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モリアハ  作者: Bitternectar
6/6

第6話「オスコル」

****


俺は、馬上の騎士を、間の抜けた顔で見上げていた。


それは、こっちが訊きたい。


くそ。……で、何と答えりゃいい?


「……分かりません」


気がつくと、そう口走っていた。


日に灼かれた肌が、嫌な感じにひりついている。


「そもそも、そのミノダルってのが誰なのかすら、知らないんです」


そう付け足した。


ダングリトン卿は顎を胸元へ落とし、にやりと笑った。


何か笑えたか? この世界のクソポリ公が。


卿は連れへ目をやり、頷いてみせた。それから再びこちらへ向き直ると、低い声で、一音一音を刻みつけるように言った。


「あり得ることは二つだ。お前が白々しい嘘を吐いているか——記憶が、根こそぎ飛んでいるか。私は、前者だと踏んでいる」


連れが腕を振りかぶり、俺の顔面へ、たっぷり心のこもった一発を叩き込んだ。


頭が揺れ、視界ごと揺れた。世界は一瞬、水彩画になった。——鉄籠手で、ぐしゃりと引き伸ばされた水彩画に。


血を吐き捨てる。


おそらく、口腔内裂傷というやつだ。


堕ちた騎士にもらったのと、同じ種類の一撃だった。なるほど。この世界の医療は、予防接種ならぬ予防殴打から始まるらしい。


一拍おいて、脇腹にもう一発。


確か、そのあたりには何か大事な臓器があったはずだ。こういう目に遭うと、解剖学というものに、急に哲学的になれる。


俺は必死にこらえた。漏らすのと、痛みで泣き出すのと——その両方を、同時に。


今のところ、男の尊厳は半分だけ死守できている。


上半分だけ、だが。


「いずれにせよ、今はお前から真実を揺すり出している暇がない」


その間、ダングリトン卿はこちらを見向きもしなかった。


卿が、牝馬の脇腹に拍車を入れる。


「脱走犯は、オランド秘密警察の領分だ」卿は、投げ捨てるように言った。「オスコルのな。——とりわけ、お前のような『訳あり』は」


オスコル?


人間から書類を作るという、あそこか?


連れがようやく俺から離れ、馬によじ登った。それから、こちらを振り返る。


「休めたか」


「ええ、おかげさまで」


馬が歩き出し、縄が張り詰めた。


行進の再開だった。


****


街の城壁が地面から生え上がり、一歩ごとに嵩を増していった。


城の尖塔が、澄みきった青空を背に聳えている。日の光が金箔を灼き、城は緑の大海原の只中で、灯台さながらに燃えていた。


その頃には俺はもう、灯油で炙られたはいいが、お役所的な事情でとどめを刺し忘れられた、歩く死体そのものだった。


門の前には、馬鹿でかい行列が伸びていた。荷馬車。荷物の山。熊手や鋤を担いだ人々。衛兵が、一人ひとりを検めている。盾にも門扉にも、同じ紋章が繰り返されていた。一つの点から、半円状に放たれる、幾筋もの細い線。


太陽では、ない。


後光だ。


ダングリトン卿が胸当ての下から金のメダリオンを取り出すと、衛兵は列を飛ばして俺たちを通した。


人々は、豪奢な騎士たちの後ろをよたよたとついて歩く俺を、得体の知れない珍獣でも見る目つきで盗み見た。戦利品を持ち帰り、群衆の前へ誇らしげに晒している——そんな図だった。


クソ。俺がサーカスの猿以外の配役をもらえる日は、いつか来るのか?


通りは狭く、露店と、増築と、荷車と、人間でぎゅう詰めだった。誰もがどこかへ急ぎ、何かを運び、怒鳴り、値切り倒していた。


蟻塚だ。


ただしこの蟻どもは、汗と、煙と、焼けた肉の臭いがした。


奥へ進むほど、木は石へと置き換わっていった。アーチ。彫りの入った窓。鍛鉄の格子。そして扉にも看板にも、やはりあの後光。


この世界でも、街の造りは俺の世界と同じらしい。


外側に——暮らし。


内側に——金。


さらにその奥に——先の二つのどちらへ、存在する許可を下ろすかを決める連中。


二枚目の城壁。次の門。


メダリオン。すなわち、通行証。


巨大な城を擁する、内郭だった。


騎士たちは馬を降り、縄を解くと、俺を城壁沿いの付属棟へ引き立てていった。ダングリトン卿は入り口に残り、黒っぽい制服の男と何やら話し込んでいる。


扉が開いた。中は、塗り込めたような闇だった。


当然ながら、この穴倉に電気なんてものは通っていない。


もう一人の騎士が俺を中へ突き飛ばし、縄を投げ込み、轟音とともに扉を叩きつけた。


そういえば、あのクソ野郎の名前は何だったか。人の顔を覚えるのは、昔から苦手だ。その代わり、「いつか誰かの墓に唾を吐いてやる」という欲求のほうは、順調にレベルアップを続けている。


扉のほうへ向き直った——その瞬間、背後から袋を被せられた。


首筋へ、鞭のようにしなる一撃。


意識が、落ちた。


****


意識が戻ると、俺は座り心地の悪い木の椅子に収まっていた。


両手は背中の後ろで、両足は椅子の脚に、それぞれ縛りつけられている。


「……お約束の構図ってやつだ」


息と一緒に、そう吐き出した。


部屋の奥から、耳に心地いい女の声が返ってきた。


「あら。……初めてじゃないの?」


あたりを見回す。


狭くて暗い部屋。壁は、コンクリート——か、この世界におけるその相当品。とうの昔に悲鳴を聞き飽きて、今ではただ黙々と収集している。壁は、そんな面構えをしていた。


鉄格子の嵌まった小窓から、光が滲み込んでいる。


部屋の奥、作業台の向こうに、女の姿があった。


革のズボンが、腿にぴったりと張りついている。対照的に、半透明の青いブラウスは、人を救うのを途中でやめたパラシュートみたいにたるんでいた。髪は後ろで結い上げ、頭には黒い船形帽ふながたぼう


女が振り向いた。目元は、仮面で覆われている。


ジム帰りか、それとも仮面舞踏会か?


……いや、違うな。仮面舞踏会で人を縛るのは、双方の合意があってこそだ。


たぶん。


女は作業台から何かを取り上げると、踵を鳴らしながら、ゆっくりとこちらへ歩き出した。


こつ。


こつ。


こつ。


一歩一歩が、丁寧すぎた。自信に満ちすぎていた。人間のどこで皮膚が終わり、どこから真実が始まるのか——その境界線を正確に知っている者の、歩き方だった。


「アスゴルド・トリトール」女は言った。「タウレア人。脱走囚。——まっとうな罪人ならとうに大人しく転がっている場所で、しぶとく生き延びるという、きわめてたちの悪い癖の持ち主」


脱走囚、ときたか。


名前は、知られている。


——他には、どこまで?


「ほとんど褒め言葉に聞こえますね」


「うぬぼれないで。この部屋で『褒め言葉』といえば——指を全部付けたまま帰してあげること、だから」


女が近づいてきた。冷たい金属と、清潔な布と、それから何か甘いものの匂いがした。


香水じゃない。


疑似餌ぎじえだ。


「私はアンナ。オランド王国秘密警察の士官。あなたと少し『お話』するように、仰せつかっているの」


女は、横から身を屈めた。ブラウスが肩を滑り、制服の規定より、ほんの少しだけ多くの素肌が覗く。


——あるいは、尋問の規定どおり、きっかりの量が。


くそ。


恐怖のやつでさえ、一瞬だけ律儀に席を空けた。「まあ、見るくらいはな」と。


「お会いできて光栄です、アンナさん。お綺麗だ。特にそのズボンがよくお似合いで。きっと俺たちは、いい関係を築け——」


言葉は、途中から悲鳴に変わった。


爪に、針が食い込んでいた。


乱暴に、ではない。獣じみて、でもない。ごく——優しく。


それが、何より薄気味悪かった。


「礼儀と悪あがきを混同しないことね、アスゴルド。礼儀というのは、殿方が淑女の手の甲に口づけること。悪あがきというのは——両手を縛られているせいで、代わりにズボンを褒めること」


「ごもっとも。ですが、そのズボンの趣味がいいのは事実です」


針が、深く入った。


俺は絶叫した。自前の尊厳のほうが気まずくなるほどの、見事な悲鳴だった。


「今のは信じてあげる」女は言った。「針の下で軽口を叩く男は、馬鹿か——黙るのがよほど怖いか。どちらかだもの」


「……第三の選択肢は?」


「あるわ」


女は針を抜いた。痛みは、小さな灼けた釘になって、爪の下に居座った。


「三つ目は——たいてい、開けて中を確かめることになるの」


結構なことで。


美女との対話ってのは、時として、税務署との文通より雲行きが怪しくなるらしい。


アンナは、俺の周りをぐるりと回った。踵の音が、ゆっくりと刻まれる。背後に立たれると、目の前にいたときより、よほど体が強張った。


「ダングリトン卿は、面白い情報を添えて、あなたを届けてくれたわ。卿の見立てでは——あなたは、影の神と契約を結んでいる」


影の神。


——ミノダルってのは、そういう奴だったのか。


なんで俺は、それを今ごろになって知るんだ?


もっとも、この世界じゃ、役に立つ知識は決まって血と抱き合わせで支給される。ここの教育カリキュラムは、そういう方針だ。


「そいつが何者なのか、俺は知らないんです」


「信じるわ」


俺は、目をしばたたいた。


「……は?」


アンナは戻ってきて、俺の正面に立った。


「信じる、と言ったの。あなた——自分が何に足を突っ込んだのか分かっている人間の顔を、していないもの」


「どうも。ほとんど褒め言葉だ」


「『ほとんど』じゃないわ」


女が、顔を寄せた。仮面が目を隠していても、視線は感じ取れた。


「人間には、影の神と契約を結ぶことはできないのよ、アスゴルド」


俺は、黙っていた。


「……なぜ」


「対価を払って、なお生きている。——それが、人間には不可能だから」


部屋が、一段と静まった気がした。


「指。記憶。声。寿命。そんなものは小銭よ」アンナは続けた。「他の神々は、人間から『一部』を取る。ミノダルが取るのは——人間を人間たらしめているもの。影。名前。……それから、胸の奥の温かい場所。『お前はまだ生きている』と、体へ言い聞かせ続けている、あの場所」


女の指が、俺の胸をなぞった。軽く。ほとんど、慈しむように。


体は、刃物を当てられたかのように跳ねた。


「その契約のあとに、生きていた者はいないの。残るのは、綺麗で行儀のいい死体だけ。——ときどき、微笑んでさえいるわ。身内が気味悪がらない質なら、葬式には便利でしょうね」


俺は、唾を飲み込んだ。


「……ダングリトン卿の、勘違いってことは」


「あるかもね」


女は、微笑んだ。


「——それとも、その椅子に座っているのは、人間じゃないのかも」


ああ、実に面白い。


大爆笑だ。


どこか深いところで、心臓が重く打った。いつもの打ち方では、なかった。誰かが扉を、内側から拳で叩いたかのように。


『ここにいる』と。


アンナの動きが、止まった。ほんの一瞬。


だが、俺は見逃さなかった。


「……そう」女は静かに言った。


「何がです」


「別に」


女は、また針を手に取った。


「簡単な遊びをしましょう、アスゴルド・トリトール。私が訊く。あなたが答える。嘘をつけば、爪を一枚いただく。本当のことを言えば——あとで、いただく」


「オランドって、素晴らしい決まりの国ですね。子供たちも、さぞ楽しいでしょう」


「ここに、子供は入れないの」


「今日初めての朗報だ」


アンナが、俺の指を取った。手は、温かかった。細い指。手入れの行き届いた爪。柔らかな感触。


針さえなければ、ほとんどロマンスだった。


縄さえなければ、ほとんどデートだった。


「契約の手引きをしたのは、誰」


「知らない」


針が、爪に触れた。


「アスゴルド」


「本当に、知らないんだ」


「なら——誰なら知っているの」


マリア。


カモミール。


錆。


森。


胸の中の、手。


暗闇の、あの、ぐちゃりという湿った音。


「……誰も」


アンナは、微笑んだ。


「悪い答え」


針が、爪の下へ潜り込んだ。


俺は、絶叫した。


今度の痛みは、純度が上がっていた。不意打ちの驚きは、もうない。ただ白く、意地の悪い、大人の痛み。「続き」のほかには、何ひとつ約束しない痛みだった。


「誰」アンナが訊く。


「知らない!」


「何を差し出した」


「知らない!」


「なぜ生きている」


「だからクソッ——そっちで分かったら、俺にも教えてくれよ!」


アンナの手が、止まった。


数秒のあいだ、俺たちは見つめ合っていた。


それから、女は笑った。小さく。短く。——本物の笑いで。


「いいわ。今のは面白かった」


「俺の断末魔にも、ようやく観客がついたようで何よりです」


「調子に乗らないで。あなたの舞台は、まだ小劇場よ」


女は針を抜いた。俺は口で呼吸していた。浜に打ち上げられたうえ、ご丁寧に国家反逆罪まで着せられた魚みたいに。


アンナが、ほとんど触れ合う距離まで身を寄せた。唇が、俺の耳元に来る。


「よく聞きなさい、アスゴルド・トリトール。あなたに何があったのか、私は知らない。嘘をついているのか。それとも——兵隊どもの夜営明けの安酒瓶みたいに、本当に中身が空っぽなのか」


声が、低くなった。


「でも、ひとつだけ確かなことがある。ミノダルに触れられたのなら、あなたは死んでいなくてはおかしい。なのに、死んでいない。——つまり、対価を払ったのがあなたではないか……あるいは、あなたがもう、完全には『あなた』ではないか。どちらかよ」


背筋を、冷たいものが走り抜けた。


——ここへ来て初めて、心の底から嫌な気分になった。


この世界に来てから、俺は殴られ、切られ、縛られ、引きずり回され、毒を盛られ——魔女だの、ヴルダラクだの、屠殺鬼の爺だの、軍馬コンプレックスをこじらせた騎士どもだのに、さんざん脅かされてきた。


だが、俺の抱えている一番の問題を、ここまで綺麗に言語化してくれた奴は、まだ一人もいなかった。


対価を払ったのは、俺ではないのか。


それとも俺は、もう完全には俺ではないのか。


アンナは身を起こし、仮面の奥から、あらためて俺を見た。


「だから——最初から、やり直しましょう」


女は針を掲げた。切っ先に、俺の血が鈍く光っている。


「その椅子に座っているのは——誰?」


アスゴルド。


そう答えようとした。


だが言葉は、喉でつかえたまま、出てこなかった。

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