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事件の予兆 プロローグ

 結局、ワンピースは縫い上がらなくて、お棺に納めることもできなかった。

『楽しみやなあ。どんだけ腕前が上がったか見せてもらうし』と、おどけて小指を差しだした母さんとの約束は、ついに果たせなかったことになる。


 病室で日に日に恐ろしいほど痩せ細っていった、まだ若くて元気者だった母さん。

 せめて意識のあるうちに完成させなきゃいけなかったのに。

 あたしはミシンの前で、池の水ごと凍ったアヒルみたいに途方に暮れてしまっていたんだ。


   ※  ※  ※


 三月最後の月曜日。風に桜の花びらが舞い踊る。

 散りかけた花も、そうでない花も、もれなくさらう荒くれの南風。


 きしむガラス扉を後ろ手に閉めながら、周防八花(すおうはっか)は眉をひそめた。

 花びらと一緒に運ばれてくるのは不吉な騒音。消防車のサイレンだ。

 そう遠くない場所で鳴っている。


 ベンチにお盆を置いて中庭を突っ切った。フェンスぎわを右往左往し、爪先立ちになってもみたけれど、木立が邪魔して現場がどこかも分からない。


 風の強い土地に生まれて十七年。火災とは炎の災厄であるのだと、村のお年寄りたちから、しつこいくらいに聞かされてきた。

 たとえ小火だとしても、この強風だ。対応が遅れれば大火事になる。

 念のため避難するべきかと考えていると、ほどなくサイレンは鳴り止んだ。窓から顔を出した職員さんが誤報のようだと教えてくれた。


 はあ、よかった。

 思わず胸をなで下ろした。


「飛び火で火葬場が火事なんて、そんなの洒落にもならないよな……」


 見上げた薄紅色の梢の向こうには、武骨な造りの古ぼけた煙突。先端から少しずつ吐きだされる白煙が、風に吹かれて散ってゆく。

 晴れ渡った空は春先には珍しい爽快な青色だ。

 その鮮やかな色彩に、ワンピースになるはずだった真新しい布地の、青い大輪の花模様を思い出した。


 青は凛々しかった母の十枝(とおえ)に最も似合う色だ。

 人に頼られることの多い姐御肌で、


『うちにまかしとき、ぶっとばしてやるがいね!』


 と、威勢のいい訛まじりに何でも安請け合いした。

 酔ったときの厄介な癖だった。

 桜吹雪の季節に逝くなんて、お祭り騒ぎの好きな母さんらしいけど。


 引き返してきたベンチでは、義妹の双葉(ふたば)がころんと丸まり、すうすう寝息を立てていた。きっと、ここ数日のあれこれで疲れていたんだろう。

 うん。ほんとに疲れたなあ。

 ずっと動きづめだったけど、これでようやく一段落。

 やれやれと隣に腰を下ろし、お盆に手を伸ばして三つある湯飲みの一つを取る。

 ちら、と向かいのベンチに目をやり、すぐにそらして緑茶をすすった。


 今日くらいは呆けていたかったけれど、耳に絡みつく嗚咽がそれを許さない。

 ……しかたない。

 制服のスカートからハンカチを取り出し、「使えば」と突き出した。


 十枝の臨終からずっと、葬儀屋との打ち合わせのときも、通夜や葬儀の読経の最中も、さらにはお骨を待っている現在に至るまで、喪主の責務をいっさい放棄し、ただただ子どもみたいに泣き続けている男。

 十枝の再婚相手で、双葉の父親で、八花にとっては義理の父親。

 名をナギという。

 ナギの握りしめているハンカチは、もう見るからにぐっしょりだ。


「……う、ありがと……」

「喉ガラガラじゃん。ほら、水分補給」

 ハンカチと一緒に湯飲みも押し付けた。


 継父は今年で三〇歳になるそうだ。実際のところはよく分からない。


 十枝に一目惚れして家に転がりこんできた生粋のロマンチスト。大学生くらいに見えた当時から十年と経っていないけれど、今だってせいぜい新卒といったところ。

 その容貌ときたら、きらきらしいほど麗しく、いわゆるエルフやら精霊やらのフィクション的な何かを連想させる。

 もう年齢なんか大した問題じゃないよな、と思えてくる。


 本人は何も言いたがらないが、きっと純粋な日本人でもないのだろう。

 外国どころか異世界人の血が入っていそうな可能性は考えないとして、少なくとも育った環境はずいぶん違うことは分かる。

 十七歳の義理の娘に何もかも押し付けて、恥も外聞もなく泣き暮れていられるなんて、どんな常識の中で育ってきたんだろ。

 こっちは目の前の雑事を片付けるのに必死で、泣いてる暇もなかったのにさ。


「ご、ごめんね。一人でめそめそしてばかりだよね。これでも僕、二人のお父さんなのに……」

 恨めしさが顔に出ていたらしく、ぼそぼそとナギが謝ってくる。

「……別にいいよ」

 双葉の髪についた花びらを払うふりで、さりげなく目を伏せた。

「大好きなナギさんに惜しげもなく泣いてもらえて、きっと母さん喜んでると思うし。女冥利に尽きる、とか何とか言って」


 どんなにイラッとさせられても、結局、しょうがないなあ、で許してしまえる。

 たぶん、それが家族ってものなんだろう。

 半分だけ血の繋がった双葉も、赤の他人のナギも、いつの間にか家族になっていた。


「十枝さん、喜んでくれてるのかな。いつも鬱陶しいって怒ってたけど」

「それは母さんの照れ隠しだよ。まあ、拳も飛ぶとは思うけど」

「ふふ。十枝さんだものね」


 少しだけ口元をほころばせたナギが、また俯いてハンカチを握りしめる。

 八花はベンチを移り、丸まった背中をさすってやった。


 ――それにしても、これからどうしたものかな。

 賑やかな桜吹雪を見上げ、ひっそり溜息をついた。


 洋裁師として自宅に工房を構えていた十枝は、我が家の大黒柱だった。けれど原因不明の病に倒れて以来、ただでさえつましい蓄えは大きく減少している。

 入院や葬儀の費用は保険でどうにかできたものの、双葉はこの春から小学生。今後は何かと学費もかさむだろう。


 そしてシングルファーザーとなったナギの職業は『自称』画家。

 年収はほぼゼロで、自他ともに認める十枝のヒモだった。

 こうなったからには定期収入のある職に就いてもらわねばならないけれど、なにせ顔と人の良さだけが取り柄の異世界人(疑惑)だ。

 果たしてナギにできる仕事が現世に存在するだろうかと、絶望的な気持ちになってくる。


 しかし何より打ちひしがれるのは、こうして義父をこき下ろす自分もまた、何の甲斐性もない小娘でしかない、という事実だ。


 通夜や葬式には、母の友人やご近所さんがたくさん駆けつけた。これから大変でしょう、何かあったら言ってと、こぞって皆さん励ましてくれた。

 そうして最期のお別れは身内だけでと送り出され、今は、がらんとした待合ベンチに三人きり。

 隣人たちの温かな心遣いだったけど、いちばん深くてしんどいようなところを分かち合えるのは、どうしてもやっぱり家族だけなのだと、かえって思い知らされるようだった。


 私たちは、たった三人きりの家族。

 これからは子どもっぽくて頼りない父親と、年端もいかない幼児と、半人前以下の自分だけでやっていかなくてはならない。


 不安と心細さに息が苦しくなって、ぐうっと喉が鳴りそうになった。


 とりあえず高校は卒業しよう。

 ろくに勉強してこなかったという母さんの要望でもあったし、どうせあと一年の話だ。

 そのあいだ放課後にできるアルバイトを探して、早めに就職活動を始めて、なるべく割のいい仕事にありつきたい。

 そうだ、春休み明けに出す進路調査票、忘れないうちに書き直しておかないと。


「――あのね、大丈夫だからね」

 ナギがしゃくり上げ、声を詰まらせながら呟いた。

「十枝さんの代わりに、これからは僕が八花ちゃんと双葉を守るから」


 具体性の欠片もない、優しいだけの決意の言葉。

「うん、ありがとう。頼りにしてるよ」

 疲れてるのに、またイラッとはしたくない。

 適当にあしらった私は悪くない……と思う。


 スカートに落ちた花びらをつまんだ。

 薄く水気をまとった、ひんやりとした儚い手触り。

 もしもこんな布地が存在したら、どんな服が作れるかなあ、と今だけ現実逃避。

 風にそよぐ薄紅色のケープ。肌を滑り落ちるフリルの裾。光を透かすレースの揺らぎ。


「そ、そうだよね。急に言われたって信じられないよね」

「うん。いいよ、大丈夫。分かってる」


 自宅からギリギリ通学できる、服飾科のある美術系の大学だった。

 母さんが取り分けてくれていた学費を生活費にするなんて情けないけれど、ほんの数年、我慢するだけだ。

 ナギの収入が安定し、双葉の手が掛からなくなったら。

 きっとそのときは。


「でも、本当に本当なんだよ。必ず二人を幸せにしてあげる。これでも僕、――になる前は、とってもご利益のある――だったんだ。十枝さんに口止めされて、ずっと内緒にしてたけど……」


「うん。へえ、そうだったんだ」

 荒くれの風が指先の花びらをさらっていった。


   ※  ※  ※


 もしもこのときナギを問い詰めておけば、違う未来が手に入ったのかもしれない。

 けれど聞き流してしまったばかりに、まんまと優しい化け物に騙されるはめになるのは、ほんの二年ほど後の話。

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