↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メタルブレーカーズ【改】  作者: 源三郎
第2部 華計画

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/16

第10話 |月華《げっか》

第10章。いよいよ月華(げっか)が本格的に登場します。

蓮華(れんか)が「戻るための足」なら、月華は「戻れなくなる空」に近い機体です。


荻野(おぎの)博士、伊藤(いとう)、三枝(さえぐさ)、奥山(おくやま)たちが、その美しさと危険性に向き合います。

 月華(げっか)は、美しかった。


 そのことが、まず危険だった。


 蓮華(れんか)は、美しくない。重く、鈍く、油の匂いを引きずって、床を踏むたびに建物ごと鳴らす。肩は厚く、脚は太く、操縦殻は狭い。あれは人間を守るための機械というより、人間を鉄の内側へ押し込めて、それでも歩かせるための機械だった。


 月華は、その反対の顔をしていた。


 格納庫の暗がりで、ほとんど音も立てずに吊られている。全高は蓮華より低く、腕も脚も細く、装甲は削れるだけ削られていた。その機体の線は、地面へ荷重を逃がすためではなく、空気と波動のわずかな隙間へ滑り込むためだけに引かれている。


 背には、翼に似た何かがあった。


 複数の特殊合金製フィンと手で角度を変えられる空力板、そして精神接続系と連動する姿勢補助リンク——固定翼でも推進器でもない、名前のつけにくい構造物だった。


 見る者によっては、それを花弁と呼ぶ。


 見る者によっては、刃と呼ぶ。


 伊藤(いとう)二尉は最初に見た瞬間、どちらでもないと思った。


 あれは、逃げ道を持たない翼だ。



 地下第零格納庫は、防衛庁(ぼうえいちょう)地下第七区画の、さらに下にある。


 公式な図面には、どこにも載っていない。


 古い整備用昇降機で二層分降り、手動ロックを三つ外し、湿ったコンクリートの通路を進んだ先。空気は冷え、照明は乏しく、壁のところどころに潮に似た白い結晶が浮いていた。


 地下なのに、海の匂いがした。


 篠籠島から運ばれた機材が、長い時間をかけてこの空気を作ったのかもしれない。あるいは、荻野誠一(おぎの・せいいち)博士が持ち込んだ何かが、まだ乾ききっていないのかもしれない。


 加藤(かとう)一尉は、そんなことを考えた。


 彼は黒崎(くろさき)司令、伊藤、榊原(さかきばら)技官、奥山(おくやま)、三枝真帆(さえぐさ・まほ)二尉とともに、第零格納庫へ入った。


 奥山は、入口で一度足を止めた。


「ここ、入って大丈夫な場所ですか」


「許可は出ている」


 黒崎が言った。


「許可が出ている場所ほど怖い時があります」


「正しい」


「正しいって言わないでください」


 三枝は奥山の横で格納庫の奥を見ていた。


 彼女は何も言わない。


 ただ、指先が少しだけ動いている。医療者の目だった。機械ではなく、そこに乗るはずの人間の方を先に探している。


 榊原は手元の紙束を抱え直した。


「第零格納庫、入室者記録。黒崎司令、加藤一尉、伊藤二尉、奥山三尉、三枝二尉、榊原」


「俺は記録される側か」


 黒崎が言った。


「ここでは全員です」


 榊原は短く答えた。


 格納庫の奥で、古い工具が床に落ちる音がした。


 誰かが悪態をつく。しわがれた声だった。


「記録なら、俺の死亡時刻も先に書いておけ。どうせ上の連中はその欄が好きだ」


 奥山が小さく言った。


「怖い人の声がします」


「本人に言うな」


 加藤は言った。


「言いませんよ」


「聞こえているぞ、臆病者」


 声が返ってきた。


 奥山は硬直した。


 格納庫の奥から、白衣の老人が出てきた。


 白衣は、もう白くなかった。油、インク、錆、焦げ跡、それに何か分からない黒い染みが生地全体へ染み込んでいる。髪は伸び、眼鏡は古く、片方のレンズには細い傷が走っていた。右手には杖を持っている。


 杖ではない。


 長いスパナだ。


 荻野博士は、加藤を見た。


「まだ歩いているな」


「博士も」


「俺は歩いていない。引きずっているだけだ」


 荻野は奥山を見た。


「お前が二号機か」


「奥山です」


「二号機だろう」


「人間の名前から始めていただけると助かります」


「助かりたいのか」


「常に」


 荻野は少しだけ笑った。


「なら、乗れる」


 奥山は加藤を見た。


「隊長、この人もそういう基準なんですか」


「そういう基準を作った人だ」


「最悪ですね」


「聞こえていると言った」


「すみません」


 荻野は次に伊藤を見た。


 目つきが変わった。


 さっきまでの皮肉混じりの目ではない。機械を見る目——いや、壊れた機械の中に、まだ残っている人間を探す目だった。


「三号機」


 伊藤は表情を変えなかった。


「伊藤です」


「三号機だ」


「人間の名前から始める気はないようですね」


「名前は後で剥がれる。機体番号は残る」


「人間としては不快です」


「技術者としては正しい」


 伊藤は黙った。


 荻野は近づき、伊藤の肩ではなく、背中のあたりを見た。


「火を背負う気か」


「必要なら」


「必要、か。便利な毒だ」


 荻野は月華の方を見た。


「必要という言葉で、人間はたいてい自分を壊す」



 第零格納庫には、二機があった。


 一つは月華。


 もう一つは、奥の暗がりに膝をついた、古い二足歩行重機だった。


 蓮華ではない。


 鉄脚。


 篠籠島から移された、最初の一機。胴体は箱に近く、腕は細く、脚だけが不釣り合いに太い。装甲は薄く、膝関節はむき出しのまま、油圧管とワイヤーが古い血管のように表へ這っていた。


 蓮華の祖父。


 華計画(はなけいかく)の根。


 その機体が、格納庫の奥で眠っている。地面を掴むために作られた古い足と、地面から引き剥がされた未完成の神経が、同じ屋根の下に並んでいる——それが、ほとんど悪い冗談のように見えた。


 通路の奥で、鉄扉が鳴った。


 伝令が一枚の紙を持って階段を降りてくる。


 黒崎が受け取り、目を落とした。表情は動かない。動かないことが、答えだった。


「観測班からだ」


 黒崎は紙を畳んだ。


「干渉圏が、昨夜からまた広がっている。止まっていない。次の接近予測が、二日早まった」


 誰も、すぐには言葉を返さなかった。


 榊原がペンを止める。


 荻野だけが、月華を見上げたまま鼻を鳴らした。


「上は、月華を急がせるなよ」


「もう急がせている」


 黒崎は短く言った。


「だろうな」


 荻野はスパナで床を一度だけ叩いた。


 時計の音に、少し似ていた。


「月華の説明を」


 黒崎が言った。


 荻野は嫌そうに顔をしかめる。


「説明は榊原にさせろ。あいつは壊れていない」


「博士の言葉で必要です」


「俺の言葉は報告書に向かない」


「だから必要です」


 荻野は黙った。


 そして、月華を見た。


 目が細くなる。


 憎しみとも、愛着とも、嫌悪とも違う。自分が作ってしまったものを見る、名前のない目だった。


「月華は、飛行機ではない」


 荻野は言った。


「蓮華でもない。重機でもない。兵器と呼ぶには、まだきれいすぎる。だが道具と呼ぶには、人間を食いすぎる」


 奥山が小さく息を呑んだ。


「精神接続式高機動空戦機」


 榊原が補足した。


「電子制御を排除した結果、操縦者の脳を演算装置として使用します。身体所有感、前庭感覚、視覚補正、運動予測を機体姿勢へ直結し、飛翔体(ひしょうたい)干渉波の微細な変動に反応する」


「簡単に言うと」


 奥山が言った。


「人間の脳で飛ぶ」


 伊藤が答えた。


「もっと嫌な言い方になりました」


「正確です」


 荻野はスパナで床を叩いた。


「正確ではない。人間の脳で飛ぶならまだましだ。月華は、人間の脳に機体を生やす」


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


 荻野は続けた。


「腕を動かす。脚を動かす。人間は、それが自分の身体だと疑わない。月華はその疑わなさを利用する。翼を腕だと思わせる。推力を筋肉だと思わせる。姿勢変化を体の傾きだと思わせる。干渉波の痛みを、自分の皮膚のざわめきだと思わせる」


 三枝の顔が、わずかに強張った。


「それは、解除できるのですか」


 荻野は彼女を見た。


「衛生科か」


「三枝二尉です」


「解除はできる。問題は、人間が解除された後も自分の身体を覚えているかだ」


 三枝は黙った。


 伊藤は、破壊不能の検証資料を読んだ時のことを思い出していた。右腕を自分のものと認識できなくなった被験者。帰還不能。報告書の、あの冷たい文字。


 その文字が、今は月華の白い機体の表面に、うっすら浮かんで見えた。



 月華の初期試験記録は、紙では足りていなかった。


 紙テープ、手書きのログ、音声記録の書き起こし、医療記録、被験者の発話、隔離観察室の看護メモ——すべてが箱に詰められ、第零格納庫の壁際へ積み上げられている。


 榊原は、その一つを開いた。


「初期試験、第三十二回。被験者、荻野誠一」


 奥山が思わず荻野を見た。


「博士が乗ったんですか」


「乗った」


 荻野は簡単に言った。


「なぜ」


「俺が作ったからだ」


「それ、理由になりますか」


「ならん。だが理由にした」


 榊原は読み上げた。


「接続深度、二十。被験者、正常応答。接続深度、三十五。左上肢の延長感を報告。接続深度、四十八。背部フィンを自己身体の一部として認識。接続深度、五十二。飛翔体干渉波模擬入力開始」


 荻野は黙っていた。スパナを握る手だけが、少し強くなる。


「接続深度、六十。被験者、皮膚感覚の外部拡張を報告。接続深度、六十八。被験者、格納庫天井を『近い』と発言。実際の月華は固定架上で停止」


「天井が近かった」


 荻野が言った。


 全員が彼を見る。


「あの時、俺は吊られていた月華の中にいた。だが同時に、格納庫の天井へ腕を伸ばしていた。腕ではない。翼だ。いや、翼でもない。皮膚だった」


 彼の声は、そこだけ少し遠かった。


「天井の錆びたボルトが見えた。いや、見えたんじゃない。触った。触ったのに、目で見ていた。目ではなかった。月華のフィンだ。フィンが目で、皮膚で、指だった」


 三枝が一歩近づいた。


「博士」


「分かっている。今はここだ」


 荻野は床をスパナで叩いた。


 金属音。


 一度。


 二度。


 三度。


「ここだ」


 彼はもう一度言った。


 それは、周囲へ向けた言葉ではない。自分を地面へ戻すための、手順だった。


 奥山は、その音を聞いていた。


 怖い時ほど、足元を見る。怖い時ほど、声を出す。荻野博士も、何かをしている。壊れた人間にも、戻るための手順がある——そのことが奥山には、ひどく怖く、それでいて少しだけ救いに見えた。


 榊原は続きを読んだ。


「接続深度、七十二。被験者、飛翔体干渉波模擬入力に対し、追従反応を示す。接続深度、七十五。被験者、自己身体境界の混濁。接続深度、七十八。強制遮断」


 紙をめくる音がした。


「遮断後、被験者は三分間、自分の右脚を認識できず。五分後、格納庫内の月華を『まだ私の背中にある』と発言。十二分後、通常会話に一部復帰。ただし以後、断続的な身体拡張錯覚、睡眠障害、時間感覚の混濁、機体との同一化発言を確認」


 榊原は読み終えた。


 誰も笑わない。


 荻野は月華を見上げていた。


「俺は戻った」


 彼は言った。


「完全には戻らなかったが、戻った。だから記録になった。戻らなかった者は、記録の中でしか喋れん」


 黒崎が低く言った。


「死亡者は」


「いない」


 榊原が答えた。


 少し間を置いて、続ける。


「ただし、日常生活へ完全復帰できなかった被験者は、複数います」


 奥山が小さく言った。


「それ、死亡者がいないって言っていいんですか」


 荻野が奥山を見た。


「いい質問だ」


「褒めないでください。怖いです」


「怖がれ。正しい」



 月華の操縦殻は、蓮華よりも広かった。


 それなのに、伊藤には狭く見える。


 理由は、すぐに分かった。蓮華の操縦殻は、人間を鉄に閉じ込める。月華の操縦殻は、人間の内側へ、機体の方を入れてくる。


 座席は深く、背面には神経接続用の多層リンクがあった。頭部固定具、首筋の接触端子、脊椎沿いの圧力センサー、両腕両脚へ伸びる細い拘束帯。電子制御を使わないため、信号の多くは機械式、流体式、圧覚式の変換器で伝えられる。それでも、最終的に演算するのは、人間の脳だった。


「乗りたくありませんね」


 奥山が言った。


「お前は乗せない」


 加藤が答えた。


「今、この世で一番安心する言葉でした」


「候補者は別にいる」


 黒崎の声で、空気が変わった。


 奥山の安心は、長く続かなかった。


「誰ですか」


 伊藤が訊いた。


 黒崎は答える前に、荻野を見た。


 荻野は嫌そうに顔をしかめた。


「月華は乗りたい者を乗せるな」


「蓮華と同じですね」


 奥山が言った。


「蓮華より悪い」


 荻野は即答した。


「蓮華は乗りたい者を殺す。月華は乗りたい者を喜ばせてから壊す」


 その言葉は、格納庫の冷えた空気に沈んだ。


 黒崎は一枚の紙を出した。


「候補者は、現時点で三名。いずれも精神接続適性、前庭感覚、反応速度、身体境界の柔軟性が高い」


「柔軟性という言葉が嫌ですね」


 三枝が言った。医療者としての声だった。


「身体境界は、柔らかければいいものではありません」


「その通りだ」


 荻野が言った。


「柔らかい壁は、破れやすい」


 伊藤は候補者名簿を見た。


 知らない名前が、二つ。


 三つ目の名前で、目が止まった。


 柏木(かしわぎ)美央。


 違う。見間違いだった。そこにあるのは、別の名前だ。柏木ではない。佐伯(さえき)でもない。だが、ほんの一瞬だけ、あの子の名前に見えた。


 空を見上げる少女。柏木が、帰る理由だと言った存在。


 伊藤は、紙を静かに閉じた。


「候補者の年齢は」


「最年少で十九」


 黒崎が答えた。


「若すぎます」


「若い方が接続適性は高い」


 荻野が言った。


「だから危険だ」


「博士は、反対ですか」


「月華そのものに反対だ」


「では、なぜここにいる」


 伊藤の声は静かだった。それでも、その場の全員が、少しだけ彼を見た。


 荻野も見た。


「作ったからだ」


「それは理由になりません」


「ならない。だが理由にしたと言った」


「人間を壊すと知っていて」


「知っている」


「それでも」


「それでも、白いものへ触れるには、誰かが波の隙間を読む必要がある」


 荻野の声が低くなった。


「蓮華は近づける。だが遅い。烈火(れっか)は撃てる。だが一度きりだ。月華は読む。あれの周りで、何が変わるのかを読む。読むためには、人間の脳を使うしかない」


「人間を壊してでも」


「壊さずに済む方法を探している」


「見つかりましたか」


 沈黙。


 荻野は答えなかった。


 答えないこと自体が、答えになる。


 伊藤は月華を見た。美しい機体。帰ることを考えない機体ほど、美しく見える。


 あの記録を読んだ時に胸へ落ちた言葉が、また戻ってきた。


「なら、帰還手順を先に作るべきです」


 伊藤は言った。


 黒崎が彼を見た。榊原も。


 荻野は、少しだけ笑った。


「三号機らしいな」


「伊藤です」


「帰還手順は作った」


 荻野は言った。


「全部失敗した」


「なら、失敗記録を見せてください」


「何に使う」


「次の失敗を変えます」


 荻野の目が、初めて少しだけ楽しそうに光った。


「嫌な言い方だ」


「技術者としては正しい」


 榊原が小さく言った。


 荻野はスパナで床を叩いた。


「よし。見せる。ただし、見たら戻れんぞ」


「資料を見るだけです」


「違う。人間がどう壊れるかを見た者は、見なかった頃には戻れん」


 伊藤は答えた。


「戻れないことには慣れています」


 荻野は、今度は笑わなかった。


「それが一番危ない」



 月華の試験映像は、映像ではなかった。


 干渉対策のため、電子記録はほとんど残っていない。かわりにあるのは、連続写真、手描きの姿勢図、紙テープ、観測者のメモ、そして被験者の発話記録だった。


 伊藤は、それを読んだ。


 月華は固定架の上で、動いていない。


 だが、記録の中の被験者は、飛んでいた。


 空が近い。


 腕が長い。背中が痛い。左の翼が濡れている。違う、これは翼じゃない、私の肩だ、誰かが私の肩を持っている、やめろ、いや離すな、落ちる——


 落ちていない。


 私は格納庫にいる。


 格納庫が小さい。私は大きい。


 違う。


 私はどこだ。


 伊藤は、紙から目を上げた。


 月華は、静かに吊られている。こんなにも静かに、人間を壊す。


「気分が悪いですか」


 三枝が訊いた。


「いいえ」


「嘘ですね」


「あなたは医療者ですか、尋問官ですか」


「ここでは、両方必要そうなので」


 伊藤は、少しだけ息を吐いた。


「気分は悪いです」


「続けますか」


「続けます」


「でしょうね」


 三枝はそう言って、少し離れた。


 止めるために、見る。


 奥山が彼女へ頼んだことを、伊藤は思い出していた。止めてください——それは、自分にも必要かもしれない。


 そう思ったが、口には出さなかった。


 まだ。


 まだ、言えなかった。



 その夜、第零格納庫で、月華の低深度接続試験が行われた。


 搭乗者はいない。


 正確には、人間は操縦殻に入らない。荻野が作った擬似神経負荷装置を使い、接続系の動作だけを見る試験だった。


 黒崎が反対した。榊原も反対する。三枝は、医療監視なしでは許可できないと言った。


 荻野は全員の反対を聞き、こう言った。


「では、全員見ていろ」


 許可ではない。強行でもない。責任の押しつけでもない。壊れるものを見るために目を逸らすな、という命令に近かった。


 月華の胸部が開く。


 操縦殻の内側が見えた。


 白い。


 蓮華の操縦殻は暗い。月華の内側は、白かった。その白さが、奥山には気味悪く見えた。


「病院みたいですね」


 三枝が言った。


「病院は人を治す場所です」


 奥山が答えた。


「そうとも限りません」


 三枝の声は静かだった。


 擬似神経負荷装置が接続される。細い管。圧力変換器。機械式の応答板。人間の脳の代わりに、決められた反応を返すだけの装置。


 それでも月華は、何かを待っているように見えた。


「低深度接続、開始」


 榊原が言った。


 紙テープが動き始める。


 月華の背部フィンが、わずかに開いた。


 音は、ほとんどない。空気が動く。照明が少しだけ揺れる。


 伊藤は目を細めた。


 動きが、美しすぎる。蓮華は動くたびに重さを示す。月華は、その重さを隠す。それが危険だった。


「接続深度、十」


 榊原の声。


「応答安定」


 月華の右腕が、わずかに上がった。


 誰も乗っていない。擬似装置が信号を返しているだけ。それでも、人間の腕のように見えた。


 奥山が一歩下がる。


 加藤がそれに気づいた。


「どうした」


「嫌です」


「何が」


「今の動き、人間みたいでした」


 荻野が言った。


「人間みたいに作ったからだ」


「博士は、ロボットって呼ばれるの嫌いなんですよね」


「嫌いだ」


「でもこれは、機械というより」


 奥山は言葉を探した。


 生き物、とは言いたくなかった。言えば、本当にそう見えてしまう。


「人間の真似をしている、何かです」


 荻野は奥山を見た。


「やはり二号機は目がいい」


「褒められても怖いです」


「月華は、人間の真似をしているんじゃない。人間に、自分が月華だと思わせるために、人間の動きを覚えている」


「もっと怖い説明ありがとうございます」


「礼はいらん」


「言ってません」


 接続深度、十五。


 背部フィンが、さらに開く。


 月華の肩が、呼吸するように動いた。


 三枝が息を止めた。


 その時、榊原の手元で、別の針が跳ねた。


 擬似入力の系統ではない。


 外部観測の、生の針だった。


「今のは」


 黒崎が言った。


「模擬じゃありません」


 榊原の声が硬い。


「本物です。外の干渉波が、たった今、揺れました」


 月華のフィンが、それに応えるように震えた。


 誰も、入力していない。


 外の白いものが、遠くでほんの少し身じろぎした。それだけ。


 なのに月華は、聞いていた。


 伊藤は奥歯を噛んだ。


 倉田の機体が、夜の海へ落ちる直前の姿勢を思い出す。


 まだ戻せる。


 月華は、その言葉を好みそうだった。


 まだ戻せる。まだ飛べる。まだ自分の身体だ。まだ。


 その「まだ」が、人を壊す。


「停止」


 伊藤は言った。


 全員が彼を見た。


 榊原が黒崎を見た。黒崎は荻野を見た。荻野は、伊藤を見ていた。


「理由は」


 荻野が訊いた。


「美しすぎます」


 奥山が小さく言った。


「理由になるんですか、それ」


 伊藤は月華から目を離さなかった。


「なります」


 荻野は少しだけ口元を歪めた。


「停止」


 榊原が操作した。


 紙テープの動きが止まる。


 月華のフィンが閉じた。


 格納庫の空気が、戻る。


 誰も、すぐには動かなかった。


 ただの低深度接続試験。人間は乗っていない。それなのに全員が、どこか遠くから帰ってきたような顔をしていた。



 試験後、伊藤は月華の前に残った。


 荻野も残っている。


 二人だけではない。少し離れて、三枝がいた。彼女は何も言わない。止めるために、見ている。伊藤は、それに気づいていた。


「美しすぎる、か」


 荻野が言った。


「技術者らしくない理由です」


「技術者は美しさに弱い」


「意外です」


「嘘だ。お前も分かっている」


 伊藤は否定しなかった。


 月華は美しい。その美しさは、無駄がないからではなかった。帰ることを、削っているからだ。


「博士」


「何だ、三号機」


「伊藤です」


「何だ」


「月華は、戻りたがりますか」


 荻野は、少し黙った。


 その問いは、機体についての問いではない。だが、機体についての問いでもあった。


「月華は戻りたがらない」


 荻野は言った。


「月華に乗った人間は」


「戻りたい人間なら戻ろうとする。飛びたい人間なら、戻りたくなくなる」


 伊藤は目を伏せた。


「候補者から、飛びたい人間を外すべきです」


「正しい」


「できますか」


「できん」


 荻野は即答した。


「月華に適性のある人間は、たいてい飛びたい。身体境界が柔らかく、空間への自己投影が強く、速度変化を恐れない。つまり、飛ぶことを好む」


「最悪の条件ですね」


「そうだ」


 荻野は月華を見た。


「だから俺は、蓮華の足を信用している」


 伊藤は彼を見た。


「月華ではなく」


「月華は読む。蓮華は戻る。読むだけでは帰れん。戻るだけでは触れられん。どちらも要る。だから嫌なんだ」


「嫌でも作る」


「作った者は見る」


 荻野の声が、少しだけ揺れた。


「俺は月華で壊れた。まだ全部は戻っていない。時々、背中にあれがある。時々、天井が近い。時々、白いものの波が、皮膚の下を通る」


 三枝が一歩近づいた。


 荻野は手を上げて止めた。


「今はここだ」


 スパナで床を叩く。


 一度。二度。三度。


「ここだ」


 伊藤は、その手順を見ていた。


 壊れた人間が、地面へ戻るための手順。自分にも、いつか必要になるかもしれない。月華に乗る者にも、奥山にも、加藤にも。——誰にでも。


「博士」


「何だ」


「月華の帰還手順を、三号機側で作ります」


「作れ」


「月華側の協力は期待しません」


「期待するな」


「搭乗者の意思も、混濁する前提で組みます」


「それでいい」


「場合によっては、月華を壊します」


 荻野は伊藤を見た。


 長い沈黙があった。


「壊せるか」


「必要なら」


「便利な毒だと言った」


「はい」


「なら、必要ではなく、帰すために壊せ」


 伊藤は頷いた。


「帰すために壊します」


 荻野は少しだけ笑った。


「嫌な男だ」


「よく言われます」


「言われるだけましだ。俺は言う側だった」


 三枝が静かに言った。


「お二人とも、休んでください」


 伊藤と荻野が、同時に彼女を見た。


 三枝は視線を逸らさなかった。


「今の会話は、どちらも危険です」


 奥山なら、言い方、と言ったかもしれない。


 伊藤は、言わなかった。


「了解しました」


 彼は答えた。


 荻野は不満そうに鼻を鳴らした。


「衛生科は嫌いだ」


「生きて戻すのが仕事です」


「なら、嫌いだが必要だ」


 三枝は小さく頷いた。



 翌朝、月華再試験計画の第一案が作成された。


 作戦名は、まだない。搭乗候補者も、正式には決まっていない。


 だが紙の上には、すでに多くの線が引かれていた。


 月華接続深度の段階制限。精神負荷の観測項目。身体所有感の確認手順。強制遮断条件。遮断後の医療観察。蓮華三号機による外部回収案。月華が戻らない場合の物理拘束案。月華搭乗者が戻ることを拒否した場合の対応。


 その最後の行を、伊藤は長く見ていた。


 戻ることを拒否した場合。


 それは月華の怖さだった。飛べない恐怖ではない。戻りたくなくなる恐怖だった。


 伊藤は紙の余白へ、いつものように短く書いた。


 帰投優先。


 その下に、もう一行。


 本人の意思が混濁した場合も適用。


 書いてから、鉛筆を止めた。


 人間を帰すために、人間の意思を疑う。それは、ひどいことだった。


 だが、月華はもっとひどい。


 紙の右上には、鉛筆で薄く数字が入っている。


 次の接近予測から逆算した、実用化の締め切りだった。


 誰かが決めた日付ではない。空の白いものが、勝手に決めた日付だった。


 上からは、間に合わせろ、とだけ来ている。


 白い飛翔体は、今日も空を進んでいる。破壊不能なものとして。


 昨夜より、干渉圏は少しだけ広い。次の接近まで、もう幾日も残っていない。


 その下で、人間は自分たちの脳を翼に変えようとしていた。


 伊藤は、月華の格納庫へ目を向けた。


 美しい機体は、まだ眠っている。眠っているように見える。だが伊藤には、あれが目を閉じているだけに見えた。


 いつか開く。開いた時、人間は空へ行く。そして、帰りたくなくなるかもしれない。


 だから地面には、蓮華の足が必要だった。


 重く。


 遅く。


 不格好で。


 嫌になるほど具体的な、帰り道として。


 月華は、美しかった。


 そのことが、まず危険だった。


 そして、それでも人類は、その美しさを起こそうとしている。次の接近が、来る前に。


 触れられない白いものへ、初めて触れるために。


 誰かの心を、翼にして。

月華(げっか)を単なる強化機体ではなく、人間の脳と身体感覚を壊しかねない禁忌の機体として描きました。


荻野(おぎの)博士は蓮華(れんか)の原点を作った人物でありながら、月華の精神接続試験で自分自身も壊れてしまった人物です。

そのため彼は、月華の美しさも危険さも、誰よりも近い場所で知っています。


第9章で伊藤(いとう)が掲げた「帰投優先」は、月華に対してさらに重い意味を持ち始めます。

次章では、宇宙戦用の烈火(れっか)へ物語が広がっていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。