#29 ふたたび消えた婚約者
ジェラール視点です。
「消えた……?」
アリシアを捉えようと伸ばした両手が空を掻く。
俺は目の前の噴水を見下ろし、ただ呆然と立ち尽くした。
試しに指先で冷たい水面を叩いてみる。だが、広がるのはただの波紋だけ。
どこへ消えた?――いや、どこへ転移したのか?
つい先日、誘拐され、危険な目に遭ったばかりだというのに……またしても……!
「アリシア……!」
名前を呼んでも、当然返事はない。
胸の奥に広がる不安と焦り。彼女は無事なのか?
酔った状態で、魔力の制御もおぼつかないまま転移したのなら……。
最悪の可能性が脳裏をよぎるたび、頭を振ってそれを打ち消す。
「どうする……」
今すぐにでも手がかりを見つけなければ。
焦燥に駆られたまま水面を見つめるが、答えは見つからない。
聞こえるのは、噴水から落ちる水が水面を打つ音だけ――
……いや。違う。
耳を澄ませば、どこからか微かな笑い声や囁き声が聴こえてくる。
薄暗い周囲に目を凝らした。
噴水を囲む植込みや木陰。
そこかしこに、舞踏会から抜け出した恋人たちの気配が漂っていた。
さらに、少し離れた植込みの影からは、抑えきれない熱を帯びた吐息が漏れてくる。
甘い声で繰り返し呼ばれる名前に聞き覚えがあり、その相手が自分の部下の騎士の一人だと気づいた瞬間、俺は思わず頭を抱えた。
(ここは王宮だぞ。何をやっているんだ!)
俺は眉間に皺を寄せ、思わず周りを睨む。
こんな場所でアリシアが消えたなんて、余計にややこしい……。
その時だった。背後から、聞き覚えのある声が静かにかかった。
「第一騎士団長閣下――こちらで何をなさっているのですか?」
振り返ると、近衛騎士の制服に身を包んだ青年が月明かりの中で近づいてきた。
エミール・フレアベリー。
アリシアの五番目の兄、双子の近衛騎士の片割れだ。
短く刈り揃えた金髪、整然とした佇まいに、任務中の緊張感が滲んでいる。
「フレアベリーか。巡回ご苦労。」
俺が応えると、エミールは規律正しく騎士の礼をとる。
「噴水が……何か問題でも?」
その声には、騎士として、目の前の状況に可能な限り役立とうとする誠実さが感じられた。
「実は……。」
どう説明すればいい?
アリシアがここから消えてしまったと……。
そのとき、木々の陰からひときわ甘ったるい嬌声が響いた。
今まさに天国への階段を駆け上ろうとしている恋人たちが、徐々に速まる荒い息遣いを、隠す余裕さえなくなっている。
エミールの顔が薄闇の中でもわかるほど,はっきりと赤く染まった。
「……っ!」
彼は俺の顔を見たまま固まった。
動揺しつつも、そちらを確認する勇気はないらしい。
「まあいい、任務に戻っていい。」
俺がそう言うと、エミールはいくらかほっとしたような安堵をみせて、もう一度礼を取った。
そして急ぎ去りかけてから、ふと立ち止まり振り返った。
「そういえば……閣下は今夜、アリシアをエスコートされていたのでは?」
彼は一歩戻って、周りを見渡す。
「妹は…どこです?」
その声には、冷静な問いかけの響きとともに、僅かな疑念が混じっていた。
「いや……エスコートの役目を放棄したわけではない。ただ……」
俺は一息つき、諦めて言葉を続けた。
「アリシアがここで魔法陣を使って……消えたんだ。」
その言葉に、エミールは数秒間無言で立ち尽くした。
やがて、軽く息を吐き、慎重に、確認するように口を開いた。
「つまり妹は、ここで、閣下から逃げた、ということですか?」
「……まあ、そうだ。」
俯いたエミールがぐっと拳を握りしめた。彼の声は明らかに動揺している。
「……このような薄暗い場所にアリシアを連れ出し……不埒なことを……!
それも…アリシアが、嫌がって逃げるほどの……!!」
「ちょっと待て! 勝手に決めるな! 俺は断じて……まだ何も、していない!」
「まだ!?」
「細かい言葉を拾うな。アリシアの酔いを冷ますために連れてきただけだ!」
「……閣下! 妹に、飲ませた……のですね……!?」
エミール・フレアベリーは、まるで『最悪だ……』と言わんばかりの表情で俺を見た。
その目には、俺に対する不信がはっきりと宿っている。
「酒に弱いアリシアを酔わせてまで……!
……婚儀までお待ちになれないのですか!?」
まさか屋外で……とか、……いや、氷雷の剣は本当に場所を選ばないのか……とか、彼はぶつぶつと呟く。
多分、激しく誤解されている……これ以上ないほどに。
「とにかくだ。……今すぐアリシアを探さなければならない。何かわかったら教えてくれ。」
「アリシアの居場所、ですか……」
エミールは眉間に小さく皺を寄せ、深く考え込むように目を伏せた。
その仕草からは、騎士としての義務感と、兄としての葛藤が戦っているようだった。
やがて、諦めたように顔を上げ、仕方なさそうに答える。
「……兄のバスチアンなら、妹の居場所がわかると思います。」
そう言って音楽が漏れ聞こえてくる舞踏会の会場の方を見上げた。
御来訪ありがとうございます。
上品に、ふんわりと、描いています。
それでも。これは全年齢、とそろそろ言いにくい? どうなの?
と……今更ですが、一応R-15つけてみました。
たぶん、これでよいでしょう。
ありがとうございました。




