#25 手を伸ばせない距離で
アリシア視点です。
わたくしは、他の家族には知られず、無事に家へ戻ることができました。
もちろん、こっそりと外出したことについては、バスチアンお兄様から、こってりと絞られました。
そして安全な家の中にいても、常にわたくしのそばには誰かがいるようになりました。
またどこかに逃げ出さないかと…心配されているのだと思いますわ。
バスチアンお兄様とジェラール様のお取り計らいで、事件は内密に処理されました。
そのため、セドリック様が罪に問われることはありませんでしたが、侯爵家を離れることになったそうです。
修道会に入り、神の道に進むことをお決めになったとか。
本来明るく、あたたかい心をお持ちの方ですから、きっと苦しむ人々に光をともす、よい司祭になられることでしょう。
ですが……ジェラール様とは、あの日以来お会いできていません。
事件の性格上、他人に任せることができず、とても、とてもお忙しいのだと、バスチアンお兄様から伺いました。
それを知って、今更ながらに気づきます。
わたくしの軽率な行動が、大きな迷惑をかけてしまったことは間違いありません。
それどころか、失望されているのかもしれません。
毎日、花を贈ってくださるのですが、それを見るたびに胸が痛みます。
お優しい方だからこそ、面倒に思われてもなお、こうして気遣ってくださるのかもしれません。
王宮舞踏会の2日前、シャルム・ド・クレールのお店から、以前ジェラール様と仕立てたドレスが届きました。
紫色の上質なシルクに銀糸が織り込まれた、艶やかな一着。
その手触りの滑らかさに、思わず涙が滲みました。
手に握りしめていたのは、ジェラール様から頂いた紫雷鳥の髪飾り。
そのきらめきがジェラール様の瞳を思い出させ、わたくしの胸を締めつけます。
わたくしは、ジェラール様が好きなのです。
いつもわたくしを包み込むような優しさも。
話しているだけで新しい発見をくださる、その聡明さも。
わたくしをすくいに来てくださったときに見せた、凍り付くような激情も。
必要とあらば迷いなく裁きを下そうとする揺るぎない強さも。
そして……涙にくれるわたくしにほんの一瞬垣間見せてくださった、隠し切れない情熱も。
ジェラール様は、私のために数え切れないほど多くのことをしてくださったのです。
けれど、わたくしはまだ……彼に何一つ、返すことができていないのです。
ですからもし……もしも、彼がそんなわたくしを厭い、それでも結婚のお約束を守ろうとして下さっているのだとしたら……それはあまりにも申し訳なく、耐えられないことでした。
涙がぽろぽろと溢れ落ちるわたくしを、バスチアンお兄様が優しく抱き寄せます。
その温かさに包まれると、あの日ジェラール様の胸に抱き寄せられたときのことを思い出し、ますます止まらなくなってしまいます。
「そんなにジェラールに会いたいのか?」
お兄様の声は、わたくしの気持ちを見透かしているかのようでした。
「今すぐ呼びにやろう。あいつだってそろそろお前に会いたいだろうからな。」
「おやめくださいませ、お兄様!」
慌ててわたくしは首を振ります。
「違いますわ……わたくし……わたくし、幸せで泣いているのです!」
涙声でそう告げたわたくしに、お兄様は優しく微笑み、何も言わずにそっとその背をさすってくださいました。
*******
それでも……お兄様が連絡をされたのでしょうか。
ジェラール様は翌日、わたくしを訪ねてくださいました。
泣きはらした瞳をなんとか冷やして、お目にかかります。
ドアが開き、ジェラール様の姿が目に入った瞬間、わたくしの胸は張り裂けそうになりました。
どうしてもきれいに見せたいと思ったのに、彼の前では自信が持てませんでした。
「ジェラール様。ドレスが届きました。ありがとうございます。」
わたくしは笑顔を作り、できるだけ穏やかな声で申し上げました。
けれど、その笑みが引きつっていることに、自分でも気づいていました。
ジェラール様はそんなわたくしをじっと見つめ、眉を寄せます。
「アリシア嬢……辛い思いをさせてしまいましたか。」
その声は低く、優しさに満ちていました。
けれどその瞬間、抑えようとしていた涙が再び溢れそうになってしまいました。
――ジェラール様は、わたくしのことを「アリシア」ではなく「アリシア嬢」とお呼びになりました。
この前は「アリシア」と呼んで下さっていたのに、どうしてしまったのでしょう。
その呼び方には、あの日の親密さを遠く引き離す壁を感じずにはいられませんでした。
やはりわたくしが迷惑をかけすぎたからなのでしょうか。
「いえ……ジェラール様のせいではありませんわ。」
必死で笑顔を作り直しながらそう答えましたが、声が震えるのが自分でも分かりました。
それからは彼が何を話題にしても、「アリシア嬢」と呼ぶたびに、遠ざけられているように感じてしまいました。
ジェラール様は心配そうにわたくしを見つめています。
けれど、その瞳にわたくしが知りたくない感情が浮かんでいるのではないかと怖くなり、つい視線をそらしてしまいました。
「まさか………それほどにも、会いたい……とお思いなのですか。」
ジェラール様の声は苦しげでした。
わたくしもその言葉に、一瞬、息が止まりそうになりました。
ジェラール様にお会いしたかったのは本当ですもの。
「ええ、もちろんですわ!」
わたくしはジェラール様をじっと見上げました。
ジェラール様が、『私もです。』と言ってくれるかと、少し期待しました。
しかしジェラール様はふっとわたくしから目をそらせてしまわれました。
「それは叶えてあげられませんね。」
またわたくしはわがままを言ってしまったようです。
ジェラール様がお忙しいことはわかっていたはずです。
「……ごめんなさい。」
そう呟くと、ジェラール様は穏やかな口調で言いました。
「明日の夕刻、お迎えに参ります。どうか、それまでに涙を乾かしていてくださいね。」
そしてジェラール様はわたくしの手に触れることさえせず、邸を後にされました。
残されたわたくしの胸には、ぽっかりと穴が開いたような虚しさが広がりました。
彼がどれだけ優しい言葉をかけてくださっても、ぐずぐずと泣いてばかりいたわたくしは、なんとみっともなく、うっとうしい婚約者なのでしょうか。
いいえ、正確にはまだ婚約者でさえもないのですわ。
――もう、泣くのはやめましょう。
せめて、国王陛下の前で、私の未熟さがジェラール様の評価を曇らせることだけは、絶対に避けなければなりません。
わたくしはジェラール様のお力にはなれなくても、これ以上足を引っ張ることはしたくありません。
その決意が胸の奥で静かに燃え上がります。
わたくしは侍女を呼び、明日の王宮舞踏会のために最善を尽くすよう指示を出しました。
鏡の前で、ふわりと紫色に輝くドレスを羽織り、手に取った髪飾りを眺めます。
――あの優しい瞳に、少しでも美しいわたくしを見ていただけるように。
恋をすると、なぜか後ろ向きになることって、ありますよね…?
読んで下さってありがとうございます。




