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彼の背後に控える帝国兵たちが、嘲笑するように鼻を鳴らした。
私は胸の中で「やれやれ」と溜息をついた。
どうして男という生き物は、自分たちの理解できない『財務と契約の仕組み』を突きつけられると、すぐに「女の浅知恵」という古臭い枠組みに押し込めて安心しようとするのだろう。彼の脳味噌も、アウグストとはまた違った意味で凝り固まっているようだ。
「お初にお目にかかります、レイナルド殿下」
私は微笑みを崩さず、彼の対面の椅子に静かに腰掛けた。
「遠路はるばる、我がラングハイム特別管理本部へようこそ。それで、本日はどのようなご用件でしょうか? 我が家は現在、組織の再編作業で多忙を極めておりますの。無駄なお話につき合っている時間はございません」
「フン、相変わらず不躾な言い草だな。まあいい」
レイナルドは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、ローテーブルの上に放り投げた。
「単刀直入に言おう。我がバロア帝国は、破産したラングハイム王国の『全領地および主権』を、金貨一億で買い取ってやってもいいと言っているのだ」
私は眉をひそめた。「全領地と主権を、一億金貨で、ですか?」
「そうだ。感謝するといい。我が帝国がこの地を併合してやれば、貴様が抱えている四億八千万枚という途方もない不良債権の一部は回収できる。それに、貴様のような小娘が国を占領するなど、国際社会が許さん。我が帝国の軍事力という傘に入ることだけが、貴様たちの唯一の生き残る道なのだ」
レイナルドは身を乗り出し、下衆な笑みを深めた。
「さらに、だ。もし貴様が私の『愛妾』となるならば、我が帝国のアスガルド家に対する不敬の数々を不問にしてやってもいい。どうだ? 悪い話ではないだろう。あの無能なアウグスト王子と違って、私は貴様の美しい顔立ちと、その商才だけは買ってやっているのだからな」
静寂が応接室を包んだ。
セバスチャンの眉根が微かに動いた。彼の手が静かに上着の内ポケットへ伸びようとしたのを、私は軽く手を挙げて制した。
私の心の中で、冷ややかな失笑が込み上げていた。
呆れてものも言えないとはこのことだ。
アウグストが「現実が見えない無能」だとしたら、このレイナルドという男は「武力を背景にすべてを奪えると思っている野蛮人」だ。
「レイナルド殿下」
私はゆっくりと扇子を開き、口元を隠しながら語りかけた。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか? バロア帝国が我が領地を一億枚で買い取ると仰いましたが……その資金は、一体『どこ』から出されるご予定でしょうか?」
「何……? 我が帝国の国庫からに決まっているだろう!」
「ふふ、おかしいですね」
私はセバスチャンに目配せをした。セバスチャンは即座に、厚い革装丁の黒い台帳を取り出し、テーブルの上に置いた。
「こちらは、我がアスガルド調査部がまとめた、バロア帝国の直近三年間に及ぶ『国家財政決算書』の分析結果でございます」
レイナルドの顔から、一瞬で余裕の笑みが消えた。
「な……何だと……!?」
「バロア帝国は近年、無謀な軍備拡張と周辺国への挑発を繰り返した結果、軍事費が国家歳入の七〇%を圧迫しております。足りない資金を補うため、帝国中央銀行は大量の『無担保国債』を発行し、各国の市場へ流出させていますわね」
私は台帳をめくり、赤字で強調された数字をレイナルドに突きつけた。
「そして、その帝国債の『六五%以上』を買い占めて保有しているのが誰か……ご存じですか? ……そう、我がアスガルド公爵家が傘下に収める『アスガルド投資銀行』です」
「な……な……っ!?」
レイナルドが立ち上がり、椅子が大きな音を立てて倒れた。彼の額から、ツッと冷や汗が流れる。
「つまり、殿下。あなた方は『借金で首が回らない状態』を隠すために、ラングハイムの肥沃な鉱山と穀倉地帯を一億枚という格安で奪い取り、その資源を新たな担保にして国債の暴落を防ごうと企んでいた……違いますかしら?」
「き、貴様……なぜそれを……! 我が帝国の最高機密だぞ!?」
「資金の流れを追えば、国家の台所事情など丸裸になりますわ」
私は優雅に足を組み替え、冷酷な眼差しで帝国皇子を見つめ返した。
「殿下、あなたが私を『愛妾』にすると仰ったのは、実に滑稽な思い上がりでしたわね。現実には、あなた方バロア帝国こそが、我がアスガルド公爵家の『信用供与』によってかろうじて息をしている『患者』なのですから」
「くっ……ふざけるな! 我が帝国には五十万の精鋭軍がいるのだぞ! 言葉を慎め! 貴様ら商人風情ごとき、我が大軍で踏み潰すことなど造作もないのだぞ!」
レイナルドが腰の剣に手をかけ、顔を血走らせて叫んだ。
言論や経済で勝てなくなると、すぐに暴力(軍事力)に頼ろうとする……愚者の典型的な反応だ。
私はため息をつき、手元のベルを静かに鳴らした。
「どうぞ、お好きなように軍を動かしてくださいませ。……ただし」
私は冷たく言い放った。
「あなた方が我が領地に一歩でも軍を進めた瞬間、我がアスガルド投資銀行は、保有する六五%のバロア帝国債を『すべて市場で叩き売り』いたします」
「……は!?」
「そうなれば、バロア帝国の通貨価値は一瞬で暴落し、帝国中央銀行は破綻。猛烈なインフレが発生して、明日には貴国の兵士たちの給与は無価値となります。給与の支払われない五十万の兵士たちが、一体誰に向かってその剣を向けるか……想像できますかしら?」
レイナルドの顔面から、見る見るうちに血の気が引いていった。
彼の腰の剣を握る手が、ガタガタと震え出す。軍隊とは、膨大な金によって維持される巨大な消費機関だ。兵糧も給与も支払えない軍隊が、ただの「暴徒の群れ」と化すことくらい、軍部を指揮する彼に分からないはずがない。
「さらに言えば」私は追撃の手を緩めない。
「我が家はすでに、バロア帝国へ送られる『食糧輸出国』の主要な港湾権も押さえております。デフォルト(債務不履行)が宣言された場合、帝国への穀物輸入は即座にストップいたしますわ。国民が飢え、兵士が暴動を起こす中で、殿下は私を愛妾にする余裕がおありかしら?」
「ひ……ひぃっ……!」
レイナルドは膝から崩れ落ち、床にへたり込んだ。
かつてアウグストがみせた姿と、まったく同じ無様な光景だった。武力を誇示し、他者を踏みにじろうとした男が、目に見えない巨大な経済の鎖によって鎖縛される瞬間。
「さあ、レイナルド殿下」
私は立ち上がり、彼の目の前にかがみ込んだ。
「現実的な話し合いを始めましょうか。……帝国の国債破綻を免れてあげる代わりに、貴国の『南方主要三港の三十年間の租借権』と『金鉱山の優先採掘権』を、我がアスガルド家に譲渡していただきます。……サインしていただけますわね?」
「さ……サインする! サインするから! 国債を売るのだけはやめてくれぇぇぇ!」
レイナルドは涙目になりながら、セバスチャンが差し出した新たな経済協定書に、震える手で署名した。
────
それから一時間後。
蒼白な顔で、這うようにして王宮を去っていくレイナルド殿下とその使節団を見送りながら、私はバルコニーで冷えたシャンパンのグラスを傾けていた。
「お見事すぎます、エレオノーラ様。一兵も動かさず、隣国バロア帝国の経済的実権まで握ってしまうとは」
セバスチャンが感嘆の声を漏らす。
「戦争なんてコストがかかるだけの野蛮な道楽よ、セバスチャン。血を流さなくても、契約と台帳の数字ひとつで国は傾き、我が家の軍門に下るのだから」
私は夜空に浮かぶ満月に向かって、グラスを掲げた。
「さて、ラングハイムの再建も順調、バロア帝国の抑えも完了……。明日はどんな事業が待っているかしら?」
その頃、遠く離れた第三黒鉛鉱山の地下深くと、第十四ジャガイモ農場の隅っこで、アウグストとマリアが泥にまみれながら、寒さと飢えに震えていた。
「アウグスト様のバカぁ……! 寒いのよぉ……!」
「マリア……静かにしろ……手を動かさないと、明日のパンが出ないんだ……くそっ、エレオノーラめぇぇぇ!」
彼らの恨み節は、夜風に乗って空しく消えていった。
彼らがどれだけ叫ぼうと、どれだけ過去の栄光を懐かしもうと、彼らが支払うべき「絶望の利息」は、まだ一割も返済できていないのだから。
「さあ、明日も元気に働いていただきましょうね」
私の静かな笑みが、闇夜に溶けていった。




