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事件の結末 エピローグ

 まるで風船が解き放たれるように、見下ろした爪先が音もなく浮き上がる。

 そんな一瞬の光景を、コマ送りのスローモーション映像みたいに、はっきりと八花は記憶した。


 いっとき遅くなった時間が、遅延を取り戻すかのように勢いよく流れだす。

 煙を上げる焼け焦げた校舎と、取り囲んでいるおびただしい数の赤い回転灯。

 そのあいだを慌ただしく行き来する人もいれば、嵐におびえたようにうずくまる人も、右往左往するだけの人もいる。


 抱え込まれたユツギの腕の中からは、そんな地上のありさまが俯瞰できた。

 ぐんぐん遠ざかるそこに芽衣を発見できたのは、奇跡か友情のなせるわざか。

 神楽を舞うための千早をまとったまま、人ごみを押し分けながら駆けてくるところだ。


 その目は迷いなくこちらをとらえている。

 視線が合ったのに気付いて、両腕を高々と差し向けた。

 今すぐ飛び降りれば、私が受け止めてあげる――そんなふうに。


 そばには桂太の姿もある。芽衣に追いすがり、夢中でカメラを向けている。

 危ないよ、こんなときに何やってんの、と呆れるけれど、シャッターを切りたくなる気持ちは理解できた。


 辺り一帯を舞台のように照らす消防車両のライトを浴び、懸命に両腕を広げる姿は神々しくて。

 今さらのように見惚れてしまう。

 あたしの親友は、なんて綺麗なんだろう。


 あかん、と芽衣が叫んだ。あかん、八花、戻ってこんか。


 この距離で聞こえるわけがないのに、芽衣の声が確かに心を打つ。

「ごめん!」と一言、叫び返した。

 村で暮らすからと東京行きを断っておいて、二度と会えないところへ行こうとしている。

 ちゃんと謝らなくちゃいけないのに、言葉を尽くす時間がない。

「ありがとな! それと、元気で!」


 ケンカ相手を逃した黒い竜巻が、勢いを失って消えてゆく。大気に満ちていた緊張が緩み、最後まで踏み止まっていた校舎がのろのろと傾きだしたのが見えた。

 そっちの方向には、芽衣をはじめ大勢の人たちがいる。

 危ない、と悲鳴を上げかけたとき、校舎は信じられないような挙動をした。地面に激突する寸前、その巨体が元どおりに起き上がり、すとんと垂直に崩れ込んだのだ。


 一瞬おくれて重い衝撃音が轟き渡ると、塵や煙がもうもうと舞い上がる。

 倒壊の余波を受けた人々が、ひれ伏すように倒れていく。


「……今のって、まさか」

 首をねじって見上げると、ユツギは複雑そうな顔だった。

「あいつには、少々の引け目があってだな。……まあ、何も聞いてくれるな」

 なくした三つめの勾玉の願い事にしてくれるという。もちろんこっちに異論はない。


 呆然と座り込んでいた芽衣が、一瞬、泣きそうな表情を見せた。

 でも、すぐに大きく頭を振り、顔をくしゃくしゃにして怒鳴り返してきた。


 八花の馬鹿。もう知らん、勝手に幸せになりゃあええわ――。






 唐突に視界が白く濁り、いっきに気温が低下した。雨雲の中に突っ込んだのだ。

 肩先をかすめる雲の流れで、今の飛行速度がすさまじいと分かる。


 後方を飛んでいたヒノメが、すいっと距離を詰めてきた。

「山犬女めは飽きたようですが、小物どもは腹の虫がおさまらぬ様子。脚の速さは侮れず、じきに追いつかれましょう」

 ユツギは瞬間移動ができる。どうして一息に縄張りを出ないのかなと思ったけど、余計な荷物、つまりあたしたちを連れているせいなんだろう。


「お前たち、あの小うるさい山犬どもを蹴散らしてこい」

 ユツギが命じると、雲の中をもつれ合うように並走していた魚の影が、我先にと反転していった。彼らの向かった先々で青白い閃光がはじけ、くぐもった雷鳴が轟き始める。


「わたくしも加勢してまいります。すぐに片付けて追いつきますゆえ」

 そう告げたヒノメがユツギの向こうへ回り込み、これ見よがしな耳打ちをした。

「我が君。結局、お気持ちを伝えぬままにしておられますが、八花さまは肝心なところを誤解なさってしまったのでは」

「……おれもそのような気はしている」

「自覚がおありで結構。さっさとへたれを返上なさいませ」

 同じようにユツギに抱えられた双葉が、「へんじょう」と呟く。

 その手に握られた小鳥も、声を揃えるようにチキキと鳴いた。


「……あのさあ。さっきから、ちょいちょい仲間外れなんだけど、みんなで何の話をしてるわけ?」

 横から口を出すと、全員の目がユツギに注がれる。

「いや、その……落ち着いたら話す」

 当人は咳払いし、そっぽを向いてしまった。

 また赤くなってるけど、何なの、恥ずかしいことなの?


 ヒノメが引き返していってから、しばらく。やっと雨雲の層を突き抜けた。

 満月が横から照らしていて、自分たちの影が雲海に落ちている。

 雲の中で咆哮を上げているのは二匹の魚の影。巨大な尾びれで追いすがる旋風を蹴散らし、大気を打って震わせる。

 波立つ雲海はちぎれて飛んで、少しずつ四方へ追い払われていった。


 二匹の大暴れのおかげで、やがて雨雲は完全に晴れた。

 夜の底には、青白い月の光に沈んだ村の姿。

 一面を覆っていた濁流は引いたようで、タイル状に並んだ田んぼの区画が、くっきりと浮き上がっている。どうやら最悪の事態は回避できたみたいだ。


 赤い光が密集している場所は、さっきまでいた廃校舎の跡。村のこちら側を流れる光の列は、高速道路を走る車のライトだろう。

 それらの中間、小さな明かりが無数に集まっているところは、きっと不吹神社のお祭りの光だ。


 あたしは生まれ育った村を愛していた。

 こんなふうに、何もかもを置いてゆく未来なんか想像したこともなかった。

 たくさんの心残りが、今になって次から次へと湧いてくる。


 そういえば、バイク店にスクーターの修理を頼んだままだった。

 週が明けたら教官にラフ画を見てもらう約束だった。

 回ってきた回覧板をお隣さんに渡し忘れていた。

 今月の電気料金、まだ振り込んでない。

 閻魔堂さんと、ナギの遺作をどうするか話し合っておきたかったかも。


 家には家財道具が丸々残っている。このまま自分たちがいなくなったら、大家さんは困るだろう。契約書には柚比良の連絡先も書いてあるから、申し訳ないけど、後始末は伯父さんに任せるしかない。

 工房には大切に使ってきた道具があって、どれもこれも思い出の品だった。


 約束をすっぽかすことも、義務を放棄することも、以前の自分には絶対にできなかったことだ。

 なのに今は――おそらくは爪先が地上を離れたあのときから、罪悪感も良心の呵責も、地上の景色と同じような、遠くから見下ろすものになってしまった。

 身を切られるようなつらさに後悔はしても、もう引き返そうとは考えない。


 引き返すことを選ばない自分が不思議で、少しだけ愉快だ。

 初めて好きかもって感じられた。

 変化の原因は、一緒に行くことを選んだあの瞬間にあったんだと思う。


 かつての自分から現在の自分へと遷移するときの、変わり目となる一瞬。

 あたしの天秤は傾き、望んだ選択の先へとトキハカシを越えた。






「……おい。先ほどから、ずいぶん大人しいではないか。どこか具合でも悪いのか」

 ユツギが困ったように顔をのぞき込んできた。

 ぼんやりと黙りこくっていたので、心配してくれたらしい。


「ま、まさか、やっぱりやめるなどとは言わんだろうな」

「そんなんじゃないって」

 妙に焦っているのが可笑しくて、笑ってしまった。

「ただ、これでまた一つ、失踪事件のできあがりだな、ってさ」


 焼け跡から遺体は発見されない。

 いくら探しても消息が明らかになることはない。

 芽衣以外にも飛び去ったところを目撃した人がいたのなら、きっとオカルト話が世間を賑わせる。オオカゼに持っていかれた、なんて村では噂されるかも。

 茨木さんが興味ありそうだったし、記事になったら面白いのに。


 想像するのは無責任に楽しくて、だからこそ、変わってしまった自分にまた気付く。

 今までだったら、とてもじゃないけど、のんきにしていられなかった。


「はーちゃ。だいじょうぶだった、でしょ?」

 どこか満足そうに双葉が聞く。

「うん。背中を押してくれてありがと」


 自分からも隠していた望みに、気付かせてくれてありがとう。

 欠けたところだらけの至らないあたしを、いつも助けてくれてありがとう。


 かつての真面目で良い子だった自分が、本当にやりたかったこと。

 それは、自覚した今でも言い表すのが難しいこと。

 どこに行きたいとか、何がしたいというような具体的な言葉では表現できない。

 たとえるなら、制限速度を越えて走ってゆくようなことだ。


 霞んでゆく故郷の姿を目に焼きつけた。


 卒業したら、家から通える場所に仕事を見つけるつもりだった。

 特別でラッキーな出来事が起こるわけでもない、ささやかだけど満ち足りた人生を送るのだと思っていた。

 また田植えの季節が巡ってくれば、『空を飛べたらいいな』なんて子どもっぽい空想をしながら、鏡写しの青空の中を、愛車の赤いスクーターで毎日トロトロと走っていくんだろうなって。


 でもやっぱり、あたしは飛んでみたかったのだ。

 アクセルグリップを思いきり握り込んでしまいたかった。


 勢いあまってどこかに突っ込み、怪我をすること。壊れたバイクの修理代を支払うこと。交通違反で捕まり、点数を引かれてしまうこと――そんないっさいの心配事を頭から追い出して、ただ未知の体験をしてみたかった。

 それを望める場所へ行きたかった。


 メーターが振り切れるくらいのスピードに乗って。

 重たいヘルメットを脱ぎ捨てて。

 はしゃいで歓声を上げながら、両手をハンドルから放し、ステップを蹴って。


 そんなふうに、青空めがけて離陸したいと思ってたんだ――。








フフキオオカゼ失踪事件 ~神様を追い返したい私の十日間~

Fin.

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