#23 そして、偽りの微笑
ジェラール視点です。
「アリシアを連れて帰る。あとは任せる。」
アリシアを支えながら、バスチアン卿が言った。
俺に事後処理を丸投げするつもりらしい。
今のアリシアを離したくはなかったが、それが最善だということは俺にもわかっていた。
アリシアが無事に、秘密のうちに家に帰るとすれば、兄であるバスチアン卿にまかせるべきだと。
俺が頷くと、彼が一言「気をつけろ。」と囁いた。
それから着ていたマントの片側ををふわりと広げてアリシアを覆いこむ。
二人はふわっと光を放ち、そして消えた――無詠唱で。
廊下に残った静寂は妙に冷たかった。
*******
さあ……この後どうするべきか。
アリシアを誘拐した張本人を、どう処理するかが課題だ。
ちょうど目の前で、彼がゆっくりと立ち上がったところだった。
セドリック・ド・ラ・モンテ卿――奴は、たった今自分でアリシアの手から外したばかりの魔道具のブレスレットを片手に持ち、濡れた頬をぐいと手で拭う。
その仕草を見て、こいつもアリシアに本気で心を囚われていたのかと思うと、一瞬だけ同情が浮かんだ。
だが――。
「さすがだな、シャルトリューズ。」
金色の睫毛に残る水滴が光を弾く。その目はどこか飄々としていた。
「これであの子の心、すっかり掴んだんじゃないか?」
「貴様……」
俺の声は自然と低くなる。
剣を握る手に力がこもる。刃先を冷たい稲妻が駆け抜けるのが目に見えた。
「まあ、怒るなって。」
彼は軽く片手を上げると、気怠そうな仕草でベッドの柱に寄りかかった。
その目は俺の剣を一瞥し、再び冷たく笑みを浮かべる。
「せっかくいい舞台を用意したって言うのに。もう使えないな……恨むよ?」
ベッドのカーテンを持ち上げ、シーツに指先を滑らせる。その動きが妙に不快だった。
「ここで……無垢なアリシアを、花開かせるはずだったんだ。」
「その名を口にするなと言ったはずだ。」
刃先を駆ける稲妻が、低く唸る音を響かせる。
「怖い怖い。」
彼は肩をすくめたが、その目には恐怖の色はなく、むしろ楽しげだった。
バスチアン卿の「気をつけろ」という言葉が頭をよぎる。この男は本当にタチが悪い。
「でもさ、シャルトリューズ。あんたがここでオレを殺すってのも、面倒な話だろう?」
胸の怒りが膨れ上がる。だが、ここで理性を失うわけにはいかない。
武器を持たない相手に対して、この剣を汚すことはできない。
……そう判断して、俺は剣を収めた。
視界の隅で彼がニヤリとあざ笑うのが見えた。
気づけば拳が動いていた。鳩尾を狙い、思い切り叩き込む。
「ぐはっ……!」
モンテ卿は窓枠に吹き飛ばされ、ガラスが割れた音が響く。
だが、意識を失うこともなく、床に手をついて立ち上がろうとする。
俺はそれを見下ろして、上から片足で踏みつけ、体重をかけながら吐き捨てる。
「粋がるな……そんな余裕がいつまで続く?
庭や館に随分力を入れていたようだが……女ひとりのためにか?」
彼は苦痛に顔を歪めつつも、歯を食いしばりながら笑った。
「へえ。そういうなら、あんたが譲ってよ。アリシア、オレに譲って?」
「お前を二度と、彼女に近寄らせはしない。」
「そー言ったって、ずっとそばにひっついてるわけにいかねーだろ。騎士団長さんはよ?」
床に踏みつけられているにもかかわらず、彼の俺を見上げる視線は揺るがなかった。
俺は彼をそのまま蹴り飛ばした。
床に転がった彼は床に手をつきながら、わざとらしいほどゆっくりと立ち上がった。
その余裕の仕草に、俺の苛立ちはさらに膨れ上がる。
彼は優雅な仕草で服を払い、それから、軽く指を鳴らした。
応じて、一人の従者が廊下の陰から姿を現した。
顔には殴られた痕があり、足取りはどこかぎこちない。
それでも、主の命に見せる表情に、忠実なしもべであることが感じられた。
「カーター、準備だ。帰るぞ。」
従者が彼の隣に立つ。俺は片手で二人の行く手を遮った。
「帰すと思うのか?」
「あんたの手間を省いてやるんだぜ?」
彼は軽く笑いながら、あからさまにベッドを見やった。
その仕草には、いやらしさと勝ち誇ったような挑発が滲んでいる。
「あんたとバスチアン・フレアベリーがふたりだけで来たってことは、さ。
このこと、他に知られたくないんだろ?
ここに……アリシアがオレとふたりきりでいた‥‥…ってさ。」
俺が歯を噛み締めると、彼は面白そうに眺めてきた。
そして挑発的に笑うと、ふいとサイドテーブルに向かう。
抽斗から何かの書類を取り出し、俺に向かって放り投げた。
「なんだこれは?」
視線を落とすと、それはこの別邸の権利書だった。
「結構維持費がバカにならなくてさ。あんたにくれてやる。」
モンテ卿は笑みを深めると、そのまま従者を引き連れて出口に向かう。
それからふと立ち止まり、振り返らずに言った。
「しばらく家にいるつもりだ。処遇が決まったら知らせてくれ。」
一瞬おき、同じ軽い口調のまま続ける。
「女を待たせてるから、急がないでいいぜ。……じゃあな、婚約者さん。」
その言葉を残し、彼は部屋を後にした。
静寂だけが残る中、俺は目の前に落ちた権利書を拾い上げ、ため息をついた。
本当に終わらせるべきは、この先にあるのだ。
奴をどう扱うか、慎重に考えなければならない。アリシアを守るためにも。
俺は今度こそ、大切な人を守ることができるのだろうか。
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