番外編②:老婆が守ろうとしたもの
老婆の名前は、マーリと言った。
ヴェルナで生まれ、ヴェルナで育ち、ヴェルナで齢を重ねた。
彼女は最初から、この街の異変を知っていたわけではない。
若い頃はごく普通の女だった。
好きな男がいて、結婚して、子供を産んで、夫を看取って、孫の顔を見た。
その孫が、消えたのだ。
八歳の孫が、秋のある朝、突然いなくなった。
泣き崩れるはずだった。
事実、三日間は泣いた。
しかし四日目から、マーリは調べることにした。
過去の神隠しの記録。
消えた子供の年齢と性別。
消える直前の様子の共通点。
そして、子供の体に現れていた変化のこと。
孫の首の後ろに、あの白い線が出ていたのを、マーリは覚えていた。
あの頃はなんだろうと思っていたが、消えた日に見れば良かったと後悔した。
調べれば調べるほど、分かってきた。
子供たちの変化は、一定の段階を超えると、池に吸い寄せられるように消える。
変化を遅らせることができれば、少しだけ長く、一緒にいられる。
マーリは草を学んだ。
根を学んだ。
木の皮を煎じる技を、独学で身につけた。
そうして作ったのが「変質抑制の薬」だった。
完全に止めることはできなかった。
でも、遅らせることはできた。
変化の始まった子供に、さり気なく薬草茶として飲ませれば、進行が数ヶ月ほど遅くなる。
数ヶ月だったとしても、親は子供と一緒にいたいと思うだろう。
その数ヶ月の間に、子供は親と一緒にいられる。
親も子供と一緒にいられる。
それで、いいではないか。
マーリはそう思っていた。
ゴットとは、あるとき偶然に話した。
「お前も気づいているんだろう?」
ゴットが静かに言った。
「ずっと前から気づいていたさ」
「俺も同じだ。
で、どうする気だ?」
「どうもしない。
できることをするだけだよ」
二人はしばらく黙っていた。
「逃げられないか、試したことはあるか?」
ゴットが聞いた。
「一度だけあるよ」
「どうだった?逃げられたかい?」
「三里まで行ったところで、足が動かなくなった。
それ以上、身体が進もうとしなかった」
「そうか。この街で生まれ育った者は、ここから出られないのかもしれんな」
しばらく二人は何も喋らなかった。
「このことが、怖いか?」
「……怖いね。自分だけが知っていると思っていたから、余計に今までは怖かった」
マーリは正直に言った。
「でも、もっと怖いのは、この街の人間が知らないまま変わっていくことだよ」
「みんなに、知らせるつもりか?」
「言っても、信じないよ」
「そうだな」
「だから、できることをするだけさ」
それきり、二人が深く話し合うことはなかった。
でも、お互いがそこにいることを知っていた。
自分だけではないということを、知っていた。
それが、奇妙な心強さになっていた。
火刑の壇上で、マーリは恐怖に震えていた。
迫りくる炎を前にして、抗える人間などいない。
でも、怖さよりも強い何かがあった。
目の前に立つ母親たち。
その顔を見て、マーリは思った。
かわいそうな人たちだ。
知らないまま変わっていく。
知らないまま子を産み続ける。
知らないまま、誰かを燃やして、『自分なりの正義』を感じる。
『子供のことを……確認したいかい?
なら、池の中を覗いてご覧』
マーリは大人たちに、最後にヒントを残した。
知ることが人間の最後の尊厳だと、マーリは思っていた。
逃げられなくても。
助からなくても。
知ることだけは、できる。
それがせめてもの、意地だった。
炎の中で、マーリは孫のことを思った。
あの子は今頃、池の底で眠っているだろう。
次の段階へと、変わりつつあるだろう。
いや、もう次の世界にいるのかもしれない。
怖くないといいけれど。
痛くないといいけれど。
眠るように、ゆっくりと、変わっていけているといいけれど。
そう思いながら、目を閉じた。
池の底では今日も、繭が揺れる。
マーリの孫も、どこかにいるのだろうか。
繭の次は、どうなるのだろうか。
マーリは知らない。
知る前に逝ってしまったから。
でも、もし今の孫の姿を見ても、
マーリは愛おしいと、思っただろう。




