由にしたと言った」
「人間を壊すと知っていて」
「知っている」
「それでも」
「それでも、白いものへ触れるには、誰かが波の隙間を読む必要がある」
荻野の声が低くなった。
「蓮華は近づける。だが遅い。烈火は撃てる。だが一度きりだ。月華は読む。あれの周りで、何が変わるのかを読む。読むためには、人間の脳を使うしかない」
「人間を壊してでも」
「壊さずに済む方法を探している」
「見つかりましたか」
沈黙。
荻野は答えなかった。
答えないこと自体が、答えになる。
伊藤は月華を見た。美しい機体。帰ることを考えない機体ほど、美しく見える。
あの記録を読んだ時に胸へ落ちた言葉が、また戻ってきた。
「なら、帰還手順を先に作るべきです」
伊藤は言った。
黒崎が彼を見た。榊原も。
荻野は、少しだけ笑った。
「三号機らしいな」
「伊藤です」
「帰還手順は作った」
荻野は言った。
「全部失敗した」
「なら、失敗記録を見せてください」
「何に使う」
「次の失敗を変えます」
荻野の目が、初めて少しだけ楽しそうに光った。
「嫌な言い方だ」
「技術者としては正しい」
榊原が小さく言った。
荻野はスパナで床を叩いた。
「よし。見せる。ただし、見たら戻れんぞ」
「資料を見るだけです」
「違う。人間がどう壊れるかを見た者は、見なかった頃には戻れん」
伊藤は答えた。
「戻れないことには慣れています」
荻野は、今度は笑わなかった。
「それが一番危ない」
月華の試験映像は、映像ではなかった。
干渉対策のため、電子記録はほとんど残っていない。かわりにあるのは、連続写真、手描きの姿勢図、紙テープ、観測者のメモ、そして被験者の発話記録だった。
伊藤は、それを読んだ。
月華は固定架の上で、動いていない。
だが、記録の中の被験者は、飛んでいた。
空が近い。
腕が長い。背中が痛い。左の翼が濡れている。違う、これは翼じゃない、私の肩だ、誰かが私の肩を持っている、やめろ、いや離すな、落ちる——
落ちていない。
私は格納庫にいる。
格納庫が小さい。私は大きい。
違う。
私はどこだ。
伊藤は、紙から目を上げた。
月華は、静かに吊られている。こんなにも静かに、人間を壊す。
「気分が悪いですか」
三枝が訊いた。
「いいえ」
「嘘ですね」
「あなたは医療者ですか、尋問官ですか」
「ここでは、両方必要そうなので」
伊藤は、少しだけ息を吐いた。
「気分は悪いです」
「続けますか」
「続けます」
「でしょうね」
三枝はそう言って、少し離れた。
止めるために、見る。
奥山が彼女へ頼んだことを、伊藤は思い出していた。止めてください——それは、自分にも必要かもしれない。
そう思ったが、口には出さなかった。
まだ。
まだ、言えなかった。
その夜、第零格納庫で、月華の低深度接続試験が行われた。
搭乗者はいない。
正確には、人間は操縦殻に入らない。荻野が作った擬似神経負荷装置を使い、接続系の動作だけを見る試験だった。
黒崎が反対した。榊原も反対する。三枝は、医療監視なしでは許可できないと言った。
荻野は全員の反対を聞き、こう言った。
「では、全員見ていろ」
許可ではない。強行でもない。責任の押しつけでもない。壊れるものを見るために目を逸らすな、という命令に近かった。
月華の胸部が開く。
操縦殻の内側が見えた。
白い。
蓮華の操縦殻は暗い。月華の内側は、白かった。その白さが、奥山には気味悪く見えた。
「病院みたいですね」
三枝が言った。
「病院は人を治す場所です」
奥山が答えた。
「そうとも限りません」
三枝の声は静かだった。
擬似神経負荷装置が接続される。細い管。圧力変換器。機械式の応答板。人間の脳の代わりに、決められた反応を返すだけの装置。
それでも月華は、何かを待っているように見えた。
「低深度接続、開始」
榊原が言った。
紙テープが動き始める。
月華の背部フィンが、わずかに開いた。
音は、ほとんどない。空気が動く。照明が少しだけ揺れる。
伊藤は目を細めた。
動きが、美しすぎる。蓮華は動くたびに重さを示す。月華は、その重さを隠す。それが危険だった。
「接続深度、十」
榊原の声。
「応答安定」
月華の右腕が、わずかに上がった。
誰も乗っていない。擬似装置が信号を返しているだけ。それでも、人間の腕のように見えた。
奥山が一歩下がる。
加藤がそれに気づいた。
「どうした」
「嫌です」
「何が」
「今の動き、人間みたいでした」
荻野が言った。
「人間みたいに作ったからだ」
「博士は、ロボットって呼ばれるの嫌いなんですよね」
「嫌いだ」
「でもこれは、機械というより」
奥山は言葉を探した。
生き物、とは言いたくなかった。言えば、本当にそう見えてしまう。
「人間の真似をしている、何かです」
荻野は奥山を見た。
「やはり二号機は目がいい」
「褒められても怖いです」
「月華は、人間の真似をしているんじゃない。人間に、自分が月華だと思わせるために、人間の動きを覚えている」
「もっと怖い説明ありがとうございます」
「礼はいらん」
「言ってません」
接続深度、十五。
背部フィンが、さらに開く。
月華の肩が、呼吸するように動いた。
三枝が息を止めた。
その時、榊原の手元で、別の針が跳ねた。
擬似入力の系統ではない。
外部観測の、生の針だった。
「今のは」
黒崎が言った。
「模擬じゃありません」
榊原の声が硬い。
「本物です。外の干渉波が、たった今、揺れました」
月華のフィンが、それに応えるように震えた。
誰も、入力していない。
外の白いものが、遠くでほんの少し身じろぎした。それだけ。
なのに月華は、聞いていた。
伊藤は奥歯を噛んだ。
倉田の機体が、夜の海へ落ちる直前の姿勢を思い出す。
まだ戻せる。
月華は、その言葉を好みそうだった。
まだ戻せる。まだ飛べる。まだ自分の身体だ。まだ。
その「まだ」が、人を壊す。
「停止」
伊藤は言った。
全員が彼を見た。
榊原が黒崎を見た。黒崎は荻野を見た。荻野は、伊藤を見ていた。
「理由は」
荻野が訊いた。
「美しすぎます」
奥山が小さく言った。
「理由になるんですか、それ」
伊藤は月華から目を離さなかった。
「なります」
荻野は少しだけ口元を歪めた。
「停止」
榊原が操作した。
紙テープの動きが止まる。
月華のフィンが閉じた。
格納庫の空気が、戻る。
誰も、すぐには動かなかった。
ただの低深度接続試験。人間は乗っていない。それなのに全員が、どこか遠くから帰ってきたような顔をしていた。
試験後、伊藤は月華の前に残った。
荻野も残っている。
二人だけではない。少し離れて、三枝がいた。彼女は何も言わない。止めるために、見ている。伊藤は、それに気づいていた。
「美しすぎる、か」
荻野が言った。
「技術者らしくない理由です」
「技術者は美しさに弱い」
「意外です」
「嘘だ。お前も分かっている」
伊藤は否定しなかった。
月華は美しい。その美しさは、無駄がないからではなかった。帰ることを、削っているからだ。
「博士」
「何だ、三号機」
「伊藤です」
「何だ」
「月華は、戻りたがりますか」
荻野は、少し黙った。
その問いは、機体についての問いではない。だが、機体についての問いでもあった。
「月華は戻りたがらない」
荻野は言った。
「月華に乗った人間は」
「戻りたい人間なら戻ろうとする。飛びたい人間なら、戻りたくなくなる」
伊藤は目を伏せた。
「候補者から、飛びたい人間を外すべきです」
「正しい」
「できますか」
「できん」
荻野は即答した。
「月華に適性のある人間は、たいてい飛びたい。身体境界が柔らかく、空間への自己投影が強く、速度変化を恐れない。つまり、飛ぶことを好む」
「最悪の条件ですね」
「そうだ」
荻野は月華を見た。
「だから俺は、蓮華の足を信用している」
伊藤は彼を見た。
「月華ではなく」
「月華は読む。蓮華は戻る。読むだけでは帰れん。戻るだけでは触れられん。どちらも要る。だから嫌なんだ」
「嫌でも作る」
「作った者は見る」
荻野の声が、少しだけ揺れた。
「俺は月華で壊れた。まだ全部は戻っていない。時々、背中にあれがある。時々、天井が近い。時々、白いものの波が、皮膚の下を通る」
三枝が一歩近づいた。
荻野は手を上げて止めた。
「今はここだ」
スパナで床を叩く。
一度。二度。三度。
「ここだ」
伊藤は、その手順を見ていた。
壊れた人間が、地面へ戻るための手順。自分にも、いつか必要になるかもしれない。月華に乗る者にも、奥山にも、加藤にも。——誰にでも。
「博士」
「何だ」
「月華の帰還手順を、三号機側で作ります」
「作れ」
「月華側の協力は期待しません」
「期待するな」
「搭乗者の意思も、混濁する前提で組みます」
「それでいい」
「場合によっては、月華を壊します」
荻野は伊藤を見た。
長い沈黙があった。
「壊せるか」
「必要なら」
「便利な毒だと言った」
「はい」
「なら、必要ではなく、帰すために壊せ」
伊藤は頷いた。
「帰すために壊します」
荻野は少しだけ笑った。
「嫌な男だ」
「よく言われます」
「言われるだけましだ。俺は言う側だった」
三枝が静かに言った。
「お二人とも、休んでください」
伊藤と荻野が、同時に彼女を見た。
三枝は視線を逸らさなかった。
「今の会話は、どちらも危険です」
奥山なら、言い方、と言ったかもしれない。
伊藤は、言わなかった。
「了解しました」
彼は答えた。
荻野は不満そうに鼻を鳴らした。
「衛生科は嫌いだ」
「生きて戻すのが仕事です」
「なら、嫌いだが必要だ」
三枝は小さく頷いた。
翌朝、月華再試験計画の第一案が作成された。
作戦名は、まだない。搭乗候補者も、正式には決まっていない。
だが紙の上には、すでに多くの線が引かれていた。
月華接続深度の段階制限。精神負荷の観測項目。身体所有感の確認手順。強制遮断条件。遮断後の医療観察。蓮華三号機による外部回収案。月華が戻らない場合の物理拘束案。月華搭乗者が戻ることを拒否した場合の対応。
その最後の行を、伊藤は長く見ていた。
戻ることを拒否した場合。
それは月華の怖さだった。飛べない恐怖ではない。戻りたくなくなる恐怖だった。
伊藤は紙の余白へ、いつものように短く書いた。
帰投優先。
その下に、もう一行。
本人の意思が混濁した場合も適用。
書いてから、鉛筆を止めた。
人間を帰すために、人間の意思を疑う。それは、ひどいことだった。
だが、月華はもっとひどい。
紙の右上には、鉛筆で薄く数字が入っている。
次の接近予測から逆算した、実用化の締め切りだった。
誰かが決めた日付ではない。空の白いものが、勝手に決めた日付だった。
上からは、間に合わせろ、とだけ来ている。
白い飛翔体は、今日も空を進んでいる。破壊不能なものとして。
昨夜より、干渉圏は少しだけ広い。次の接近まで、もう幾日も残っていない。
その下で、人間は自分たちの脳を翼に変えようとしていた。
伊藤は、月華の格納庫へ目を向けた。
美しい機体は、まだ眠っている。眠っているように見える。だが伊藤には、あれが目を閉じているだけに見えた。
いつか開く。開いた時、人間は空へ行く。そして、帰りたくなくなるかもしれない。
だから地面には、蓮華の足が必要だった。
重く。
遅く。
不格好で。
嫌になるほど具体的な、帰り道として。
月華は、美しかった。
そのことが、まず危険だった。
そして、それでも人類は、その美しさを起こそうとしている。次の接近が、来る前に。
触れられない白いものへ、初めて触れるために。
誰かの心を、翼にして。
月華を単なる強化機体ではなく、人間の脳と身体感覚を壊しかねない禁忌の機体として描きました。
荻野博士は蓮華の原点を作った人物でありながら、月華の精神接続試験で自分自身も壊れてしまった人物です。
そのため彼は、月華の美しさも危険さも、誰よりも近い場所で知っています。
第9章で伊藤が掲げた「帰投優先」は、月華に対してさらに重い意味を持ち始めます。
次章では、宇宙戦用の烈火へ物語が広がっていきます。




